2013年10月 

  

87歳 トニー・ベネット来日・・・・・・・・・・・・・鈴木道子
 アメリカのシンガー/パフォーマーの最高峰として尊敬を集めるトニー・ベネットが、9月7日、東京ジャズのステージ(東京フォーラムA)に登場した。87歳という年齢を感じさせないどころか、若い頃より更に声質も声量も増して見事な歌声で22曲、70分を歌いまくり、何度もスタンディング・オベイション。完全に聴衆を魅了した。
 まずフランク・シナトラの声が会場に流れる。「現代最高のシンガー、トニー・ベネットです」との紹介で、にこやかに手を振りながらトニー登場。ルグランの「ウォッチ・ホワット・ハップンズ」でスタートする。バックは息の合ったリー・ムジカ率いるピアノ・クォーテット。「アイ・ガット・リズム」「いそしぎ」はじめ名曲や「夢破れし並木道」などのヒット曲を次々に精力的にくりだして、「グッド・ライフ」では、レディ・ガガとのデュエット・アルバムを録音したことを宣言。歓声が飛ぶ。
 心にしみる「スマイル」ではチャップリンとのエピソードも語られたり、親しみ深い態度での短いお喋りをはさみながら、朗々と会場の隅々に響き渡る歌声と軽妙なジャズ・センスで魅了する。全員総立ちで、やはり一番の拍手喝采が鳴り止まなかったのは「霧のサンフランシスコ」。割りとさらっと歌いながらも味わい深い歌声に、みんな聴きほれる。最後はギターのみでしみじみと歌われた「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」が余韻を残しながら幕となった。

 
 
「トニー・ザ・ベスト」(ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル:SICP-30019)
 トニーは日本が好きで、公演数日前に来日して、京都で絵を描きたかったそうだが、東京でスケッチを楽しんだようだ。
 9月4日には記者会見が外国特派員協会で行われた。あなたはポピュラー・シンガー?ジャズ・シンガー?という質問に対しては、「私はエンターテイナーです」と答えた。が、ジャズへのこだわりと尊敬がにじみだし、ジャズは学校では学べないもの、瞬間音楽で、そういうセンスがないと成り立たない。昔と変わらぬ歌声の秘訣は、ベルカントの発声練習にあることも明かした。また大きな話題は、レディ・ガガとの共演アルバムを録音。来年1月にリリースするという。「レディ・ガガはエンターテイメント界のピカソという風に考えている。非常に才能にあふれている」と褒めちぎった。そして若いミュジシャンももり立てていかねばならないと、後の世代への思いも熱心に語った。一方、こういう作曲家はもう出ないだろうと、コール・ポーターを最高の作曲家にあげ、歌手ではビリー・ホリデーを最高とし、エピソードを交えて古き良き時代も振り返った。
 が、私が一番強く心に残っているのは、トニーの平和主義者の顔だった。それまではウィットを交えたり、軽やかな話しぶりだった彼だが、東日本大震災と原発問題が何度か質問されながら、来日は「心配しなかった」の一言。あとは「あらゆる戦争に反対。殺人を法的に認めるもの。戦争は時代遅れのことだと思う。戦争は最悪の人間行為だと思う」など、戦争がいかに忌むべきことであるか、命の大切さ、生きていることの美しさなどを、熱を込めて語った。
 また、葛飾北斎や日本のアートに対しても尊敬や愛を語ってくれたが、思いがけなかったのは、ファンの要請で「霧のサンフランシスコ」をひとくさり、すばらしい声で歌って聞かせたこと。会場はもう大拍手だった。そして「いい音楽は真実だね。いい音楽があれば、物ごとを前向きに考えることができるんだよ」という言葉を最後に、1時間にわたる記者会見はお開きとなった。

揃ってセルフ・カヴァー集♪〜グレン・キャンベルとジミー・ウェッブ
・・・上柴とおる

 グレン・キャンベルとジミー・ウェッブの関係はもう45年余りにもなる。グラミー賞を獲得した「恋はフェニックス」(1967年/最初に取り上げたのはジョニー・リヴァースで1966年のアルバムに収録)を書いたのが若く有能な作曲家のウェッブでヒットさせたのがセッション・ギタリストでもあったキャンベル。この曲をきっかけに二人は全米ポップ・シーンの最前線に躍り出た。以降、キャンベルはウェッブの書き下ろし作品「ウィチタ・ラインマン」(1968年)「ガルヴェストン」(1969年)「ハニー・カムバック」(1970年)を続けて歌い大ヒットを連発、全米を代表するスーパー・スターの座を築き上げることになったのだが、そんな'盟友'の新作が揃ってリリースされた。「シー・ユー・ゼア/グレン・キャンベル」と「スティル・ウィズイン・ザ・サウンド・オブ・マイ・ヴォイス/ジミー・ウェッブ」(いずれもビクターエンタテインメントより同時に発売)。
 双方ともかつての持ち歌のオン・パレード。いわゆる'セルフ・カヴァー'アルバムになっている。キャンベルはウェッブ作の「ウィチタ・ラインマン」「ガルヴェストン」「恋はフェニックス」は元よりあと「ジェントル・オン・マイ・マインド」「ヘイ・リトル・ワン」「ラインストーン・カウボーイ」など全12曲(日本盤はボーナス付きで14曲)。一方、ウェッブも代表作の一つ「マッカーサー・パーク」(1968年にリチャード・ハリス、1978年にドナ・サマーで大ヒット)など自作の14曲をそれぞれゲスト歌手と共に自ら歌っている。もっともウェッブにとってセルフ・カヴァー集は今回が初めてではなく企画としては前作に続く第2弾。「ジャスト・アクロス・ザ・リヴァー」(2010年7月:ビクター)では「ウィチタ・ラインマン(feat.ビリー・ジョエル)」「ガルベストン(feat.ルシンダ・ウィリアムス)」「恋はフェニックス(feat.グレン・キャンベル)」等を取り上げている。昨年には発掘音源(&映像)として二人が共演したライヴを収めた「In Session」(CD+DVD)も世に出された。これは四半世紀前の1988年12月のステージの模様だ。キャンベルは今年77歳、ウェッブは67歳。10歳の年の差を超えて二人は長年にわたり交友関係を深めて来た。
 そういう経緯を再認識しながら今回の二人の新作を耳にすると興味深い。キャンベルの盤は2年前の前作「Ghost On The Canvas」(日本未発売)制作時に録音されていたセッション音源を基に作られたものだそうだがシンプルな音作りの中にキャンベルのキャリアが滲み出て胸に響く仕上がり(感涙もの♪)。ウェッブ作品の素晴らしさに改めて感動させられた次第。ウェッブの方も「マッカーサー・パーク」では何とブライアン・ウィルソンを招いたり、あとカーリー・サイモン、デヴィッド・クロスビー&グラハム・ナッシュ、ジョー・コッカー、アメリカ、アート・ガーファンクルといった大御所だけではなく若手の女性歌手ルーマーまでも。個人的にはグレン・キャンベルが歌ってヒットした「ハニー・カムバック」(feat.クリス・クリストファーソン)が一番印象に残った。
 手に手をとって(?)お互いに'原点'を見つめ直そうとしているかのように思える二人の新作には感慨深いものがある。秋の夜長にじっくり聴きたい。



「スティル・ウィズイン・ザ・サウンド・
オブ・マイ・ヴォイス/J.ウェッブ」
(ビクターエンタテインメント:VICP-75109)


「シー・ユー・ゼア/G.キャンベル」
(ビクターエンタテインメント:VICP-75110)


珠玉の'猫アルバム'♪・・・・・・・・・・・上柴とおる
 
「猫と音楽の蜜月」
 当方、子供の頃から大の猫好きで家にはララとチョコという二人の女の子(三毛とキジトラ)がいる。以前は同じく猫キチ(あっ放禁用語!)の母親のために写真集もよく購入したものだが(実は自分が見たくて♪)、ご婦人方から誕生日等にいただくプレゼントも昔から'猫めくり'(日めくりカレンダー)やカード、縫いぐるみなど猫三昧♪ネット時代になってからはパソコンにへばりついて猫サイトや猫ブログ、YouTube(猫チューブ)、それにmixiやFacebookの猫コミュニティを巡回する日々を送っている(あぁ忙しい〜)。
 そんな私の小さな胸(?)をキュンキュンさせてしまったのが「猫と音楽の蜜月」(FLY HIGH RECORDS/販売=ヴィヴィドサウンド:VSCD-1746)というコンピレーション・アルバム。企画・制作の土橋一夫さんも私同様に大の猫好き♪。
 猫に関するレコードは昔からいくつか世に出されている。古く1977年には世界各国の猫の鳴き声を集めた'マニアック'なLP「ねこ その素晴らしき世界(CBSソニー)」も出ていたし、私の'愛聴盤'でもあるCDシングル「ネコの聖しこの夜/ジングルキャッツ」(1994年:ファンハウス)はホンモノの猫ちゃんたちが'持ち回り'で各パートを'歌って'いる(We Are The Worldみたいなスタイルで)。
 しかし今回の「猫と音楽の蜜月」はそういったいわゆる'企画もの'ではなくれっきとした正統派のアルバムで、日本の猫好きのミュージシャン12組が猫をテーマにした作品を持ち寄って仕上げたもの。土橋さんいわく「猫好きの、猫好きによる、猫好きのための、猫をテーマにした12曲。ネコをこよなく愛する人たちに贈る、待望のネコ・コンピ」。'猫ンピ'というわけだ。プロデューサーの土橋さんによれば「元フィフス・エヴァニュー・バンドのメンバーでアレンジャー/キーボーディストでもあるマレー・ウェインストックが2004年にリリースしたアルバム『TAILS of the CITY』に犬好きの視点から描かれた素敵な曲が収められており、また2008年には英Aceレーベルから猫をテーマに、またはタイトルにした既成曲を集めたアルバム『FELINE GROOVY』もリリースされていて大いなる影響を受け、いつか自分たちの手で猫好きのための猫コンピを作りたいと」。
 構想2年。ようやく世に出された全12曲の'猫ンピ'は一部、既存曲もあるもののほとんどがこのアルバムのための書き下ろしというのは世界的にも珍しいといえるかも。内容は (1)
夢のなかの音楽/山田稔明 (2)なかよくできれば/伊藤実華 (3)屋根裏のネコ/玉城ちはる with SE-NO (4)He's a Cat/杉 真理 (5)あたたかいひざ/港ハイライト (6)自己紹介をするよ/南波志帆 (7)N'eco Life/椎名純平 × 大石由梨香 (8)ねこのゆめ/さらさ (9)Mo・Do・Ka・Shi(cat song)/プレイタイム・ロック (10)にゃーお/uncle-jam <伊藤銀次+黒沢秀樹> (11)ロトフィは夢の中で/piano trio chou-chou (12)未来への記憶/村田和人
 ちなみに12曲目は土橋さんの作詞。どの楽曲も猫好きを自認し、その生態に精通するアーティストたちがそれぞれの持ち味を生かして猫の愛らしさ、魅力を歌詞と共にほんのり、ほんわか、さわやかに表現しており、当方も含めて猫ファンは共感しまくること必至♪。'良心的'な日本のミュージシャンたちによる手作り感覚の愛情のこもったキュートなこのコンピレーション・アルバムは心穏やかにさせてくれる癒しの作品集でもあるが、ブックレットにふんだんに配された猫ちゃんたちのあどけないカラー・フォトの数々には。。。心穏やかならず(萌え必至♪)

猫と音楽の蜜月:ブックレット表紙♪

猫と音楽の蜜月:ブックレット裏表紙♪


ルシア塩満南米ツアー・・・・・・・・・・三塚 博
 “日出る国のアルパ大使”、現地ではこのような表現で報道されている。アルパの第一人者ルシア塩満が自己のトリオを率いたパラグアイでのコンサート・ツアーを成功裡に終えて間もなく戻ってくる。
 彼女はミュージック・ペンクラブ音楽賞(平成18年度)でコンサートパフォーマンス賞を受賞、その演奏力はかねてから高く評価されてきた。またパラグアイ親善大使として両国の架け橋となって活動、しばしば訪問してはアルパを通して交流を深めている。
 「現地で演奏する機会にはいままでもずいぶん恵まれてきましたが、やはり普段気心の知れた仲間と演奏できるのが一番」という彼女の思いは強く、今回レギュラー・トリオによる初の南米ツアーとなった。同行したのが高橋マサヒロ(ギター/ケーナ)菱本幸二(ギター/サンポーニャ)の二人。
 パラグアイでのコンサートは8月21日アスンシオンの「人造りセンター」、8月23日パラグアイの第二の都市エンカルナシオンの「イタプア県立ホール」、8月25日サンタ・リタの「文化会館」の3会場。
ルシア塩満トリオのコンサートを紹介する現地abc新聞
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/artes-espectaculos/shiomitsu-actua-hoy-en-cpj-608945.html

 中南米諸国のなかでも特にアルパの人気が最も高いのがパラグアイ。その演奏スタイルはアルパ奏者を数名のギター奏者がサポートするのが一般的だ。
同じ民族楽器でもアンデス地方のケーナやサンポーニャはパラグアイ音楽には用いられない。
 それだけに今回、ケーナとサンポーニャの名手二人を加えたアルパ・トリオによる、アルパとアンデス地方の楽器とのアンサンブルが現地の聴衆の耳に新鮮に響いたようだ。
 各会場休憩を入れて2時間ほどのコンサートでは、客席からは割れんばかりの拍手が鳴りやまず、大きな収穫を得たとメンバーたちは満足げに語った。

想い出のアーティストたち (4)
トニー・マーティン (1)・・・・・・ 本田悦久 (川上 博)

 もっとも好きな女性ポピュラー・シンガーはドリス・デイだが、男性シンガーといえば、迷うことなくトニー・マーティン。張りのある豊かな声量と甘くやさしい美声に裏付けされて、情熱的に迫る表現力、情感を込めたユニークな歌いまわしに、何とも云えぬ暖かさがあり、聴く人を魅了してしまう。

 彼は1913年のクリスマスの朝、カリフォルニア州のサンフランシスコから湾をへだてたオークランドで生まれた。本名をアルヴィン・モーリス・ジュニアという。ビング・クロスビーより9才若く、フランク・シナトラより4才年上。12才頃にはサックスとクラリネットの奏法を覚え、16才でサンフランシスコのパレス・ホテルでサックスを吹いたり歌ったりしていた。1932年に「ラッキー・ストライク・アワー」の歌手として、ラジオにデビュー。夜は音楽生活、昼は勉強しようとセントメリー・カレッジに入学したが、教会のオルガンでジャズをやらかし、こちこちの神父さまを仰天させ、退学となった。1933年、シカゴのワールド・フェアに出演中、フランセス・ラングフォードと知り合い、彼女のすすめで映画に挑戦することとなる。1936年「艦隊を追って」(FOLLOW THE FLEET)、「膝にバンジョー」(BANJO ON MY KNEE) 等6作品に出演、その頃、アンソニー・マーティンと名乗っていたのを、トニー・マーティンと縮めた。1937年には「アリババ町へ行く」(ALI BABA GOES TO TOWN) 等5作品、1938年にも5作品・・・1941年にはジュディ・ガーランド、ラナ・ターナーとの「美人劇場」(ZIEGFELD GIRL)、「マルクス兄弟デパート騒動」(THE BIG STORE) と続き、映画スターとしての人気は着実に築かれていった。

 トニーのレコード初吹込は、1937年、アンソニー・マーティンの名で、ブランスウィック・レーベルから出た「マナクーラの月」(THE MOON OF MANAKOORA)。デッカに吹込んだ「ビギン・ザ・ビギン」(BEGIN THE BEGUINE)、「セプテンバー・ソング」(SEPTEMBER SONG)、「今宵君を愛す」(TONIGHT WE LOVE) 等はベスト・セラーとなった。ラジオはアンドレ・コストラネッツ楽団と「TUNE-UP TIME」(1939-40) 、「デイヴィッド・ローズ・ショウ」(1941) 等に出演、ナイトクラブでも売れっ子になったが、第2次大戦中の1942年、応召して米空軍に従軍。中国、ビルマ、インド等を転々として、4年後に除隊。1946年にMGMのオール・スター・ミュージカル映画「TILL THE CLOUDS ROLL BY」(日本未公開) で映画界にカムバック。レコードはRCAビクターから「ゼアズ・ノー・トゥマロウ」 (THERE'S NO TOMORROW)、「コムシ・コムサ」(COMME CI, COMME CA)、「ドミノ」(DOMINO) 等のヒット盤を出した。

 筆者は1950年代の高校生の頃、ラジオから流れるトニー・マーティンの「アイ・ゲット・アイデイアス」(I GET IDEASアルゼンチン・タンゴ「アディオス・ムチャーチョス」の英語版)、「キス・オブ・ファイア」(KISS OF FIREアルゼンチン・タンゴ「エル・チョクロ」の英語版)、「マイ・バンビーノ」(MY BAMBINO) 等を聞いていた。その甘く魅力的な歌声に聴き惚れ、声量豊かな独特のロマンティック・ヴォイスが素晴らしく、大好きな男性ヴォーカリストの筆頭となった。目蒲線・蒲田駅近くの馴染みのレコード店で、「夢で逢いましょう」(I'LL SEE YOU IN MY DREAMS)、「ビギン・ザ・ビギン」(BEGIN THE BEGUINE)、「マイ・バンビーノ」(MY BAMBINO)、ダイナ・ショアとデュエットの「愛の調べ」(MELODY OF LOVE) 等のレコードを買い求めた。その頃は78回転SP盤 (ビクターのS盤) の時代で、ポータブルの蓄音機で聴いていた。

 ところで、1958年 (昭和33年) に日本ビクターに入社した時、レコードはSP盤から33回転LP盤と45回転シングル盤に切り替った、画期的な時代だった。新入社員の研修で、横浜のレコード工場に行ったら、まだSPのプレス機が使われており、実際にプレス体験をさせてもらった。シェラック盤の材料を手で扱うのだが、指紋が付いたりすると、プレスされたレコードにシミが付いてNGとなる。工場ではこれに「外観不良」の印を押して、社員に安く売っていた。

 ビクターではRCAビクター原盤のポピュラーを担当していたが、アメリカでビクター、コロムビア、キャピトル、デッカ、マーキュリーといった大手以外に、マイナー・レーベルが次々と登場する時代になり、日本ビクターではドット、インペリアル、20世紀フォックス、シーコ、ヴォックス、トップ・ランクといったマイナー・レーベルを次々に契約、ビクター・ワールド・グループとしてまとめ、洋楽陣を強化して担当することになった。その頃、ビリー・ヴォーン楽団、パット・ブーンが活躍していたドット・レコードに、RCAビクターからトニー・マーティンが移ってきた。ドット時代のトニーはビリー・ヴォーン作曲・指揮の「トゥ・ビー・アローン」(TO BE ALONE)、アルゼンチンの歌で、イタリアで大ヒットした「ラ・ノヴィア」(LA NOVIA)、「魅惑のワルツ」(FASCINATION)、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」(FLY ME TO THE MOON)、チャイコフスキーのピアノ・コンチェルト第1楽章のメロディーをフレディ・マーティンがポピュラーにアダプトした「今宵きみを愛す」(TONIGHT WE LOVE) 、ロマンティックな「港の灯」(HARBOR LIGHTS)、「夕陽に赤い帆」(RED SAILS IN THE SUNST) 等が忘れられない。(以下次号)

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