2016年4月 

  

ジョージ・マーティンの訃報に接して・・・星加ルミ子
世界中の新聞、テレビが三月八日に五人目のビートル、ジョージ・マーティンが死去したと報じた。

私は二度ジョージ・マーティンに会っている。最初は1965年に初めてザ・ビートルズと会見した時のことでアビー・ロードのEMIレコーディングスタジオだった。ミキシングルームにいた彼は立ち上がってにこやかに握手をしてくれた。

大きな人だった。スーツを着ていて一分の隙もない紛れもないイギリス紳士という印象を受けたものだ。ポピュラー音楽に携わっているプロデューサーにはとても見えなかった。

二度目に会ったのは、二年後の1967年でやはりこの時もEMIのスタジオだった。ビートルズは「マジカル・ミステリー・ツアー」のレコーディングに取りかかったばかりで、私が行った時には「ザ・フール・オン・ザ・ヒル」のリハーサルをちょうど始めたところだった。

四人がピアノを囲んで打ち合わせをしていたが、ジョージ・マーティンはそれをのぞき込んでいただけで、一言も発しなかった。

やがてポールがピアノを弾き、それに合わせて四人がそれぞれのパートを口ずさみ始めた時、マーティンはタンバリンを持って時々音を出しながら、その回りをぐるぐる回っているだけだった。

そしていよいよ録音を始める段になり、彼はミキシングルームへ入っていった。ここからレコーディングディレクターとしてのこの人の才能とセンスが発揮されるのである。

五人目のビートルズ、というが、ビートルズが作り出したサウンドを最上のものに仕上げたのは、ジョージ・マーティンである。この功績は偉大だ。

あるインタビューで彼はザ・ビーチ・ボーイズを絶賛していた。この人の音楽を見抜く目聴く耳は本物だった。

享年90歳。ナイトの称号を授与されていた。

訃報 キース・エマーソン氏死去・・・ 櫻井隆章
イギリス人キーボード奏者のキース・エマーソン氏が、2016年3月10日、ロサンジェルス郊外のサンタ・モニカにある自宅で死去しているのが発見された。警察は銃による自殺と発表した。

エマーソン氏は1944年11月2日、イギリスのランカシャー州生まれ。音楽に理解のある両親の元、10歳でギターを始めるが、すぐにピアノに転向。すぐに才能を発揮し、14歳からロンドン・ミュージック・アカデミーに通うが、1年で辞め、地元に戻って銀行に勤めた。が、仕事よりも音楽を優先させた為に解雇され、18歳でプロとなる。様々なバンドで活動を続けたが、ナイスというバンドでの活動が注目された。1970年に、元キング・クリムゾンのベーシスト兼シンガーのグレッグ・レイク、元アトミック・ルースターのドラマー、カール・パーマーと「エマーソン・レイク&パーマー」を結成。当時流行りの言葉であった「スーパー・グループ」の一つとされた。同年に発表した、バンド名をタイトルとしたファースト・アルバム、翌年の二枚目「タルカス」が圧倒的な評判となる。更に同じ71年には代表作の一つとされる「展覧会の絵」を発表。19世紀ロシアの作曲家ムソルグスキーのオリジナルを大胆にロックに変換、評価を更に高めた。また、73年発表の5作目「恐怖の頭脳改革」も評判の高い作品だ。

彼等は、プログレッシヴ・ロックの代表格として、ピンク・フロイドやキング・クリムゾンなどと並び称されたバンドであった。特にエマーソン氏は、当時開発途中であったシンセサイザーの名手としての評価も高かった。1972年7月に、後楽園球場と甲子園球場で行った初来日公演は多くの日本のロック・ファンに強い印象を残したものだ。1979年の解散後は、映画音楽などの分野でも活動。EL&Pは、その後数回再結成された。

近年も来日が続いており、2016年4月も日本公演が予定されていたが、最近は鬱病に悩まされていたという。サンタ・モニカの自宅で同居していたパートナーは日本女性であったそうだ。謹んで、合掌。

ニコラウス・アルノンクールの不在・・・ 森本恭正
今私の手元に、高級チョコレートの箱にように美しくデザインされたケースがある。そこに入っているのは、カラフルに色分けされた8枚のCDと1枚のDVDだ。ニコラウス・アルノンクール指揮ベルリンフィルハーモニー演奏によるシューベルト全集である。

1953年自ら創設した古楽グループ、コンチェントゥス・ムズィクス・ヴィーンに始まったアルノンクールの長い戦いは2016年3月5日、彼の死をもって終わった。

彼の音楽に対する思想は、1982年、これから古楽ばかりでなく、一般の指揮者としてもその活動の幅を広げ始めた頃に上梓した、MUSIK  ALS  KLANGREDE の冒頭のことばに、従来のクラシック音楽に対する挑戦状の様な趣で記されている。

[中世からフランス革命まで、音楽は我々の文化、人生の根本理念であった。音楽を「理解する」ことは基本的な教養のひとつであったのである。今日音楽は、することのない夜に、添え物の様にして行くオペラやコンサートであり、式典を形作る要素のひとつであり、あるいは、家の中で、寂しさの紛らわしや活気づけにつけるラジオのような、空虚な装飾となってしまった。今日我々の生活はかつてないほどの量の音楽―そう、ほとんど切れ目なしに―で満たされているにもかかわらず、それらは、我々の人生にほとんど意味をなさず、小さく愉悦な装飾でしかないというパラドックスが出現しているのである](筆者訳)

アルノンクール家は神聖ローマ帝国皇帝の血を引く貴族である。そのことを生前彼が口にしたかどうかは定かではない。が、ここでいう「我々の文化」とは、明らかに貴族の文化である。確かに、フランス革命まで、音楽は、ヨーロッパにおいて貴族の文化、人生の根本理念であり、基本的な教養の柱であった。それが革命によって大衆の手に移って行ったのである。貴族たちの人生を揺るがすほどの力を持った音楽という文化は、革命を機に大衆に広まる。そのことを抜きにロマン派も近代も勿論現代の音楽も語ることはできない。しかし、彼が一生をかけていらつき、怒り、そして戦ってきた彼が考えるところの音楽の本質、即ち人の人生を揺るがすほどの何か、がクラシック音楽から抜け落ちていったこともまた事実だろう。それは、かつて貴族という権威と結びついていたクラシック音楽が、金銭的な裕福さを基盤にした上流社会と結びついて大量消費社会にくみこまれていったからに違いない。それらは、何もやることがないので、オペラにでも行く人たちであり、或いは、早朝眠気覚ましにバロックを聴くひとたちである。

しかし、そのどこが悪いというのだ。これこそが、フランス革命の目指したものではなかったのか?音楽文化を限られた貴族の独占から解放して、大衆の手に渡す。だが、文化は広がるにつれて、その本質は変容してゆくのだ。鋼の硬さをもったオリジナルも広がるにつれ肥厚し、希釈されてゆく。そうすることによって、またさらに広く広く広まってゆく。今日日本におけるクラシック音楽の受容がそのよい例だろう。

クラシック音楽の本質が薄れ肥厚して広まってゆくこと、このことにニコラウス・アルノンクールは怒り、戦い続けてきた。いくら現代の聴者が流麗な嫋やかなクラシックでよいといっても、かれはNEIN、 NEIN(否、否)といって、あくまで作品の生まれた本質的な切実さに強く拘った。それらはほとんどすべての場合において、寝転んで聴けるような音楽ではなかったのである。彼の演奏解釈は、作品誕生の背景への深い歴史的な分析と自筆譜もしくは、様々な歴史的出版譜による調査から導かれていた。そうすることによって、数々の天才作曲家の真の声を我々に届けようとしたのである。たとえそれがどれだけ飲み下しにくく、狂気に満ちていたとしても。

彼はいつも同じジャケットを着て練習に現れた。そのことを意地悪な記者に指摘されると、平然と「同じジャケットをいくつも持っている」と答えた。袖口の同じところが解れているから勿論嘘である。今、再び私の目の前に置かれた装飾的なデザインのCD、DVDセットを見ながら、そんな記憶とともに溜息をつく。

−我々の人生にほとんど意味をなさず、小さく愉悦な装飾でしかない―

彼の言葉と音楽を私たちはどれほど理解し、その不在をこの先、いったい誰が補遺していくのだろうか。

ミュージック・ペンクラブ音楽賞について。・・・ 池野 徹
音楽そのものが文化の一つのジャンルとして人間生活に深い影響を与えている。
音楽とは、人間の五感を刺激し、人間の生きてる事の瞬間を確認させてくれる不思議な感性の道具でもある。
東北大震災に打ち拉がれた人間たちの精神的悲惨を救済したのは音楽だった。
スポーツのクライマックス感を増幅して歓喜に持っていってくれるのも音楽だ。
人間の喜び哀しみを演出してくれるそれが音楽だ。

音楽に携わる人たちが集まって創られたのが「ミュージック・ペンクラブ・ジャパン」だ。音楽関係の言論執筆活動に関わる評論家、ライター、学者、作曲家、文芸評論家、D.J、プロデューサー、ミュージッシャンも加えたメンバーが「クラシック」「ポピュラー」「オーディオ」の各部門に160名存在する。つまりこの3部門が一同に会する組織なのである。

その会員が年に一度その年に顕著だった楽曲、アーティストを日本外国を問わず選出し、その投票により「ミュージック・ペンクラブ音楽賞」が決定されるのである。他に日本で世界中で数知れない音楽賞があるが、そのクオーリティはいざ知らず結果としてユニークな音楽賞であるといえるのではないか。

「クラシック部門音楽賞」では、独奏・独唱/室内楽・合唱/オペラ・オーケストラ/現代音楽/研究評論/を対象。「ポピュラー部門音楽賞」では、録音録画作品・日本人外国人/コンサート・パフォーマンス・日本人外国人/ブライテスト・ホープ/企画・著作出版物/を対象。「オーディオ部門音楽賞」では、技術開発/優秀録音/著作出版物を対象。各ジャンルについては、特別賞/功労賞を設定している。

音楽に優劣はないが、出来不出来はある。その出来の良いものに賞プライズをおくるのは、人々が共感し、アーティストの励みになるのは間違いない。

今年で「第28回ミュージック・ペンクラブ音楽賞」を迎えた。
音楽というのは嗜好性の高いものだし、人様々の意見もあるだろうが、音楽情報も時代とともに変わっていくだろうし、一つの見識として現社会の文化の指向性の斬新さを示せたら良いのではないかと思われる。


Photo & Art by Tohru IKENO

<第28回ミュジックペンクラブ音楽賞>
http://www.musicpenclub.com/prize28.html

宝塚宙組公演「シェイクスピア」・・・ 本田悦久 (川上博)
☆英国の文豪ウィリアム・シェイクスピア (1564-1616) 没後400年の今年、宝塚歌劇団宙組が、シェイクスピアを主人公にしたオリジナル・ミュージカル「シェイクスピア」-空に満つるは、尽きせぬ言の葉-を上演した。

作・演出は生田大和、作曲・編曲は太田健、スーパーバイザーは「シェイクスピア」の権威、小田島雄志氏 (東京大学名誉教授)。
出演者は朝夏まなと、実咲凜音を中心とする宙組71名と専科から美穂圭子、沙央くらまの総勢73名。

宝塚大劇場の後、東京宝塚劇場で2月19日からから3月27日まで上演された (筆者の観劇日は2月24日)。

時は16世紀末、所はロンドンの北西部ストラットフォード・アポン・エイヴォン。ウィリアム (朝夏まなと) は劇作家を夢見て詩を書く毎日。
だが父親のジョン (松風輝) は、ウィリアムの夢を理解しない。
そんなある日、ウィリアムは、森でアン・ハサウェイ (実咲凜音)に出会う。彼女は、ウィリアムの紡ぐ言葉に魅了され、彼の書きかけの詩を読み上げる。すると、詩はたちまち命を吹き込まれ、輝き出す。彼女こそ言葉の女神と確信したウィリアムはアンに求婚する。

しかし、ウィリアムが町の祭で騒ぎを起こして、永久追放となり、二人の結婚は至難と思われたが、ロンドンの貴族ジョージ・ケアリー (真風涼帆) の計らいで、結婚式を挙げる。ジョージの提案で芝居好きなエリザベス女王(美穂圭子) の為に、劇団を立ち上げ、ウィリアムを劇作家として迎えようという話に、ウィリアムは喜んでロンドンに向かう。

ウィリアムとアンの愛の物語ともいえる「ロミオとジュリエット」は、大評判となり、ウィリアムは世界に羽ばたき始める。その後もジョージの依頼を受けて、彼は言葉を自在に紡ぎ出し、「ハムレット」「夏の夜の夢」「ジュリアス・シーザー」「マクベス」「リチャード二世」等の傑作を次々と書き上げる。何かに憑かれたように仕事に熱中するウィリアムに、いつしかアンの言葉は届かなくなり、アンの心は離れていく。しかし、ウィリアムの作品に民衆は熱狂するが、皮肉なことに、民衆が好んだ権力者を打倒する芝居が反逆罪とされて、ウィリアムとジョージ達は捉えられてしまう。

何とかウィリアムを救おうとするジョージの計らいで、エリザベス女王は「一週間で私の望む作品を完成させたら許す」との妥協案を示すが、アンは田舎に帰ってしまい、その上、一人息子を失ったウィリアムに言葉を紡ぎ出す力はなくなっていた。困り果てたジョージは、言葉の女神であるアンをロンドンに呼び戻し、ウィリアムを奮い立たせる。そうして、生まれた「冬物語」こそ、ウィリアムとアンが紡ぎ出した珠玉の名作といえよう。

劇中歌のどれも素晴らしいが、特にアンとの出会いに喜びに溢れて歌う「言葉が生まれた日」、息子を失った悲しみを歌う「カラを満たすは,尽きせぬ空しさ」のミュージカル・ナンバーが心に残る。又、この世界は一つの劇場と歌う「Will in the World」の下記の歌詞は、劇作家ウィリアム・シェイクスピアの心情をよく表していて、印象深い。

Will in the World
この世界は一つの劇場 人は誰もが皆役者 舞台の上に現れて
やがて立ち去るその日まで 人の数だけ 思いの数だけ
言葉を重ねて生きている

<写真提供 (c)宝塚歌劇団>


マイアミでデビー・レイノルズの「アニーよ銃をとれ」・・・本田悦久 (川上博)
☆「雨に唄えば」「艦隊は踊る」「歓びの街角」等沢山のミュージカル映画で親しんでいたデビー・レイノルズの「アニーよ銃をとれ」が6月にロサンゼルスのドロシー・チャンドラー・パビリオンで上演中と聞いて、日帰り(?) でも観に行きたいと思いながら、果たせなかった。 それが、MUSEXPO '77 (1977年音楽国際見本市) 参加のために立ち寄ったフロリダ州マイアミでやっていた。次の目的地ブラジルのサンパウロへ移動する予定の今日が、12日間の限定公演の初日だった。このチャンスは逃せない。同行者2人には先に行ってもらい、半日遅れの深夜便で追いかけることにして、いざ、マイアミ・ビーチ・シアター・オブ・ザ・パフォーミング・アーツへ。 演出はガワー・チャンピオン。フランク・バトラー役はハーヴ・プレスネル。映画版「不沈のモリー・ブラウン」(1964) のデビー・レイノルズ&ハーヴ・プレスネル・コンビが舞台で実現した。 ところで「アニーよ銃をとれ」は、インディアンが登場する場面が多い。アニーがインディアン・スウ族の酋長シティング・ブルの養女になるのはよいとしても、ショーの場面で、インディアンの駅馬車襲撃、騎兵隊とインディアンの戦闘などがあり、インディアンたちが痛めつけられる。 今年89歳になるアーヴィング・バーリン (作詞・作曲) は、アメリカ原住民である “インディアン” の扱い方が不適切なことに悩んでいた。彼はMGM映画「アニーよ銃をとれ」のビデオ化にも許諾を与えなかった。バーリンは脚本に手を加えるわけにはいかないので、デビー版のこの舞台では、アニーが歌う「私もインディアンよ」の場面がカットされた。 アニーとフランク以外の主な配役は、ロンドンとブロードウェイの「モスト・ハッピー・フェラ」に主演したアート・ランドがバッファロ・ビル、プロードウェイで「くたばれ! ヤンキース」「ガイズ&ドールズ」等に出ていたベテランのウィリアム・マクドナルドがチャーリー。ストレート・プレイ、映画、TV出演が多いマヌ・トゥプーがシティング・ブル酋長。「スヌーピー」「ジプシー」のリバイバル版等で知られるドン・ポッターがポーニー・ビル。 小柄なデビー・レイノルズは、ライト級のアニー・オークリーといったところ。ブロードウェイ行きを狙っているが、無理かもしれない。

デビーには1974年にブロードウェイの「アイリーン」が国内ツアーに出た時、ロサンゼルスのシュバート劇場の楽屋でインタビューしたことがあった。今日は楽屋訪問の時間が無く、マイアミ空港へ急ぐ。 ベネズエラのカラカス乗り換えの深夜便でサンパウロへ向かう。この旅はその後、ハバナからニューヨーク、サンフランシスコへと続く。
(1977.11.01.記)

ウィーンで「プロミセス・プロミセス」(アパートの鍵貸します)
・・・本田悦久 (川上博)
☆昨日はチェコ・スロヴァキアのブラティスラヴァで、スロヴァキアのオープス・レコードとの契約をまとめる仕事でハードな一日だった。今朝は5時起きで7時発のバスに乗り、ウィーンへ。60キロの距離なので1時間位で着くところだが、チェコ・スロヴァキアとオーストリア国境通過手続きに時間がかかり、ホテルに入ったのは9時を回っていた。 ウィーンではシンフォニー・トーン社のイムレ・ロージャ氏との約束があったが、急用でスイスへ出かけられたとのことで、「夕刻には戻るので、昼は劇場にご案内するように頼まれました」と、日本人の留学生がホテルで待っていてくれた。

そこでブロードウェイ・ミュージカル「プロミセス・プロミセス」のドイツ語版 ”DAS APARTMENT” を、テアター・アン・デア・ウィーンでマティネーを観ることとなった。 保険会社の若手社員チャックが、アパートの自室を会社の重役たちの不倫の場として提供し、見返りに出世していく可笑しな物語。

ジャック・レモンとシャーリー・マクレーン共演の愉快なコメディー映画「アパートの鍵貸します」(THE APARTMENT, 1960) を、ニール・サイモン脚本、バート・バカラック作曲、ハル・デイヴィッド作詞、ロバート・ムーア演出、マイケル・ベネット振付でステージ・ミュージカル化して、1968年12月1日にブロードウェイのシュバート劇場で初演、1,281回ロングランしたヒット作。 ドイツ版演出は1916年生まれのヴェテランで、かつて俳優として活躍したこともあったロルフ・クッケラ。出演はペーター・フローリッヒ (チャック)、マリアンヌ・メント (ヒロインのフラン役)、ロイス・リースス、アンジェラ・マーバッヒ、クルト・ソボルカ、他。「二度と恋はしたくない」ほか、バート・バカラック・メロディーは快く、言葉のハンディを超えて楽しめた。(1974.01.30記)

ミュージカル「ジキル&ハイド」を観て・・・本田浩子
3月7日、東京国際フォーラム・ホールCで、東宝&ホリプロ企画製作の「Jekyll & Hyde」を観る。二重人格を描いたロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850-1894) の同名小説を元に、レスリー・ブリッカスの見事な脚本、詞にフランク・ワイルドホーンが美しい数々の曲をつけて、1997年にブロードウェイ進出を果たしている。日本では、2001年、2002年、2003年、2005年、2007年と鹿賀丈史主演で大成功を収め、2012年に石丸幹二が引き継ぎ、大きな話題を呼び今回の再演に繋がった。

演出の山田和也は、2001年の初演に続いての演出だが、再演にかける情熱が感じられる意欲的な舞台作りで観客を引っ張っていく。

19世紀末のロンドンを舞台に、繰り広げられるミュージカル「ジキルとハイド」の成功は、何と言っても、元の小説にはない娼婦ルーシー(濱田めぐみ)を、ブリッカスが加えたことといえるのではないか。心優しい医師ジキルに救済を求め、ハイドに虐待されるというキャラクターが加わって、ジキルの二重人格はよりダイナミックに描かれる。

精神を病む父の為に、ジキル博士は人の善と悪を分ける薬の研究に没頭し、成功を目前として、入院患者で人体実験をしたいと願い出るが、上流階級の評議員達に拒絶されてしまう。人体実験に自分を使うと決意したジキルは、婚約者エマ(笹本玲奈)、エマの父カルー卿(今井清隆)、親友のアターソン(石川禅)、執事プール(花王おさむ)の心配をよそに研究室に閉じこもる。いよいよ、発明した薬を飲むジキル、その変貌に固唾を呑む私達観客、と、突然「自由だ!!!!!」と野太い声で雄叫びをあげて、石丸ハイドはロンドンの町に飛び出していく。

ハイドは人体実験に反対した、大司教(宮川浩)はじめ、善人顔をしながら、陰では悪事を働く評議員(塩田朋子、林アキラ、阿部裕、畠中洋、松の木天辺)を日々惨殺しては、ロンドンの町を恐怖に落とし入れる。ハイドによって、背中に酷い傷を負わされたルーシーは、その手当にジキル博士を訪ねる。ルーシーの話から、自分こそ、ハイドと気づいたジキルは、自分から残虐な悪を追い出そうと葛藤するが、もうコントロール不能になっていた。ジキルはハイドになってルーシーを殺すのではないかと不安におびえ、親友のアターソンに頼み、町から急いで逃げ出すようにと、ルーシーに伝えてもらうが間に合わず、ルーシーも又、ハイドに殺される。他の惨殺シーンと異なり、ルーシーはジキル博士の助言通り。新しく生まれ変わろうとしていただけに、彼女の歌う「A New Life」と共に、切なさが心に残る。

評議員を務めるのはいずれも一騎当千の役者ばかり、主役級が揃っているので、見応え聞き応えは充分。そして、アンサンブルも負けじと熱演、圧倒的な素晴らしい舞台となっていた。どのシーンのどの曲も印象的だったが、プロローグの後に、アンサンブルの歌う「嘘の仮面」は迫力満点で、私たちを「ジキルとハイド」の世界に、いや応なく引っ張っていき、エマとルーシーがジキルへの愛を歌う「In His Eyes・・・その目に」も忘れられない。書ききれない程、名舞台・名曲揃いの作品だが、ジキルがハイドを追い出そうと歌う「対決」のシーンは、見事という以外、形容の言葉がみつからない。ほぼ正面を向いて歌うとジキル、横を向いて腰をかがめると瞬時に荒々しいハイドとなり、その動きと共に、絶え間なく変化する歌声が、舞台を否応なく盛り上げ、観客を釘付けにする。
<写真提供: 東宝演劇部>

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