2016年12月 

  

「未CD化のアルバムを残したまま逝ったりりィ」・・・上柴とおる
生年月日が1952年2月17日。私は1952年2月27日なのでわずか10日しか違わない。そんな'同期生'でもあるりりィ(=鎌田小恵子)が11月11日に肺がんで早世してしまった。

「私は泣いています」(1974年:オリコン3位)で大衆的な知名度を得てすでに40年余り。以後「家へおいでよ/オレンジ村から春へ(CM曲)」(1976年:オリコン14位)以外にTOP40に入るヒット曲はなく、30年前の「風のバレリーナ」(1986年:オリコン47位)以降、チャートとは縁が無くなってはいたが「あの人は今?」と言われることはなかった。

子育ても落ち着いた1990年代後期から芸能活動を再開した彼女はライヴ等と並行して俳優としてもテレビや映画に顔を出し始めた。今年もテレビ・ドラマや映画に何本も出ており、「かもめ食堂」「めがね」「トイレット」「レンタネコ」など私好みの作品を撮る荻上直子監督の最新作「彼らが本気で編むときは、」(生田斗真主演)にも出たというので楽しみにしていたのだが、りりィは公開(来年2月25日予定)を待たずに逝ってしまった。◇http://kareamu.com/

それとは気づかずに観ていてあとでクレジット等をチェックして「あ、出てたのか♪」というのが小泉今日子、上野樹里、加瀬亮らによる「グーグーだって猫である」(2008年)。なんと'占いの老婆'役だった。役所広司、小栗旬の「キツツキと雨」(2012年)では役所の姉役でお終いの方に顔を出していた。私らの世代はシンガー・ソング・ライターというイメージが先にあるので画面に出ているりりィとは'ギャップ'があるのだが、本人はそういった主演ではなく、いっちょかみみたいな役柄を楽しんでいたのではないかと思う。

1974年10月9日(水)。「私は泣いています」の大ヒットでりりィはまさに'時の人'。レコードの販促紙「レコード新聞」で編集記者をしていた当時の私は(まだ大学を出たばかりの社会人1年生)彼女を表紙に扱うべく、コンサート会場の京都'円山野音'まで会いに出掛けた(バックはバイ・バイ・セッション・バンド)。主催のイベンターさんを通じて事前に取材を申し込んでいたにも関わらず当日、現場へ行くとりりィが当時所属していた音楽事務所のマネジャーから「取材?そんな話は聞いてない」とにべもなく。売れっ子真っ最中の歌手を抱える事務所には時に'媒体選別'で冷たくあしらわれることもあったが、この時はまさにそれだったように思う。

写真だけは撮らせてくれたがインタビューはダメ。それでも表紙の記事として15字詰めの新聞用原稿用紙で120行(1800字)を埋めなければならない。途方に暮れた私は同事務所の大阪ブランチの人を良く知っていたのでそちらへ出向いてあれこれエピソード等を訊き出し、インタビュー風の原稿にアレンジして(デッチ上げて)事なきを得たのだが、その'記事'によると歌が売れて一気に知名度も上がったので'タレント'としてあの人気テレビ番組「時間ですよ」からもオファーがあったとか。しかし、彼女は「今は音楽のことで頭がいっぱいなんで」とあっさり断ったそうな。「寺内貫太郎一家」や「うわさのチャンネル」も大好きで、げらげら笑いながら見ていたというから「時間ですよ」はお似合いだったのかも。

歌が売れる前からすでに映画「夏の妹」(大島渚監督:主演・栗田ひろみ)に出ていたりりィ。すでに俳優としての目があったことに当時は気が付かなかったが、それほどに歌の印象が強烈だったということだろう。アルバムもたくさん残しているが、実は知名度のある彼女ほどの歌手でも未だにCD化されていないものがある。特に気になるのが東芝EMIからビクター音楽産業へ移籍しての第1弾「モダン・ロマンス」(1982年)。長い髪をバッサリ。ショートにして見た目もまるで'別人'で80年代のポップな時流を意識したようなイメージ。それもそのはず、バックがムーンライダース。「なんでCD化されないの?」と訝しがるその筋のファンも少なくない(未CD化の事情は存知上げないが)。これを機に(というのもあれだが)是非に、と願いたいところだ。

近年はどうか知らないが、以前はりりィと言えば「お酒」がつきものだった。かつてりりィが代々木に住んでいた頃、よく一緒に飲んだという友人の音楽評論家によれば「彼女はビール党で24本入りのワン・カートンを飲み干す酒豪だったよ」。64歳。合掌。

「追悼 レオン・ラッセル 1970年代米音楽を象徴するミュージシャン=コンポーザーを悼む」 ・・・・朝妻一郎
ジョー・コッカーのマッドドッグ&イングリッシュメンのリーダーであり、ジョージ・ハリソンとバングラデッシュ救済コンサートを実行した、ソングライター/ピアニストのレオン・ラッセルが亡くなった。74歳だった。2014年に心臓病にかかりステージ活動から遠ざかっていたが、今年の7月には手術をし、回復し次第またツアーに出たいと希望していた矢先のことだという。

とにかく才能にあふれた人だった。1942年にオクラホマ州タルサに生まれた彼は1950年代後半にロスアンジェルスに移り、セッションピアノプレイヤーとしてまず仕事をし出した。彼のサザンブルース、R&B, ホンキー・トンク、C&W, ゴスペルといったアメリカン・ミュージックの全ての要素を併せ持った独特の奏法はLAの、スナッフ・ギャレットやフィル・スペクターを初めとする多くのプロデューサーの注目するところとなり、数えきれないヒット曲の手助けをしている。

1969年、ムーディーブルースなどのプロデューサーだったデニー・コーデルとシェルター・レコードを設立し、自身のレコードを発表すると、彼のスワンプ・サウンドと呼ばれるようになった特徴のあるサウンドで演奏されるボブ・ディランの楽曲のカバー「Å Hard Rain's A-Gonna Fall」や自分で作曲した「Tight Rope」などがFM局で好んで掛けられ70年代の新しいロックアーティストとして高い評価を得るようになった。グラミー賞も2度受賞している。

また、シェルター・レコードからは自身のレコードのほか、タルサ以来の中間、J.J.ケールやザ・ギャップ・バンドのレコードを発売するなど、プロデューサー、レコード会社経営者としても優れた仕事をしている。

特筆すべきは、作詞/作曲家としての才能だ。初期の頃のゲイリー・ルイスとプレイボーイズの為に書いたキャッチーなポップセンスにあふれたものから、「Tight Rope」や「Delta Lady」のようなブルース/ロック・テイストにあふれた曲まで幅広く書いているが、中でも「Song For You」、「This Masquerade」「Super Star」といったバラード曲は際立って見事である。

2014年に発表した「Life Journey」というアルバムが遺作となった。

間違いなく70年代を代表するレジェンドの一人だった。インタビューが出来たら聞きたいことはいっぱいあったのにとても残念である。  合掌。

追悼レナード・コーエン(1934年−2016年)
「(わたしがいなくなって)しばらくしたら/優しく語りかけるよ/歌の塔の窓から」 ・・・・菅野ヘッケル

「伝説の詩人、ソングライター、アーティストのレナード・コーエンが逝去いたしましたことを、深い悲しみとともにお知らせ申し上げます。私たちは音楽界で最も多くの崇敬を集め、多くの作品を世に送り出し、洞察力に優れた人物のひとりを失いました。追悼式は後日ロサンゼルスで開催されます。ご遺族はこの悲しみの時を静かに過ごすことを希望されています。」ーー2016年11月10日、レナード・コーエン・オフィシャルFACEBOOK

数日後、息子のアダム・コーエンとマネジャーのコーリーが「レナード・コーエンは11月7日夜に倒れ、そのまま眠っているうちに亡くなった。予期せぬ突然の死だったが、穏やかな最期だった。11月10日、故人の希望により遺体はモントリオールのマウントロイヤル墓地の両親が眠るとなりに埋葬された」と詳細を発表した。

「あなたはこの世界をさらに暗くしたい/でも人間が最後の炎を消す/わたしがここにいます」と、2016年10月に発売された最新作『ユー・ウォント・イット・ダーカー』の表題曲でコーエンが歌っている。訳者ノートで三浦久は「死を受け入れる用意ができているということだろう。コーエンは自らの老いと死をかなり強く意識していたに違いない」とこの歌を説明している。また、コーエン自身がアルバムに掲載した謝辞でも「背中から腰にかけての痛みや、ほかのいくつかの不調に見舞われました。苦痛が激しく、このアルバムを途中で断念せざるを得ませんでした……息子のアダムが製作を引き継ぎ、わたしに歌わせるために医療用チェアに座らせ、未完成の作品を完成させてくれました」と記している。さらに癌を患っているという話も伝わってきていたので、病気はかなり進行していたようだ。

レナード・コーエンはカナダを代表するシンガー・ソングライター、詩人、作家だった。ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞が発表された時、つぎはコーエンの番だとぼくは思った。事実、コーエンも数年前から文学賞の候補者に名前があがっていたからだ。しかし、これは見果てぬ夢に終わってしまった。残念。悲しい。

コーエンは死期が近づいていることを知っていたようだ。7月、60年代にギリシアのヒドラ島で同棲していたマリアン・イーレンがなくなった時には「マリアン、その時がきたようだね。年老いて、身体のいたるところが不調になり自由に動けなくなる時が。ぼくもすぐあなたのあとを追っていくよ。すぐ後ろにいるから、あなたが手を伸ばせばぼくの手に届くよ」と手紙を書いている。さらにニューヨーカーのインタヴューでも「死ぬ準備はできている」と発言し、ファンを心配させた。ただし、後でニューヨーク・タイムズ紙に「大げさに言いすぎたようだ。まだまだ、生きるつもりだ」とも語っていた。それを証明するかのように、10月13日にロサンジェルスで開かれたニューアルバム発表パーティに出席し、世界各国から集まったメディアの前で詩の朗読をおこなった。9月、ぼくはニューアルバム『ユー・ウォント・イット・ダーカー』のライナーノートを書きながら、暗闇・終末・宿命を感じたが、すでにつぎのアルバムの構想も決まっていることを知り、まだまだ元気で歌い続けてくれるだろうと思っていた。だから、突然の死の知らせはショックだった。

「黄金の声」を持って生まれたコーエンだが、とくに最近の低音でスローに歌う曲は、伝達力と説得力が倍増し、聞き手を落ち着かせる。病める暗い現代社会だからこそ、レナード・コーエンの歌は必要だ。

個人的な思い出も書いておこう。ぼくが初めてコーエンと直接会ったのは1975年12月だった。禅を学んでいたコーエンは、臨済宗の佐々木承周老師の里帰りに同行して日本にやってきた。自由な時間ができた時に、コーエン本人がソニー・レコードに電話をかけて日本に滞在していると伝えてきた。ぼくはすぐに京都に行きコーエンと会った。実際に会ったコーエンは、ノーブルで優しく、ユーモアに富んだ気さくな人だった。雑誌の取材に応じて、街中で逆立ちして写真を撮ったり、街中で購入した8000円のギターで、円山公園やホテルの部屋で数曲歌ってくれた。1988年にはニューアルバム『アイム・ユア・マン』のプロモーションのためにやってきた。この時は日本公演の話が進んでいたが、残念ながら実現しなかった。

2008年、コーエンが15年ぶりにライヴ活動を再開することを知ったぼくは、どうしてもコンサートを見たいと思い、大規模なワールドツアーに先駆けておこなう、リハーサルを兼ねたカナダ東部ツアーに行くことにした。5月25、26、27日にカナダのニューファウンドランド州セントジョンズの600人収容の小さなホーリーハート劇場に出かけた。この地を選んだのは、ボブ・ディランが5月23、24日に会場は違ったが同じセントジョンズでコンサートをおこなうので、ぼくにしてみれば「奇跡の5日間」だったからだ。このツアーのコーエンは、楽屋にだれも入れない、バックステージパスも発行しないと伝えられていた。しかし、初めて体験したコーエンのコンサートに感激したぼくは、コーエンに日本から見にきたことと感激したことを伝えたくてメモを書いて渡してもらうことにした。開演前に楽屋入口のガードマンにメモを渡すと「ちょっと待っていろ」と言われた。数分後、ぼくのことを覚えていてくれたようで、コーエン本人が外に出てきてくれた。興奮して早口で再会できたことや感激したことを告げるぼくを、コーエンは優しい笑顔で見つめながら聞いてくれた。しばらく雑談したあと「外の冷たい風は喉に悪いから、そろそろ失礼するよ」と中に入っていった。夢のような再会だった。

最後にコーエンのコンサートを見たのは2012年12月だった。今回はニューヨークのマディソン・スクエアガーデンとブルックリンのバクレイズ・センター。どちらも2万人を収容するアリーナ。もちろん、両会場とも完全ソールドアウトだ。大きな会場でもコーエンは観客の心を引き込み、心温まる良質なコンサートをおこなった。「タワー・オブ・ソング」のイントロでは茶目っ気を込めて「あの頃は60歳の悪ガキだった」と言ったり、「アイム・ユア・マン」で「医者がお望みなら、おまえの身体を隅々まで診察してあげるよ/わたしはおまえの男だよ」と歌うと、セクシーな嬌声が会場から湧き上がったりする。「エニー・ハウ」を歌う前にはかならず「80歳になったらふたたびタバコを吸おうと決めている。楽しみだ」と語っていたが、たしかに2014年9月21日のFACEBOOKにはタバコを吸うコーエンの写真がアップされた。そして、ニューアルバム『ユー・ウォント・イット・ダーカー』のジャケットにもわざわざ手にタバコを持つ写真を使っている。コーエンは自分の人生に責任を持って、好きなように生きる人だった。

レナード・コーエンはこの世を去ってしまった。しかしコーエンの歌は永遠に記憶されるだろう。「スザンヌ」「電線の鳥」「フェイマス・ブルー・レインコート」「ハレルヤ」「アイム・ユア・マン」「タワー・オブ・ソング」「アンセム」など名曲をあげればきりがない。とくに最近の3枚のアルバム『オールド・アイディアズ』『ポピュラー・プロブレムズ』『ユー・ウォント・イット・ダーカー』は傑作だ。また、コンサートのDVDも4枚発売されている。駆け足でステージに登場するコーエン。何度もなんどもバックミュージシャンやコーラスを紹介し感謝を表明するコーエン。ユーモアとウィットに満ちたMCで観客を沸かせるコーエン。スキップを踏みながらステージを去って行くコーエン。映像を見ていると、喜びと悲しみが同時に襲ってくる。

「ダビデが弾いた秘密のコードがあって、主を喜ばせたと聞いたことがある/あなたは音楽にそれほど興味はないかもしれない、でも、そのコードは4度、5度、そして短調に下がり長調に上がる/当惑した王はこのようにしてハレルヤを作曲した」ーー「ハレルヤ」より

「まだ鳴る鐘を鳴らせ/完璧な捧げ物はない/あらゆるものに裂け目がある/光はそこから入ってくる」ーー「アンセム」より

「署名できる条約があればいいが/すべて終わった、水もワインも/私たちは壊れていたが、今は境界線上にいる/条約があればいいが、条約があればいいが/あなたの愛と私の愛を繋ぎとめられる条約が」ーー「トリーティ」より


簡単なバイオグラフィ

レナード・コーエンは1934年9月21日、カナダのケベック州モントリオールに生まれた。カナダのマギル大学に入学し歴史を学び、さらにニューヨークのコロンビア大学大学院在学中に出版した詩集『神話くらべ Let Us Compare Mythologies』で数々の賞を受賞し詩人としてデビューした。コーエンは詩人の仲間たちといっしょにカナダ各地で朗読会を開くツアーをおこなう。ステージのコーエンは、ギターを弾きながら詩を朗読したり、スタンドアップ・コメディアンのようなユーモアを見せたりもした。この模様はカナダCBC-TVがドキュメント映画『Ladies And Gentlemen, Mr. Leonard Cohen』に記録している。詩人として華々しいスタートを飾ったコーエンは、その後もつぎつぎと詩集を出版、さらに2冊の小説も出版した。このうち1966年の小説『嘆きの壁』は日本でも翻訳出版された。

詩人・小説家だけでは満足できなかったコーエンは、シンガー・ソングライターを目指しアメリカに拠点を移した。すぐにコロンビア・レコードのジョン・ハモンドに認められ、1967年末にデビューアルバム『レナード・コーエンの唄』を発表した。以後2016年までに14枚のスタジオ・アルバムを発表し、全世界で2,300万枚以上のアルバムを売り上げ、死ぬまで第一線で活躍を続けた。どちらかというとコーエンは寡作なアーティストだったが、2008年以降は、それまでのスローな活動とは正反対に、15年ぶりに再開したワールドツアーで世界各地31カ国を回り、5年間で計470回のコンサート、400万人を動員した。残念ながら、日本公演は実現しないままこの世を去ってしまった。

スタジオ・アルバム
『レナード・コーエンの唄』Songs Of Leonard Cohen 1967/1968
『ひとり、部屋に歌う』Songs From A Room 1969
『愛と憎しみの歌』Songs Of Love And Hate 1971
『愛の哀しみ(古い儀式に新しい肌)』New Skin For The Old Ceremony 1974
『ある女たらしの死』Death Of A Ladies' Man 1977
『最近の歌』Recent Songs 1979
『哀しみのダンス』Various Positions 1984
『アイム・ユア・マン』I'm Your Man 1988
『ザ・フューチャー』The Future 1992
『テン・ニュー・ソングス』Ten New Songs 2001
『ディア・ヘザー』Dear Heather 2004
『オールド・アイディアズ』Old Ideas 2012
『ポピュラー・プロブレムズ』Popular Problems 2014
『ユー・ウォント・イット・ダーカー』You Want It Darker 2016

ライヴ・アルバム & DVD
『ライヴ・ソングズ』Live Songs 1973
『コーエン・ライヴ』Cohen Live 1994
『フィールド・コマンダー・ツアー』Field Commander Cohen - Tour of 1979 2001
『ライヴ・イン・ロンドン』Live in London (2CD, DVD) 2009
『1970年、ワイト島で歌う』Live at The Isle of Wight 1970 (CD/DVD) 2009
『ソングズ・フロム・ザ・ロード』Songs From the Road (CD/DVD) 2010
日本未発売 Live in Fredericton (EP, CD) - 2012
『ライヴ・イン・ダブリン』Live in Dublin (BluRay, DVD, 3CD) 2014
日本未発売 Can't Forget - A Souvenir of The Grand Tour (CD) 2015

コンピレーション
『ベスト・オブ・レナード・コーエン』Greatest Hits/The Best of Leonard Cohen 1975
『モア・ベスト・オブ・レナード・コーエン』More Best Of Leonard Cohen 1997
『エッセンシャル・レナード・コーエン』The Essential Leonard Cohen 2002
日本未発売 The Essential Leonard Cohen (3 CD-set 2008)
日本未発売 Greatest Hits 2009
日本未発売 All Time Best 2011
日本未発売 Opus Collection 2015

ボックス・セット
日本未発売 The Collection five original albums in a red box 2008
日本未発売 The Complete Studio Albums Collection - all 11 studio albums in a box 2011
日本未発売 The Complete Columbia Albums Collection - all 17 albums in a deluxe box 2011

「終了時間。あなたに会えなくて淋しい、あの場所が破壊されてから……」ーー「クロージング・タイム」より

「ミス・サイゴン」TOKYO 2016 ・・・・本田悦久 (川上博)
☆クロード=ミシェル・シェーンブルグ作曲、アラン・ブーブリル脚本、作詞のミュージカル「ミス・サイゴン」を、世界で初めて上演したのは、ロンドンのドルーリー・レイン劇場 (1989年)、日本で初めて上演したのは、東京の帝国劇場 (1992年) だった。

筆者か初めて観たのは、1990年1月25日、ロンドンのドルーリー・レイン劇場、2回目は、1992年6月4日の帝劇だった。

今回の最新版は、主要な役がトリプル・キャスト、ダブル・キャストになっている。エンジニア役は市村正親、駒田一、ダイアモンド☆ユカイ。キム役は笹本玲奈、昆夏美、キム・スハ。クリスは上野哲也、小野田龍之介。ジョンは上原理生、パク・ソンファン。エレンが知念里奈、三森千愛。トゥイが藤岡正明、神田恭兵。ジジが池谷祐子、中野加奈子と云う豪華布陣に、子役のタムが君塚瑠華、重松俊吾、前田武蔵のトリプル・キャスト。筆者の観劇日は10月25日のマチネーだった。

時は1975年の4月、べトナム戦争末期のサイゴン。爆撃で両親を失った17才の少女キム (キム・スハ) は、ナイトクラブ経営者のエンジニア (ダイアモンド☆ユカイ) の勧めで、戸惑いながら店に出る。エンジニアのクラブで働く女たちは、アメリカへ渡って豊かになることを夢見ながら、米兵相手の商売で稼いでいた。キムの最初の客はクリス (小野田龍之介) だった。若い二人は忽ち恋に落ち「世界が終わる夜のように」と歌い、ベトナム式の結婚式を挙げる。そこに、キムの婚約者だったトゥイ (藤岡正明) が現れる。ベトコンのトゥイは、キムが敵兵と一緒にいることに激怒して去って行く。

サイゴンが陥落し、クリスはアメリカへ帰国すべくヘリコプターで脱出するが、キムは乗り損なう・・・・・。
社会主義国となったベトナムを離れ、エンジニアはバンコックに渡り、観光客相手のクラブで客引きをしているが、夢はアメリカに渡ること。彼の傍らにはクリスの迎えを信じ切って、彼との子タムを命がけで育てるキムがいた。クリスの子はアメリカ国籍を取れる。キムの兄としておけば、自分もアメリカ国籍が・・・・したたかなエンジニアにとって、キムとその子タム坊やはアメリカに渡るパスポート・・・・。エンジニアが夢一杯に歌う「アメリカン・ドリーム」はロッカーのユカイの面目躍如、それぞれ想いをはせるアメリカでは、クリスが夜毎ベトナムの悪夢にうなされていた。心を閉ざす夫に胸を痛める妻のエレン(知念里奈)が、キムの存在を知り、妻としての不安を歌う「メイビー」は、曲が美しいだけに戦争の傷跡をあぶりだす。

1978年9月のアトランタ。クリスのベトナム時代の戦友ジョン (上原理生)は、米兵とベトナム女性の混血児の救援活動に関わっていた。上原ジョンの歌う「ブイドイ」は圧巻。そんなジョンはバンコックでエンジニアに出会い、クリスの子供の存在を知る。ジョンの強い助言で、クリスはエレンを伴い、バンコックにやって来る。アメリカ人妻の存在を知ったキムは、絶望するものの、母としてタムをクリスに託す為に、“あげよう私の命、あげよう大人になって掴む世界を”と「命をあげよう」を歌い、自ら命を絶つ。

エンジニア役のダイアモンド☆ユカイはじめ、キャスト全員の熱演に、拍手鳴りやまぬ舞台だった。

<写真提供: 東宝演劇部>

「ミス・サイゴン」のあれこれ (1)
http://www.musicpenclub.com/talk-200808.html

「ミス・サイゴン」のあれこれ (2)
http://www.musicpenclub.com/talk-200809.html

「ミス・サイゴン」のあれこれ (3)
http://www.musicpenclub.com/talk-200810.html

草津ホテルでSPレコード・コンサート・・・・・本田悦久 (川上博)
☆知人から電話が入る。「草津ホテルにご滞在中の皇太子殿下ご夫妻に、昔の蓄音機で78回転SPレコードをお聴かせしたいのだけど。貴方の蓄音機コレクションの中から、1台貸して頂けないだろうか?」

「勿論いいですよ。お薦めは犬のマークの本家、英国のHMV (His Master's Voice) が1924年に製造したルミエール (LUMIER) ですね。サウンド・ボックスが変わっています。口で表現しにくいので、写真を見て下さい。直径36センチの振動板から直接音を出すようになっていて、その構造は特殊な紙をひだ状に加工し、金色の塗装を施したものです。針の振動は、テコ仕掛けで中心部に伝えられるそうです。いい音、してますよ。これを草津ホテルに送りましょうか?」

「送って下さい。蓄音機だけでなく、貴方にもおいで頂いて、解説をお願いしたいですね」

というわけで、草津ホテルに出かけ、殿下ご夫妻に約1時間、モーツァルト他クラシックのSP盤をお聴き頂いた。

終わってから「クラシック音楽がお好きなことは存じておりますが、ポピュラーは如何ですか?」「ポピュラーも好きですよ」・・・そこで、ビクターの試聴盤を毎月、東宮御所に送らせて頂いた。

コンサートが行われたこの部屋は、この日から「プリンセス・ルーム」と改名された。

(1987.8.13. 記)

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