ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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「タンゴでもジャズでもクラシックでもない、ピアソラの音楽の生誕100年、
 没後30年」
池田卓夫(音楽ジャーナリスト@いけたく本舗®︎)

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Astor Piazzolla, 3/11/1921〜7/4/1992

 2021年は作曲家でバンドネオンの巨匠、アストル・ピアソラ(1921ー1992)の生誕100年で、2022年の没後30年へと続くダブル記念イヤーズの前半に当たった。

 ピアソラの音楽を語るとき、私はいつも、ジョージ・ガーシュイン(1898ー1937)との〝相似形〟を脳内に描く。フランスの作曲家モーリス・ラヴェル(1875ー1937)が1920年代に初めてアメリカを演奏旅行で訪れガーシュインと出会い、ジャスの洗礼も受けた裏返しか、次第にクラシックの管弦楽法に傾倒したガーシュインは1930年代初頭にヨーロッパへ渡り、ラヴェルに弟子入りを志願するが、「二流のラヴェルになるより、一流のガーシュインでいなさい」と励まされる。ガーシュインがその足でウィーンに向かってアルバン・ベルク(1885ー1935)を訪ね、ニューヨークから持参したスコアで歌劇「ヴォツェック」の詳細なアナリーゼ(分析)を作曲者自身と行い、自身の歌劇「ポーギーとベス」の参考とした話までは、あまり知られていない。

 1935年の初演時点、れっきとしたオペラだった「ポーギーとベス」は「サマータイム」をはじめとする素敵なナンバーに満ちあふれ、クラシックだけでなくジャズ、ポピュラーなど多彩なジャンルの歌手、さらにはインストゥルメンタルのナンバーとして世界へ広まって行った。ジャズ・ピアニストで作曲家の穐吉敏子にインタビューした折、「ガーシュインはクラシックですか?、ジャズですか?」と愚問を発すると、即座に「ジャズでもクラシックでもない、ガーシュインという1人の天才のかけがえのない音楽です」と答えられた。

 ピアソラはブエノスアイレス南西390kmのマル・デル・プラタに生まれたイタリア系アルゼンチン人だが、4歳の1925年から1936年まではニューヨークで育ち、ジャズの洗礼を受けた。1931年にはニューヨークのラジオ局でフォルクローレを録音、バンドネオン奏者としてデビューするが、ブエノスアイレスへ戻った後の1940年から5年間、アルゼンチンを代表する作曲家アルベルト・ヒナステラ(1916ー1983)に音楽理論を学び、「ピアノ・ソナタ」などガチのクラシック音楽も作曲した。1954年から1年間はパリで女性の作曲家・指揮者・鍵盤奏者・教育者のナディア・ブーランジェ(1887ー1979)に師事し、和声学や対位法を修めた。ガーシュインもラヴェルの紹介状を得てブーランジェを訪ねたが「生まれながらの才能を邪魔したくない」とされ、弟子入りを断られた。ピアソラはタンゴ界の実績を隠して弟子入りしたが、ブーランジェに「タンゴこそがあなたの音楽の原点です」と喝破され、以後「タンゴの革新」に没頭する。帰国後に組織したブエノスアイレス八重奏団ではエレキギターを取り入れ、さっそく物議を醸した。今でも「ピアソラの音楽はダンサブルじゃない」と忌み嫌う?タンゴ・ファン、ダンス・ファンは多い。

 穐吉の表現を借りれば、「タンゴでもジャズでもクラシックでもない、ピアソラという1人の天才のかけがえのない音楽」は次第に認知度を高めていく。1980年代から晩年にかけ、バンドネオン独奏と管弦楽のために作曲した協奏曲風の作品群だけでなく、パリ留学の奨学金を得た1951年の出世作「シンフォニア・ブエノスアイレス」をはじめとする実験的な楽曲、さらには「リベルタンゴ」「オブリヴィオン(忘却)」など自身の演奏グループから生まれたヒット曲に至るまで、クラシック系の演奏家が盛んに演奏し始めたのは、没後数年を経た1990年代半ばのことだった。

 とりわけラトヴィアのリガ出身のユダヤ系旧ソ連(現在はドイツ国籍)のヴァイオリニスト、ギドン・クレーメル(1947ー)が1996年にリリースした「ピアソラへのオマージュ」(ノンサッチ)は世界的ベストセラーとなり、ピアソラの〝クラシック化〟に拍車をかけた。2012年の没後20年には「オマージュ」のほか、「ブエノスアイレスの四季」とヴィヴァルディの「合奏協奏曲《四季》」を交互に演奏した「エイト・シーズンズ」や「タンゴ・オペラ《ブエノスアイレスのマリア》」全曲など8枚のディスクを収めた「クレーメル・プレイズ・ピアソラ・ボックス」も出た。

 日本では、中国系アメリカ人チェロ奏者のヨー・ヨー・マ(友友馬=1955ー)が1997年にリリースしたアルバム「プレイズ・ピアソラ」(ソニーミュージック)の〝破壊力〟がすごかった。1998年5月〜1999年10月にサントリーのウイスキー「ローヤル12年」のCFで「リベルタンゴ」を弾く姿が流れるとCDセールスに火がつき、日本だけで32万枚に達した。「リベルタンゴ」は1973年にアルゼンチン大統領へ返り咲いたファン・ペロンを嫌い、ピアソラが父祖の地イタリアに逃れていた時期の作曲。自由=リベルタとタンゴを組み合わせた造語の題名には自由を抑圧する政治家への怒りもこめられていたが、日本人一般は世界政治に疎いので、ヨー・ヨー・マのヒットと同じ時期、劇団四季がペロン夫人を主人公にしたロイド=ウェッバーのミュージカル「エビータ」を上演していても、何の文脈も不思議も矛盾も感じなかったはずだ。

 作曲者自身に続くクレーメルやヨー・ヨー・マらのパイオニア精神により、ピアソラの音楽が日本のクラシック音楽シーンに根を下ろして四半世紀。今では若手の演奏家やメジャーな交響楽団がレパートリーに組み入れ、生誕100年の特集を企画する。2021年5月には東京フィルハーモニー交響楽団がイタリア人首席指揮者アンドレア・バッティストーニと「シンフォニア・ブエノスアイレス」をもの凄いエネルギーで日本初演、バンドネオンの小松亮太と北村聡も〝オケ中〟に加わり最善を尽くした(日本コロムビアがライヴ盤を発売)。その翌週にはNHK交響楽団が「バンドネオン協奏曲」を三浦一馬の独奏、原田慶太楼の指揮で極めて美しく繊細に再現した。同じ協奏曲を小松が独奏、ミシェル・プラッソン指揮新日本フィルハーモニー交響楽団と共演した2019年のライヴ盤(ソニーミュージック)も前後して発売された。三浦はチェロの宮田大やピアノの山中惇史らクラシック系ソリストとのコラボレーションで、ピアソラのツアーを開き重ねている。ピアソラのボーダーレスな真価は文字通り国境を超え、人類共通の文化遺産となりつつある。

「アストル・ピアソラ 生誕100年、
 没後30年〜タンゴの破壊者なのか創造者なのか〜」
三塚博(ポピュラー)

 タンゴを破壊したとか進むべき道を誤らせたとかアストル・ピアソラには何かと批判的な声もあったが、タンゴ界に極めて挑発的に躍動感をもたらした作曲家、編曲家でありバンドネオン奏者である。クラシック音楽やジャズの密度の濃い要素を大胆に取り込んで革新的なコンテンポラリー・ミュージックへと昇華させたのである。
 タンゴはラプラタ川河口の港町ブエノスアイレスの場末の一角で19世紀末に生まれた。
 ファン・ダリエンソやフランシスコ・カナロらが表舞台に登場した。二拍子の歯切れの良いリズムで演奏される「ラ・クンパルシータ」や「エル・チョクロ」は、世界中の人の耳にダンス音楽として不朽の様式、完熟したスタイルとして響いたに違いない。他を寄せ付けない圧倒的な存在感を持っていたと言ってもいいだろう。
 19世紀末といえば、ミシシッピー川河口の港町ニューオリンズの紅燈街でジャズが産声をあげた時期でもあった。ルイ・アームストロングが登場してジャズは全米へと波及していった。
 1940年代にいわゆるバップ革命が起きた。それまでのダンス・リズムを主役にしたスイング・ミュージックとは異質の、変幻自在なリズムや複雑な和声、旋律を伴った革新的な音楽スタイル、今日のモダンジャズが生まれた。チャーリー・クリスチャンやチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーなど後世に名を残すアーティストたちが続々と登場したことは申すまでもない。

 ピアソラはパリ留学中の1954年、バリトンサックス奏者ジェリー・マリガン率いるグループの奔放な演奏を目の当たりにした。卓越したソロ・プレイと息のあったアンサンブルのせめぎぎ合いに触発されたという。55年に母国に戻ったピアソラは、ジャズにヒントを得た革新的なスタイルを求めて自己のグループを結成する。大胆なアレンジや演奏によってタンゴは踊れる音楽から踊りにくい音楽へと変貌していくのである。伝統様式を好む人々は離反していったであろうし、演奏仲間たちも快く思うものばかりではないことは想像に難くない。タンゴを破壊したという不満の声が上がるのもむべなるかなだ。しかしピアソラ率いる八重奏団の演奏に驚いたのは、バップ革命の只中にいたディジー・ガレスピーを筆頭にクインシー・ジョーンズらを擁する南米ツアー中の一行だった。ピアソラの構想は新たなスタイルの創造者としてタンゴに革命をもたらしたのだった。

 筆者がピアソラを意識するようになったのはタンゴ歌手、故阿保郁生さんの強い勧めがきっかけだった。70年代前半阿保さんはアルゼンチン・フォルクローレやタンゴの普及に情熱を注がれていた。私にとってピアソラのアルバムはそれまでのタンゴのイメージとは全く違うものだった。エレクトリック・ギターのエネルギッシュなアドリブなどはそれまでのタンゴ・レコードから聞こえてくることはなかった。自由奔放な演奏がモダンジャズに一脈通じるものであることを感じとったのもその頃だった。1978年にニューヨークのレコーディング・スタジオでアルゼンチン出身のジャズ・ピアニスト、ホルヘ・ダルトと出会う機会があった。父親がタンゴの演奏家であったことなどを語りながら片手で傍のグランド・ピアノをポロポロと弾いてくれたのだが、それがアディオス・ノニーノの一節だった。たくさんの音楽家たちに注目され愛されているアーティストなのだということを遅ればせながら実感したのはこの頃だった。

 ピアソラがパリ留学時代に多くのヒントを得たというジェリー・マリガンとは、20年後の1974年にコラボレーション・アルバム「Summit」をイタリアで録音している。収録曲の中にHACE VEINTE ANOS(20年前)という曲がある。ピアソラにとってマリガン・グループとの出会いがいかに印象深いものだったかを窺わせる曲名だ。マリガンはピアソラの演奏に触れ「信じられない奏法だ。モダンなヴォイシングをバンドネオンで弾くとは」と驚嘆している。

 ピアソラを称賛する音楽家は少なくない。クラシック界ではヨーヨー・マ、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチやギドン・クレーメルそしてダニエル・バレンボイム等、ジャズ界ではギル・エヴァンス、アル・ディメオラ、ゲイリー・バートン、パット・メセニー等が知られる。
 パット・メセニーは「今世紀で最も重要な作曲家の一人」(1999年)と語っている。ゲイリー・バートンは1986年のモンタレー・ジャズ祭での共演盤「Astor Piazzolla&Gary Burton/The New Tango」、ピアソラ没後の1996年には「Gary Burton Astor Piazzolla Reunion/A Tango Excursion」を世に送り出した。ギタリストのアル・ディメオラはオマージュ作品「Di Meola Plays Piazzolla」(1996年)を発表している。
56年にガレスピーとともにブエノスアイレスを訪れたアルトサックス奏者のフィル・ウッズはピアソラとエリス・レジーナへのオマージュ作品「Astor&Elis」(1994年)を残している。とりわけその中の一曲「Piece For Astor」は想いのこもった佳曲だ。

 日本でも敬愛するアーティストは少なくない。例えばジャズ界ではバイオリン奏者の寺井尚子がオマージュ作品を制作、ピアニストの小曽根真は自身のアルバムの中でピアソラ作品を取り上げたり、ゲイリー・バートンのオマージュ作品に参加している。

 ピアソラの演奏に生で触れる機会がなかったのは残念だが、この革命児を後半の10年間支えてきたピアニスト、パブロ・シーグレルの来日コンサートには2度足を運ぶ機会があった。浜離宮朝日ホールで行われたものだったが、鬼怒無月(g)西嶋徹(cb)北村聡(bn)梅津和時(cl, sax)など気鋭のミュージシャンたちとのステージは実に印象深いものだった。ピアソラあればこそタンゴの命脈を保っていると確信したステージでもあった。

 ジャンルを超えて、音楽家たちがピアソラの追悼演奏会を行ったり楽曲をカバーし続けているのをどう見たら良いのだろうか。彼の素晴らしい作品群は決して色あせることなく世界中の音楽家たちにこれからも愛され続けるのだろう。 そしてピアソラほどの異色な個性を持って音楽界に影響を与えたアーティストはしばらくタンゴの世界から出現することはないのだろう。

「伝統の破壊者でなく継承者」
大橋伸太郎(オーディオ)

 アストル・ピアソラの音楽に出会ったのは20代前半であった。大学を卒業して就職しルーティンの窮屈からの逃避行のように、聴く音楽が北米、ブラジルからさらに南下していった。ラテンアメリカ音楽に詳しい人に教わり、ファン・ダリエンソ楽団やフロリンド・サッソーネ楽団を聴いていたが、今聴くべきアルゼンチンタンゴはピアソラと知った。手にしたアルバムが「ライブ・アット・テアトル・レジーナ」と「アストル・ピアソラ・ライブ‘82」の二枚のライブLPであった。バンドネオンという未知の楽器、嗚咽するようなヴァイオリン、ロベルト・ゴジェネジェのだみごえのエレジーが蒸留水の浸透力で私の心に沁み入った。

 ライブを聴く機会は早くやってきた。1984年の東京公演、五反田の簡易保険ホールだったと記憶するがアストル・ピアソラ・キンテートが登場、ステージの半ばでピアソラが「ご主人(早川真平)がブエノスアイレスに滞在され、それ以来の親交です。」と紹介し、ゲストの藤沢嵐子が登場し一曲歌った。ピアソラのステージは現在想像されがちなしゃっちょこばったものでなくどこまでも陽気で楽しいものである。

 その後、オーディオの専門雑誌社に転職し、カセットデッキの権威の村田欽哉さんがアルゼンチンタンゴをお好きと知り、「ピアソラはどうですか?」と恐る恐る訊くと、「あれはいけません。ピアソラはアルゼンチンタンゴを破壊しています。」という答が返ってきた。
 1931年深川生まれの江戸っ子で夏に麻のスーツを颯爽と着こなしていたいなせな村田さんからすると、ダンス音楽の要素がもはやなく、一種のフュージョン(モダンジャズや現代音楽とのクロスオーバー)であるピアソラは、アルゼンチンタンゴの艶っぽさやダンディズムと無縁の無粋な音楽だったのだろう。村田さんは一時腐っていた私を「お前が(会社を)辞めたがっているのは顔に書いてある。第一、お前は耳の形からしていけねえ。」と面罵し立ち直らせた人である。氏を尊敬していた私はその場は「ああ、そうですか。」と引き下がった。

 1990年代になり、ギドン・クレーメルらクラシックの音楽家がシンパシーを寄せるようになりピアソラの音楽は広く音楽ファンに知られるようになった。
 メディアはCDへ移り変わり、キンテートがノンサッチに録音した三部作は、ジャズであまり使われない楽器、バンドネオンの音色とアルゼンチンタンゴならではのヴァイオリンの奏法で後に私がオーディオ機器を試聴する時のリファレンス音源となった。

 21世紀の現代、アストル・ピアソラの音楽は中南米のローカルミュージックの枠を越えてマイルスのジャズやフルトヴェングラーのドイツ音楽同様の不滅のレガシーの域にある。同時に、アルゼンチンタンゴを聴くひとの数は私がピアソラに出会った1980年代始めより増えている。ピアソラがいなかったらアルゼンチンタンゴは今頃どうなっていただろうか?
ピアソラは伝統の破壊者ではなかった。アルゼンチンタンゴに新たな生命を吹き込んだのだった。伝統に立脚しつつモダンジャズや現代音楽の要素を取り入れアルゼンチンタンゴを停滞から抜け出させたのである。
 村田欽哉さんがもし存命だったら、「ピアソラはアルゼンチンタンゴの恩人だったかもしれません。」と見直しているに違いない。ピアソラを聴くと音楽というもののしたたかな生命力を思わずにいられない。