バート・バカラックとその時代

新たなザ・グレート・アメリカン・ソングブック
高田敬三(ポピュラー)
バート・バカラックが数多くの名作を残して、2月8日に亡くなった。94歳だった。彼は、作編家だが、ピアニストで、ちょっとハスキーな柔らかな声で歌う歌手でもあった。彼は、ヴィック・ダモンの伴奏や、マレーネ・ディートリヒのミュージカル・ディレクターをやっていたが、ディオンヌ・ワーウィックと巡り合い彼女の歌で、彼が相棒の作詞家のハル・デヴィッドと書いた「Make It Easy On Yourself」「Walk On By」「Do you Know The Way To San Jose」をヒットさせた。ビートルズ旋風によってアメリカの軽音楽界がロックの時代になり、大きく変わった1960年代から70年代に、従来からのスタンダード・ナンバーといわれるザ・グレート・アメリカン・ソングブックの歌の伝統を受け継ぐヒット・ソングを次々と発表して、トップ40にランクされた曲が52曲にも上がっている。
彼は、2013年に自伝「Anyone Who Had Heart」を書いているが、彼が音楽的に最初に影響を受けたミュージッシャンは、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーでありセロニアス・モンクなどモダン・ジャズ畑の人達だったという。その為、バカラックの音楽は、多くのジャズ・ミュージッシャンにも好まれ、彼の書いた曲は、ソニー・ロリンズ、スタン・ゲッツ、ウイントン・ケリー、チェット・ベイカー、ジャッキー・マクリーン等など多くのジャズメンも取り上げている、歌手の方でも、エラ、サラ、カーメンの御三家を始めニーナ・シモンなども歌っている。シナトラから一緒にアルバムを作ろうという話もあったが、実現しなかったという逸話もある。ジャズ系の歌手では、リタ・ライス、デニース・ドナテリやニッキ・パロット、日本では、阿川泰子、平賀マリカが、「シングス・バカラック」のアルバムを発表している。ジャズ以外でもポップ、ロックからラテン系のものまで幅広いジャンルの音楽の要素を内包した特異なリズム、ハーモニー、口ずさみたくなる親しみ易いメロディーがハル・デヴィッドの愛を歌うビタースイートな歌詞と相まってジャンルの壁をまいで、数多くアーティストに取り上げられ、ファンの心をつかんだ。
テレビのインタビューで、彼、個人として、一番好きな歌は?と聞かれて「Alfie」を挙げていたのが印象的だった。ちょっと恥ずかし気に素人っぽい仕草でピアノを弾き歌う姿に彼のナイーブな人間性が感じられた。
1960年代、70年代に活躍したジャズ・ポピュラー音楽の作曲家には、ミッシェル・ルグラン、スティーヴン・ソンドハイム、ジョニー・マンデルなどもいるが、バート・バカラックは突出した存在だったと云えるだろう。「The Look Of Love」、「Raindrops Keep Falling On My Head」、「Close To You」等、彼の歌は、ガーシュインやコール・ポーター等の名作と並んで、新なザ・グレート・アメリカン・ソングブックの作品として末永く歌い継がれるだろう。
稀代のソングライター、バート・バカラックを偲んで
三塚博(ポピュラー)
2023年初頭から大物音楽家たちの訃報が伝わる中、バート・バカラック逝去のニュースが飛び込んできた。現地時間2月8日(水)老衰のためロサンゼルスの自宅で亡くなったと報じられた。94歳だった。翌9日のLAタイムズ紙にディオンヌ・ワーウィックは「家族を失ったようだ」とメッセージを寄せ、多くの音楽仲間たちがSNS上に哀悼の意を表した。誰もがその才能を認め尊敬する稀代の作曲家であったことを改めて知らしめることとなった。とりわけ作詞家の故ハル・デヴィッドとの共作で次々ヒット曲を世に送り出したことはポピュラー音楽界において多大な功績となった。このことは世界中の誰もが認めるところだろう。
「私はバラードやメロディーが好きなのです」と自ら語るように、バカラックの楽曲はどれをとってもメロディアスな響きを放ってとても印象深い。たとえば彼の好みの楽器フリューゲルホーンはとても優しく効果的に使われるし、「私は拍子記号の変化を気にしない」と言うように、思わぬところで変わる拍子に変幻自在な感触を覚える。一風変わったコードやメロディーが展開するかと思えば、極上のバラードとなって私たちを魅了する。魔術を見ている、いや聞いているかのような錯覚さえ起こす。
ディオンヌ・ワーウィックが「ウォーク・オン・バイ」「サンホセへの道」「小さな願い」「アルフィー」などを歌って次々ヒットを生み、バカラックのメイン・ヴォイスとさえ言われるようになったのはあまねく知られるところだ。「恋の面影」をダスティ・スプリングフィールドやセルジオ・メンデスとブラジル66がヒットさせ、「何かいいことないか子猫チャン」のコミカルなメロディーをトム・ジョーンズが歌い、「遙かなる影」をカーペンターズがレパートリーとし、「雨にぬれても」をB.J.トーマスが歌った。エルヴィス・コステロやノエル・ギャラガー、アレサ・フランクリンやダイアナ・キング、サラ・ヴォーンやジョージ・ベンソン、ハーブ・アルパートそしてビートルズも自らのレパートリーとした。彼の楽曲はジャンルを超えて多くの音楽家に愛され、カヴァーされてきた。60年代後半、時代がロックを求めるようになっても彼のメロディーはいつも輝きを放っていた。
2011年バカラックはジョージ・ガーシュウィン賞を受賞する。独創的なアメリカ人作曲家に与えられる名誉ある賞だ。夜の歓迎会ではスティーヴィー・ワンダーが「アルフィー」を歌い、シェリル・クロウが「ウォーク・オン・バイ」、ダイアナ・クラークの弾き語りで「恋の面影」……ディオンヌ・ワーウィックが「ディス・ガール」「「世界は愛を求めている」で締めくくった。病気療養中で出席できなかったハル・デヴィッドに対して、バカラックは同席できなかった寂しさを観客の前で語った。
今頃はきっとマレーネ・ディートリヒやハル・デヴィッドと思い出話で盛り上がっているに違いない。ご冥福をお祈りします。
バート・バカラックの音楽のレガシー
大橋伸太郎(オーディオ)
バート・バカラック・オーケストラのステージ演奏を初めて聴いたのは、1971年の来日公演であった。洋楽好きの母と一緒に新宿厚生年金会館に聴きにいった。人気の頂点で来日し、東京大阪で5月1日から7日まで一週間計10回のステージをこなして帰国した。筆者が聴いたのが何日の公演だったかさだかでないが、土曜か日曜日だったはずである。なにぶんまだ中学生だったので。
「レコードでおなじみのフェードアウトをこれから実演でやってごらんにいれます。」バカラック本人の代わりにMCがアナウンス。バンドとストリングスの音量が徐々に下がって静まり返り呆気にとられたのを生々しく記憶している。公演後にキングレコードから発売されたライブアルバムがいまも手元にあってそれを聴くと、「ウォーク・オン・バイ」と「恋の面影」でこのステージ・フェードアウトをやっている。アメリカではさんざんやっているのだろうが、当日のストリングスは日本での現地調達である。(東京ロイヤルフィル)リハーサルといってもせいぜい一日のはずだ。日本の弦楽器奏者の優秀さがしのばれる。この時バカラックは40代前半の男盛りである。グリッターなタキシードに包んだ肉体は逞しく精気に満ち、ぼそぼそとはにかむような歌声がその分セクシーだった。
二度目に聴いたのは、それから30年も経っての2003年頃のことである。全米のホームシアター業界が一堂に会するCEDIA EXPOというコンベンションがあり、毎年北米各都市を巡回するのだが、その年はコロラド州デンバーが開催地だった。視察を終えてダウンタウンを散策中にパラマウントシアターというクラシックな劇場を通りかかると、窓口に「BURT BACHARACH ORCHESTRA will appear on stage next night.」のインフォメーションがかかっているではないか。偶然の旅行者は躊躇することなしにリザーブしたのだった。
すでに70代半ばのはずである。日本公演のタキシードではなく、時代と世相の変化も映し、カジュアルウェアで登場したバカラックは足取りがたよりなく、ひょろひょろしていてかつての精悍なダンディではなかったが、粋でチャーミングな好好爺に仕上がった印象で、枯れた色気があった。
この宵の客席は満員だったが、印象的だったのは、最前列に上品なおじいちゃん、おばあちゃんの車いすがズラリと並び、聴衆が白人ばかりだったことである。デンバーの土地柄も大きいのだろうが見回してみると黒人のお客さんがひとりもいない。有色人種は多分筆者ひとりだけ。
バート・バカラックはディオンヌ・ワーウィックやシュレルズ、アレサ・フランクリン始め黒人歌手の優れたリズム感を自作曲に取り入れて作曲し、独特の音楽の世界を作り上げた。ステージのバカラックシンガーズは黒人二人、白人二人の混成がルーティンだった。膚の色を越えた音楽の世界の架け橋、アメリカ音楽の桃源郷のように思っていたが、クリエーターサイドはそうであっても、音楽の受容層はまた違うのだ、ということを思い知らされた一夜であった。
バート・バカラック・オーケストラとの最初の出会いと二度目の邂逅のあいだには30年の時間が流れている。音楽界の変化は急であった。最初の東京公演の1970年代初めバカラックは人気の頂点にあった。直前にフランシス・レイが来日公演を果たした。この時代は作曲家が音楽界の看板スターだったのである。ミシェル・ルグラン、エンニオ・モリコーネ…しかしバカラックほどの華はない。それが自作自演歌手(シンガー=ソングライター)の急激な台頭で職業作曲家の存在が次第に影を薄くしていく。
映画音楽の変化も大きい。バカラックのヒット曲の多くが映画主題歌である。映画主題歌はポピュラー音楽の花形的存在だったのである。AM放送に映画音楽専門のチャート番組があったくらいだ。映画音楽(劇伴)が音響の一部になり、主題曲がスクリーンに華を咲かせることが次第に少なくなっていく。
1970年代後半になるとディスコが台頭しメロディー主体からビートを効かせた音楽へ中心が移っていくと、バカラックのデリカシーはディスコのラウドな音響にかきけされエヴァーグリーンコーナーの存在になっていく。しかし、いったん音楽シーンの背景に退いた感があっても、リスナーと音楽界はバート・バカラックを忘れなかった。1980年代始めに、新たな朋友にして伴侶キャロル・ベイヤー・セイガーと「アーサーのテーマ」を始めヒット曲を生み出し、1997年には映画「オースティン・パワーズ」カメオ出演のサプライズでファンを狂喜させリバイバルブームが到来する。回顧していくと周期的に世界的なバカラックリバイバルがやってくるのがわかる。音楽のオアシスなのだ。
2023年2月8日にバート・バカラックは94歳の天寿をまっとうして逝去した。それから一週間ほどたった夕べ、筆者はたまたま東京の高層ホテルの52階ペントハウスのレストランにいた。ピアノトリオと女性シンガーがステージに登壇し演奏を始めたので、”Burt Bacharach Number Please.”とメモに書いて言付けた。ほどなくしてウェイターが「シンガーは歌えないと言っていますが、ピアニストがトリオで演奏すると申しています。」とメッセージをもち帰ってきた。ピアノが「アルフィー」の主題を弾きソロをベースに渡し、テーマを再現して演奏が終わると、リクエストの心がわかったのだろう、お客の大半が外国人の店内に長く温かい拍手が起きた。場内が静まるとシンガーがステージにカムバックし「ミスティ」を歌い始めた。
この時知ったのは、バカラックナンバーは1960年代から多くの歌手にカヴァーされてきたが、ジャズヴォーカルスタンダードになりにくい音楽であることだ。ニュアンス豊かなコード進行、変化に富んだリズム。エキゾティックだったり、都会的で洒脱だったり、逆にノスタルジックで鄙びていたり…。技巧派歌手が歌い崩していくとデリケートな持ち味がなくなってしまう。自分のモノにすることの難しい、親しみやすいようでいて一筋縄でいかない音楽なのだ。それ自体が一つのジャンルになっているという点で、アントニオ・カルロス・ジョビンやザ・ビートルズの楽曲に通じるものがある。バート・バカラックは世を去った。しかし、ワンアンドオンリーな音楽のレガシーはこれからも歌い継がれ、聴き継がれていくことだろう。