2016年8月 

  

Classic CD Review【交響曲】

「ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14 / 小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラ」(ユニバーサル ミュージック、デッカ/UCCD-1432)
 小澤が最も好んだ曲は、この幻想交響曲ではなかろうか。録音した回数も今回のサイトウ・キネン・オーケストラを含め5回目となる。最初のトロント交響楽団とは1966年にRCA(95年CD化)から、第2回目は1973年にボストン交響楽団とドイツ・グラモフォン(94年CD化)で、その後34年経った2007年、始めて手兵サイトウ・キネン・オーケストラとの松本ライヴ、そして前回2011年に行われた海外公演、サイトウ・キネン・オーケストラとのニューヨーク・カーネギー・ホールでのライヴ、そして今回松本での最新ライヴ録音である。最初の2回はアナログ時代のLPであり、後の3回(全てサイトウ・キネン・オーケストラ)はデジタルによる収録である。小澤としては恐らく4回目までのレコーディングが自分でどうしても完全に納得出来ず、今回の演奏(CD)を次世代に残すべき完璧な小澤の「幻想」として考えたのではなかろうか。
事実、今回の演奏は今までに録音された4回の演奏を完全に凌駕した素晴らしい出来映えであり、このCDには病後の疲れなど全く感じさせない小澤本来の凄いエネルギーがあふれている。とても80歳を越えようとする指揮者とは思えない。 (廣兼 正明)

Classic CD Review【交響曲・協奏曲(クラリネット)】

「ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 Op.67 《運命》、モーツァルト:クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 / 小澤征爾指揮(ベートーヴェン)、リカルド・モラレス(バセット・ホルン)、水戸室内管弦楽団」(ユニバーサル ミュージック、デッカ/UCCD-1433)
 水戸室内管弦楽団は当時水戸芸術館の館長だった音楽評論家の故・吉田秀和が、レジデンス・オーケストラの創設を提唱し、小澤征爾にメンバーの人選を依頼して1990年芸術館の開館と同時に設立された小編成の室内オーケストラである。このオーケストラの基になったのは当然の事ではあるが、いまや世界的に知られている「サイトウ・キネン・オーケストラ」と小澤が個人的にもお互いに熟知している欧米の名手たちである。そして他のプロ・オーケストラとの完全な違いは席次のないことである。例えば曲にソロ・パートがあれば演奏会の都度メンバーの誰かに決められる。それだけメンバーの質は高いと言える。さて、このCDの演奏はどうだろうか。最初の「運命」を聴いての第一印象は、これ程までに完璧なアンサンブルは今までに聴いたことがない、正に奇跡のアンサンブルとしか言いようがない。音程、音符の長さ、をはじめ、弦の刻み、その他何一つとっても全くズレも皆無、アーティキュレーション、フレージングの各奏者間の異質な動きも全く感じられない。そして小澤の創り出す美しいリズミックな音楽が、聴くものに安堵感を感じさせてくれる。今までになかった新しい“運命”の誕生である。
 後に入っているモーツァルトのクラリネット協奏曲も「運命」に劣らない名演と言えよう。その理由の一番に挙げられるのがソリストのモラレスの余りにも美しいバセット・ホルンの演奏である。その二としては指揮者なしの水戸室内管弦楽団のこれまた見事な伴奏である。ソロとの最高のマッチングを聴かせてくれる。(廣兼正明)

Classic CD Review【管弦楽曲(オムニバス)】



「アーノンクール・エターナル・コレクション:バッハ・ベスト(WPCS-13529)、バロック・ベスト(13530)、古典〜ロマン派ベスト(13531)/ニコラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(バッハ&バロック)、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス、ウィーン・フィル他(古典〜ロマン派)」(ワーナー ミュージック、ワーナー・クラシックス/WPCS -13529,13530,13531〈分売〉)
 今年3月5日、86歳で亡くなったニコラウス・アーノンクールの追悼盤である。内容は彼の得意とするレパートリー別のベスト・チョイスとも言える3枚で、カリスマ指揮者アーノンクールの全体像を充分に把握できる曲目と言って良い。手兵ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスとの息の合った演奏を初め、3枚目の古典〜ロマン派でのウィーン・フィル、ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ管、ヨーロッパ室内管との驚くべき統率力は流石アーノンクールであり、彼の創りたかった音楽がどんなものだったのかが良く分かる。
(廣兼 正明)

Classic CD Review【協奏曲・器楽曲 (ヴァイオリン)】


「ジネット・ヌヴー / ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77、ヴァイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調 Op.108 / ジネット・ヌヴー(ヴァイオリン)、ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮、西北ドイツ放送交響楽団、ジャン=ポール・ヌヴー(ピアノ)」(キングインターナショナル、Tahra/TALT 001)
「ジネット・ヌヴー / ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77 / ジネット・ヌヴー(ヴァイオリン)、ハンス・ロスバウド指揮、南西ドイツ放送交響楽団(ベートーヴェン)、ロジャー・デゾルミエール指揮、フランス国立放送管弦楽団(ブラームス)」(キングインターナショナル、Tahra/TALT 002/3)
 不世出の天才女流ヴァイオリニストと言われたフランスの至宝、ジネット・ヌヴーが1949年10月に飛行機事故で夭折して今年の10月末で67年になる。第二次世界大戦後の1948年5月に、ハンス・シュミット=イッセルシュテットと北西ドイツ放響によるブラームス:ヴァイオリン協奏曲のこのライヴ・レコーディングはフィリップスのモノラルLP時代から数多くのファンに語り継がれていた名盤である。今回フランスのターラ・レーベルで高音質のCDが復活したことはうれしい。そしてこのCDにカプリングされている翌49年9月のライヴ録音のヴァイオリン・ソナタ第3番では兄のジャン=ポール・ヌヴーが伴奏しているが、虫の知らせというか、これが又とてつもなく素晴らしい演奏なのだ。実はこのヴァイオリン・ソナタを演奏した5週間後に二人一緒にパリのオルリー空港からアメリカへの演奏旅行に旅立ったが、兄弟二人の乗った旅客機は大西洋のポルトガル領アゾレス諸島の山腹に激突、乗員乗客全員が帰らぬ人となってしまった。このときヌヴーはまだ30歳の若さだった。今生きていれば97歳となる。今このCDを聴いてみると、彼女の演奏はこのほかにも49年9月25日に収録されたハンス・ロスバウド指揮のベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲と、上記ブラームス:ヴァイオリン協奏曲の8日前の48年4月25日に行われたパリに於けるロジャー・デゾルミエール指揮、フランス国立放送管弦楽団との演奏会でのライヴ・レコーディングが入っており、どの曲をとってみても構成力に長け、美しい音色の中にも強い説得力のある完璧とも言える音楽を聴かせてくれる。(廣兼 正明)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「東京ニューシティ管弦楽団 第106回定期演奏会」(7月2日、東京芸術劇場コンサートホール)
 今回のニューシティの定期は、この楽団の音楽監督、内藤彰が指揮し、ムソルグスキー(リムスキー・コルサコフ編曲)交響詩「禿山の一夜」から始まった。ニューシティを聴いて3年近くなるが、バランスも良くなり、速めのテンポでひた押しに進めてゆく技術は素晴らしい。響きに管弦楽的エネルギーがある事もこのオーケストラの特徴ではないだろうか。ヴァイオリン部の細かな音型の処理の鮮やかさが印象に残った。
 二曲目は、アンドレ・ジョリベの「打楽器と管弦楽のための協奏曲」。独奏者は岡部亮登であり、彼は2014年第31回日本管楽器コンクールで第1位を受賞。大賞演奏会で、内閣総理大臣賞、特別大賞、東京ニューシティ管弦楽団賞も受賞しているとのこと。
 この作品は、多彩な打楽器を使用し、視覚的にも面白いが、それに加えてリズムの精妙さ、ディナーミクの細やかさ、様々な面でフランス音楽趣味の神髄をくり広げ、特に第4楽章のフィナーレでの太鼓やシンバルの強打は圧倒的であり、一度聴いたら忘れることはできない。打楽器奏者による演奏は、今まで滅多に聴く機会はなかったが岡部亮登の表現は千変万化の技巧が繰り広げられ、この協奏曲から圧倒的な効果を出していたと思う。
 プログラムの後半は、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」である。内籐彰は「悲愴」の演奏スタイルについて、プログラム・ノートに記しているが、ここではそれについて詳しく述べることはできない。内籐彰はチャイコフスキーが記したメトロノームテンポより速く演奏し、今まで聴いてきた「悲愴」とは一味違っていた。好き嫌いは別にして、内藤はどの作品にも意欲的な発想をみせる。それが内藤彰の個性である。表現の派手な外観だけを見せないところが彼の長所でもある。(藤村貴彦)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ダニエル・ハーディング 新日本フィル マーラー:交響曲第8番《千人の交響曲》」(7月4日、サントリーホール)
 ハーディングにとって、新日本フィルのミュージック・パートナーとしての最後の公演。第1部と第2部で性格が全く違う、長大な交響曲を一気に聴かせた。
 ハーディングの指揮から、その意図を推測すると、ひとつは弱音を大切にすること。ふたつに、ソリストとオーケストラのバランスに神経を使うこと。三つに、クライマックスのバランスを保ち、興奮や情感に流されないこと。四つに、メリハリをはっきりさせ、大仰な表現を避けること。これらの意図を感じた。
 新日本フィルは持てる力は全て発揮したと思う。日頃不安を感じるホルンも立派な出来。優秀な木管群も熱演。弦は、強靭さは今一歩だが、繊細さはハーディングの望み通りだろう。
 厚く繊細な合唱を聴かせた栗友会合唱団と、マーラーの交響曲でいつも完成度の高い合唱を聴かせる東京少年少女合唱隊は称賛されるべきだ。
ソリストは、法悦の教父(バリトン)のミヒャエル・ラジ、マリア崇敬の博士(テノール)のサイモン・オニール、懺悔する女(ソプラノII)ユリアーネ・バンゼが、声が良く出ていた。
 神秘の合唱のクライマックスを、速めのテンポで一気に追い込んでいくのは、いかにもハーディングらしい。オーケストラと合唱、ソリストが一体となった熱気が、ホールを威圧するようだった。
 終演後、ハーディングがスピーチを行った。5年間の思い出を話したが、中でも2011年3月11日就任記念コンサートのマーラーの交響曲第5番は忘れがたい、と語った。オーケストラと聴衆に対する感謝の気持ちを述べたのは感動的だった。カナダの友人に勧められたという、記念の「自撮り」を、オーケストラや客席をバックに行って爆笑を呼んでいた。ソロ・カーテンコールの長く、温かい拍手は、お別れにふさわしい。新日本フィルとの共演の可能性も語っていたが、しばらくはこのコンビを聴けそうもない。(長谷川京介)

写真:(c)Harald Hoffmann

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「飯守泰次郎 東京シティ・フィル ブルックナー:交響曲9番、テ・デウム」(7月5日、東京オペラシティ・コンサートホール)
 飯守泰次郎が2012年東京シティ・フィル桂冠名誉指揮者就任以来、第4番から毎年続けたブルックナー交響曲ツィクルス最終回。交響曲第9番(ノヴァーク版)は、ツィクルスの掉尾を飾る記念碑的な演奏になった。
 ブルックナーへの畏敬の思いと、その真髄を余すところなく、聴衆に届けたいという気持ちが、ひしひしと伝わってきた。神の領域の音楽としてではなく、ブルックナーと会話しながら、作曲の意図を探ろうとする演奏と言えばよいだろうか。ある意味、純音楽的で、絶対音楽的だと思った。ブルックナーに期待するものがほぼ満たされたものであった。特に感銘を受けた点を挙げたい。
 ひとつは、全曲の構成。音楽がどこに向かい、動き、流れていくのかが明解。ふたつにはフォルティシモのコントロール。全てのクライマックスは破綻がない。楽器間のバランスが崩れない。三つに、ブルックナー休止のコントロール。第1楽章展開部の突然の休止の巧みさ。四つには、第2楽章スケルツォの素晴らしさ。これほど魂を感じ、野性味を持つスケルツォを聴いたのは初めてだ。五つに、オーケストラの力演。特に金管の踏ん張り。ワーグナー・テューバが第3楽章のブルックナーが「生からの別れ」と言ったコラールで、わずかに乱れたのみ。
 先に演奏された「テ・デウム」は、テノールの福井敬が立派な歌唱だった。東京シティ・フィル・コーアの合唱は、よくまとまっているが、日本の合唱団の弱点が出た。奥行きや立体感、ピアニシモとフォルティシモの幅が狭い。
 コンサートが終わっても、かなりの数の聴衆が飯守泰次郎へのソロ・カーテンコールの拍手を続けた。ツィクルスで初めて見た光景だった。(長谷川京介)

写真:(c)東京シティ・フィル

Classic CONCERT Review【室内楽(テューバ)】

「エイスティン・ボーツヴィック テューバリサイタル」(7月5日、ルーテル市ヶ谷ホール)
 ボーツヴィックは1966年ノルウェー生まれ。ソリストとして名が知られ、テューバという楽器の多角的な可能性を追い求めているという。テューバのリサイタルを聴くことは初めての経験であった。ボーツヴィックは泰然自若とした吹きぶりであり、豊富な演奏歴と表現に寄せる彼の自信とも言うべきものが、客席にも伝わり、このテューバ奏者は筋金が通っている。
 プログラムの前半は、T.マドセンの「テューバとピアノのためのソナタ」とボーツヴィックの「テューバ協奏曲」。特に「テューバ協奏曲」は興味深い作品であり、この曲は様々な音楽様式の要素が含まれている。作品の内容については簡単に記すことは難しいが、第三楽章のジャズ風な楽想が楽しく、ボーツヴィックは技術によって音楽の整頓を示すものではない。作品に呼び起こされた彼の感性的な反応を率直に表現しているのである。ボーツヴィックの奏でるチューバの弱音も美しく、彼は丁寧に心の中の音楽的な映像を音化してゆく。
 プログラムの後半は、J.S.バッハの「メヌエットⅠ、Ⅱ」、A.ボーツヴィックの「ニューキッド」、ボーツヴィックの「きっと大丈夫」、ピアソラの「3つのタンゴ」。バッハとピアソラの作品は弦楽器や木管楽器による演奏は聴いたことがあるが、テューバは初めてである。ボーツヴィックは前半でも触れたが、音楽優先を強調するのではなく、テューバという楽器を通して彼自身を語ろうとする。このようなチューバ奏者が現れたのは大変な驚きであった。ピアノは新居由佳梨。音が美しく、ニュアンスの表出にもボーツヴィックをよく支えていた。
 日本のテューバ奏者によるソロリサイタルはいつ聴くことができるのであろうか。その日が楽しみである。(藤村貴彦)

Classic CONCERT Review【室内楽】

「ルガーノ・カルテット」(7月8日、東京文化会館小ホール)
 結成30年近いルガーノ・カルテットが6年ぶりに来日。前半の第1ヴァイオリンは木野雅之(日フィルソロ・コンサートマスター)が担当した。後半の、タマス・マイヨル(スイス・イタリアーナ管とハンガリー・ブダペスト祝祭響のコンサートマスター)よりも、音色、テクニックは上回るのではないか。
 パガニーニ弦楽四重奏曲第3番は、木野が終始カルテットをリード、第1楽章主題や第3楽章メヌエットは、歌心に満ちた艶やかな演奏で、この美しい作品の真価を表現した。第3楽章変奏での、エンリコ・バルボーニ(ヴァイオリンではフェニーチェ歌劇場第1コンサートマスター)のヴィオラも素晴らしい。
 シューマンのピアノ五重奏曲は、小森谷泉(桐朋学園大教授)がピアノを担当した。小森谷のピアノは、ドイツ・ロマン派作品の奥深い響きを醸し出すにふさわしい品格と、瑞々しさを感じた。第2楽章で、ピアノがアジタートの第2副主題を鋭く弾き始め、そこに弦が激しく絡み合う部分は迫力があった。
 後半のシューベルト、弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」は、ケミストリー(相互作用)が失われたように感じた。原因は、第1ヴァイオリンの交替のためか、奏者たちの疲労なのだろうか。マイヨルのヴァイオリンは、なりふり構わず、シューベルトに立ち向かっていく激しさがあるが、音の美しさや情感は少ない。
 チェロの山下泰資(スイス・イタリアーナ管弦楽団第1首席)の第2楽章変奏のソロを聴くと、このカルテットの弱点はチェロではないか、と思う。しかし、迫力のある第4楽章プレストでは、ルガーノ・カルテットの底力を思い知らされた。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「野平一郎指揮 オーケストラ・ニッポニカ」(7月10日、紀尾井ホール)
 正式名は「芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ」。2002年に作曲家、芥川也寸志の志を継ぐため発足したアマチュア・オーケストラで、これまで数多くの埋もれた日本の作曲家作品を紹介してきた。作曲家、ピアニストの野平一郎がミュージック・アドヴァイザーとなり、今回はその就任披露演奏会。
 演奏前に野平が「こどもの領分・反戦の願い」とタイトル付けられたプログラムについて話した。 
1.諸井三郎「こどものための小交響曲」 戦時中の1943年の作品で、当時の暗い世相が反映されているが、最後は明るい響きに転ずる。
2.間宮芳生(まみやみちお)「合唱のためのコンポジション第4番 児童合唱とオーケストラのためのコンポジション 子供の領分」(1963年) 4000曲も収集されたわらべ歌から作曲された。オーケストラはカラフル。
3.野平一郎「ある科学者の言葉 児童合唱とオーケストラのために」 2004年初めて児童合唱の曲を依頼されたとき、出会った本が「アインシュタイン150の言葉」。アインシュタインは原爆製造に協力したことを悔いているが、つぶやく言葉が生きていく上に示唆するものが多い。
4.ブリテン「シンフォニア・ダ・レクイエム」 皇紀2600年奉祝演奏会のため、日本政府がブリテンに作曲を依頼。しかし作品が祝典にふさわしくないとして演奏は拒否された。第二次世界大戦前夜を反映した暗い曲。真実の叫び、アイロニカルなものがある。
 聴き終わって、このプログラムは、よく練り上げられていると実感した。諸井とブリテンは、2曲とも暗い世相を反映しているが、最後はかすかな希望も感じさせる。児童合唱との対比が、戦争と平和の暗と明を描き分けていた。
 ニッポニカは、野平の精緻な指揮のもと、誠実な演奏を繰り広げたが、弱音の正確さが課題ではないだろうか。
 間宮、野平の作品では、すみだ少年少女合唱団と、その卒団生で構成されたコール・ジューンによる合唱(合唱指揮:甲田 潤)が素晴らしかった。会場に来ていた間宮自身が演奏後、合唱を何度も称賛していたのが印象的だった。(長谷川京介)

写真:(c)ミリオンコンサート協会

Classic CONCERT Review【オーケストラ(交響曲・協奏曲)】

「高関健指揮 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第46回ティアラこうとう定期演奏会」(7月16日、ティアラこうとう大ホール)
 ショスタコーヴィチ:「タヒチ・トロット(二人でお茶を)」
 チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(ピアノ:仲道郁代)
 ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
 「タヒチ・トロット」は原曲がアメリカのダンス音楽だが、その軽く快いノリにクラシック的な繊細さが加わったいい曲、そして演奏だった。これはアンコールでも再演された。仲道は今シーズンがデビュー30周年だが、その演奏はすでに巨匠の域に達する堂々としたものだった。高関の大オーケストラと対等に渡り合っていた。ただ、オケとピアノの表現があまりに溶け合い、対立関係が乏しかった。言い換えれば、オケの一部にピアノが入ってしまったように感じた。この点は残念だった。最後のショスタコーヴィチの第5番、これは名演だった。交響曲が4つの楽章に分かれているのは、全体は一つの曲だが、各楽章でさまざまな側面を表現するからである。この交響曲全体を一人の人間に例えるなら、第1楽章は公の場に出た時のまじめな顔、第2楽章は遊びや冗談の顔、第3楽章は家庭で安らぐ、あるいは自分を見つめる内省的な顔、第4楽章は勝負の顔である。この各楽章の性格が見事に表現されていた。また、生演奏を聴いて面白いのは視覚的に思わぬ発見があることだが、高関が腕を鋭角的直線的に振っていた箇所があった。他では丸く振っていたのと対照的だった。もちろん、それが音に反映していた。細部でもピッチカートやトレモロなどの表現に説得力があり、さまざまな点で面白かった。この日の演奏はケーブルテレビChannel Bay 10の番組「まるごとノーカット」で8月1日〜20日にほぼ毎日放送されるそうなので、筆者が感じた点を読者が追体験していただければと思う。(石多正男)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ジョナサン・ノット 東京交響楽団 ブルックナー:交響曲第8番」(7月16日、サントリーホール)
 鋭く切り立つようなブルックナーだった。スマートで知的で繊細、冷静な運びの中にも、熱く吹き上がってくるものを感じる。ノットは、ホルン、トランペット、トロンボーンが1本ずつ増強された金管の力を、とことん引き出しながら、弦楽器への指示も的確で、隙がない。盤石に築き上げられたブルックナーは、最初の一音から最後の総奏まで、緊張と集中が切れることがなく、聴き手の耳目を惹きつけ続けた。東京交響楽団も全員が集中力を発揮し、ノットとの絆の深さを見せつけた。名演と呼ぶにふさわしい。
 第1楽章出だしの、ややゆったりとしたテンポから、すでに奥の深さがある。提示部最後のホルンのソロも決まり、金管への安心感が深まる。再現部のブルックナーが「死の予告」と説明した、信号のような金管の響きは強烈。
 第2章スケルツォでは、トリオの弦楽器の繊細な響きが素晴らしかった。
 第3楽章アダージョ全体は、緻密で、緊張感に貫かれた。なかでも第47小節からチェロが奏でる引き締まった響きがよかった。
 第4楽章の結尾の、金管をはじめとするオーケストラの充実ぶりは立派で、特に最後の和音と休止の切れ味は見事だった。
 この名演に、さらに望むとすれば、第3楽章アダージョの、シンバルが二度鳴らされるフォルティシモの、一回り大きいスケール感と奥行きかもしれない。有無を言わせぬ圧倒的な迫力とまでは行かなかったから。
 フライング気味のブラヴォが、せっかくの感動を半減させてしまったことが残念だ。(長谷川京介)

写真:(c)K.Miura

Classic CONCERT Review【室内楽(チェロ)】

「イサン・エンダース J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲・全6曲リサイタル」(7月18日、武蔵野スイングホール)
 イサン・エンダースは、1988年フランクフルト・アム・マインで韓国系ドイツ人の家庭に生まれた。ミヒャエル・ザンデルリンクにチェロを学び、リン・ハレルから、大きな影響を受けた。これまで、メータ、エッシェンバッハ、チョン・ミョンフン、インバルらと共演している。
 2014年ベルリン・クラシックスから「J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全集」をリリース。そのライナーノーツで、エンダースは、すでに名盤が目白押しの中、新たなものを加えるについて悩んだ、と告白している。一方で、この組曲を、現代の感覚に合う6つの違う色で、自身の物語として語りたい」と思い、必死で練習したと書いている。そのさい、アーノンクールの言葉が背中を押してくれたという。
 『我々は演奏慣行を当然のこととして知らなければならないが、誤った純粋主義や、誤った客観性、原典に対する間違った忠実性に陥ってはならない。だからあなたたちにお願いしたい。ヴィブラートや生き生きとしたもの、主観的なものを恐れないでほしい。しかし、冷たい解釈、純粋主義、客観性、貧弱な歴史主義はぜひとも避けてほしい。』(訳:長谷川京介)
 これは、エンダースを勇気づけた。
 CDは、エンダースが言う、暗い色彩の第5、2、4番と、明るい色彩の第3、1、6番というように配列されているが、今日は番号順に演奏された。
 実際の演奏も、曲ごとの性格が明確に描き分けられていた。
第1番ト長調は、伸びやかに、気品があり、続く第2番ニ短調は、重厚で大胆なハーモニーを響かせた。第3番ハ長調は全体に晴れ晴れとした表情。第4番変ホ長調はブレーの2曲に愛嬌があった。
 第5番ハ短調だけは楽譜を広げた。重厚な雰囲気で貫かれ、中でもサラバンドの繊細さは忘れがたい。第6番ニ長調は、長い旅が終わる開放感にあふれていた。
 また一人、将来が期待できるチェリストが登場したこと、J.S.バッハの無伴奏チェロ組曲に新しい解釈が加わったことを喜びたい。
(長谷川京介)

写真:(c)Taeuk Kang

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「千葉フィルハーモニー管弦楽団 第28回サマーコンサート」(7月24日、すみだトリフォニーホール 大ホール)
 今回の千葉フィルのサマーコンサートの曲目は、メンデルスゾーン《葬送行進曲》無言歌集より 作品62-3と、マーラーの交響曲第二番「復活」であり、指揮はこの楽団の音楽監督兼常任指揮者の金子建志である。感動を誘う好演であった。金子は、今まで研究してきた成果を積極的に生かし、作曲家の書こうとする内容にひたすら肉薄する。彼の精神的な姿勢に聴衆は心から打たれたのではないだろうか。演奏が終わって会場を去るとき、聴衆の方が「金子さんはすごいわね」と語っていたのが今でも思い出される。
 内容を積極的に訴えることで、金子は更に成長したように感じられ、各楽章の表現の違いなど、緩急明暗の按配などよく練れていて、表情の描き方が多様である。特に第三楽章の狂気に似たコーダが終わり、あの第四楽章の美しいアルトの独唱が歌われる楽想では、作品の持ち味を綿密に探り、表情豊かな表現を作り上げていた。アルトの独唱は中島郁子で、正統の品格とも言うべき芸術性を備え、その美しい歌唱は忘れることができない。第五楽章は合唱も入り、今まで以上に聴き手をひきつける。この楽章ではソプラノも起用されるが、独唱者は日比野幸である。日比野幸も中島郁子同様に、歌の意味をしっかり把握し、様々に歌い分けてゆく。表現の面でも優れた能力を示していた。
 合唱団は東京オラトリオ研究会、新星合唱団、立川コーラス・アカデミー。児童合唱がオーケストラとうたう杜の歌・こども合唱団、大沢学園三鷹市立大沢代小学校合唱団であった。オーケストラ、独唱、合唱が総ががりで作り出してゆく音楽は圧巻であった。
 千葉フィルはアマオケだが、時にはプロオケにも負けないような美しい響きを出す。今後のコンサートも楽しみである。
 音楽を奏で、聴く行為はプロもアマもないような気がする。先行きの見えない今後の社会。経済的には恵まれているが、心の貧しい人は不幸であり、貧しくても心の豊かな人は幸福である。音楽を通して、すべての人に、豊かさとは何かを千葉フィルの団員の方々は伝えていってもらいたい。更なる成長を祈りたい。(藤村貴彦)