『隠さずに真実を告げよう!』『祖国のためとは言わないで!』。主役二人の最後のセリフは政治やスポーツの世界で隠ぺいや言い逃れが報じられる中、鋭いリアリティを持って聴き手の胸に突き刺さる。
ナチスへの抵抗運動の中で、逮捕・処刑されたミュンヘン大学の学生、ハンス・ショルとその妹ゾフィーを描いたウド・ツィンマーマン(1943~)の歌劇《白いバラ》の日本初演(演奏会形式)は感動を呼んだ。《白いバラ》は、抵抗運動の象徴であり、オペラのタイトルでもある。ツィンマーマンが、ヴォルフガング・ヴィラシェックの台本で、すでにあった自作を1985年に全面的に書き改めた。ヨーロッパでは頻繁に上演されている。
約1時間のオペラ。<2名の独唱者と15の器楽アンサンブルのための>と言う副題の通りの小編成だが、飯森の希望で弦は8型となった。広いサントリーホールでの増強は正解で、音量的に満足できた。
ツィンマーマンはドイツ人にとってナチスのトラウマの象徴ともいうべき「マーチ」を大胆に使い、無調やクラスターなど現代音楽の書法とともに、調性のある旋律もまじえている。歌手はセリフと歌の両方を担う。ハノーファー、フランクフルトの両州立歌劇場で17年にわたり活躍している角田祐子(かくたゆうこ、ソプラノ)のゾフィーは、高音の連続を絶叫することなく、艶やかな声で歌い上げ見事だった。ハンス役クリスティアン・ミードル(バリトン)はこのオペラを8回以上歌っており、安定した歌唱だったが、作品的にはゾフィーのセリフにインパクトがあり、角田はそれをよく担っていた。
飯森の指揮と東京交響楽団は素晴らしい集中力で、日本初演を成功に導いた。最後の言葉はゾフィーとハンスの『わたしたち絞首刑で死ぬの?それともギロチン?』という問いかけで突然終わる。同時に場内が暗転した。演出らしい演出はこれだけだったが、闇に葬られた二人の無念さが象徴され痛切だった。明かりがついたあとの拍手やブラヴォに聴衆の感動の深さがよく表れていた。
前半に、ヘンツェ「交響的侵略~マラトンの墓の上で~」(2001年初演)がフル・オーケストラで演奏された。飯森の指揮には切れ味とリズム感がもう少しあってもいいのではという印象を持った。(長谷川京介)
津留崎が記したプログラムノートにGesangvollという言葉が強調されていた。直訳的には「歌に満ちた」ということだが、訳すのは難しい。とはいえ、津留崎の演奏の本質は「器楽奏者の最大の憧れは優れた声楽家のように『歌うように』演奏することだ」という。当夜の演奏は、その言葉に違わず、全曲に歌心が満ちていた。豊かな、しかしいぶし銀を感じさせるチェロの響きは快かった。
冒頭の「アダージョとアレグロ」は、白寿ホールの響きに慣れず、特にピアノの響きがうなるようで、個々の音を聴き分けるのに苦労した。しかし、「アルペジョーネ」では小林がタッチを工夫したのか音が明瞭になった。ここで面白かったのは、ピアノが第1楽章の提示部冒頭、1回目はフォルテ気味、しかし繰り返した2回目はスタッカートを効かせたピアノで演奏していたことである。小林が意図的にしたことかどうか、筆者には分からない。生演奏ならではの面白さだった。ここでも、チェロは歌っていた。そして、弱音、またピッチカートが非常に快かった。後半の「幻想小曲集」でも同じ印象を持ったが、ピアノについては、さすが小林! ここまでは完璧な「伴奏」であった。筆者は40年以上前からリート伴奏者としての小林に親しみを覚えているので、今もって変わらぬ健在ぶりに接することができて、非常に嬉しかった。ところが、さらに楽しめたのは最後の「雨の歌」だった。この夜のプログラム4曲にチェロのオリジナル曲はなかった。それでも、まったく違和感を感じさせなかった。「雨の歌」は原曲のヴァイオリンよりも味わい深かった。ここではピアノの小林が伴奏者から共演者に変った。もちろん、ブラームスの作曲のせいでもあるだろうが、チェロを後ろから支えるのではなく、対等に前に出ている感じが、二重奏の楽しみを伝えていた。「アルペジョーネ」でも感じたが、津留崎は全曲に物語性を付与する素晴らしい才能を持っている。説得力ある話を聞かせてもらった感じである。アンコール3曲のうち2曲は原曲がリートだった。もう1曲はショパンのソナタからラルゴだったが、これらでもGesangvollが溢れていた。チェロの音の魅力に包まれた一夜だった。(石多正男)
モーツァルト「歌劇《フィガロの結婚》序曲」は、軽く弾むリズム、羽根毛のように柔らかな弦、まろやかな木管。これから楽しいオペラが始まる喜びに満ちている。この曲だけでも、ルスティオーニの類まれな才能を知ることができる。
フランチェスカ・デゴを迎えたヴォルフ=フェラーリのヴァイオリン協奏曲は、第二次大戦中、アメリカに帰国できなかったヴァイオリニスト、ギラ・バスタボのために書いた時代を超越したロマンティックな作品。演奏機会は極めて少ない。
フェラーリは40歳年下のバスタボに恋しており、第2楽章は作曲者の思いが込められているとも言われる。デゴとルスティオーニは夫婦なので、息の合ったやりとりは、恋人同士の甘い会話のようにも聞こえる。最終楽章を二人は鮮やかに盛り上げた。
後半は、R.シュトラウス「交響的幻想曲《イタリア》より」。ルスティオーニの指揮は色彩感に富み、イタリアの太陽と青い空、店先に並ぶ鮮やかな色の花々や果物が山積みになっている風景が浮かんでくる。第1曲「カンパーニャにて」のワーグナーを思わせる響きや、第2曲「ローマの廃墟にて」の重厚で入り組んだ音楽では、がっしりとした演奏も聴かせる。オーケストラの隅々まで緻密にコントロールできており、脱力した俊敏な動きから、活気に満ちた響きが生まれる。
都響からこんなに明るくフレッシュな響きを聴くのは初めてかもしれない。イタリアのスパークリング「スプマンテ」の泡が弾けるような爽やかな味わいがある。1983年生まれのルスティオーニはまだ35歳。この先どこまで伸びて行くのか本当に楽しみだ。
当初出演予定だった矢部達哉が急病のため出演できなくなり、急遽神奈川フィルのソロ・コンサートマスター﨑谷直人が代役を務めることになった。短い準備期間で、よく都響をまとめあげたものだ。ルスティオーニに負けないほど﨑谷への喝采が多かった。(長谷川京介)
写真:フランチェスカ・デゴ(c)Davide Cerati
オリジナル楽器により「春の祭典」初演当時のオーケストラを再現したこのコンサートは、今年の音楽界最大の収穫の一つであることは間違いない。
ラヴェル「ラ・ヴァルス」が最高の出来栄えだった。これほど革新的で、フランス的で、緻密で、色彩感があり、興奮を呼び覚ます演奏は、この後聴けるかどうか。最後にワルツが崩壊していくクライマックスは、濃淡とりまぜた無数の色彩で彩られた巨大な音の壁が目の前に出現するようだった。
「牧神の午後への前奏曲」のフルートに魅せられた。オーギュスト・ボンヴィル製作のフルートは宝石箱をひっくり返したような煌めきと柔らかさ、色彩感がある。コールアングレはロレー、バソンはクランポンなど、ヴィンテージな木管が奏でる音は天国的だ。
ドビュッシー「遊戯」は雲に漂うような浮遊感に包まれる。
ストラヴィンスキー「春の祭典」は出だしのバソンの響きからして、これまで聴いてきた「春の祭典」とは全く異なる。すべての楽器の音色が同様に新鮮であり、まるで初演に立ち会うような興奮を覚えた。
ロトは初演時の楽譜をできる限り復元した。プログラム解説の池原舞氏によれば、現在の版との違いは、「神聖な踊り(選ばれし者)」の最終部分ですべての楽器が強音になったあと一度弱音にもどること。一直線に上り詰めていく決定稿との大きな違いだと説明する。発見と刺激に満ちた「春の祭典」だった。
アンコールのビゼー「アルルの女」第1組曲より「アダージェット」も、「牧神」同様に、天国的な雰囲気が醸し出された。(長谷川京介)
近年、吹奏楽が盛んということもあって、金管アンサンブルが大活躍だ。とはいえ、まだまだその編成は定型化されていない。そんな中にあって、このベルギーのアンサンブルは理想的だと思った。高音を担うトランペット4本は鋭角的、しかしその動きはヴァイオリン並み、それに対するトロンボーン4本は対照的に柔らかい響きで女房的存在、それらを内側から支えるようなホルン2本に、もっとも存在感のあった低音のチューバ。音のバランス、音色のバランスはフルオーケストラにも引けを取らないくらい申し分のないものだった。すでにこの編成のアンサンブルがいくつかあるようだが、定型化されていくのではなかろうか。
さて、チューバを独奏に使った《セビリアの理髪師》、ホルン独奏のピアソラ・メドレー、トロンボーン独奏の《シンプル・ソング》、トランペット独奏の《ジェリコの戦い》など、独奏を際立たせる曲では、独奏と伴奏のバランスがとてもよかった。特に、《シンプル・ソング》での柔らかいトロンボーンに対する鋭いお茶目なトランペットの相槌、そしてこの両者を支える他の金管のバランス。聴衆の心を魅了した。独奏のない曲、例えば《ミスター・ジャムズ/バーリッジ/クラーケン》ではアンサンブル全体が充実した響きと面白さを聴かせてくれた。随所のクレッシェンドも説得力があった。さらに、どの曲でも編曲のうまさが光っていた。プログラム構成も非常に考えられたもので、前半はガブリエーリに始まる古典的なクラシック系、後半はジャズ系のいくぶん軽い楽しい感じの曲が中心だった。ベルギーの国民性が表れていたのか、北米系の金管アンサンブルとは違って生真面目さが演奏にも反映していたように思うが、これはこれで日本人には受け入れやすかったと思う。さまざまに楽しめた一夜だった。(石多正男)
藤田真央(ふじたまお)の名が脳裏にはっきりと刻み付けられた。日本の若手男性ピアニストの中で最も音楽性が高いのではないだろうか。弱冠19歳。チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」で、ここまで深く弾いた日本のピアニストを初めて聴いた気がする。若きヴィルトゥオーゾの真価を知った。
第1楽章序奏こそ、響きのきれいなピアニストという印象だったが、第2主題の表情の深さを聴いて、「ただ者ではない」とわかった。第540小節からのカデンツァもスケールが大きく素晴らしい。第2楽章のアンダンテ主題も音が繊細で美しい。何よりも驚異的だったのは第3楽章展開部最後、244小節目からユニゾンで奏でられるカデンツァの凄まじい爆発。一体小柄な藤田のどこにあれだけのパワーが残っていたのか、迫力に圧倒され唖然とした。
藤田は楽曲全体の把握が完全にできており、弛緩するところがなかった。カエターニ都響も骨太な演奏で藤田との一体感があった。藤田は2017年大学1年のとき、クララ・ハスキル国際コンクールで優勝し一躍世界の注目を浴びた。
後半は、カリンニコフ「交響曲第1番」。草の匂いのする大陸的な演奏だった。そのなかに、素晴らしい抒情性も織り込まれる。第1楽章第2主題はもっと甘く歌わせてほしいと思うが、カエターニにとっては主題のひとつに過ぎないのか、淡々と進める。しかし、第2楽章冒頭のハープとヴァイオリンによる序奏がこの上なく美しかった。ハープが永遠の時を刻むような、時空を超えた雰囲気を醸した。中間部のオーボエの東洋的メロディが別世界へ誘う。活気に満ちた第3楽章に続き、第4楽章も、喜びに満ちて進行していく。コーダの壮麗さは充実の極み。カエターニと都響は相性が良い。今後も定期的に姿を見せてほしい名指揮者だ。
1曲目はチャイコフスキー「歌劇《エフゲニー・オネーギン》よりポロネーズ」。ポロネーズ部分のフルート二重奏をレガートで演奏させたのは味があった。(長谷川京介)
写真:オレグ・カエターニ(c)Oleg Catani Official Site 藤田真央(c)Shigeto Imura