2013年11月 

  

ジョー山中の愛娘、「マイ山中」アルバムとライブデビュー。・・・池野 徹
 時の過ぎゆくままにというが、「フラワー・トラヴェリン・バンド」や「人間の証明」の歌手、米日の「W's」ジョー山中とスウエーデン人のファッション界のスーパーモデルだったエリカの衝撃的な結婚披露パーティで知り合って以来、レイとマイが誕生し、東京世田谷で過ごし、その成長を見て来た私にとって、2011年の驚愕のガンによるジョーとの別れを経てマイちゃんが歌手デビューするというのは、願っていた事でもあるが、ついに2013年、マイちゃん自身、若くても人生の哀歓を越えて歌う事への決意したのは、嬉しいことである。

 坂本裕介プロデュースの'70〜80年代のスタンダードをカヴァーしたコンピレーションアルバム「Sweet Breeze」がVictorより7月にリリースされ、好評にこたえ、「Sweet Breeze II」が10月にリリースされた。そして、初のライブも赤坂で行った。この中でマイ山中は、ジョー山中の「人間の証明」を、ジョーのバラードとは違うが、ボサノバ調で歌っている。他に"No Woman, No Cry"も歌っている。そのヴォイスには、ジョーの片鱗が垣間見えるのが印象的だ。しかしこのカバーアルバムは、70-80年代の美しい名曲を再確認できるアルバムだ。巷に溢れている歌手たちの歌は二の次のキャピキャピのガールグループの中にあって、曲もスタンダードな名曲ではあるが、歌によるリラクゼーションを感じるのは何故だろうか。今必要な歌の世界のように思う。マイ山中は、その発声法、表現力を歌い込む事でアップして行くだろう。マイ山中のジョーに負けないステージ度胸と何か優しさを感じる「ウオームヴォイス」は大切にして行きたい。

 マイ山中は若くしてそのバックに、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、日本を経て学校も生活も友人も多く、アフリカへ飢餓の子供たちのへのボランティア活動もしている。そのバイリンガルは、国際的に証明されている。世界に発信できる新しいエンタテイナーの可能性を秘めている。

(Photo by Tohru IKENO)


ブロードウェイ・ミュージカル「エニシング・ゴーズ」、
17年ぶりの日本再演・・・・・・ 本田悦久 (川上 博)

 コール・ポーター (1891-1964) 作詞・作曲の傑作ミュージカル「エニシング・ゴーズ」が、ブロードウェイのアルヴィン劇場で初演されたのは、今から79年前の1934年。主演は、ブロードウェイの女王と謳われたエセル・マーマンだった。

 日本版の初演は1989年8月の日生劇場で、宮本亜門の演出・振付、大地真央、植木等、川崎麻世等の出演だった。その後は、1990年7月に近鉄劇場、1991年7月に日生劇場、8月に中日劇場で、スタッフ、キャストは初演とほぼ同じ顔ぶれで上演された。その後は1996年1月に青山劇場。謝珠栄の演出・振付で、大地真央、左とん平、石井一孝、笹野高史、太川陽介、鈴木ほのか、戸田恵子他の出演陣だった。

 それから17年9か月ぶりに登場した最新版が帝劇で上演され、10月9日に観劇した。
<ストーリー> ナイト・クラブの歌手リノ (瀬奈じゅん) は、ニューヨークのウォール街で働くビリー (田代万里生) に夢中で「豪華客船で一緒にロンドンへ行かない?」とビリーを誘う。一方ビリーは社交界の華、ホープ (すみれ) に夢中。リノの誘いは断ったものの、ホープが婚約中の英国紳士イヴリン (吉野圭吾) と船で挙式することを知って、がっくり。ロンドンへ向かうビリーの上司のホイット氏 (大澄賢也) が港に現れ、ビリーに留守中ウォール街できちんと仕事をするように言い置く。ホープのことが忘れられないビリーは、動転してしまい、気がつくと船に乗り込んでいた。神父に変装したギャングのムーンフェイス (鹿賀丈史)も、ギャング仲間の情婦アーマ (玉置成実) と偽名で乗船する。ビリーに気づいたリノは「私を追って来てくれたの?」と大喜びだが、ビリーの身分違いのホープへの切ないばかりの恋心を知り、ビリーを応援しようと気持ちを切り替える。もう一人、ムーンフェイス も出港に間に合わなかったギャングの大物の乗船チケットをビリーに渡して、密航者のビリーを助ける。ホープを射止めようと奮闘するビリー、娘を婚約者のイヴリンと早く結婚させようとするホープの母イヴァンジェリン (保坂知寿)。文字通りの三人三様と目的も手段も異なる乗船者揃い。船旅は事件続出のハチャメチャ、これぞまさにタイトルAnything Goes (何でもあり) の楽しい展開で、観ていてハラハラ、ドキドキ、山田和也の新台本と巧みな演出と当代トップのミュージカル・スターが揃っての熱演で、舞台は輝いていた。

 コール・ポーターのミュージカル・ナンバーは“I GET A KICK OUT OF YOU”“YOU'RE THE TOP”“EASY TO LOVE”“FRIENDSHIP”“IT'S DE-LOVELY” “ANYTHING GOES”“BLOW, GABRIEL, BLOW” “ALL THROUGH THE NIGHT” 等、劇を離れても、アメリカン・ポピュラー・ソングのスタンダード・ナンバーとして広く歌われている。これだけの名曲を揃えたミュージカルも珍しい。

 筆者は海外では、1988年2月3日にニューヨーク、リンカーン・センターのヴィヴィアン・ボーモント劇場 (リノ役: パティ・ルポン)、1989年8月29日にロンドンのプリンス・エドワード劇場 (リノ役: イレイン・ペイジ)、1993年1月28日にベルリンのウェステンズ劇場 (リノ役: ヘレン・シュナイダー) と、3か所で観ている。
 その中で一番印象に残っているのはベルリン版。ヘレン・シュナイダーは、ドイツ系の父とロシア人の母のもと、ニューヨーク州で生まれ育ったアメリカ人で、歌手として十数枚のアルバムがアメリカで発売されていた。ミュージカル女優としては、ベルリンに招かれて「キャバレー」「エニシング・ゴーズ」等に出演し、ドイツで花開いた。
 ベルリンの「エニシング・ゴーズ」はドイツ語の翻訳上演だったが、コール・ポーターに敬意を表してか、歌はすべて英語のままだった。

<写真提供: 東宝演劇部>


想い出のアーティストたち (4)
トニー・マーティン (2)・・・・・・ 本田悦久 (川上 博)
 
 1958年秋の某日、トニー・マーティンは夫人のミュージカル女優シド・チャリースと共に初来日、帝国ホテルで初めてお会いした。

 1969年5月、赤坂のナイトクラブ出演の為に来日、その機会にLPアルバムを制作することになった。日程の余裕が無いので、5月27日、六本木のスタジオで1日に15曲を録音するという強行軍だった。オケとヴォーカルを別録したりする、その後の録音方法と違い、その当時は、歌い手はヴォーカル・ブースに入り、オーケストラの伴奏と同時録音するのが一般的で、歌手の真の力量が問われる時代だった。余談だが、当時かなり年配になっていた筈だが、全米女性を魅了したという美貌と美声のトニーは、契約書に年令を公にしないという一項目があったのが印象的だった。
  
 曲目は筆者が選んだ「港の灯」HARBOR LIGHTS、「引き潮」EBB TIDE、「美わしの夜」THE LOVELIEST NIGHT OF THE YEAR、「月の入江で」MOONLIGHT BAY、「虹を追って」I'M ALWAYS CHASING RAINBOWS、「夕陽に赤い帆」RED SAILS IN THE SUNSET、「マナクーラの月」THE MOON OF MANAKOORA、「カナダの夕陽」CANADIAN SUNSET、「アイ・サレンダー・ディア」I SURRENDER DEAR、「ア・マン・ウィザウト・ラヴ」A MAN WITHOUT LOVE、「モア」MORE、「夢で逢いましょう」I'LL SEE YOU IN MY DREAMSに、アメリカ発売を考慮したトニー側の希望で、ロシアのヒット曲を英国のメリー・ホプキンが英語で歌ってヒットした「悲しき天使」THOSE WERE THE DAYS、ミュージカル「ヘアー」の中の「アクエアリス」AQUARIUSが加わった。

 そこで一つ問題が起きた。編曲・指揮の八木正生氏の編曲がモダン過ぎてトニーには合わないという。トニー側の音楽監督センドリー氏が多少手直しすることで解決した。続いてもう一つ、楽しい問題が起きた。「日本で録音するのだから、日本曲を1曲加えようではないか」と誰かが言い出した。「それなら目下ヒット中の「ブルー・ライト・ヨコハマ」(作曲: 筒美京平、作詞: 橋本淳、唄: いしだあゆみ) が良いのでは」となり、トニーとセンドリー氏の2人で素早く英語の歌詞を書いて、BLUELIGHTS OF YOKOHAMA となった。レコーディングは深夜までかかったが、目出度く完了した。

 
 このアルバムはビクターが日本発売したほか、アメリカ、スペイン (ZAFIRO)、シンガポール (CHIANG HUAT)、フィリピン (A & W)、 台湾 (第一唱片) 等にライセンスされ、現地生産のLPやカセットが発売された。

 CD時代になって、1991年に韓国のSATURN レコードにライセンスされ、CDが製造されたが市場には出なかった。その理由は、日本曲は禁止されており、「ブルーライト・ヨコハマ」が該当するということだった。「英語で歌われているのだから、いいじゃないか」と言いたいところだが、今では考えられない、歴史のひとこまだった。(以下、次号)


このページのトップへ