ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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潮晴男氏を悼む

昨年まで当会会長を務められた潮晴男氏がさる2月12日に逝去されました。
理事一同弔意を表するとともに故人の長年にわたる当会への貢献に深く感謝いたします。
当会オーディオ部門理事、小原由夫氏と大橋伸太郎氏よりの弔文を以下掲載いたします。

「潮さん、もう一度だけでいいからメールください」

小原由夫

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 当会副会長の急逝の報に接し、言葉が出ない。2月13日金曜日の朝9時半、車庫を開けて出掛ける寸前の車中で、私の携帯電話が鳴った。それはあまりに突然のことで、エンジン音が響く停止した車の中で、ハンドルを握ったまましばらく呆然とした。
 その週の始めの理事会、私を含めたオ-ディオ部門の理事が皆都合悪く欠席した中で、潮晴男さんだけ出席されて、音楽賞決定の段取りを進めてくれた。その時は特に変わった様子もなかったと伝え聞く。亡くなった当日の夕方も、他部門の理事とメールでやりとりしていたというではないか…。人の死とは、時に何の前兆もなくやってくることを、この時ばかりは痛いほど痛感させられた。
 潮さんとは、私が雑誌編集者時代の20代半ばからの付き合いだから、かれこれ35年ほどになる。ある時、締切日になっても原稿が来ず、半ば常習犯だった潮さんにいささか腹が立って、「もう次から頼みません!」とFAXを送ると、10分後にFAX受信のカタカタという音。ようやく来たかと思って見てみると、印字されていたのは「ごめん、ごめん」の大きな文字。呆れたというか、力が抜けたというか…。最早、怒る気が失せた。
 そんな憎めない、どこか許してしまう気持ちにさせるのが、潮さんの得なキャラクターだ。だからお願いしますよ、潮さん。FAXはもうないけれど、ショートメールでいいから「ごめん、ごめん」って送ってくださいよ。騙して悪かったと、お詫びに明日ニコタマで飲もうって、もう一度だけでいいからメールくださいよ。

「ひょうひょうとしていてこつんと芯のある漢」

大橋伸太郎

 潮晴男さんとお近づきになった最初は、2000年頃、ラスヴェガスのCEショー会場近く、日本の某高級オーディオメーカーの催した夕食会でであったと思う。新雑誌をたちあげたばかりの私は、あなたに執筆陣に加わってほしいと熱心に口説いた。潮さんは終始ニコニコして耳を傾けていた。この時代、雑誌間のボーダーが頑としてあった。律儀な潮さんの帰国しての返答は「当面は音元出版の(プレーヤーでなく)よきサポーターでありたいと思います」だった。
 出会いから20数年がたった。媒体が紙から電子に変わり、ボーダーもいまや消えつつある。私もライターの仲間入りして久しく、「潮さん、いっしょに書きましょうよ」と誘おうと思っていた矢先の突然の逝去だった。
 痩身でいつもオシャレ、笑顔を絶やさず、ソフトな紳士という印象の人だった。しかし本当はかなりの硬骨漢だった。とにかくがんこ。某誌で読者訪問記事を担当していたが、相手はアマチュアなのだから少々盛ってやればいいのに、音質の評価が70点とか手厳しいのだ。「だからオレは"シオカラ"といわれるんだ」と当人は得意げだった。1990年代のCRT3管式プロジェクター隆盛時代、国内を代表する某社が力のこもった製品を開発した。企画担当者の営業努力もあり、評論家の大半がそちらになびいても、気に入らない一点が直らない限りオレは使わない、と潮さんは輸入製品を使い続けた。最近になっても、ごく少数の限られた評論家としか付き合わないメーカーの製品はオレは認めないという姿勢を崩さなかった。
 ひょうひょうとしていて実はこつんと芯のある漢、潮さん。筆者も編集者も小粒な優等生が多いいま、昔気質のオーディオ評論家の気風を持った人だった。そんな潮晴男さんは私たちから去った。しかし、生身の人間の潮晴男が透明になっても、その心意気は後進たちの中に生き続ける。
 潮さん、これからも私たちを励まし時には叱っててください。