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<Now and Then>
そんな事がありました 7-3 「ミス・サイゴン」のあれこれ 本田 悦久 (川上 博)
☆2年前にソウルで初演
ロンドン初演から17年後の2006年 (8月31日-10月1日) に、ソウルの世宗文化會館で、韓国語版が初めて上演された。演出家は、ロンドンからローレンス・コナーが招かれた。彼は「ミー&マイガール」のビル等を演じたこともあるミュージカル俳優だったが、近年、演出家に転じ、オーストラリアの「ミス・サイゴン」等を演出している。出演者のオーディションには1,100人の応募者があった。筆者が観劇した日の主役キムはキム・ボキュン (「地下鉄1号線」のソーニョ、他)、クリス役は韓国系アメリカ人で、ブロードウェイの「太平洋序曲」でも活躍したマイケル・リー、エンジニア役はリュー・チャンユー、エレン役がキム・スンヨンで、他国の「ミス・サイゴン」と比べても引けを取らないハイ・レベルの舞台だった。
今回の演出で特徴的なのは、第1幕終わりの、クリスたちアメリカ兵のサイゴン脱出シーン。従来の舞台に設えた実物大ヘリコプターを上下させるのではなく、スリー・ディメンションの特撮映像効果で、臨場感のあるシーンを創り出したこと。ベトナム戦争 (1964-1973) に参戦した韓国は、南ベトナム支援に約5万人派兵している。満員の客席には、感無量の想いで観劇しているベトナムからの帰還兵もいるのではないかと、ふと思った。
「ミス・サイゴン」を語る時、忘れられないのは、キム役で国際スターになった、フィリピン出身のレア・サロンガ。ロンドン、ニューヨーク、マニラの3都市で初演のキムを演じた。ロンドン初演の時19才だったレアも今年 (2008) 37才。初めて韓国を訪れ、6月16日、ソウル・アート・センターで「ミュージカル・コンサート」を行った。「ミス・サイゴン」「レ・ミゼラブル」「ウエスト・サイド・ストーリー」「コーラス・ライン」「ライオン・キング」「リトル・マーメイド」「アラジン」等のミュージカル&ディズニー・ソング22曲を歌い、2,000人を超える観客の大喝采を浴びた。
1994年1月にレア・サロンガがマニラにお里帰りして「マイ・フェア・レディ」のイライザを演じたことがあった。その機会に筆者は彼女にインタビューしたことがあり、その模様を以下に再現させて頂く。
☆レア・サロンガ・インタビュー
サロンガ母娘が投宿中のマニラ・ホテル、場所はレアの希望で和食レストラン「銀座」。レアのママのリガヤ・サロンガさん、6才のレアを見いだし育て上げた、劇団REP (レパートリー・フィリピンズ) の主宰者で、制作・演出家でもあるゼネイダ・アマドア女史等が同席された。
---------ロンドン、ニューヨークでの成功、おめでとうございます。日本食がお好きとか?
(レア) ありがとう。ニューヨークに住んで5年になりますけど、肉を食べないので、ジャパニーズ・レストランによく行きます。おスシが大好きで、毎日でもいいくらい。でも今日はウナジューにするわ。
----------ロンドンに行かれる前は、フィリピンでどんな作品に出られましたか?
(レア) 7才のとき「王様と私」(1978) のオーディションを受け、ヤオラック姫の役をもらったのがデビューでした。それから「屋根の上のヴァイオリン弾き」(1979) でコーラスの一人、「サウンド・オブ・ミュージック」(1989) のブリギータ役、「アニー」は1980年と1984年の2回、アニー役をやりました。「ファンタスティックス」でもヒロイン役、いくつかのストレート・プレイにも出ています。
---------世界で初めての「ミス・サイゴン」のキムに決まったときは、どんな気分でしたか?
(レア) 初めは信じられなくて、無我夢中で、だんだん興奮していきました。雑誌の表紙に取り上げられて、実感がわいてきました。
----------イギリスとアメリカで何か違いがありましたか?
(レア) 演技の上では特に変わりはありません。ただ、イギリスと違ってアメリカは直接ベトナム戦争に関わった国ですから、初めのうちは上演に反対する人たちが騒いだり、いろいろ議論もありましたが、観客はどちらも同じように、ショーとしてエンジョイしてくれたと思います。
---------ブロードウェイの「レ・ミゼラブル」でエポニーヌ役をやられたときは、拝見するチャンスがありませんでした・・・・
(レア) エポニーヌは3か月位しかやりませんでしたが、役柄とは逆に、けっこう楽しんでやれました。フランス人の役なのに、アジア人の私にチャンスが与えられたのはうれしかった。
----------昨年 (1993) 10月のマニラ版「レ・ミズ」には、出演の話はなかったのですか?
(レア) 帰国したのは、マニラの「レ・ミズ」が終わった後でした。マニラのエポニーヌは、私の姪がやりました。
----------今度のマニラの「マイ・フェア・レディ」のイライザ役ですが・・・・
(レア) キムとイライザでは、性格も状況も全く違いますが、イライザはキムのように深刻な役ではないので、気分的にはずっと楽です。
---------「マイ・フェア・レディ」の後のご予定は?
(レア) 3月(1994) にニューヨークやロンドンから集まったインターナショナル・キャストによる「イントゥー・ザ・ウッズ」がシンガポールで上演されます。私は魔女の役で参加することになっています。
----------将来の夢は? やってみたい役は?
(レア) 何でもやれる女優になりたいですけど、特にやりたい役はエビータですね。
---------ありがとうございました。いつか日本にもいらして下さいね。今夜、劇場でまたお会いしましょう。
ところで、「ジーザス・クライスト・スーパースター」がなかったら、「ミス・サイゴン」もなかった!? フランスの作家アラン・ブーブリルが、1972年にブロードウェイで「ジーザス・・・」に出会いショックを受ける。彼は親友の作曲家クロード・ミッシェル・シェーンベルクに感動を伝え、早速、「フランス革命」を、続いて「レ・ミゼラブル」を、”初めにレコードありき” で、2枚組LPを作り、曲が知られたところで、舞台化するという、アンドリュー・ロイド・ウェバー方式を踏襲。「レ・ミズ」が幸運にもロンドンの名プロデューサー、キャメロン・マッキントッシュの耳に届き、更には「ミス・サイゴン」に繋がった。(終)
<オルタナティヴ・ディスコ名盤4枚と幻の1枚> 村岡 裕司
BMG JAPANから≪Alternative Disco Picture Sleeve Collection≫のシリーズとして、スリー・ディグリーズとドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンドの名作が各2枚計4枚リリースされた。スリー・ディグリーズは「恋にギヴ・アップ」(78年/BVCP-35417)と「ジャンプ・ザ・ガン」(79年/BVCP-35418)で、当時ドイツのアリオラ・レコードと契約して発表したもの。共にジョルジオ・モロダーがプロデュースして話題になった。一方のサヴァンナ・バンドは衝撃的なデビュー作「ドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンド」(76年/BVCP-35419)と続くセカンド「ミーツ・キング・ペネット」(78年/BVCP-35420)である。この2枚はRCAがリリースしていた。日本の音楽ファンにすっかり定着した紙ジャケによるアートワークも素晴らしいが、テジタル・リマスターされた録音がクリアで、70年代のディスコ・エラに初めて聴いた人も驚くに違いない。未だにアナログ派の僕も、今回のCD盤には大満足している。
手前味噌となるが、この企画をBMGのS氏と企画したのは当方なのだが、最初に発案したのは、もっと前で、80年代から同じようなことを言っていたものである。具現化したのは、3年か4年前のことだ。当時、渋谷のディスク・ユニオンのような音楽ファンが集まるお店で、70年代のディスコ・エラに活躍したパトリック・アダムスやジョルジオ・モロダー、マウロ・マラヴァシ、ジャック・フレッド・ペトラウス、クラウディオ・シモネッティ、チェルソ・ヴァリといったプロデューサーの音楽が、原体験組より若い人たちにオルタナティヴ・ディスコとして受けていて、その動きに発売のチャンスと思って各社の担当と話して検討したのだが、ほとんどが乗り気ではなく、笑われたりもした。
幸い、スリー・ディグリーズとサヴァンナ・バンドは、オルタナティヴ・ディスコではあっても、アーティストとして人気評価は確立しているし、R&B/ソウルやポップ・ファンにも絶大な支持を得ているので、BMGのS氏も乗ってくれてCD化が実現したものだ。ただ、決まってからまた問題があって、果たしてマスターがあるのかいな、ということになった。サヴァンナ・バンドは、かつて日本コロムビアがCD化したことがあるので大丈夫だと思っていたのだが、問題はスリー・ディグリーズ。2枚のアルバムの前半のハイライトとなるディスコ組曲は、CDで再現されたことはなかったし、マスターを管理しているBMG UKに問い合わせてもらってそれをコンピに入れようと思っても叶わなかったこともあったからだ。人気グループにもかかわらず、約30年CD化されなかったのは、アリオラの合併等のどさくさにマスター・テープが紛失した可能性もあるし、アメリカの発売元アリオラ・アメリカはとうの昔に解散している。非常に心配していたら、思わぬ所で完璧なマスターが発見されたのだ。以前冗談で「あそこにあるんじゃないか」なんて話したことがあったのだが、そこから出てきたのだ。まさに瓢箪から駒。この幸運がなかったら、リリースは難しかったかも知れない。
なお、今回のコレクションは、当初5枚をリリースする予定だったが、1枚は幻に終ってしまった。その幻のアルバムは、サヴァンナ・バンドのオーガスト・ダーネルことキッド・クレオールがプロデュースしたギッチー・ダンズ・ビーチウッド#9が残した唯一のアルバム「Gichy Dan’s Beachwood #9」(79年)である。このアルバムはダーネルを語る際に欠かせない初期プロデュース作であり、サヴァンナ・バンドやエルボウ・ボーンズ&ザ・ラケッティーアーズを語る上でも不可欠の1枚なのだが、79年に全米リリースされた時からレアだった。海外のレコード・ショップで見たことはないし、リリース当時の輸入盤屋にも一切出回らなかった。日本でこのレコードについて書いたのは、今野雄二氏ぐらいだと思う。おそらく正規リリースはされたが、発売元のRCAが売れないなど何らかの理由でわずかな枚数しかリリースしなかったのだと思う。僕が汗まみれで探した1枚は、今よりレコード・ハンティングに熱心だった80年代初頭のことで、藤沢のレコード・ショップで見つけた時の感動は今も鮮明に覚えている。このCD化はまたの機会に譲りたい。
以前、中川五郎氏と今は構成作家として活躍しているカニリカ氏と共にマイアミにグロリア・エステファンを訪ねて取材した際、オフで訪れたグロリアの夫エミリオが経営するレストランの雰囲気に感動して、僕が「ドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンドにぴったりの所だね」と笑っていたら、本当に同バンドの「シェルシェ・ラ・フェム/セ・シ・ボン」が流れてきて感激したことがあった。スリー・ディグリーズも喫茶店で「悲しきランナー」が流れてきて、有線に電話して曲名を聞いたことがあった。僕にとっては、本当に大切なアーティストの大切なアルバムだが、おそらく多くの人が同様の思い出を持っていることだろう。ぜひ、聴いてほしい4枚である。(YUJI MURAOKA)
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