2016年4月 

  

Classic DVD Review【交響曲】

「ドヴォルザーク:交響曲全集(第1番〜第9番) / イルジー・ビエロフラーヴェク指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団」(キングインターナショナル、EUROARTS/20 72828〈DVD 5枚組〉)
 このところ大幅なメンバーの入れ替えを果たした新生チェコ・フィルの首席指揮者として2012年に10年振りの復帰を果たしたビエロアラーヴェクが早速手を付けたのが2012年から2013年にかけてのドヴォルザーク交響曲全集のDECCAに於けるレコーディングだった。これはグラモフォン・アワードのオーケストラ部門賞を獲得するなど大きな話題を呼び、日本でも第8番と第9番のカプリング盤が発売された。そしてその音は、ターリッヒ時代からの土の匂いがするようなスラヴの伝統的な音ではなく、実に鮮やかで今の時代向きの響きを持ったドヴォルザークの新しい印象を聴く人に与えた。普通であれば収録もここまでだったのだろうが、ビエロアラーヴェクは直ぐにこの全集の初めての映像化を考えたに違いない。そして驚きのスピードで実現してしまった。世界中のドヴォルザーク・ファンとしては、彼のすべての交響曲が生粋のチェコ生まれのビエロフラーヴェク指揮チェコ・フィルによって彼等の伝統あるホーム・グラウンド、ドヴォルザーク・ホールでの最新の演奏が、映像付きのライヴで楽しめることは何にも増して嬉しいことではなかろうか。そして5枚目のDVD後半には“Sketches of Dvořák”というドヴォルザーク生涯のドキュメンタリーが入っており、貴重なドヴォルザークの写真と、現在のマエストロと進歩したチェコ・フィルの今が楽しめる。(廣兼正明)

Classic DVD Review【室内楽曲 (弦楽五重奏曲)】

「モーツァルト:弦楽五重奏曲全集(第1番変ロ長調K.174、第6番変ホ長調K.614、第4番ト短調K.516、〈以上DVD1〉、第2番ハ短調K.406、第5番ニ長調K.593、第3番ハ長調K.515、〈以上DVD2〉)/ルノー・カピュソン(ヴァイオリンⅠ)、アリーナ・イブラギモヴァ、(ヴァイオリンⅡ)、ジェラール・コセ(ヴィオラⅠ)、レア・エニノ(ヴィオラⅡ)、クレメンス・ハーゲン(チェロ)」 (キングインターナショナル、BELVEDERE/BELVED 08004〈DVD 2枚組〉)
 この五重奏団のメンバーの組み合わせは正に60歳代から20歳代までの各年代を代表する各奏者の演奏が面白く聴ける。第1ヴァイオリンは今やフランスを代表する1976生まれのルノー・キャプソン、第2ヴァイオリンは1985年生まれ、ロシア出身の女性若手演奏家でバロック・ヴァイオリンをも得意とするアリーナ・イブラギモヴァ、第1ヴィオラはフランス生まれのソリスト、室内楽奏者として余りにも良く知られた1948生まれの名手ジェラール・コセ、第2ヴィオラは1991年フランス・パリ生まれの女性ヴィオリストで今井信子をはじめ、タベア・ツィンマーマン、キム・カシュカシャン、そして今回のメンバーであるチェロ、クレメンス・ハーゲンの姉、ヴェロニカ・ハーゲン等に師事した若手のホープ、レア・エニノである。最後にチェロは1966年ザルツブルク生まれのクレメンス・ハーゲン。彼はハーゲン兄弟の末っ子であり、その音楽性は絶品である。
 彼等の演奏を聴いてみると、元気溌剌のルノー・キャプソンがやはりリーダーとして見事な統率力を発揮しており、チェロのクレメンスは頼りがいのある音で低音部をしっかりと守り、最年長のジェラール・コセは流石に落ち着いた素晴らしい演奏を聴かせてくれる。この3人の創り出す年期の入った音楽に後の若い2人も決して先輩たちに負けない若さと情熱で音楽を色づけしており、この6曲のモーツァルトの演奏に元気と楽しさの素晴らしい効果をもたらしている。(廣兼正明)

Classic CONCERT Review【室内楽(弦楽四重奏)】

「マツオコンサート クァルテット・アルパ」(2月28日、よみうり大手町ホール)
 松尾学術振興財団の助成によるコンサート。クァルテット・アルパは第1ヴァイオリン小川響子、第2ヴァイオリン戸原直、ヴィオラ古賀郁音、チェロ伊東裕により2013年東京藝大で結成。現在はサントリーホール室内楽アカデミー第三期フェローとして活動中。
 プログラムはハイドン:弦楽四重奏曲第2番「冗談」、シューベルト:弦楽四重奏曲第12番「断章」、ヤナーチェク:弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」、ブラームス:弦楽四重奏曲第2番。
 印象は「真っ白なキャンバスに色鮮やかな絵を描いていくようなスケールが大きいクァルテット」。特にヤナーチェクが素晴らしかった。奏者一人一人が大きく羽ばたくように大胆に音楽をつくっていく。トルストイのクロイツェル・ソナタに霊感を受けたという作品の悲劇的側面や最終楽章でのカタルシスが激しく表現され、スクリーンに映し出される物語を見るような気がした。ただ第4楽章はそれが走り過ぎ制御不能になった面もあった。若さの勢いというものでそれも良しとすべきだろう。
 ハイドンは、よく歌い均衡がとれていた。第2楽章のトリオで小川がポルタメントをかけて弾くのがウィーン風で面白かった。
 シューベルトとブラームスは誠実に真摯に演奏されたが、何か足りない。聴いていて心が奪われることが少ない。これらの名作を説得力でもって聴かせるのは一流の弦楽四重奏団にも難しい。シューベルトの歌心や、憧れや儚い希望、悲しみなどの深い情感が充分に表現されていないのではと感じた。ブラームスでは、主題の裏に隠された意味を探るということかもしれない。口で言うのは簡単だが、奏者たちにとってはたやすく解決できる課題ではない。クァルテット・アルパのこれからの健闘を祈りたい。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オペラ】


ヤナーチェク「イェヌーファ」(3月2日、新国立劇場オペラパレス)
 このオペラの筋書きは少し形を変えれば誰にでもあてはまる人間の心理と行動を鋭く突いている。男女の愛と打算だけではなく、介護疲れから起こる悲劇や、いじめ、相続をめぐる家族の対立など、人が自己中心的にならないという保証はどこにもない。
 しかし、オペラが最後に救済の音楽と共に、イェヌーファとラツァが手を取り合って暗い闇に向かって歩いていく結末は、ひとときの安らぎをもたらす。演出のクリストフ・ロイは、結末はユートピアとも一つの現実的な可能性なのか決めかねる、イェヌーファとラツァの可能性を共に体験したいと言う。今回の白と黒のシンプルな舞台、現代風の衣裳とともに、ロイの意図には全面的に賛成できる。答えは自分(たち)が探すしかない。
 ヤナーチェクの音楽の真髄を余すところなく引き出した指揮者のトマーシュ・ハヌスに最大のブラヴォを送りたい。緻密で繊細で、時に大胆。クライマックスでの息を呑むような休止の緊張感。歌手と合唱への的確な指示ときめ細やかに寄り添う指揮は素晴らしかった。オーケストラは東京交響楽団。
 この夜はイェヌーファ役のミヒャエラ・カウネの歌唱がひとつ抜きんでており、コステルニチカのジェニファー・ラーモア、ラツァのヴィル・ハルトマンがそれに次いだ。ブリヤ家の女主人ハンナ・シュヴァルツも出番が少ないものの大きな存在感があった。
 新国立劇場の演目の中では、2012年の「ピーター・グライムズ」と並んで強く印象付けられるオペラになった。(長谷川京介)

写真:撮影:寺司 正彦/提供:新国立劇場

Classic CONCERT Review【オーケストラ】


「作曲家の肖像」シリーズVol.106(最終回)<日本>(3月5日、東京芸術劇場コンサートホール)
 大野和士指揮、東京都交響楽団による武満徹、柴田南雄、池辺晋一郎の作品を集めたコンサート。三者三様、作風の違いが際立つ内容だった。
 武満徹「冬」(1971)はティンパニの上におかれた仏具のりん(鈴)が柔らかなマレットで鳴らされ、打楽器、弦、金管が冬の自然を思わせる鋭い響きを加える。7分が非常に長く感じた。
 柴田南雄「遊楽」(1977)はトーンクラスター風の音の塊で始まるが、途中から30人のヴァイオリン奏者たちが一人、また一人と立ち上がりステージ前に出て自由に弾く。奏者たちは楽しそうにソロを弾いていた。
 池辺晋一郎の「交響曲第9番 ソプラノ、バリトンとオーケストラのために」(2013)は作曲家の70歳バースデーコンサートのために書かれた。池辺は大野とのプレトークで第9を合唱つきにするのは不遜、大好きな詩人長田弘の詩に曲をつけようと思ったとのこと。
 この交響曲は「3・11」の衝撃を受け、「大自然と個」をテーマにしたと池辺が言うように、長田弘の自然や人間を歌う詩が選ばれている。幸田浩子と宮本益光による歌はほとんどレチタティーヴォのようであり、マイクを使用した語りもある。オーケストラのみの楽章は3つあるが、それらは劇の間奏曲のように聞こえる。
 聴き終えた後、詩が音楽より強いという印象を持った。それだけ長田の詩が持つリズムや抑揚が強烈で、その世界が広大だということなのか、それとも池辺は長田の世界をよく引き出したと言うべきなのだろうか。(長谷川京介)

写真:堀田力丸

Classic CONCERT Review【室内楽(弦楽五重奏)】

「ペーター・ブック&ロータス・カルテット」(3月7日、武蔵野市民文化会館小ホール)
 ロータス・カルテットは1992年結成。シュトゥットガルトで学び、世界で活躍している。今回はメロス弦楽四重奏団の創設者で彼らを指導するペーター・ブックをセカンド・チェロに招いた。
 ブックは驚くべき音楽の大きさと深みを持っており、特に後半の「シューベルト:弦楽五重奏曲ハ長調」では土台をがっしりと支え、ロータス・カルテットは彼の手のひらで踊っているような印象さえ受ける。ロータスの演奏も充分美しく音楽的なのだが、ブックと較べるとまだ浅く感じる。
 第1楽章第2主題のバックでブックはピチカートをつま弾くが、一つ一つの音に深みと柔らかさがあり、香気が漂ってくる。その音があまりにも深く美しいのでブックの奏でるチェロに耳が持って行かれてしまう。
 第2楽章アダージョでは、ロータス・カルテットもブックと互角にやり合う力を見せた。不安な雰囲気に変わる中間部から第1部が再現するまでは演奏の頂点であり、「天国的」と言うほかない高みに達した。第3楽章スケルツォのトリオの不気味さはシューベルトの孤独感が色濃く出ていた。
  前半の「ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調≪クロイツェル≫(弦楽五重奏版)」(編曲者匿名)は、オリジナルが持つヴァイオリンとピアノの競い合いではなく合奏が重視されるためか、シンフォニーを聴いているような面白さはあったが、やや単調に聞こえた。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ラドミル・エリシュカ 札幌交響楽団 東京公演2016」(3月8日、サントリーホール)
 エリシュカはチャイコフスキーの交響曲第4番ではがっちりとした構造を保ち、ゆったりとしたテンポで堂々と進める。ロシアの指揮者を思わせる質実剛健な演奏は、札響の少し荒削りな音と相まって最近のスマートなオーケストラの音に慣れた耳には新鮮だった。
 冒頭のファンファーレが再現する第1楽章展開部や再現部、コーダの盛り上がりはすさまじいものがあった。一方、第2楽章は情感に満ち、オーボエとファゴットのソロも見事だった。第3楽章のピチカートのリズムと音色も味わいがあった。札響とエリシュカが一体となった熱い演奏は第4楽章で最高潮となり、会場は沸いた。
札響は1曲目スメタナ「シャールカ」(「わが祖国」より)では弦がざらついており、総奏も音が団子状態になっていたが、2曲目ドヴォルザークの弦楽セレナード第4楽章ラルゲットから響きが透明になり音に柔らかさが出てきた。その状態がチャイコフスキーでも維持された。
 エリシュカと札響の深い信頼と愛が演奏ぶりや表情、仕草さから伝わってくる。幸せな気持ちになるコンサートだった。(長谷川京介)

写真:浦野俊之

Classic CONCERT Review【オーケストラ(宗教曲)】

「聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団 J.S.バッハ《マタイ受難曲》」(3月12日、ミューザ川崎シンフォニーホール)
 おだやかな春の日差しの中で聴くような「マタイ受難曲」だった。受難の悲劇は甘い包みにくるまれ、速めのテンポで展開していく。冒頭のイエスが十字架を背負う姿も、第2部イエスの死のあとの天変地異も、歌い手や奏者たちが天国で演じているような心地よさがある。アルトのマリー=クロード・シャピュイの歌うアリアは甘く官能的でさえある。
 指揮は今年1月ゲオルク・クリストフ・ビラーの後を継いでトーマスカントールに就任したゴットホルト・シュヴァルツ。悔悛と悔恨の悲痛さや、血と涙の生々しさは薄いが、こういう「マタイ受難曲」があってもいいのではないかと思う。ニューヨーク・タイムズの批評家が、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータは様々な解釈を受け入れる余白が大きいと書いていたが、「マタイ受難曲」にもそれが当てはまるのではないだろうか。
 福音史家はベンジャミン・ブルンスが体調不良で降りたため、マルティン・ペッツォルトがテノールパートと二役を受け持った。前夜も歌っているためか、高音が厳しく、音程も定まらないところがあった。第38a曲、イエスを知らないと嘘をついたペトロが外に出て激しく泣く場面も感情が伝わってこなかったが、全体的には美しい声と劇的な表現力を駆使し、代役をよく務めていた。
 キリストのバス、クラウス・ヘーガーは温かく深々とした声が素晴らしかった。ソプラノのシビッラ・ルーベンスも繊細で美しい感動的な歌唱だった。バスのフローリアン・ベッシュも好演。独唱陣は粒がそろっていた。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「上岡敏之 新日本フィル」(3月16日、サントリーホール)
 上岡敏之が新日本フィル次期音楽監督に決まった後の最初のコンサート。期待に胸ふくらませて臨んだが、素晴らしい演奏で最高の船出となった。心からお祝いしたい。
 香りが立ちのぼってくるようなシューベルト交響曲第1番冒頭を聴いた瞬間、新日本フィルは変わったと思った。楽員の表情からしてこれまでとは違う。信頼できる支柱ができ、安心して演奏に集中できているように見える。上岡は新日本フィルの美質である繊細で柔らかな弦と木管の響きを最大限生かし、「ウィーンのシューベルト」と呼びたくなるような細やかなニュアンスに満ちた演奏を聴かせた。 
 後半のマーラー交響曲第1番「巨人」は全く新鮮で、これまで聴いたことのない響きや表情、バランスがいたるところにでてくる衝撃的な演奏だった。
 たとえば第1楽章練習番号12の展開部に入って高弦の持続音の中でチェロがスラーで出す旋律はポルタメントをめいっぱいかけ、音がずり上がったり下がったりして異様な雰囲気を醸し出す。ヴィオラも同じように弾かせる。
 第2楽章「力強く、しかし速すぎず」冒頭では他の指揮者なら低音弦に元気いっぱいにリズムを刻ませるところを上岡はソットヴォーチェを思わせる柔らかな響きをつくる。
 第3楽章冒頭のコントラバスのソロによる童謡「フレール・ジャック」(英語の歌は「アーユースリーピング」)の旋律はピアノというよりピアニニッシモくらいの弱さで弾かせる。
 このように聴き手の意表を突くような演奏を次々と聴かせるのはいったいどういう意図があるのか上岡に聞いてみたいところだ。上岡はきっとスコアを子細に検討し作曲家が意図したとおりに演奏したと答えるだろうが。
 第4楽章は特別に変わったところはなかったように思うが、再現部第2主題で弱音器をつけた弦の表情の繊細さと透明感は素晴らしく、ここから「最高度の力で」の終結部につなげる変化は劇的だった。
 白熱した演奏を聴きながら、上岡が何を伝えたかったのか考えていた。自分なりの結論は「マーラーの青春の光と影、そして野心」というものだった。上岡の振幅の大きな指揮から、野心に満ちた、しかし傷つきやすい神経を抱えたマーラーの姿が浮かんでくるようだった。
 今回の演奏会は上岡敏之と新日本フィルの新しい時代を告げる記念すべきものとして長く記憶に残ると思う。(長谷川京介)

写真:武藤章

Classic CONCERT Review【ピアノ】

「ミシェル・ベロフ ピアノ・リサイタル」(3月17日、すみだトリフォニーホール)
 フォーレ、ラヴェル、ドビュッシーを前半に、後半はフランクとメシアンというフランス・ピアノ音楽の王道プログラム。ベロフの演奏は微妙なタッチと柔らかなペダルによる繊細で色彩感に満ちたもので、その中に情感やユーモアを入れ込んでくる。特にラヴェルとドビュッシーは心よりも感覚に訴える部分が多い。
 ラヴェル「水の戯れ」のキラキラと光を反射するような響きに魅せられた。ドビュッシー「子供の領分」は大人から見た子供の遊び心がユーモアとともに表現されていた。中では第4曲「雪が踊る」の動きある描写が印象的だった。フォーレの「ノクターン」第1番と第6番はショパンに重なるところがある曲であり、その意味ではもう少しロマン的情感があってもよかったのではないかと思った。
 後半のフランク「前奏曲、コラールとフーガ」ではミスタッチもあったが、メシアン「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」からの2曲が圧倒的で、この夜のハイライトだった。第19番「われは眠る、されど心は目覚め」の休止の深さ。第20番「愛の教会の眼差し」のめくるめく色彩感と<神の主題>を何度も繰り返しながら喜びを爆発させるコーダは壮大な世界を創りだした。
 アンコールの2曲はドビュッシー。「沈める寺」はペダルを最大限使い、スケールが大きな演奏だった。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「大友直人指揮 群馬交響楽団東京公演」(3月20日、すみだトリフォニーホール)
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
メシアン:トゥーランガリラ交響曲(オンド・マルトノ:原田節、ピアノ:児玉桃)
 この2曲、質は違うがともに難曲である。「牧神」はもちろんフルート独奏、そしてオケの多彩で繊細な響き。また物語をどう表現するか。演奏者は技術的にも精神的にも抑制されたコントロールが必要だ。残念ながら、これらいずれの点でも十分な満足は得られなかった。演奏会冒頭は、演奏者はまだ気持ちが高揚しておらず、その楽器も会場の空気に慣れていないからかもしれない。しかも、これは10分程度の作品である。
 休憩後のメシアンは大オーケストラが演奏する20世紀の超大作。第2次世界大戦中メシアンは捕虜となり生死をさまよった。生き延びた戦後に生きる喜びを爆発させた作品である。エロチック(渡辺和彦プログラム・ノート)な愛の讃歌を表現しているとも解釈される。演奏時間は80分。群響としては初演だそうだ。大友のチャレンジ精神に脱帽である。
さて、演奏が始まって最初に圧倒されたのは「さすが、児玉桃のメシアンだ」である。児玉はメシアンを身体の隅々にまで吸収し、メシアンと同化していると思わせるものだった。第7楽章では少しオケから出過ぎかなと感じたが、第9楽章でのアンサンブルは快い音の渦が耳に心地よく完璧と言えるものだった。もちろん、オンド・マルトノの原田節はこの楽器で世界的な名声を博しているだけのことがあった。この電子楽器の魅力を十分に味合わせてくれた。
 この作品には20世紀音楽のあらゆる要素、無調、ジャズ、打楽器的効果、短いフレーズの繰り返し(ミニマル的)、そして電子音などが取り入れられた。これらの表現にオケが成功していたのは第5楽章「星たちの血の喜び」、第6楽章「愛の眠りの庭」、そして上記の第9楽章を経て第10楽章「終曲」あたりか。全曲を通して印象に残ったのは打楽器だった。メシアンのリズムの面白さを堪能させてくれた。総じて、一部に表現や響きの明晰さが欠けるところがなかったわけではないが、それでも聴衆は曲とオーケストラの圧倒的なパワーに脱帽したのであった。(石多正男)

Classic CONCERT Review【オーケストラ(ピアノ協奏曲)】

「高関健 東京シティ・フィル ブルックナー交響曲第4番《ロマンティック》」(3月23日、東京芸術劇場コンサートホール)
 ブルックナーの交響曲は絶対音楽であると聴き手に恂恂と説くように、情感や雰囲気に流されることなく、着実に音楽を積み重ねていく。高関健と東京シティ・フィルのブルックナーはこういう印象だった。第2楽章と終楽章は集中力が発揮され、バランスもよく緻密だが、全体を聴いたあとどこか中途半端ですっきりしないものが残る。高関の本当の狙いがよくわからなかった。
 どうしてこういう演奏になったのだろうか。本人のツィッターでは「練習中のABr4ではスコアだけを拠り所に、ともすれば慣習や伝聞によって不当に歪められた作品を、本来の形に従って作曲家の意図に基づく表現を目指そうと試みている。(中略)作品にマッチしたスタイルを獲得する困難に直面している。」とあった。
 最後の言葉が気になる。リハーサルで高関自身が「これだ」という確信を得る前に、コンサートを迎えてしまったのではないか。それが聴き手にはよくわからない演奏に感じられたのではないだろうか。高関の誠実な取り組みに水を差すつもりは毛頭ないし、むしろ高関を高く評価している私には今回の演奏が腑に落ちなかったので失礼ながらこう推測してみた。 
 前半のモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を弾いた山元香那子はきれいな音の持ち主で、特に高音が美しい。ウィーンで学んだことで身に付けた響きだろうか。しかしそればかりが続くと単調に感じる。もう少し陰影やダイナミックの幅があればと感じた。高関と東京シティ・フィルはていねいなバックで、山元のピアノもオーケストラとぴったり合っていた。(長谷川京介)

写真:(c)Masahide Sato