2016年9月 

  

ザ・モンキーズ 'デビュー50周年' に寄せて・・・・・ 上柴とおる
 1966年の9月10日付ビルボード誌HOT100に67位で初登場、9週間後の11月5日付で見事No.1の座を獲得した「Last Train To Clarksville(恋の終列車)」。あれからちょうど丸50年が経過した今年、20年ぶりのニュー・アルバム「グッド・タイムズ!」をリリースしたザ・モンキーズ。各地でのツアーも始動。その様子は彼らのfacebook等で逐次報告され、ステージの模様も動画で閲覧出来るようになっている。残念ながらデイヴィー・ジョーンズの姿は見られなくなってしまったが(2012年2月29日、66歳で逝去)、ミッキー・ドレンツ、ピーター・トーク、マイケル・ネスミスは全員70歳を超えて健在だ。

 これまでにも折々の節目には新作発表や再結成ツアー等でファンを楽しませてくれているが、そのきかっけは全盛期のテレビ番組「ザ・モンキーズ・ショー」の日本(1980年〜)やアメリカ(1986年〜)での再放送。若い世代のファンを生み出すことにもなり、人気を更新し続けて来た。とりわけ日本では「デイドリーム・ビリーバー」のCM(コダック・フィルム)起用に合わせたシングル再発売との相乗効果もあり、大きなムーヴメントになったことで、後追い世代ながらも今の40代〜50代にとってもモンキーズは'準リアルタイム'。60代半ばの筆者とも'話が合う'のだ♪

 レコード・デビューと同時にスタートした彼らのヴァラエティー番組「ザ・モンキーズ・ショー」(1966年9月12日に全米で放映を開始)。当時、筆者は高校受験を控えた中三の秋。しかし、日本で放映(明治製菓提供)が始まったのは1年後の1967年10月(金曜日夜7時〜7時30分/TBS系で全12局ネット:筆者の地元では当時の系列でABC)。この1年間がどれほど長かったか!楽曲は次々と大ヒットするし、音楽月刊誌では番組の'スチール写真'が毎号グラビアを飾る。なのに肝心のテレビ番組は観ることが出来ず、時流について行けないもどかしさに悶々としていただけに放映開始はまさに天からの贈りもののように感じられたものだ(のち1990年代に全40話を収めたレーザー・ディスクのセットを購入♪)。コミカルなお芝居だけではなく、毎週毎週、映像付きで流される彼らの楽曲の数々も大きな魅力だった。男の子なので彼らにアイドル的な魅力を見出すというよりも音楽的な面での関心が大きかったのは言うまでもない。

 フォーク・ロック、ガレージ・ロック、サイケデリック、ソフト・ロック、カントリー、ヴォードヴィル・サウンド。。。あらゆるタイプの魅力的な楽曲が溢れんばかりに詰め込まれていた。ニール・ダイアモンド、ボイス&ハート、ゴーフィン&キング、マン&ウェイル、セダカ&グリーンフィールド、ジェフ・バリー、キャロル・ベイヤー・セイガー。。。投入された多くの有能なソング・ライターたち。今にして思えば凄い顔ぶれである。'目覚めた'メンバーたち4人も曲作りに参画する。

 「モンキーズなんて寄せ集めのデッチ上げバンド。お膳立てされたものに乗っかっただけ」「ミュージシャンじゃなく単なるアイドル・タレント」「演奏も出来ないし、曲も作れない」などなど軽くあしらう声は昔から決して少なくない(音楽評論家と称される人たちの間でも。。。というより知識や理解の欠如かと)。メンバー4人はモンキーズ以前からタレントやミュージシャンとしてレコードを出すなどのキャリアを持ち、楽器もプレイしていた。当初の'作られたイメージ'が後々まで尾を引いてしまったのだろう。'軽視'されることによって彼らの優れたポップ・ソングの数々までも同様に軽んじられてしまったようにも感じる。そんな'扱い'にイラ立って木崎義二さん編集のファンジン「ポップシクル」(1980年1月号)に5ページものレポートを書かせていただいたことがある。ちなみに1980年と言えば'申年'♪(初来日公演を行った1968年も申年♪)。

 2010年の5枚組「ファイヴ・オリジナル・アルバムズ」、そして2013年に再発された1作目〜3作目の解説を書く機会にも恵まれたが、50周年の今年も新編集のベスト盤「フォーエヴァー〜モンキーズ・ニュー・ベスト・アルバム」(9月7日発売:全15曲/日本盤にはボーナスで日本でのみシングル発売された「スター・コレクター」を追加)の解説を担当させてもらった。これは全盛期のみならず、1980年代以降の再結成時から今回の新作に至るまでの作品からセレクトされたかつてない並びの新ベスト。さらに'トリビュート盤'も(解説担当)。これはオルタナティヴ・ロックの大御所的存在、、R.E.M.のサポート・メンバーを長く務めたスコット・マッコーイー率いるバンド、ザ・マイナス5のアルバム「オブ・モンキーズ・アンド・メン」(8月26日発売)で、カヴァー曲ではなく彼ら4人や'5人目のメンバー'とも言われるトミー・ボイス&ボビー・ハートを題材に思いを綴ったオリジナル・ソングを収録(日本盤のみカヴァー2曲を特別に添付)という異色?なもので、当時のアイドル誌「16 Magazine」をパロディーにしたジャケットもおもしろい。11歳の時、リアルタイムで「恋の終列車」に出会ったというリーダー、スコットの彼らへの熱い思いが詰め込まれたアルバムだ。

 今年もまさに申年。日本とは違って(?)海外では以前から(マニアックな視点も含めて)再評価されているザ・モンキーズ。「50周年」を契機に彼らの音楽的な魅力がより良く再認識されることになれば嬉しいのだが、ビートルズ来日50周年のような盛り上がりもなく、年末を迎えてしまいそうで。。。(泣)。去る(猿)者は追わず、ということなのだろうか?

セリーヌ・ディオン、ラス・ベガス公演を観る・・・・鈴木道子
 セリーヌ・ディオンはバーブラ・ストライサンドに続く女性歌手の最大手だが、彼女を大スターに育てた夫の死を乗り越えて、久しぶりにラス・ベガスのステージに立ち戻った。

 幸運にもシーザース・パレス(5/24)で見ることができたが、衣装を次々に着かえるくらいで、派手な演出抜きの歌手本来の実力を正面に据えたコンサート・スタイルは素晴らしく、十分に声と歌の美しさ、楽しさを堪能させた。



 まずゴールドの衣装で往年のヒット曲「ラヴ・キャン・ムーヴ・マウンテン」「映画『タイタニック』の愛のテーマ」「パワー・オブ・ラヴ」他が並び、懐かしさと円熟したスケールの大きな歌唱に酔いしれる。中盤では新たにジャズに挑戦。客席からトランペットが登場しての「シング・シング・シング」をきっかけに、バックはオーケストラからコンボに変わって、セリーヌはスキャットも聞かせる。本来のジャズ歌手ではないが、よくこなして新たな側面をみせていた。

 ビージーズとの映像やファミリー・ショットなども使って客席に思い出などを語り、先頃亡くなったプリンスを偲んでの「パープル・レイン」やJ.B.ナンバーも。特に素晴らしかったのはエリック・カルメンの「オール・バイ・マイセルフ」で、エモーショナルな絶唱を聞かせた。ドラマチックな表現で歌った「ショウ・マスト・ゴー・オン」でいったん幕となったが、アンコール最後で、亡き夫との映像を掲げながら、「虹のかなたに」を涙 ながらに歌い、深い感動を呼ぶ。休憩なしの1時間40分。いよいよ円熟期に入ってきたスーパースター健在を確認したショウだった。

写真:鈴木道子

東宝「王家の紋章」に魅せられて・・・・本田浩子
月刊「プリンセス」誌に40年間の連載を誇る少女漫画の金字塔、細川智栄子あんど芙~みん姉妹原作の「王家の紋章」が東宝制作のミュージカルとして初登場! 脚本・演出・作詞は荻田浩一そして作曲はシルヴェスター・リーヴァイという贅沢さ、見逃す訳にはいかない。

8月18日のマチネーに帝劇に足を運ぶ。今なお連載中の「王家の紋章」の熱狂的なファンも多いであろう客席の熱気に負けじと、オーケストラがプロローグを奏で始め、私達観客は一気に悠久のナイルが流れるエジプトに連れて行かれる。考古学を学ぶアメリカ人の娘キャロル (新妻聖子と宮澤佐江のダブル、この日は新妻キャロル) は、発掘隊に参加している。そして、とうとう黄金に輝くファラオの墓にたどり着く。人型棺には若い少年王の姿が見られ、その棺の上には枯れた花が置かれていた。「花を手向けたのは誰? 愛し合っていた人かしら・・・」と歌うキャロルの歌声は甘く切なく、冒頭から美しいバラードが響く。

ファラオの墓を見つけて興奮するキャロルは、ビジネスマンの兄ライアン (伊礼彼方) に国際電話で報告、「墓を暴いたりして大丈夫か?」と妹を案ずる兄。その不安は的中、墓の主ファラオ・メンフィス王の姉アイシス (濱田めぐみ) の呪いがかかり、キャロルは3000年前のエジプトに連れ去られる。金髪で色白のキャロルは忽ち、ファラオ・メンフィス王 (浦井健治) の目に留まり、王は家来に自分の寝室に連れて行くように命ずる。「あなたの言いなりにはならない・・・」と抵抗するキャロルは「奴隷じゃない」とロック調で激しく歌う。生まれて初めて自分の権力に反発する娘に呆然としながら、「牢屋にぶち込め」と怒鳴るメンフィス。キャロルは牢屋で病人に水を飲ませようとするが、それは泥水、回りの囚人たちに石を集めさせて瓶に詰めてろ過してみせるキャロルに、人々は「ナイルの女神」と讃えて驚きを隠さない。宰相イムホテップ (山口祐一郎の宰相は存在感抜群) は、「この娘は賢い、きっとエジプトに幸運をもたらす」と確信する。宰相の助言もあり、不思議な娘を傍に置くうちに、いつしかメンフィスはキャロルに恋をしていた。そして強引ではあるが、純粋なメンフィスにキャロルも少なからず、惹かれていった。一方ライアンは、妹キャロルを案じてナイルのほとりを探すが、時折妹の声は聞こえるものの姿は見えず、不安は増すばかり。

ある日、大雨によりナイルが氾濫、ライアンは河岸に倒れているキャロルを見つけ、病院に運び、「今はお休み」と、優しく歌う。しかし、キャロルはタイムスリップしてエジプトに残り、メンフィスと共に生きていこうと決意する。キャロルの愛を確認したメンフィスの喜びは大きく、二人の歌う「捧げるべき愛」は秀逸。しかし、結婚相手として弟を愛するアイシスの心は穏やかではない、「あなたが探しているのが私だと良いのに」と歌うアイシスの「いつも」は、胸に響く。ロックあり、バラードあり、どの曲も歌詞としっかりとシンクロしていて、心地よい。キャロルを秘かに見守る出雲綾扮するナフテラ女官長と共に、山口宰相の存在は大きく、常にエジプトの未来を見据え、若者たちを見守っている。

エジプトの敵国であるヒッタイト国の姫ミタムン (愛加あゆ) は、ファラオの妻になって、エジプトを配下にと企み、メンフィスに近づいたばかりに、メンフィスと並ぶ権力者、アイシスの怒りに触れて、焼き殺されてしまう。ミタムンの兄、ヒッタイトのイズミル王子(平方元基と宮野真守のダブル,この日は平方イズミル) は妹の仇を取ろうと策を練り、手始めにキャロルをさらい、美しい彼女を自分の妻にしたいと迫るが、キャロルの心は動かない。

キャロルを取り返そうとするメンフィス率いる軍隊と、イズミル率いる軍隊が激しく戦い、メンフィスを庇ったキャロルは、イズミルの剣に傷つき、イズミルは慌ててひとまず引き上げていく。やがてキャロルの傷も癒え、メンフィスとキャロルは国王と王妃となって、エジプトの民を治めていく。

「エリサベート」の美術担当の二村周作が、今回は古代エジプト文字をデザイン化したりと工夫を凝らし、古代エジプトの舞台を作り、更に衣装の前田文子がファラオらの衣装に原作の持つファンタジー性を活かして、観客を夢の世界に引っ張り、ライアン以外の出演者全員が古代人になりきっての演技と歌で、拍手なりやまず、楽しい舞台だった。

雄大なスケールの中で、絶対権力者のファラオが人を愛することを知り、成長していくハッピー・エンディングだが、原作の漫画はまだ続いているし、愛する妹を探し続ける伊礼ライアンはどうなっていくのか、どうやら、ナイルの水をくぐってはタイムスリップするらしいので、今後もキャロルは時空を行き来して生きて行くのか、気になりながら劇場を後にした。

<写真提供: 東宝演劇部>

野良猫が特別出演した、ロンドン野外劇場の「キス・ミー・ケイト」
・・・・・本田悦久 (川上博)
☆マチネーでライシアム・シアターの「ジーザス・クライスト・スーパースター」を観たあと、夏の夜は野外劇場だ! と狙いをつけたのは、ここロンドンのリージェント・パーク・オープンエアー・シアターで、演し物はコール・ポーター作詞・作曲の「キス・ミー・ケイト」。
シェイクスピアの「じゃじゃ馬馴らし」に基づく、1948年のブロードウェイ・ミュージカル。“Wunderbar”“So in Love” “Open in Venice”“Bianca”“Brush up Your Shakespeare”等、佳曲揃いで、「エニシング・ゴーズ」と共に大好きなポーター作品だ。

メリーランド州ボルティモアのフォード劇場。「じゃじゃ馬馴らし」のトライアウト公演初日の午後5時から深夜0時までの間に、舞台と舞台裏で起こった話。
作・演出家で役者のフレッド (アンドリュー・C・ワズワース) と女優のリリー (ルイーズ・ゴールド) は元夫婦。劇中ではリリーがじゃじゃ馬ケイト、フレッドがその夫ペトルーチオを演じる。楽屋でも仲の悪い二人だが、フレッドがビアンカ役のロイスに贈った花束が間違ってリリーに届けられたことから話はややこしくなる。

演出のイアン・タルボットは、シェイクスピア俳優として1977年からリージェント・パーク野外劇場に出演していた。1993年以降は演出家兼俳優として活躍し、今年、この野外劇場のアーティスティック・ディレクターに任命されたヴェテラン。
流石に切れのよい演出で、楽しませてくれる。
 
真夏の夜の野外劇場は風情があって気分がよい。第2幕の中頃、夢心地になっていると、突然、舞台奥上手から下手へ、じゃじゃ馬ならぬ黒猫が一目散に駆け抜けた。その昔のストリーキングを思わせるハップニングに、客席は大爆笑。舞台前方で演技していた役者たちは、何が笑いを取ったのか判らず当惑の様子。客席はまた笑いに包まれた。

1949年からトニー賞・作品賞が演劇とミュージカル部門に分けられ、「南太平洋」他を押さえて、第1回のミュージカル作品賞に輝いたのが「キス・ミー・ケイト」だった。
ところで、この夏の夜のトニー賞・特別賞、いや、飛び入り賞は野良猫に!?
(1997.08.27. 記) 
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ハイデルベルグの爽やかな夏の夜の野外劇場で「学生王子」
http://www.musicpenclub.com/talk-200908.html

ヘリコプターが飛んできたハンガリー野外劇場の「ミス・サイゴン」
http://www.musicpenclub.com/talk-200808.html

イライザが花屋の社長になった ベルリンの 「マイ・フェア・レディ」
・・・・・本田悦久 (川上博)
☆フィリピンのマニラで「マイ・フェア・レディ」を観たちょうど1週後に、ベルリンのウエステンズ劇場で同作品を観る機会を得た。ドイツ語圏で「マイ・フェア・レディ」に出会うのは、ミュンヘンのシュターツテアター (1986)、ウィーンのフォルクス・オパー (1989) 以来3回目になる。この劇場に来るのも3度目。日本流に云えば、1階から4階まで1,400席。2階中央後方には、車椅子用の席がいくつか用意されている。ベルリンのミュージカルの殿堂であるだけでなく、格調高いヨーロッパの大劇場の中でも、名門の一つであろう。ここで上演された作品には、古くは「アニーよ銃をとれ」(1963) ほか、近年では「ガイズ&ドールズ」「三文オペラ」「シカゴ」「ピーター・パン」「スウィート・チャリティ」「キャバレー」「嘆きの天使」等がある。「マイ・フェア・レディ」のドイツ初演も、この劇場で1961年10月25日に行われた。当時、641回続演して大成功を収め、ドイツでミュージカル・ブームを巻き起こした。

初演から数えて33年目に当たる今回のイライザ役シルヴィア・インターグランは 「スイート・チャリティ」「ラ・カージュ・オ・フォール」 等で活躍したスター女優。幕開けの花売り娘の場面では、風格がありすぎる。ヒギンス教授のルムット・バウマンは、1984年からディレクターを務め、演出・振付家でもある、この劇場の中心人物。役者としては、「ラ・カージュ・・・」 のアルヴィン、「グランド・ホテル」 のオットー等を演じた。

さて 「マイ・マイ・フェア・レディ」 だが、第1幕は通常、大使館のパーティで終わるのが、ここではアスコット競馬で終わる。この方がすっきりすると日頃考えていたので、わが意を得たりである。競馬場で、真っ赤な衣装のイライザと黒いジャケットのフレディを白ずくめの周囲から浮き上がらせ、美しいソプラノ・ソロ (カトリン・ヒューバート) をバックに踊らせる幻想的な場面は秀逸。イライザがスリッパでヒギンスの頬っぺたをひっぱたいたり、フレディが花束を持たず、手ぶらでイライザが住むヒギンス邸を訪れ、彼がノックする前にピアス夫人が外出してしまう等、新演出は随所に見られるが、最もユニークで奇想天外なのはラスト・シーン。

レディになったイライザがコヴェント・ガーデンに凱旋すると、昔の仲間たちが暖かく迎える。イライザ・フラワー・ショップのオープンに、皆がお祝いに駆けつけ、ヒギンスとフレディも鉢合わせして幕となる。イライザは花屋の社長に就任、花売り娘たちは店員として雇われる。天国でバーナード・ショウ先生がクシャミしているかもしれないが、このエンディングは面白い。

今朝 (2月1日) のベルリナー・モルゲンポスト紙の1面と13面に、このショーに関する記事がカラーで載っていた。ミュージカルの記事が一般紙朝刊の1面を飾る異例とも思える扱いに、このショーが如何に話題になっているかが窺われた。 (1994.02.01.記)

常夏のハワイ・ホノルルで「キャッツ」・・・・・本田悦久 (川上博)
☆今朝の「アイランド・ライフ」紙に目を通していたら、<来年3月にシアトルでオープンする「ミス・サイゴン」の新しいカンパニーに、4人のハワイの俳優が参加する>という記事が目に入った。それからホノルルでは<「オペラ座の怪人」が6週間後にオープン、9月20日から上演中の「キャッツ」は、明日10月9日まで>の広告。そこで、同行のアルフレッド・ショルツ氏 (ウィーンの音楽家) 夫妻と別行動にして、マティネーを観にプレイスデル・コンサート・ホールに出かける。「南太平洋」ならともかく、何も今更「キャッツ」をハワイで観なくても・・・という気がしないでもないが、1991年のチューリッヒ以来3年ぶりだったので、観たくなった。

会場はホノルル市内のプレイスデル・センターという広大な施設。8,805人収容のアリーナと2,158席のコンサート・ホール、それにエキジビジョン・ホール (自動車の展示会をやっていた) とピカケ・ルームという多目的用の部屋があった。
コンサート・ホールは、音楽会、オペラ、ミュージカル、バレエ等に使われており、ここで過去に上演されたミュージカルに「アニー」「キャメロット」「ハロー・ドーリー!」「エビータ」「ジーザス・クライスト・スーパースター」「オペラ座の怪人」「レ・ミゼラブル」等があった。たまにはハワイのローカル版もあるが、多くの場合アメリカ本土からのツアー・カンパニーである。今回の「キャッツ」も既にアメリカ、カナダを長期間に亘って巡業している。「キャッツ」としては第4ナショナル・カンパニーで、今年に入ってからも既に27都市を回ってバンクーバーからホノルル入りし、この後は本土に戻って、ダラス、ロサンゼルス、サンディエゴ、サンフランシスコその他まだ延々とツアーは続く。

さて、ここプレイスデル・ホールは、ヨーロッパの多くの劇場のように中央の縦通路が無いが、各席の前がゆったりしていて、他人にあまり迷惑かけずに奥の席へ入っていかれるので、ブロードウェイの劇場より快適だ。

「キャッツ」はロンドンでも東京でも装置が客席側にもセットされているものだが、ここはツアー・カンパニーの制約からすべて舞台内に収め、客席に出ているのは装飾の豆ランプ以外何もない。オーケストラ・ピットはステイジの前に置かれている。つまり「キャッツ」独特の仕掛けが、ここでは殆ど見られない。開宴前から客席に猫たちが現れ、ウロチョロする見慣れた光景も一切なし。幕間の舞台で役者と観客の交流、サインを求めるファンの行列シーンも無いので、「キャッツ」を見慣れた目にはいささか物足りないが、ショーが始まると、たちまち「キャッツ」の世界に引き込まれてしまう。

演出はトレヴァー・ナンのオリジナル演出に基づき、デイヴィッド・テイラー。出演者たちは、かなりのキャリアの持ち主が揃っている。モメモリーモ を素晴らしい歌唱力で聴かせてくれたこの日のグリザベラ役は、ブロードウェイでトポルの「屋根の上のヴァイオリン弾き」(1990) に出ていたジェリー・セイガーだった。ラム・タム・タガー役のロン・デヴィートも強い印象を残した。彼は「クレイジー・フォー・ユー」のツアーの途中から「キャッツ」に移って来た。長老猫を演じたジョン
・T・イーガンは、スイスのチューリッヒの「キャッツ」でこの役を1年やって帰米、このカンパニーに参加した。役者猫ガスのリチャード・ブールはブロードウェイの「レ・ミゼラブル」でジャン・ヴァルジャンをやったり、「メイム」でアンジェラランズベリーと共演したこともあるベテラン。彼がデュエットする メマドンナモ ジェリー・ロラム役パティ・ゴーブルは、トロントの「オペラ座の怪人」でクリスティーヌを演じていた女優。ここでは上手客席側に猫の通路が造られていないので、
舞台上手奥から登場する。舞台と客席の直接交流としては、一度だけ女性客一人が舞台に引っ張り出されて、猫たちと踊る余興があった。

(月刊「ミュージカル」誌1995年1月号に掲載)
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(1994.10.08. 記)

キムからイライザへ、マニラの「マイ・フェア・レディ」
・・・・・本田悦久 (川上博)
☆「レ・ミゼラブル」のマニラ公演を実現させた劇団REP (レパートリー・フィリピンズ) が、次の演目に「マイ・フェア・レディ」を選んだ。
「マイ・フェア・レディ」は、目下、ブロードウェイやベルリンでリバイバルしており、オランダでは英米混成キャストのツアー・カンパニーが、ハーグ、ロッテルダム、アムステルダムを巡業中と、あちらこちらで花盛りだ。
ブロードウェイの「レ・ミゼラブル」に出演中で、マニラ版「レ・ミズ」には出られなかったレア・サロンガが、「マイ・フェア・レディ」出演のため久しぶりに帰国した。「アワー・フェア・レディのご帰還」と、現地の月刊誌「メトロ」12月号の表紙をレアが飾って、「ミス・サイゴン」「レ・ミゼラブル」で国際スターとなった彼女のお里帰りを、フィリピン国民が総出で歓迎している様子を伝えていた。
その売れっ子のレアが時間を割いてくれて、昼にサロンガ母娘が投宿中のマニラ・ホテルのレストラン「ギンザ」でインタビューが実現した。その中で彼女は、「“ミス・サイゴン”のキムと “マイ・フェア・レディ”のイライザとでは性格も環境も全く違いますが、イライザはキムのように深刻な役ではないので、気分的にはずっと楽です」と語っていた。

1月15日からマニラのメラルコ劇場で上演されている「マイ・フェア・レディ」は、国民的英雄レアの人気で、チケットは2月20日の千秋楽まで全公演の全席完売だという。期間の延長をしたくても、レアのニューヨークでのスケジュールが詰まっていて出来なかった。
「マイ・フェア・レディ」は、マニラで1972年、1973年、1982年と過去に3回上演されている。初演のオープニング・ナイトの観客数は、スタッフ、キャストの親類縁者4人と友人2人の、たったの6人だったという。その後の数十年でミュージカルが市民権を得てきたとはいえ、今回は、故郷に錦を飾ったレアの第一作という話題があるにせよ、完売とは凄い。

超満員とはこのことで、立ち見席ならぬ通路も座り込み客でいっぱい。定員千名の劇場だが、実際の入場者数はどの位になっただろうか。8時の開演に先立って国歌吹奏があり、全員起立して傾聴する。2月22日に23才の誕生日を迎える注目のレアは、いろいろな所で観たイライザの中で最も若く溌剌としており、新鮮な魅力に輝いていた。5年ぶりでマニラの舞台に立ったレアが、イライザを演じるのは初めてだが、ヒギンス教授のチンゴイ・アロンソは22年前の初演以来この役の常連で、今回が4度目。背が高く、この役にはうってつけのタイプだ。唱法はレックス・ハリスンの語り調を踏襲していた。ピッカリング大佐役のココイ・ラウレルは若いが、マニラで「ガイズ&ドールズ」「エビータ」等の主役を演じており、1989年にはレアと共に、ロンドンから来たキャメロン・マッキントッシュの目にとまり、「ミス・サイゴン」のオリジナル・キャストの一員に選ばれているだけに、秀逸な演技で舞台を締めていた。
演出はREPの主宰者のゼネイダ・アマドア女史。この古典名作を原作に忠実にと心がけたようで、英米に劣らぬ作品に仕上げた。イライザのコックニー・アクセントの代わりに、タガログ訛りでも飛び出さないかとの秘かな期待は裏切られ、全編、英米と殆ど変わらない英語に終始し、レアはロンドンやニューヨークでイライザを演じても十分通用することを実証した。

フィリピンでは英米のミュージカルは英語で上演しており、ローカルの言語に翻訳上演されたことはない。(1994. 01. 25. 記)

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