当会で理事、監査を長く務められた吉田耕一(杜こなて)様がさる2月8日に逝去されました。
理事一同弔意を表するとともに故人の長年にわたる当会への貢献に深く感謝いたします。
故人の学友であり、作曲家の道を共に歩んだ当会元会長、石田一志よりの弔文を以下掲載いたします。
追悼 吉田耕一君
石田一志

MPCJ副会長をニ度、その後、内部監査を一昨年まで務められていた吉田耕一さんが2月8日、腎臓がんの闘病の末、腎不全で亡くなられた。79歳であった。作曲家の奥様長与寿恵子さんと二人で「杜こなて」のペンネームを使っていたが、慶応の男子中である普通部で三年間のクラスメートであった僕には、やはり吉田耕一の方が呼びかけしやすい。しかし、実際のところ身体的にも精神的にも傍らに長与さんがいたことで、吉田は自分の願い通りの人生を生き抜くことができたのだから、やはり一心同体の片割れ「杜こなて」の「A」としての死であったといえるだろう。
まず、身体的には「杜こなてA」は、とても壮健とはいえなかった。30代半ばから十年に及ぶ療養生活を体験し、さらに50代の初めにも二度目の大病、そして2008年に腎臓がんが発覚したのである。最初の療養生活は、音楽文化の源泉を求めての一年間の西アフリカ旅行の帰路に被った薬害であった。行動を共にした幼い子供を含む親子3人が同じ薬害を受けたが、「A」だけが一人治療に長い時間を要した。
ニ度目の「A」の大病は、自分の父親の介護による疲労が原因であった。その度に家族の生活を支えたのが「杜こなてB」に他ならない。そして腎臓がんについては、「B」の祖父が癌研の創始者・長与又郎であったことで、「A」は癌研の最先端の治療を受けることができた。このことについては、「A」本人が最後の電話で感謝の念を語っていた。
精神的には、工学系の学者の父からの強固な反対を押し切って音楽界に進んだことから起きたさまざまな問題と苦悩があった。しかし、彼独特の広範な音楽への関心と愛情、意欲的な知的探求心や飽くなき自己啓発への意欲などに共感し、支援を惜しまなかったのが「杜こなてB」でありその一族であった。
「杜こなてA」の音楽人生は、慶応高校の時代から始まり、大学で「三田レコード鑑賞会」に所属してから急速に深まったようだ。卒業の1969年にCBSソニーレコード(現ソニー・ミュージックエンターテインメント)に入社。すぐに気鋭のディレクターおよびA&Rとして数多くのレコードを制作。その傍ら音楽評論を書き始めた。吉田時代の代表的な評論には季刊芸術誌掲載の「湯浅譲二論」、アムステルダムの人類博物館刊行の『vun TOTEN tot LIFESTYLE』掲載の「ヨーロッパ神話の終焉~音楽と経済へのアジアの眼差し」などがある。杜こなてとしては、共作作曲家として活動を展開した。作品としては、連作歌曲集『白い秋』(音楽之友社)、『チャップリンと音楽狂時代』(春秋社)、『「君が代」日本文化史から読み解く』(平凡社)が刊行されている。
ミュージック・ペンクラブ・ジャパンには音楽執筆者協議会時代から所属しており、経済学部出身者として会の経営や会計などに積極的な協力をしていただいた。心から御礼を申し上げるとともに、残された「杜こなてB」さんの作曲家としての今後の活躍を祈念いたします。 合掌
