2008年9月 

<Now and Then> 
そんな事がありました 7-2 「ミス・サイゴン」のあれこれ  本田 悦久 (川上 博)
☆フィリピン人俳優23人参加したシュトゥットガルトのドイツ語版
 1994年6月28日、フィリピンのマニラで初のフランク・シナトラ・コンサートが開催され、レア・サロンガも出演した。レアと云えば、ロンドンとブロードウェイの「ミス・サイゴン」初演のキム役で、ローレンス・オリヴィエ賞 (ロンドン)、トニー賞 (ブロードウェイ) の両方でミュージカル女優賞を獲得したフィリピンが誇る国際スターだ。
その日の現地の新聞に、シュトゥットガルトで年末オープンする「ミス・サイゴン」に23人のフィリピン人俳優の出演が決まったという記事が載った。628人の応募者の中から厳選され、ドイツ語の特訓を受けて最終的に選ばれた人たちだ。ドイツ語による上演なので、「英語がすぐ使えるからフィリピン人」という、それまでの風評は当たらない。「歌も演技も優れていて、ベトナム人、タイ人の役に向いている」ということだろう。その頃、日本とハンガリーを除く世界のキム役は、フィリピン女優の独占だったから、「フィリピン人なくして、ミス・サイゴンなし」と、フィリピンの人たちが胸を張っていたのも当然だろう。

さて、「レ・ミゼラブル」「キャッツ」「オペラ座の怪人」「美女と野獣」等、大作や話題作のドイツ語圏での初演は、オーストリアのウィーンが多いが、「ミス・サイゴン」は1994年12月2日に、ドイツ・シュトゥットガルトのミュージカル・ホールで始まった。
 主演のキム役はオーラ・デーヴァ・スギタンとロンドンの「ミス・サイゴン」にアンサンブルで出演していたキャスリン・フランシスコのダブル・キャスト。筆者が観劇した日はオーラで、フィリピンではエンジェル・スギタンの愛称で知られ、マニラで「王様と私」「ファンタスティックス」等に出ていスターだ。クリス役は、近年日本でもファンが増えているウーヴェ・クレーガー。ウィーンの「レ・ミゼラブル」「エリザベート」等で、既にドイツ語圏のトップ・スターになっていた。エンジニア役はレイモンド・ゼーぺ。オペラ歌手だが、ハンブルグの「オペラ座の怪人」では、日によってファントム、ラウル、ピアンジ、アンドレの4役をこなした芸達者で、ここでも個性的な役作りで存在感を発揮した。エレンの役はグラニア・レニハンという、カントリー・ロックが得意なシンガー&アクトレス。「キャッツ」他出演作の多いドイツ人だが、ロンドンで「チェス」に出たこともある。フィリピン人俳優ロバート・セーニャは、ロンドンの「ミス・サイゴン」でアンサンブルの一員だったが、ここではトゥイ役がすっかり板についていた。ジョン役は、エリック・リー・ジョンソンという、1979年にアメリカからヨーロッパに移住した黒人俳優。ドイツを中心に活躍しており、「ジーザス・クライスト・スーパースター」「キャッツ」等に出ていた。
 このドイツ語版「ミス・サイゴン」には、日本人、日系人も二人加わっていた。ブロードウェイの「ミス・サイゴン」に出ていたポール松本がアメリカ兵の役で、エンジニアのアンダースタディ。もう一人は日本からオペラのテノール歌手で、東京の「エニシング・ゴーズ」「20世紀号に乗って」、そして「ミス・サイゴン」にも出ていた矢部玲司が駆けつけ、アンサンブルに加わった。日本からの参加は役者だけではなかった。帝劇で使われた、重量1トンもある例のホー・チ・ミンの巨大な像が、東京からトラックと船を乗り継いで、シュトゥットガルトに運ばれた。
 ドイツ語脚本を担当したハインツ・ルドルフ・クンツェは、英語版に沿った翻訳を心がけ、演出もニコラス・ハイトナーのオリジナル版を踏襲し、舞台進行などロンドンと大きな差は感じられない。軍服姿のトゥイが長髪を後ろで束ねて女性のようだったり、北ベトナムの兵の行進が大げさな空手調だったり、マイナーな変化はあった。バンコクの繁華街のネオンや看板類がどこよりも派手で華やかに見えたが、これは似たような歓楽街をハンブルグに持つドイツならではの現象だろうか。エンディングでは、キムが息子のタムをクリスのもとへ連れて行き、自室へ戻ってピストル自殺、クリスがかけつけてキムを抱く。ドイツ人からみると理解し難い価値観の違いもあるだろうが、満員の観衆は充分にエンジョイしているようだった。
 ミュージカル・ホール・シュトゥットガルトは、この町で育ったプロデューサーのロルフ・デイール氏が、「ミス・サイゴン」上演に際して建造した客席1,800の立派な劇場だった。元税理士のデイール氏は、事業家に転身して、今やドイツ随一のミュージカル・プロダクションSTELLAのオーナー。ハンブルグの「キャッツ」「オペラ座の怪人」、ボッフムの「スターライト・エクスプレス」等で成功した。いろいろな国の人たちが参加したこの「ミス・サイゴン」も、1999年12月19日まで5年間ロングランの大成功となった。(次号に続く)

「追悼 アイザック・ヘイズ」菊田 俊介
 ソウル・シンガー、ソングライターのアイザック・ヘイズ氏が8月10日、メンフィス郊外の自宅で亡くなった。65歳だった。1960〜70年代のソウル・ミュージックの中心的存在だったスタックス・レーベルで、スタジオ・ミュージシャン、作曲家さらにプロデューサーとして頭角を現し、サム&デイブの大ヒット曲「ソウル・マン」、 「ホールド・オン、アイム・カミング」 などを手がける。「ホット・バタード・ソウル」(69年)と「ブラック・モーゼス」(71年)のヒットでシンガ−としての地位も確立した。スキンヘッドと上半身裸でゴールドのチェインを巻いたイメージが、当時の黒人解放運動の象徴と言われ、新時代の寵児として大きな話題を呼んだ。そんな社会背景の中で作られた黒人映画『シャフト(邦題:黒いジャガー)』(71年)で音楽を担当し、テーマ曲がビルボード誌チャート1位を2週間獲得、翌年アカデミー歌曲賞を受賞。グラミー賞やゴールデン・グローブ賞も獲得した。また、90年代後半からは、人気アニメ「サウスパーク」の声優としても活躍、新世代のファンを獲得していった。2002年には「ロックの殿堂」入りを果たしている。
 2003年10月に、BBキングと共演させていただいたテレビ番組”An Evening with B.B.King"で司会進行役を務めたのがヘイズ氏だった。この日はBBキングの話を聞くインタビュアーに徹し、自らの栄光の歴史に触れる事はなかったが、それでも大きな存在感を醸し出していたのが印象に残っている。ショウの後楽屋であいさつすると、ニヤニヤしながら「Yeah, you are straight, man(お前はなかなかいいじゃないか)」と3、4回繰り返し言ってくれたのをよく覚えている。ブラック・エンターテインメントの巨星がまた一人逝ってしまった。ご冥福を祈りたい。

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