2017年1月 

  

Classic CD Review【管弦楽曲】

「ムソルグスキー:組曲《展覧会の絵》、交響詩《はげ山の一夜》、他/ グスターボ・ドゥダメル指揮、ウィーン・フィルハーモニー・管弦楽団」 (ユニバーサル ミュージック、ドイツ・グラモフォン/UCCG-1756)
  ドゥダメルの作り出すこの「展覧会の絵」には他の指揮者には決して真似のできない新鮮さが随所に溢れている。第1曲の「小人」の落ち着きのない速さ、第4曲の「ビドロ(牛車)」後半での打楽器の強奏による喧しさ、第8曲「カタコンベ」、続く「死せる言葉による死者への呼びかけ」の意外な暗さのない表情等、これは作曲したムソルグスキー、そして管弦楽にアレンジしたラヴェルのこの曲に対するイメージとは異なる演奏したドゥダメル本人がイメージした10枚の絵の印象としか言いようがない。それにしてもこの「展覧会の絵」の見事な演奏にはドゥダメルの持っている飛びぬけた音楽性への驚きを感じさせる。またウィーン・フィルも若いドゥダメルを完全に盛り立てており、彼ららしい素晴らしい演奏を披露した。
 余白に入っている同じムソルグスキーの「はげ山の一夜」も快演、最後のチャイコフスキー「白鳥の湖」の組曲2曲目のワルツではチャイコフスキーの美しさを十分に出している。(廣兼正明)

Classic CD Review

「チャイコフスキー:交響曲第4番/エリシュカ指揮・札幌交響楽団」(オフィス・ブロウチェク/DQC-1541)
 エリシュカの日本での招聘窓口となっているオフィス・ブロウチェクから2016年3月の札響定期で演奏されたチャイコフスキーの交響曲第4番の録音が出た。筆者も会場にいたが録音を聴いて当日の興奮が蘇ってきた。
 交響曲第4番はフォン・メック夫人に失敗作だったと宛てられていることがよく知られている。おそらく、循環的な主題の扱いや単一動機による構成がこれみよがしにすぎた、ということだろう。しかし、エリシュカと札響のこの演奏は、その構成的な要素をこそ前面に押し出している。歌い崩さずに緊密に動機を積み上げてゆくその演奏は、作品の豊かな内容を再確認させてくれる。多くを教えてくれる演奏だ。
 まず第一楽章。ほとんどの指揮者は、自己問答するかのように高揚と沈静を繰り返すなかでテンポを伸縮させる。しかし、スコアの指示は、第二主題(116小節)に入るところでrit.し、H-durの推移主題(134小節)から展開部へ向けてstringendo。再現部も同様。コーダに加速指示がある他はこれだけなのだ。エリシュカはこの指示を完全に守っている。音楽は展開部を挟んで明確にシンメトリーをなす。巷間言われている複雑さは消えうせる。こうすると、提示部ではCl.で奏された第二主題が再現部ではFg.に移っていること、第一主題との性格の対比の強化を調性やテンポではなく、響きによって達成していることが明瞭に見えてくる。また、多くの分析では上で推移主題と書いた134小節からは展開部と解されている。しかし実際に主題が展開される161小節から二部に分かれる展開部を完全にインテンポに保つことによって、stringendoがかかっている134小節~は第一主題を素材とした推移主題であることが明確になる。従来の演奏が恣意的にテンポを伸縮させていたがゆえに構造を見えにくくしていたことは指摘されてよかろう。
 第二楽章も、へ長調の中間部へ移行する箇所は完全にインテンポのままでダブルバーから突然切り替わる。楽譜通りだ。こうすると、パッと気分が変わるように聴こえる。なお主部へ戻る際は名残惜しそうにrit.する。それでは地味な構築性だけかというとそうではない。第三楽章の中間部でイ長調からへ長調へと転調してゆく色彩の豊かさも特筆に値する。まるで夢の中でイマジネーションを飛翔させるかのようだ。終楽章も遅めの♩=144で一点一角もおろそかにしない。戦艦がゆっくりと進行してゆくような迫力に満ちている。コーダでは第一主題が変奏されるさなかで(278小節)エリシュカは手綱を緩めわずかに加速する。そこまで禁欲を貫いたゆえにほんのわずかな加速が圧倒的な効果を発するのだ。札響が全力を振り絞って深く暗い響きを一貫させていることも印象に残る。他にも発見は多いが、まずはCDを聴いていただきたい。チャイコフスキーの一面である堅牢な構築性、また、最少の素材で最大の効果を上げようとしている理性的な側面に目を向けさせてくれる貴重な録音である。(多田圭介)

Classic CONCERT Review【協奏曲】




「ハンスイェルク・シェレンベルガー指揮 カメラータ・ザルツブルク モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全5曲演奏会 堀米ゆず子(ヴァイオリン)」(11月21日、杉並公会堂)
 カメラータ・ザルツブルクのモーツァルトは素晴らしい。奏者全員にモーツァルトの音楽が沁みこんでおり、指揮者なしでも演奏が可能と思われる。堀米ゆず子の艶やかなヴァイオリンはグァリネリ・デル・ジュス(1741年製)。堀米は全曲暗譜で弾いた。カメラータ・ザルツブルクと合わせるのを心から楽しんでいるように見えた。
 しかし堀米の美しいヴァイオリンがあまり心に訴えかけてこない。19歳の若いモーツァルトが一気に書き上げた5曲は、単純明快で、陰影や奥深さを出すのは難しい。それでも第1番から第5番まで同じ調子で弾かれるのを聴き続けるのは難しい。ソリストにとって一度に5曲を演奏するには、集中力の限度もあるのかもしれない。
 良かったのは、はじけるような生命力に満ちた第1番の第3楽章プレスト。カメラータ・ザルツブルクと堀米の息が合い、喜びが爆発するようだった。また第2番の第2楽章アンダンテの優雅な表現と、第3楽章ロンドーの軽快な演奏も素晴らしかった。(長谷川京介)

写真:堀米ゆず子(c)T.Okura

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲】


「NHK音楽祭2016 マイケル・ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団、ユジャ・ワン(ピアノ)」(11月22日、NHKホール)
 ユジャ・ワンが弾くショパンのピアノ協奏曲第2番は、青春のショパンと呼びたい清冽さがあった。第2楽章ラルゲットの細かな装飾音や弱音のひとつひとつはダイヤモンドの輝きを放つ。第2楽章から第3楽章にアタッカ(切れ目なし)で入ったのは、はっとさせる効果を生んだ。第3楽章の速いパッセージは目も覚めるように鮮やか。ユジャ・ワンは昨年より成長しているように思った。
 マイケル・ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団のブルックナー交響曲第7番は、ドイツ的重厚なブルックナーとは違い、明るく開放感に満ちていた。オーケストラは16-14-11-8-6という低弦が少ない編成だが、土台はしっかりしており、弦もきめ細かい。木管が滑らかで金管の充実ぶりは頼もしい。トーマスの指揮も力みがなく、柔軟性に富む。 
 第2楽章アダージョは、音楽に抱きかかえられ天上に運ばれていくという趣だ。ハース版だが、クライマックスではティンパニ、シンバルとトライアングルが加えられた。ワーグナー追悼のワーグナーテューバとホルンの五重奏のハーモニーは美しかった。第3楽章スケルツォは軽やかで、トリオは優しく温かい。第4楽章フィナーレの金管は気持ちいいくらい鳴る。コーダを爽やかに締めた。
 明るく流れの良い、生命力に満ちたブルックナーはサンフランシスコの乾いた空気と、抜けるような青空を思わせた。(長谷川京介)

写真:マイケル・ティルソン・トーマス:(c)Chris Wahlberg
ユジャ・ワン:(c)Kirk Edwards

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ダレル・アン指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団」(11月25日、すみだトリフォニーホール)
 才能ある若手指揮者が新日本フィルに登場した。ダレル・アン。シンガポール生まれ。2007年のブザンソン国際指揮者コンクールで優勝、聴衆賞とオーケストラ賞を併せて受賞。2014年にミューザ・サマーフェスタで読響を指揮している。今回指揮したのはヘンデル「王宮の花火の音楽」「オルガン協奏曲変ロ長調」(オルガン:室住素子)、エルガー「エニグマ変奏曲」というやや地味な作品だが、その才能は充分わかった。一言で言うと、瞬発力がありダイナミックで明解な指揮。オーケストラの各パートの分離が鮮やかで見通しが良い。弦も管もきれいに鳴らす。聴いていて、詰まったところがなく、流れがいい。彼がつくる音楽は品がよく格調高い。
 エルガー「エニグマ変奏曲」は、どの変奏も鮮やかに描き分け、「ニムロッド」は最弱音から徐々に盛り上げていく手腕に感心した。次はダレル・アンが指揮する大曲をぜひ聴きたい。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団 マーラー:交響曲第9番」(11月27日、サントリーホール)
 ヤンソンスのマーラー交響曲第9番を何と形容すべきか。楽章により印象がずいぶん違った。第1楽章は「愛のマーラー」。ヴァイオリンの響きが女性的と言えるほど優しく繊細。金管が咆哮するクライマックスは抑制気味であり、完璧なバランスを保つ。第2楽章は「ユーモアのマーラー」。バイエルン放送響の木管や金管の名手たちの演奏を楽しんだ。ここまでは、緻密だが、優秀で信頼できるドイツ製品のように、欠陥のない完成された演奏というもの。
 ところが、第3楽章ロンド・ブルレスケ、アレグロ・アッサイから、曲想が大きな要素とはいえ、変化が起きた。トランペットがソロを吹いたあと、「大きな感動をもって」と書かれたあたりから、より積極的、男性的になり、激しい感情をぶつけるようになっていく。眠っていたものが目覚め、本領を発揮したようだ。最後の総奏はステージ上で閃光が光り爆発が起きたような衝撃が走る。
 そして第4楽章アダージョ。冒頭の第1、第2ヴァイオリンによる旋律と、それに続く弦の総奏による主題を聴いたとたん涙が溢れた。奏者ひとりひとりの音が浮かび上がり、全部が集まって重層的で立体的な響きとなる。シルクの感触のなめらかさと、人間的な温かさがある。そこには音楽だけがあった。時間は止まったように感じる。
 最大の衝撃は、もう一か所あった。コーダの最後に近い部分、170小節目の休止だ。心臓の鼓動が一時止まったことをマーラーが表したものだと確信する。あのとき、我々は一度死んだ。タクトを止めた時のヤンソンスの表情は忘れられない。死をのぞいた顔。「死に絶えるように」アダージョが終わったあと、ヤンソンスは10秒の静寂を保った。盛大な拍手とブラヴォが続いて起こり、サントリーホールで初めて見る二拍子の拍手が始まっても、感動のあまり拍手もできず、茫然としていた。(長谷川京介)

写真:(c)Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks

Classic CONCERT Review【器楽曲(ヴィオラ)】

「アントワン・タメスティ 無伴奏ヴィオラ・リサイタル」(11月28日、吉祥寺シアター)
 チェロより1オクターブ高いヴィオラは速く滑らかなフレーズがつくりやすい。タメスティが弾くバッハの無伴奏チェロ組曲は、第1番より第3番が感情豊かで良かった。ヴァイオリンより5度低いヴィオラによるバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番は、語りかけるように弾かれた。バッハではバロック弓を使った。
 20分に及ぶリゲティの無伴奏ヴィオラ・ソナタは、この日のハイライト。タメスティの豊かな表現力により、多面的な魅力を満喫した。第1楽章の微分音(微妙な調子はずれ)の不思議な雰囲気。第2楽章「ループ」の重音によるスウイング感。第3楽章「ねじれ」の奇妙な和音。第4楽章「弱音器つきプレスト」のリゲティ的リズムと、弱音器を引っ剥がして、舞台隅に投げ捨てるアクション。第5楽章「嘆き」は重音の連続だが、号泣するかと思えば、さめざめと泣くという様々な嘆きが描かれる。第6楽章「半音階的シャコンヌ」は重音の上に対位法的なメロディーが浮かび上がってくる。まとわりつくものを押しのけるようなフレーズが続き、最後に救済が来る。
 吉祥寺シアターは197席の小劇場。舞台奥の壁に前半は赤、後半は青の照明をあて、演劇的な雰囲気を醸し出した。アンコールはなかったが、ソロ・リサイタルとしては充分な内容だった。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【声楽曲】

「福田美樹子「歌う思い出」CD発売記念リサイタル」(12月2日、サントリーホール ブルーローズ)
 コロラトゥーラ・ソプラノのための作品を中心に歌う福田美樹子のCD発売記念リサイタル。ピアノ伴奏は白取晃司、フルートは十亀有子。コロラトゥーラ・ソプラノで余裕を保って音程を正確にとることは理想だが、実際には難しい。あのグルベローヴァでさえ、2011年に聴いた時は深く息を吸い込み、苦しそうに歌う場面があった。福田美樹子も、第1部は喉が温まっていないのか、ひやりとする瞬間が何度かあった。技巧的な曲よりも、弱音でゆったりと歌うフォーレ「月の光」の方が、力が抜け、音楽表現が豊かになっていた。
 しかし、第2部は見違えるように良くなった。最初のドリーブ「<鐘の歌>(若い娘はどこへ行く?)」が、この日一番の出来。コロラトゥーラの最高峰のひとつと言われる難曲の最も高い音を見事に歌った。声量も充分出ていた。また、最後に歌ったマッセの「ナイチンゲールのアリア」も、プログラム最後を飾るにふさわしいコロラトゥーラの超絶技巧を聞かせた。
 十亀有子は、フォーレ「シシリエンヌ」、福田とのアダン「ねえ、お母さん聞いてによる変奏曲」、ドビュッシー「小舟にて」で、安定したフルート演奏を披露。ピアノの白取晃司は、福田美樹子との一体感があった。(長谷川京介)

写真:(c)Chiaki Kitagawa

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「上岡敏之指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団 ロシアン・プログラム」(12月6日、サントリーホール)
 上岡敏之と新日本フィルの本格稼働が始まったことを高らかに告げる名演奏が展開された。プログラミングから、上岡が新日本フィルを育てようという意欲が伺える。どの曲もソロのパートが多く、合奏の正確さが求められるものだ。
 ストラヴィンスキー、バレエ音楽「プルチネッラ組曲」は、弦が各4人という小編成。上岡は軽く明るい小粋な指揮。コンサートマスターの崔文洙(チェムンス)を始め、各楽器間の掛け合いがうまく、アンサンブルの妙が楽しめた。
 続くチャイコフスキーのバレエ組曲「くるみ割り人形」は16型のフル編成。上岡の指揮は、躍動感があり俊敏。また綿菓子のようにソフトで柔らかい響きを創りだす。上岡がこういう洒落た味わいを新日本フィルから引き出せるのは、長年ドイツで活動した経験が生かされているのだろう。
 後半のプロコフィエフの交響曲第5番は、上岡と新日本フィルの初共演にして大成功を収めたR.シュトラウス「家庭交響曲」の名演を思いだした。各パートは持てる力を全て発揮、重層的な響きが生み出され、ゆるぎない構造を保った。
 アンコールのくるみ割り人形「パ・ド・ドゥ」を聴きながら、今夜のレベル以上の演奏を新日本フィルは続けて欲しいと思った。それが聴衆を増やし、楽員のモチベーションを高めることに結びつく。上岡敏之が描く新日本フィルのあるべき姿は、かなり高いレベルだと思う。これからの上岡&新日本フィルに期待しよう。(長谷川京介)

写真:(c)大窪道治

Classic CONCERT Review【器楽曲(ヴァイオリン)】

「イリア・グリンゴルツ パガニーニ「24のカプリース」全曲」(12月7日、武蔵野スイングホール)
 グリンゴルツの演奏は、粗いところもあるが、作品に真っ向から立ち向かって行く姿がいさぎよい。演奏は激しいが、そのアプローチがこの難曲に合っている。前半の第4番から第12番の出来が良かった。第4番の重音の正確さと迫力、第5番のアルペッジョの速い動き。トレモロが最後にピアニシシモになって終わる第6番の息を呑む緊張感。第8番冒頭の技巧的なオクターブの指の動き。第10番のトリラー。第11番中間部の速い動き。いずれも超絶技巧のオンパレードだが、それらを次々にクリアしていった。
 後半は演奏が少し滑らかになってきたが、前半の気迫と緊張感がうすれ、霊感が失われたように感じた。それでも、最後の第24番は各変奏とも力がみなぎり、聴かせどころの第9変奏の左手のピチカートも見ものだった。アンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番第3楽章アンダンテを弾いた。パガニーニの圧倒的な技術と較べると、訥々とした演奏で戸惑ったが、胸を打つものがあった。(長谷川京介)

写真:(c) Tomasz Trzebiatowsk

Classic CONCERT Review【オペラ】

「モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」(演奏会形式)ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団ほか」(12月9日、ミューザ川崎シンフォニーホール)
 これほど楽しいオペラ公演は初めてだ。舞台と客席は一体となって盛り上がった。ノットの指揮とハンマーフリューゲルはモーツァルトの躍動感と歌心を見事に表現した。6型の東京交響楽団はノン・ヴィブラート。ナチュラルトランペットとバロック・ティンパニを使用。コンサートマスターとチェロ首席はバロック弓を使った。響きは豊かで、歌手とのバランスもよい。新国立劇場合唱団(合唱指揮:三澤洋史)も演技と歌唱が素晴らしかった。
 歌手陣では、舞台監修も務めたサー・トーマス・アレン(ドン・アルフォンソ役)の存在感がすごい。最初の一声だけで、舞台に格調がもたらされる。彼のディレクションによる舞台は本当に生き生きとして楽しい。
 他の歌手も世界の檜舞台で活躍する実力者が揃った。フェルランド役のショーン・マゼイがアレック・シュレイダーに、フィオルディリージ役のミア・パーションが急病のためヴィクトリヤ・カミンスカイテに替わったが、二人とも代役の務めを立派に果たした。リハーサルに飛び込みで間に合ったというほど急な出演のカミンスカイテは、歌も演技も心がこもり、第2幕のフェルランドの求愛を退ける長大なアリアは迫真的で、深い感動を与えた。マルクス・ウェルバ(グリエルモ役)は実に素晴らしい歌手だ。フェルランドを慰める第2幕のアリアをほれぼれする声で歌い切った。マイテ・ボーモン(ドラベッラ役)も安定している。お茶目な雰囲気がかわいらしいヴァレンティナ・ファルカス(デスピーナ役)ははまり役。演技の楽しさは最高で、第2幕最初のアリアも素晴らしかった。今年のオペラ公演の中でも筆頭に挙げたい名演だった。(長谷川京介)

写真:(c)ミューザ川崎シンフォニーホール

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第302回定期演奏会 広上淳一指揮 東京オペラシティ公演」(12月10日)
ベルリオーズ:序曲「海賊」
プーランク:バレエ組曲「牝鹿」
ベルリオーズ:「イタリアのハロルド」作品16(ヴィオラ独奏 川本嘉子)

 冒頭の「海賊」からしてオケの魅力に圧倒された。金管や木管、また打楽器の各セクションそれぞれの豊かな、メリハリの効いた響きが良かった。特にティンパニが印象に残った。「牝鹿」はロシア・バレエ団のプロデューサー、ディアギレフの委嘱でストラヴィンスキーの「プルチネラ」と同じく新古典主義の傾向を示す作品だが、ストラヴィンスキーとは違ってフランス人プーランクのユーモアを聴かせてくれた。特にマズルカがよかった。これはバレエ曲で標題音楽である。広上はフランスもの、そして標題音楽の描写に素晴らしい能力を発揮していた。後半の「イタリアのハロルド」も標題音楽である。「海賊」のオケの豊かな響き、そして「牝鹿」の自然描写、色彩感の素晴らしい表現力がここでも感じられた。川本のヴィオラの優しい響きがこれに合っていた。第2楽章の「巡礼の行進」はコントラバスの巡礼たちの歩みとヴィオラのしずかなアルペジョがとても素敵だった。第3楽章のセレナードもよかった。総じて各楽章の性格付けが的確だった。とても気持ち良い午後を過ごさせてもらった。(石多正男)

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲】


「イーヴォ・ポゴレリッチ(ピアノ)、オレグ・カエターニ指揮 読売日本交響楽団」(12月13日、サントリーホール)
 
ポゴレリッチが弾くラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が後半に置かれたが、結果的にその曲順がよかった。アンコールに第2楽章をまるごと弾いてくれたのだから。ラフマニノフは、どういう演奏になるのか興味津々だったが、予想通り遅い部分はあるものの、オーケストラとはある程度テンポを合わせていく。演奏時間は37分ほどだった。通常より4、5分遅いくらいで、異常な遅さと言うわけではない。しかし、ピアノソロになるとゆったりとした演奏になるので遅く感じられる。
 ポゴレリッチの他のピアニストにはないデフォルメも、曲本来の形を破壊することはなく、こういう弾き方も可能であり、作曲者も認めるのでは、と納得できるものがあった。ロマン性が濃厚になり、大河の流れのような雄大さがあった。カエターニ読響の演奏は、重厚であると同時に、弦は肌理が非常に細やかで、金管、木管のソロも素晴らしく、ラフマニノフの音楽を堪能できた。カエターニと読響のポゴレリッチをよく理解したバックがあったからこそ、絢爛豪華で説得力のある演奏が実現したのだと思う。ただ、第2楽章中間部でのポゴレリッチの演奏にはどこか不安げなもの、奥の見えない暗黒部分があり、そうしたところが不思議な魅力にもなっていた。アンコールの第2楽章は、本番よりさらに細やかな表情になっており、聴きものだった。開演前の舞台で一人ピアノを奏でている姿や、譜めくりを同行、譜面を見ながら弾く姿もポゴレリッチの個性、独自の世界を感じさせる。
 前半のボロディンの交響曲第2番は、ロシア的な雰囲気が充満していた。第3楽章アンダンテの主題を吹いた日橋辰朗のホルンが光を放っていた。ほかにムソルグスキー(ショスタコーヴィチ編)歌劇「ホヴァンチチナ」“ペルシャの女奴隷たちの踊り”も演奏された。(長谷川京介)

写真:ポゴレリッチ(c) Malcolm Crowthers
カエターニ(c)Oleg Catani Official Web Site

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ヤクブ・フルシャ指揮 東京都交響楽団 マーラー交響曲第1番「巨人」ほか」(12月13日、東京芸術劇場コンサートホール)
 
マーラーと同じボヘミア生まれのフルシャにとって、交響曲第1番「巨人」は特別な作品であり、バンベルク交響楽団の首席指揮者就任記念演奏会でも指揮した。この曲の情熱、苦悩、純真さを愛してやまないとフルシャは語る。都響との2年ぶりの共演となった演奏は目が覚めるような明晰さと緻密さを持っていた。
 第1楽章冒頭の弦のA音を聴き、『今まさにそこに新しい音楽が生まれている』という感覚を覚えた。第3楽章冒頭のコントラバスは、これまで聞いたことのない繊細な響き。中間部の「さすらう若人の歌」の旋律は、この世のものとは思えないニュアンスが浮かび上がる。最弱音から第4楽章にアタッカで入るときの切れ味はフルシャならでは。第4楽章も音の混濁はなく、各パートがきれいに聞こえる。「精力的に」「大いに粗暴に」とそれぞれ指示されたクライマックスもバランスを崩さず力強さを維持。第2主題も緊張感を保ち、感傷に陥らない。「最高度の力で」からコーダまでは、強靭であり、最強音も混濁なくコントロールされていた。「フルシャのコンサートは聞き逃せない」と実感させる名演だった。
 前半は、チェコ・フィルの史上最年少コンサートマスターを昨年まで務めたヨゼフ・シュパチェクをソリストに招いたドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲。
 美音であることは確かだが、第1楽章はやや表面的で、オーケストラとも合っておらず、ちぐはぐな印象があった。第2楽章後半からオーケストラと一体感がでて、第3楽章は盛り上がった。アンコールのイザイ「ヴァイオリン・ソナタ第2番第4楽章」も繊細だった。正直なところ、ソリストにしては少し線が細いと思う。(長谷川京介)

写真:(c)東京都交響楽団

Classic CONCERT Review【ピアノ】

「今川映美子 パリゆかりの作曲家たちVol.Ⅱ〜Variations〜」(12月14日、東京文化会館小ホール)
 
今川映美子は、2015年よりシリーズコンサート「今川映美子ピアノリサイタル〜パリゆかりの作曲家たちVol.Ⅰ」を開催し、今回は二回目。会 場に人が溢れ、この若いピアニストに聴衆がどんなに大きな期待を抱いているかがわかる。Vol.Ⅰを聴いたが、今川は自分の感じ方の微妙さを慈しむように弾いていた。一年過ぎた今でも、私の心の中に記憶として残っている。
今回は、ラモー、モーツァルト、C.シューマン、モンポウ、フランク、フォーレであり、偉大な作曲家が多く手がけた変奏曲のプログラムである。プログラムの前 半ではモーツァルトがよく、今川の音量は豊富ではなく、音質も決して華美ではないが、感覚的な面でいえば禁欲的と思える感じであり、その事がモーツァルトにふさわしい。「デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲」は、一つ一つの変奏の変化を誠実丁寧に表現し、豊かに歌うメロディー、そして柔らかく弾むリズム等、まるで体 温に暖められているような感じであった。多彩、変化に富んだこの変奏曲の名曲を、今川映美子は粉飾せずに、自然な形で聴衆に語り尽くす。彼女の洞察力の豊かさ を示す演奏であった。  
 プログラムの後半では、フランクの「前奏曲、フーガと変奏曲」が印象に残った。アレグロ・マ・ノン・トロッポのフーガは、四声であり、対位法の楽想を弾くこと は難しい。今川はすっきりした洗練さまでに高め、フランクが求めていた音楽的的息吹のような世界を、聴衆に自然な形で伝えていた。次回のコンサートでは彼女はどのようなテーマを選ぶのであろうか。今後の活躍が楽しみである。(藤村貴彦)

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲】

「アンサンブル・レゾナンツ 初来日公演」(12月15日、東京文化会館小ホール)
 
この団体は一人一人の技量が飛びぬけている。今回は、元北ドイツ放送響の首席トランペット奏者イエルーン・ベルワルツと、ジュネーヴ国際、ランパル国際ほか入賞のフルート奏者、瀬尾和紀をソリストに迎えた。
 最初のC.P.E.バッハ(大バッハの次男)のフルート協奏曲イ長調は、アンサンブル・レゾナンツの活気ある演奏に乗って、瀬尾和紀が木製フルートで快適な音楽を奏でた。曲調なのか演奏のせいなのか、少し単調に感じられるところもあった。続く、細川俊夫の「トランペットと弦楽、打楽器のための 旅VII」はベルワルツに捧げられ、2005年に初演された。ミュートを2種使う。マウスピースを外して吹くなどの特殊奏法もある。最後の風を思わせる息を吹き出す音が印象的だった。
 メインのバッハ「ゴールドベルク変奏曲」は、シトコヴェツキーの編曲にアンサンブル・レゾナンツが手を加えたもの。シトコヴェツキー版はチェンバロが入るが、レゾナンツ版は弦楽のみ。変奏ごとに、編成をさまざまに変える様子が楽しい。第1変奏は全員、第2変奏は第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン各1、第5変奏はクァルテット、第8変奏はコントラバス以外全員、第9変奏はヴァイオリン2にチェロ、第13変奏はヴァイオリン、ヴィオラ、チェロといった具合。対旋律やカノンの旋律の動きが、ピアノ以上にはっきりわかることが弦楽アンサンブル版の面白さでもある。第30変奏のクオドリペットは全員が参加、柔らかな響きが温かい雰囲気を生んでいた。
 アンサンブル・レゾナンツはドイツ、ハンブルクを拠点に、世界で活躍。1994年若い音楽家により創設。伝統と現代音楽の枠を超え、革新的なプログラムを展開している。(長谷川京介)

写真:アンサンブル・レゾナンツfacebookより

Classic CONCERT Review【器楽曲(ピアノ)】

「ゲルハルト・オピッツ シューマン×ブラームス連続演奏会 第2回」(12月16日、東京オペラシティコンサートホール)
 
後半のブラームスを聴くまで、オピッツをつかみきれなかった。オピッツの演奏は、正統的であり職人のように生真面目だ。しかし前半のシューマンは、正直面白くない。「森の情景」は曲ごとに変化があるのでまだよいが、ソナタ第1番は立派だが、どこから入ったらいいのか戸惑う。
 後半はブラームス「3つの間奏曲」から始まったが、甘さはどこにもなく、感傷も感じられない。渋い演奏だ。続いてブラームスのピアノ・ソナタ第1番を聴く。聴いて浮かんだイメージは、「孤高の彫刻家が人里離れた家で一人ノミをふるっている」というもの。聴き手をはねつけるかのように音を積み上げていく。オピッツはペダルを多用する。そのため音は常に残響を伴う。残響の多いホールなので、音は拡散する。そういう響きで、情感のあまり感じられない演奏を聴くとのは、どこかつらいものがある。しかし第4楽章はものすごい迫力があった。あの突然の変化、爆発はいったい何だったのか。それまで積み重ねてきたものが、ついに堰を切って流れ出たのか、あるいは、ピークを最後にもってくるように考えていたのか。第4楽章は感動した。心が動かされた。なぜこれが最初から出ないのか不思議だ。初めてオピッツを聴いた浅学の身としては、まだ謎が多いピアニストだ。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【ピアノ】

「ミュージック・イン・スタイル 岩崎淑シリーズVol.39 〜ピアノ・デュオ〜」(12月17日、東京文化会館小ホール)
 
岩崎淑のミュージック・イン・スタイルも今年で39回であり、月日の流れの速さを感じる昨今である。岩崎淑のコンサートで常に感じることは、彼女の中の内面には、積み重ねてきた音楽的想念があり、それを豊かな音にのせて、大胆積極的に表現してゆくことである。歳を感じさせない一種の清朗感ともゆうべき表現が、コンサート会場の中に漂う。二台のピアノの公演は久しぶりとのことだが、今回は2010年、第二回高松国際ピアノコンクールで優勝した、アレクサンドル・ヤコブレフ。
 ヤコブレフの風貌と弾き方は、岩崎祝に共通するところが感じられ、優れた音楽をひたすら誠実に追求する人だけの持ちうる容姿と一致する一体感をなしていたように思う。両者の演奏している姿を見ているだけでも楽しめ、勿論、聴いていても充実感があり、聴きがいがあったことは云うまでもない。
 プログラムの前半はモーツァルトの「ピアノソナタ第16番」と、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲〜2台のピアノのための〜」である。2曲とも正直に云ってピアノ二台で聴くのは初めてであったが、特にブラームスが印象に残った。この曲はオーケストラでは何度も聴いたことはあるが、元々は二台のピアノのために作曲されたという。音色の好みや音楽の作りが、岩崎とヤコブレフが共通しているようで、確実な手ごたえを持って聴衆に訴えていく。一つ一つの変奏曲がきめ細やかに表現されていたらである。
 プログラムの後半は、アレンスキーの「2台のピアノのための組曲 第4番」とラフマニノフの「2台のピアノのための組曲 第2番」。聴き手をひきつけた演奏であったことは記す必要もないであろう。(藤村貴彦)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「アヌ・タリ指揮 東京フィルハーモニー交響楽団 第九特別演奏会」(12月18日、サントリーホール)
 
アヌ・タリはエストニア出身の女性指揮者。小柄で金髪をポニーテールでまとめた美女だが、音楽はダイナミック、筋肉質で引き締まっている。速めのテンポで、フレーズは短くつなぎ、緊張感を保って音楽をすすめていく。東京フィルも各奏者が積極的な演奏ぶりを見せた。中ではホルンが素晴らしい。東京オペラシンガーズの合唱は分厚く、圧倒的だった。ソリストは、小川里美(ソプラノ)、向野由美子(アルト)、宮里直樹(テノール)、上江隼人(バリトン)。
 アヌ・タリは330小節の合唱によるvor Gottのフェルマータを短く切る。指揮者によっては思い切り伸ばすところだが、スパッと断ち切った。また合唱による二重フーガの後半を思い切ってリタルダンドさせ、テンポを落とすなど、随所にこだわりのある指揮を展開。プレスティシモのコーダも壮大にまとめ上げた。一見おとなしい指揮と、実際に生まれるダイナミックな音楽の落差に驚きつつ、彼女の確かな手腕に脱帽するほかなかった。
 第九の前に、アヌ・タリの母国エストニアの作曲家、エッレル(1887-1970)の「夜明け」が演奏された。雄大でロマンティック、民族的な背景も感じられる。今回聴く機会を得たのはありがたい。(長谷川京介)

写真:(c)Kaupo Kikkas

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ヤクブ・フルシャ 東京都交響楽団 ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ほか」(12月19日、東京文化会館)
 
ショスタコーヴィチの交響曲第10番は、デジタルの精密機器のように、細部まで描き分けた演奏だった。今年聴いたノット東響の静謐と激情の対比、ロジェストヴェンスキー読響の重戦車の行進のような重い演奏とはまったく異なるアプローチ。フルシャが目指したものは巨大な建築物のようなショスタコーヴィチでもなく、また激情にかられ、皮肉や諧謔のスパイスをいっぱい効かせたショスタコーヴィチでもない。純音楽的に、素直に緻密に作品を再構築しようとしたのではないだろうか。
 第1楽章冒頭のコントラバスも、それほど重く鳴らさない。展開部のクライマックスは興奮を呼び起こすものではない。コーダの静謐さが印象深い。第2楽章アレグロは、全体が結晶のように緻密な響きとなっており、派手さや威圧感はない。第3楽章のエルミーラ・ナジーロヴァの音型のホルンソロは、遠くから響いて来るような弱音が印象的だ。第4楽章は、ピアニッシモから、いきなりフォルティシモに変わるダイナミックの変化が新鮮だった。骨太のダイナミックなショスタコーヴィチとは対極にある演奏だが、こういう解釈もあるのだという説得力がある演奏だった。終わった後、フルシャがコンサートマスターの四方恭子をはじめ、首席奏者一人一人に握手を求めに行ったのは、印象的だった。
 前半のマルティヌーの交響曲第5番は、丁寧な指揮ぶり。国際マルティヌー協会の会長でもあるフルシャは、2年前にも都響とのオール・マルティヌー・プログラムで名演を聞かせた。ただその時聴いた交響曲第4番の変化の多い曲想と較べ、第5番は同じ音型の繰り返しが多く、やや単調に感じた。しかし静謐な序奏から、同じリズムの繰り返しで高揚していく第3楽章のエネルギーは素晴らしかった。(長谷川京介)

写真:(c)東京都交響楽団

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「マルクス・シュテンツ指揮 読売日本交響楽団 ベートーヴェン第九」(12月20日、サントリーホール)
 
シュテンツの音楽センスの良さに瞠目。読響がヨーロッパのオーケストラに変身したようだった。ヴァイオリンは透明感があり、中低音弦は乾いた良い響きになり、木管は豊かにブレンドされる。指揮はダイナミックだが、隅々まで目が行き届いており、どのフレーズも新鮮に響く。テンポは全体に速めだが、極端な速さではない。
 新国立劇場合唱団が素晴らしかった。シュテンツはリハーサルで、ディクションなど細かく指示したとのことだが、それ以前に、合唱指揮の三澤洋史の指導が生きた。プログラムのインタビューで三澤が語ったように、全員が同じように完璧な音程とリズムで歌うのではなく、団員一人一人が自分の解釈を持つ「玉虫色の響き」を目指したことが、奥行きのある柔らかい、限りなく豊かな合唱となって結実した。ソリストは、アガ・ミコライ(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、ディヴィッド・バット・フィリップ(テノール)、妻屋秀和(バス)。
 演奏の素晴らしかった点は次の通り。第1楽章再現部のヴィオラ、チェロ、コントラバスの懸命な演奏と響きは壮絶。第2楽章スケルツォのこれほど良い演奏はひさしぶり。弦のリズムの滑らかな動きと推進力。木管のハーモニー。休止の絶妙さ。第3楽章ヴァイオリンのノンヴィブラートの透明な響き。木管の美しいハーモニー。第4楽章コントラバスのレチタティーヴォの響き。330小節の合唱によるvor Gottを天まで届けとばかりに長く伸ばしたのは効果的。そのあとの休止は、深い意味を感じさせる。コーダのシュテンツの激しい追い込みに読響はよくついていった。聴きなれた第九だが、シュテンツ読響は、作品の新たな魅力を知らしめる名演を披露した。なお、1曲目に「エグモント」序曲も演奏されたが、こちらも緊張感に満ちていた。(長谷川京介)

写真:(c)Hans van der Woerd

Classic CONCERT Review【室内楽】

「ヴィルトゥス クリスマス コンサート」(12月24日、杉並公会堂小ホール)
 
2013年に発足したヴィルトゥスの2016年最後の締めくくりのコンサートであり、今までに蓄積された全力を傾けての演奏。ヴィルトゥスはラテン語で「男らしさ」を意味するとのことで、メンバー5人からなるタンゴ楽団である。日本流のタンゴ楽団を連想することは間違いで、本格的なアルゼンチン流のタンゴの美しさを充分に楽しませてくれた。
 メンバー5人はここでは詳しく紹介することはできないが、バンドネオン・仁詩、ヴァイオリン・木村浩司、ピアノ・須藤信一郎、コントラバス・高杉健人、ギター・田中庸介であり、ゲストにテノール・田中良和が加わった。
 どの楽器の音色が明るく澄んで爽やかであり、美しくない音でただやたらと弾きまくるタンゴ楽団ではない。田中良和が歌った「夜のタンゴ」が印象に残り、彼は最近では、戦国オペラ「本能寺が燃える」に出演を続け、様々な分野で活躍。先ず、このテノール歌手は言葉はきれいであり、表現力も巧みで、聴き手の気持ちを静かに引き付ける魅力があるように思う。全体に香りを漂わすようにしっかりと歌うが、もう少し退廃的な気分が曲によってはあっても良いような気がした。
 声楽が加わらない5重奏曲の演奏では、「心の底から」とピアソラの「フガート」が良く、5人の演奏家は音楽を積極的に作り上げ、強く表出してゆく姿勢に、彼らはタンゴの魅力を聴衆に伝える努力を懸命にしているような演奏であった。
 筆者はタンゴの実演を聴く機会も少なく、批評を記す自分は正直に云ってない。アルゼンチンやドイツの空の下で聴いているような感じで、日本でもこのようなタンゴのコンサートがもっとあっても良いと感じられたのである。タンゴのあの独特な表現の難解さをくぐり抜けて、音楽のジャンルを超え、美しい音楽がしみじみと聴こえてきたからである。ヴィルトゥスは2017年4月11日に東京・春・音楽祭に出演が決定しているとのこと。(藤村貴彦)

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