2014年12月 

  

Classic CD Review【協奏曲(ヴァイオリン)】

「J.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲集(ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 BWV1041、ヴァイオリン協奏曲 第2番 ホ長調 BWV1042、2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043、ヴァイオリン協奏曲 ト短調 BWV1056R、ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 BWV1052R、)/ジュリアーノ・カルミニョーラ(ソロ・ヴァイオリン、〈第2ソロ・ヴァイオリン=BWV1043〉)、平崎真弓(第1ソロ・ヴァイオリン=BWV1043)、コンチェルト・ケルン」(ユニバーサル ミュージック、アルヒーヴ/UCCA-1100)
 バロック・ヴァイオリンの名手カルミニョーラが初めてバッハの協奏曲を録音した。このCDには、現存する3曲のヴァイオリン協奏曲とチェンバロ協奏曲に編曲した第1番、第5番をヴァイオリン協奏曲に復元した計5曲が収録されている。カルミニョーラは例によって胸のすくような演奏を聴かせてくれる。そして彼が速い楽章での独特の効果を狙ったアーティキュレーションと緩徐楽章でのフレージングによる表現の見事さは流石と言える。尚、ドッペル・コンツェルトでは第1ソロ・ヴァイオリンをドイツ三大古楽オーケストラの1つであるコンチェルト・ケルンのコンサートマスター平崎真弓が担当し、カルミニョーラはこの曲で第2ソロ・ヴァイオリンを受け持っている。平崎のソロは名手カルミニョーラと何年も一緒に弾いているかのような完全に一致したスタイルで弾ききった。モダン楽器で聴き慣れているバッハのヴァイオリン協奏曲もバロック楽器の名手たちの演奏を聴くと、緊張感が重なって一段と身が引き締まる思いである。 (廣兼 正明)

Classic BD Review【室内楽曲(弦楽四重奏曲)】

「ベートーヴェン:弦楽四重奏曲(全16曲+大フーガ)/ ベルチャ四重奏団〈コリーナ・ベルチャ(VnⅠ)、アクセル・シャッハー(VnⅡ)、クシシュトフ・ホジェルスキー(Va)、アントワーヌ・レデルラン(Vc)〉」(キングインターナショナル、ユーロアーツ/20 72664〈BD4枚組〉)
 現在若手の弦楽四重奏団ではこのベルチャ四重奏団とアルテミス四重奏団が技術的にも音楽的にも傑出している。べルチャ四重奏団はイギリスの英国王立音楽大学、アルテミス四重奏団がドイツのリューベック音楽大学を母体として設立され、ともに日の出の勢いを持った現在を代表するクァルテットと言える存在だ。そして両クァルテットとも第1ヴァイオリンが女性であるという共通点がある。ベルチャはルーマニア出身の名手コリーナ・ベルチャ、アルテミスはラトヴィア出身のこれも名手ヴィネタ・サレイカが演奏上のリーダーであり、双方とも新鮮味を感じさせてくれる。そして今回はベルチャ四重奏団のベートーヴェン全集ブルーレイを輸入盤で視聴してみた。兎も角ベルチャの上手さは尋常ではない。大フーガを含めた全17曲をベルチャは完全に統率している、と言って差し支えない。勿論4人全員で激論を戦わせて最終的に細かい所まで決めたことは当然だろう。それにしてもベルチャ四重奏団の第1ヴァイオリンにコリーナ・ベルチャがいなかったとしたらここまで完成したクァルテットにはなっていなかったと考えられる。そしてこの若手四重奏団の技術は今後一体何処まで延びるのであろうか、大きな楽しみと共に、ここまで質が向上した室内楽を聴くことが出来ることの幸せを大いに喜びたい。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲(ピアノ)】

「ラン・ラン、 ザ・モーツァルト・アルバム、モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491、第17番 ト長調 K.453、ピアノ・ソナタ 第5番 ト長調 K.283、第4番 変ホ長調 K.282、第8番 イ短調 K.310、3つの行進曲より第1番 ハ長調 K.408/1ピアノ小品 ヘ長調 K.33bピアノのためのアレグロ ヘ長調 K.1c他 / ラン・ラン(ピアノ)、ニコラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」ソニー・ミュージックエンタテインメント、ソニー・クラシカル/SICC-30186〜7〈2枚組〉)
  ラン・ランのソニー・レーベルでの初モーツァルト・アルバム。1枚目はウィーン・ムジークフェライン・ゴルトナー・ザールでのCD用レコーディングで、ラン・ランとアーノンクール/ウィーン・フィルとの組み合わせによる第24番ハ短調(カデンツァ=リリー・クラウス/ラン・ラン)と第17番ト長調(カデンツァ=W.A.モーツァルト)の協奏曲2曲が収録されており、両曲とも演奏は可成り遅いテンポで終始する。従ってラン・ランもアーノンクールもよく歌ってはいるが矢張り遅すぎる感は否めない。しかしアーノンクールから見たら、53歳違いである孫に近い歳のラン・ランとの共演は実に微笑ましい。その上サポートしているオーケストラがウィーン・フィルであることが、ウィーンという街の長い歴史の流れを感じざるを得ない。2枚目はロンドン・ロイヤル・アルバート・ホール(ライヴ)他での録音で、ピアノ・ソナタ以下小品3曲とトルコ行進曲が収録されている。こちらのソロはかえって生き生きとしており、如何にもラン・ランらしく若々しさがあふれている。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲(ピアノ)】

「ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第16番 ト長調 Op.31,No.1、第17番 ニ短調 「テンペスト」 Op.31,No.2、第18番 変ホ長調 Op.31,No.3、第19番 ト短調 Op.49,No.1、第20番 ト長調 Op.49,No.2 / マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)」(ユニバーサル ミュージック、ドイツ・グラモフォン/UCCG-1691)
  今回発売の第17番「テンペスト」を除く、第16,18、19、20番の4曲で39年かけてポリーニのベートーヴェンのソナタ全曲録音がようやく完結、この5曲と同時に待たれていた全集アルバム(UCCG-1681/8枚組)も発売された。ベートーヴェンが約30年をかけて作り上げたピアノ・ソナタという金字塔を、ポリーニはベートーヴェンより10年多い約40年の歳月をかけて制覇したのである。すべてがライヴ録音の全集ではベートーヴェンの30年間とポリーニの39年に亘る各々の貴重な歴史が刻み込まれていると言えよう。1942年生まれのポリーニは今年72歳を迎えたが、今回の新しい5曲を聴くに付け、これが正に枯淡の境地に入った演奏で精神面の深さを如実に感じさせてくれる。しかしまだ72歳、今の時代は年寄りと言うにはまだ若い年齢なので、今後も益々活躍して欲しい演奏家の一人として、出来る限り現役で頑張って欲しいと思うのは筆者だけではないであろう。(廣兼 正明)

Classic CD Review【歌劇】

「モーツァルト:歌劇《コジ・ファン・トゥッテ》 / 〈フィオルディリージ〉=ジモーネ・ケルメス(ソプラノ)、〈ドラベッラ〉=マレーナ・エルンマン(ソプラノ)、〈グリエルモ〉=クリストファー・マルトマン(バス)、〈フェルランド〉=ケネス・ターヴァー(テノール)、〈デスピーナ〉=アンナ・カシアン(ソプラノ)、〈ドン・アルフォンソ〉=コンスタンティン・ヴォルフ(バス)、テオドール・クルレンツィス指揮、ムジカエテルナ」ソニー・ミュージックエンタテインメント、ソニー・クラシカル/SICC-30183〜5)
 ギリシャ出身の若手テオドール・クルレンツィスと手兵、ピリオド楽器オーケストラ、ムジカエテルナによるモーツァルトのダ・ポンテ3部作第2弾、「コジ・ファン・トゥッテ」が、第1弾の「フィガロの結婚」の発売5ヶ月後の今月リリースされた。クルレンツィスの演奏は、フィガロと同様にピリオド楽器独特の歯切れの良さと斬新な躍動感に満ちた明るい演奏を楽しませてくれる。そして天才クルレンツィスに鍛え抜かれた一糸乱れぬムジカエテルナの完璧なアンサンブルは、このオペラ・ブッファの価値をより大きく高めている、と言っても言い過ぎではないだろう。それ程このオーケストラは素晴らしい。言い方を変えればこの演奏の土台には先ず「ムジカエテルナ」があり、それをクルレンツィス自身が思う通りムジカエテルナを動かす所までで、既に80%が完成していると考えても良いと思う。そしてその上に6人のソリストたちが後から参加してこのオペラが100% 出来上がったと見てもあながち間違いではないように思える。尚ダ・ポンテ3部作の最後である「ドン・ジョバンニ」は来年秋にリリースされるとのことがCDケース表紙の裏面に書かれている。第2弾までを聴いたところでは、きっと素晴らしい出来上がりになるであろう。(廣兼 正明)

Classic CD Review【歌劇(アリア)】

「ヘンデル・アリア集〜影のヒーローたち / ナタリー・シュトッツマン(コントラルト&指揮)、フィリップ・ジャルスキー(カウンターテナー)、オルフェオ55」(ワーナーミュージック・ジャパン、ワーナー・クラシックス/WPCS-12878)
 フランス出身のナタリー・シュトゥッツマンは1965年生まれと言うからまだ40歳台、声楽家としても全盛期である。そして子供の頃からのピアノは兎も角として、普通では考えられないバスーン、室内楽、指揮法を学び、現在は歌手としての活動の傍ら、指揮活動に重点を移しており2009年には古楽から近代までのレパートリーを誇る「オルフェ55」と名付けた室内アンサンブルを創設し、正にスーパーウーマンと言える八面六臂の活躍をしている。このCDは彼女がこのところ考えていた、オペラなどで主役以外の光の当たらない、有名ではないが、なくてはならない脇役のアリア等、「影のヒーローたち」の素晴らしい芸術を選んで作り上げた1枚である。彼女がこれこそはと採り上げたのが、男性のカストラートや男装した女性歌手などが多いヘンデルの数多くのオペラであり、それがシュトゥッツマンの選んだ対象だった。コントラルトの声域を持つシュトゥッツマンの歌唱は、驚くべき迫力と技術で聴く者を圧倒する。(廣兼 正明)

Classic CD Review【歌劇(アリア)】

「サンクトペテルブルク〜女帝へ捧げられたアリア アライア:《愛と憎しみの力》より、ラウパッハ:《アリツェスタ》より、《ペルシアの王、シロエ》より、ダッローリオ/マドニス:《ティートの慈悲》へのプロローグ、マンフレディーニ:《カルロ・マーニョ》より、 / チェチーリア・バルトリ(メッゾ・ソプラノ)、イ・バロッキスティ指揮、ディエゴ・ファソリス 他」(ユニバーサル・ミュージック、デッカ/UCCD-9940)
 18世紀当時ロシア文明化を考え始めたロシアのピョートル大帝によってロシアに於けるオペラは幕を開けた。この時期からイタリアの多くのオペラ作曲家たちはロシアのサンクトペテルブルクを訪れるようになり、大帝の意を引き継いだ3人の女帝(アンナ・イヴァノヴナ、エリザヴェータ・ペトロヴナ、エカチェリーナ)たちによって、オペラはロシアに定着したと言われる。そして初めてロシアの宮廷作曲家に任命されたフランチェスコ・アライアのオペラ「愛と憎しみの力」はロシア音楽史上での初上演オペラとなった。そしてアライア以降、マンフレディーニ、チマローザ、ドイツ人のラウバッハたちが書いたオペラは3人の女帝から愛され、ロシアの土壌に根を張ったのである。このCD収録されているのは、当時女帝たちに捧げられたオペラのアリアを、今をときめくメッゾ・ソプラノのチェチーリア・バルトリがマリーンスキー劇場のライブラリーから探し出した、こよなく美しい多くのアリアから自ら選び出した曲である。バルトリの見事な歌唱力がこれら300年前の名曲を今の世に見事に再現してくれた。そして1つ付け加えたいのはこのCDのアルバムケースの贅沢な豪華さである。ハードコート紙に英・仏・独語別で書かれた123ページに亘る解説、関係写真多数が入り、昔のSPクラシック・レコードの豪華アルバムを連想させる装丁となっている。(廣兼 正明)

Classic CD Review【声楽曲(クリスマス)】

「3大テノールのクリスマス〜クリスマス・イン・ウィーン1999〜 / ホセ・カレーラス / プラシド・ドミンゴ / ルチアーノ・パヴァロッティ、スティーヴン・メルクリオ指揮、ウィーン交響楽団、ウィーン国立歌劇場少年少女合唱団、エリザベス・ツィーグラー合唱指揮」ソニー・ミュージックエンタテインメント、ソニー・クラシカル/SICC-30190〜1〈CD+DVD〉)
 1990年のイタリア・ローマで行われた、サッカー・ワールド・カップの前夜祭で行われたパヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラスの共演から始まった三大テノール時代は2007年のパヴァロッティの亡くなるまでの18年で幕を閉じた。そのパヴァロッティの死の8年前、1999年12月23日にウィーンのコンツェルトハウスで行われたクリスマス・ライヴが彼等の最初で最後のクリスマス・コンサートとなった。この時に収録されたものが今回初めてCD+DVDという初めての完全版として発売される。そしてこの3人が一同に会して我こそは、と歌うのだからその迫力たるや凄い。これは3人がハモる歌い方をするのではなく、3人3様に歌うわけだから当然のことだが各々がメインで歌う曲でのテンポはその曲のメイン歌手がテンポの主導権をとり、他の2人はそのテンポに合わせることとなる。だがさすがそれ程の違和感は感じさせない。このようなライヴだからクリスマスには不世出とも言えるこの3人の美声を声だけでも、そして貴重な映像をも心ゆくまで楽しんでみては如何だろう。(廣兼 正明)

Classic CD Review【声楽曲(クリスマス)】

「クリスマス・イン・ニューヨーク/ルネ・フレミング」(ユニバーサル・ミュージック、デッカ/UCCD-1407)
 メトロポリタン・オペラ等で活躍するトップ・シンガーのクリスマス・アルバム。セレブはセレブを呼ぶということか、ジャンルを超えて超大物が集まっている。ウィントン・マルサリス(トランペット)、ブラッド・メルダウ(ピアノ)、クリス・ボッティ(フリューゲルホーン)、カート・エリング、グレゴリー・ポーター(ヴォーカル)等のジャズ系ミュージシャンだけではなく、ケリー・オハラ、ルーファス・ウェインライトの名も共演者の中に見ることができる。日本でクリスマス・アルバムというと一に「ジングル・ベル」、二に「赤鼻のトナカイ」ということになろうが、ルネはあくまでも自身の声に合ったナンバーを厳選したようだ。「フー・ノウズ・ウェア・ザ・タイム・ゴーズ」、「セントラル・パーク・セレナーデ」等、“よくぞ!”といいたくなる見事な選曲。クリスマス作品ならではの華やかさに、そこはかとない渋さが加わった気持ちのいい1枚だ。(原田 和典)

Classic CONCERT Review【ã¶ëtã»】


「スーパー・ソリスト meets 新日フィル サー・ジェームス・ゴールウェイ&新日フィル」(10月19日、すみだトリフォニーホール)
 3000万枚を超えるセールスを誇るスーパー・フルート奏者、エリザベス女王から「ナイト」の称号を贈られたジェームス・ゴールウェイが16年ぶりにトリフォニーホールへ登場した。第1部は「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト:フルート協奏曲第2番 ニ長調」。アンサンブルを突き抜けて響く豊かな音色、端麗な中にも緊張感を失うことのないフレーズとフレーズの“間”に酔いしれる。長い休憩の後に短く行なわれた第2部では夫人のレディ・ジニー・ゴールウェイや日本の学生たちをステージにあげながら、「ロード・オブ・ザ・リング」、「トルコ行進曲」などを聴かせた。個人的には、この第2部は散漫な余興という感じがしたし、MCも長く、もっと第1部のような集中力を感じさせるプレイを聴きたかったというのが正直なところだが、ゴールウェイはゴールウェイなりに考えたうえで、自身の体力もシビアに見つめながら、フルート・ミュージックの多彩さをアピールしたかったのかもしれない。(原田 和典)
クレジット:(c)K.Miura

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ユベール・スダーン、桐朋学園オーケストラ」(2014年11月2日、東京オペラシティ・コンサートホール)
 桐朋のオーケストラを聴くのは1987年小澤征爾の指揮以来27年ぶり。あのときのオネゲルの交響曲第2番や、山崎伸子をソリストとしたドヴォルザークのチェロ協奏曲は今も鮮烈な記憶として残っている。
 学生オーケストラと一流指揮者の組み合わせの魅力は何だろう。砂が水を吸うように指揮者の指示を吸収し、一所懸命に演奏する学生たちのひたむきな姿と、彼らの目覚ましい成長に喜びを見出すマエストロの新鮮な演奏を聴けることや、学生たちの能力を超えた奇跡的な演奏に立ち会うことができるのも楽しみのひとつだ。
 モーツァルトのディヴェルティメントK.136は、6-6-4-3-1の小編成。ノンヴィブラートによるすっきりとした速いテンポ。スダーンはヴァイオリンの旋律線に対するヴィオラ、チェロの副旋律、和声をくっきりと浮かび上がらせ、浮き立つような活気あふれる演奏を聴かせた。
 続くモーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」は8型のオーケストラで、こちらもノンヴィブラート。第1楽章冒頭の鋭いアクセントをつけたオクターブの跳躍のエネルギー、第2楽章第2主題の小鳥がさえずるようなユーモア、第3楽章メヌエットの切れ味のある力強さ、第4楽章プレストの「フィガロの結婚」フィナーレを思わせる生き生きとした速いテンポと、雷鳴をとどろかすようなティンパニの強打が新鮮で、生命力にあふれた演奏になっていた。
 ベルリオーズの「幻想交響曲」では、スダーンの意図がオーケストラによく浸透しており、スダーンに全幅の信頼を置くオーケストラも集中力を見せた。
 弦はノンヴィブラートに近い透明感がある。旋律線を奏でるヴァイオリン群と、副旋律、和声を担当するヴィオラ、チェロ、コントラバス。これらが重層的に重なると、絹をまとったような高貴な美しい響きとなる。桐朋の弦らしい輝くようなこの音は、サイトウ・キネン・オーケストラに通じるものがある。
 第1楽章「夢想と情熱」、第2楽章「舞踏会」はこの弦の透明感のあるハーモニーに魅了された。
 第3楽章「田園の風景」でのイングリッシュ・ホルンとオーボエの応答もなかなか聴かせる。
 そして第4楽章「断頭台への行進」での金管の重心の低い、中身のしっかりと詰まった音は突き刺さるように飛んできて、コーダの集中力は相当なものがあった。桐朋の金管、特にホルンとトランペットは水準が高い。
 全体に木管も優秀で、フルートとクラリネットのソロは印象に残った。
 第5楽章「魔女の夜宴の夢」では、さすがにオーケストラに疲れとほころびが出てきた。「怒りの日」のテーマに対応するコントラバス、チェロの強調部分も更なる力強さや底力が欲しいところだ。しかし、コーダに向かう全員の集中度と音楽の高まりは、学生たち自身のふだんの実力を超え、いわば限界を突き破ったところで起こる奇跡的な瞬間だったのではないだろうか。聴き手としても思わず涙が浮かぶ瞬間だった。
 カジュアルな丸首のセーターで指揮したスダーンは、学生たちにいつもの練習のようにやろうという雰囲気をつくっていたのかもしれない。楽章間はにこやかに笑いかけ、時に肩の力を抜いてとジェスチャーを送るなど、学生たちが常にリラックスして演奏できるように気を配るマエストロは優しさにあふれていた。
 10月に桐朋学園音楽部スペシャル・ミュージック・アドバイザーに就任したユベール・スダーンから、今後桐朋の学生たちが得るものは実り多いものになるに違いない。(長谷川 京介)
写真:(c)桐朋学園大学

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「マーティン・ブラビンズ指揮、東京都交響楽団第777回定期演奏会」(2014年11月4日日曜日19時 東京芸術劇場コンサートホール)
 マーティン・ブラビンズ指揮都響のイギリス・プログラムに行く。ヴォーン・ウィリアムズ:「ノーフォーク狂詩曲第2番」(ホッガー補完版/日本初演)、ディーリアス:ヴァイオリン協奏曲(ソリスト:クロエ・ハンスリップ)、ウォルトン:交響曲第1番。
 後半のウォルトンが名演。特に第4楽章終結部に向かう二人のティンパニストを中心とする華やかな打楽器の活躍と金管群の輝かしさ、最後に二度決然と鳴らされる総奏の切れ味と充実ぶりは素晴らしく、多数のブラヴォを呼んだ。ブラビンズの指揮はオーケストラをがっしりとつかんで引き寄せるような牽引力に満ちており、自国の音楽を指揮する使命感と意欲が強く感じられた。名古屋フィルは素晴らしい指揮者を常任に迎えたものだと思う。ただ、都響としてはこの日はベストの出来ではなかった。いつもの緊密なアンサンブルが見られず、時に集中力に欠けるところがあった。昨年アンドルー・ディヴィス指揮BBC交響楽団で聴いたブリテンやヴォーン・ウィリアムズは、びくともしない鉄壁の厚い響きと輝かしさに加え、イギリス音楽の特徴のひとつであるファンタジーに満ちた表現の細やかさが出色で、それと較べると都響の道のりはまだ遠いと言わざるを得ない。
 日本初演となるヴォーン・ウィリアムズの「ノーフォーク狂詩曲第2番」(ホッガー補完版)は、民謡を取り入れたいかにもイギリスの丘陵風景が浮かんでくるような幻想性のある曲だが、そうしたニュアンスを表現するには、都響の演奏は細やかさに欠け、特に曲のクライマックスは響きが薄くなり、アンサンブルの粗さが出てしまった。
ディーリアスのヴァイオリン協奏曲を弾いたクロエ・ハンスリップのヴァイオリンはやや単調で艶やかさや甘さが不足していた。最初から最後まで同じような調子で弾くので、単一楽章で緩徐部分が多いこの作品では、聴く側は途中で集中が切れてしまう。しかし、後半のアレグレット〜ピウ・モデラートの、ヴァイオリン・ソロとしては難しい音程が続く部分はしっかりと弾けていた。アンコールのペーテルス・プラギディスの「トゥー・グラスホッパーズ」はユーモアいっぱいの楽しい小品で、聴衆の笑いを誘った。
 今回二度にわたる定期で、ヴォーン・ウィリアムズの「ノーフォーク狂詩曲」第1番と第2番、ウォルトンの2つの交響曲、ブリテンのピアノ協奏曲とディーリアスのヴァイオリン協奏曲という意欲的なプログラムを取り上げた都響の姿勢は高く評価されるべきであり、たとえ完璧ではなかったとしても、初めて接する作品も多いなかでアンサンブルをまとめあげた都響の健闘ぶりは、ブラビンズの掌握力のある指揮とともに、大いに讃えられるべきだろう。(長谷川 京介)
写真:(c) Chris Christodoulou

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ダニエル・ハーディング指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団 ブルックナー 交響曲第5番」(2014年11月8日、すみだトリフォニーホール)
 ハーディングがブルックナーの5番でやりたかったことは何だろう。流線型の、スピード感のあるスマートでモダンな外観のブルックナーだろうか。
 その狙いからすると、第4楽章が一番成功していた。速めのテンポできびきびと進むなかで、冒頭の動機からなる第1主題のフーガが鮮やかで、展開部のコラール主題による二重フーガも明解で切れ味がある。
 最後のクライマックスも見事であり、新日本フィルの金管も、またトレモロを刻む弦も大健闘だった。重厚長大ではないが、引き締まったブルックナー像が描かれていた。
 しかし、第1楽章と第2楽章では、新日本フィルのパワー不足を感じた。
 第1楽章出だしのチェロとコントラバスのピチカートのピアニシモのニュアンスはきめ細やかに奏されたが、三和音の総奏や、金管のコラールからアレグロ主題に入りクライマックスに向けて盛り上がるところは、迫力に欠ける。それは再現部に向けての盛り上がりでも同じで、アクセルを踏んでも加速しない車のようにもどかしい。金管の分厚い輝かしい響きがあまり感じられないのと同時に、弦楽器にも厚みや充実度が感じられず、また弦全体のアンサンブルがきちんと揃っていない箇所もあった。
 第2楽章では弦楽器による第2主題の厚みが不足していた。たっぷりとした響きを期待したが、すこし痩せた響きはハーディングが求めたものだろうか。
 第2楽章の終結部で第1主題が再現され、異なるリズムで徐々に盛り上がって行くところはいかにもブルックナーのアダージョ楽章らしいところだが、厚みが少なく、聴く側としては気持ちが入っていかない。テンポもやや速めに感じた。
 たとえハーディングが厚みよりも、響きの明確さ、透明さを狙ったとしても、オーケストラの緊密度、腰の強さ、芯の強さが伴わなければ十全とは言えない。
第3楽章スケルツォはまとまりのよい演奏だった。ハーディングの速めのテンポ設定と躍動的なスケルツォがマッチして生き生きとした楽章になった。
 ただトリオでのホルンや木管の音程が不安定だった。この日の演奏でひとつ気になったのは、こうした木管、金管による短い主題動機の提示や対話、経過句の音程の不安定さで、その後の展開や連結の流れに支障をきたす場面がいくつもあったのは残念だった。しかし、クラリネットは見事で、第4楽章冒頭の動機は実に思い切りよく吹ききって、爽快だった。
 当初どうなることかと思ったハーディングと新日本フィルは、第4楽章でようやく波長が合い、最後に充実した演奏で終わることができた。これまで数多くの名演を聴かせてくれたこのコンビにも、時としてこういうちぐはぐな演奏が起こりうるというのもいかにも人間的であり、指揮者とオーケストラの一筋縄ではいかない関係を思わせるものがあった。
いつも思うのは新日本フィルの聴衆のマナーの良さ。今日も第4楽章コーダの3つの最強音が終わっても、フライングはなく、ハーディングが指揮棒を完全に下ろしてから拍手が起こる。音楽をよくわかっている聴き手が多いと思う。
(長谷川 京介)
写真:(c)Harald Hoffmann

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ロバート・レヴィン指揮、東京都交響楽団『作曲家の肖像』シリーズVol.99 モーツァルト」(2014年11月15日、東京芸術劇場コンサートホール)
 本来クリストファー・ホグウッドが指揮し、ロバート・レヴィンがピアノを弾く予定であったプログラムだが、9月24日にホグウッドが急逝。今回はソロと指揮をレヴィンが受け持つことになった。
 10-8-6-4-3の対抗配置のオーケストラ。基本的にノン・ヴィヴラート。1曲目の「皇帝ティートの慈悲」序曲は中低音が充実した活気のある演奏。早くもブラヴォが飛ぶが、そのあとのピアノ協奏曲第20番が断然面白かった。
ピアノはレヴィンが客席を向く形でオーケストラの弦楽器を割り、真ん中に置かれた。通常の弾き振りとは逆の配置。演奏の前に、レヴィンが通訳と共にマイクをもって登場し解説を始めた。
 レヴィンの話は次の通り。
 「このピアノの位置はモーツァルトが好んだもので、私はマエストロ、ノリントンやホグウッドとも同じ配置で弾いてきた。聴衆やコンサートマスターの山本(友重)さんともコミュニケーションがとりやすく、客席にも音がよく届く。モーツァルトの時代にはスティック(支え棒)がないため、ピアノの蓋は取るか閉めるかしかなかった。当時は、オーケストラのトゥッティにもピアノが加わり、装飾音もカデンツァも即興だった。モーツァルトの姉(ナンネル)は即興が苦手でモーツァルトに全て記譜してほしいと頼んだ。今日は全て即興で弾くが、どういうものになるのかわからない。ただし、モーツァルトの言語に沿って弾く。モーツァルトの時代は本日のように調性が離れた曲をプログラムに並べるのは洗練されていないとされた。従って、今日はハ長調の即興のあと、山本さんがリードするニ短調で始めたい。
 最後にこのコンサートをホグウッドに捧げたい。彼は25年にわたる仕事仲間。彼の死は大きな損失だ。」
 こうして始まったピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466は、まさに自由なモーツァルト。自由な協奏曲。レヴィンはトゥッティでもピアノを弾くので、ほとんど弾きっぱなしという印象。オーケストラを従えてピアノが自由自在に動き回るようだ。
 カデンツァはモーツァルトの言語に従ったものとはいえ、相当に現代的。とくに第3楽章のカデンツァは音域の広いアルペッジョを多用したダイナミックで華麗なものになっていた。同じ第3楽章のアインガングをはじめ、装飾音も全てレヴィンのオリジナル。こうして聴いてみると20番のイメージがずいぶん変わる。ニ短調という暗いイメージから、重しが取り外され、のびのびとしたひろがりのある自由な作品に聞こえる。
 レヴィンはフォルテ・ピアノのようにスタインウェイを弾く。均質化されたタッチで、くせのない品のある響きがある。グルダやハスキルのようにひとつの音、ひとつのフレーズにも洞察が行き届いた深みのある表現ではないが、流麗でみずみずしく、ダイナミックも不足せず、生き生きとした躍動感がある演奏だ。
 レヴィンは、ほとんどピアノを弾いているので、指示は奏者に顔を向け、アイコンタクトによって行う。後ろの管楽器奏者には、前を見たまま、腕を振り上げ合図を送る。
 レヴィンがオーケストラとともに弾くことにより、両者の間に、指揮者ありとも、通常の弾き振りとも違う、緊密な一体感が生まれ、見ても聴いても楽しいことこの上ない。これこそモーツァルトのピアノ協奏曲の理想型と思わせるものがあった。当然のことながら、この日の演奏では拍手が一番多く、アンコールにはモーツァルトのピアノ・ソナタニ長調K.576から第2楽章が弾かれた。
最後の交響曲第38番「プラハ」は、インテンポで、ダイナミックもしっかりとした奥行きのある演奏だったが、ピアノ協奏曲で聴かせた開放感のあとでは、すこし堅苦しいものがあった。(長谷川 京介)
写真:(c)堀田力丸

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「日本フィルハーモニー交響楽団第665回 東京定期演奏会(2014年11月15日、サントリーホール)
 日本フィルの第665回定期は、2009年9月から、この楽団の主席客演指揮者を務める、フィンランドのピエタリ・インキネンが指揮。首席指揮者のラザレフ、インキネンが指揮する日本フィルは、どのような効果を示すか、常に注目されるところだが、この二人が指揮すると、常に熱演で優れた出来栄えを示す。特に日本フィルはインキネンを盛り立て、オーケストラとして新たな方向で、さらに可能性を追求しようとする。その意気込みがこの楽団から感じられた。日本フィルはインキネンの指揮に充分期待に応えていたことは云うまでもない。
 最初のシベリウス、交響詩《太陽の女神》は実に美しい。寄せては返し、めぐっていく海と波の様子が色彩豊かに描写される音楽だが、インキネが指揮すると、深い表情にのせて激的な気分を濃く描き出す。テンポのよさ、緻密な設計による盛り上げ方などにインキネンの特徴がよく発揮されていたと思う。
 シベリウスは、日本フィルにとっては、創立指揮者の渡邉暁雄以来、とりわけ縁の深い作曲家とのことだが、今後もシベリウスの滅多に演奏されない作品を取り上げて欲しい。
 続いてマーラーの交響曲第7番《夜の歌》。インキネンは2010年のマーラーの交響曲第一番《巨人》、交響曲第5番をリリースしているが、彼にとってマーラーも重要な作曲家の一人なのだろう。これまでマーラーの交響曲は数多くの指揮者で聴いてきたが、インキネンのマーラーは、音楽の一区切りがきちんとしており、緩急濃淡巧みに結び合わせて、曲全体として一つの大きな意味として結実させる。優れた長編小説を読んでいるような感じで、無駄がないのであり、例えるならばトーマス・マンやドストエフスキーの小説を読んでいるようで、最後まで飽きずに聴かせてしまうのである。
 フルート、ホルン、トランペットなど、日本フィル奏者の豊かな音楽性が印象に残った。
 来年の話になるが、日本フィルは2015年5月の定期で日本人の作品を4曲演奏する。これらの名曲が、日本人によって、さらに様々な形で追及されるのではないかと思うと楽しみである。(藤村 貴彦)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ポール・マクリーシュ指揮、東京都交響楽団」(2014年11月20日、サントリーホール)
 ホグウッドの病気、急逝のため、代役として初来日したポール・マクリーシュは古楽界の鬼才と評価される一方、モダン・オーケストラの指揮者としても活躍しており、首席ならびに芸術顧問を務めるリスボンのグルベンキアン管弦楽団とは今年から来年にかけ、モーツァルト、ベートーヴェンからヴェルディ、ブラームス、ドヴォルザーク、R.シュトラウスまで取り上げる。
 今回の都響への客演で、その優れた手腕をはっきりと確認することができた。
長身のマクリーシュは、1曲目、コープランドの「アパラチアの春 13楽器のためのバレエ(原典版)」と後半の最初のR.シュトラウス「13管楽器のためのセレナード」を椅子に座り指揮したが、その意図は一人一人の奏者と目線を合わせるためだろうか。
 「アパラチアの春」が素晴らしかった。
 冒頭の「非常に遅く」。バレエでは「朝の光に包まれながら登場人物が姿を現す」部分は、静寂の彼方から現れ、静寂の彼方に去っていくようなひそやかな響きで始まる。セピア色の写真か、一幅の絵画を見るような懐かしい感覚がわいてくる。その繊細な響きは絶品で、たちまちマクリーシュのセンスの良さの虜になる。
 アレグロになり、「花嫁と花婿、隣人たちの踊り」の快活な音楽も、都響の奏者たちの自発性を引き出し、生命力にあふれている。
 原典版の完全なものとして演奏された「信仰復興運動家と信徒たちが、人生の暗く不条理な面を花嫁と花婿に諭すように踊る」後半部分の重々しい表現や、聖歌「シンプルギフト」が回帰する部分の心が洗われるような格調の高い表現にマクリーシュの趣味の良さを感じる。そして最後の花嫁と花婿が夕暮れの空気に包まれる場面の静謐さの見事なピアニシモ。すべてが幻の彼方に消え去っていくようだ。温かい拍手が聴衆の受けた感動を物語っていた。
 メンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」(クリストファー・ホグウッド改定版第2稿)でフル・オーケストラを指揮するマクリーシュの本領を聴く。この曲は椅子なしで指揮した。
 マクリーシュは響きに対するセンスの良さを持っている。やや高音がきついが芯のある透明なヴァイオリン群、クリアだが温かいヴィオラ、チェロ、コントラバス群。木管の温かいブレンドとハーモニー、金管群の抑制された、しかし輝きを保った音。これらに加え、きびきびとしたテンポとともに構築されるしっかりとした音楽の骨格。イギリス的というか、シャンドス・レーベルのような音と言ったらいのだろうか。
第1楽章だけでもマクリーシュの指揮には聴きどころがいっぱいある。
最初の序奏の格調と、管楽器が応えるハーモニーの適度なバランス。ピアニシモの繊細な弦が奏でるドレスデン・アーメンの旋律の透明感。第1主題の躍動感。ダイナミックな展開部のあとドレスデン・アーメンが再現する絶妙なピアニシモのタイミングの取り方。
 第2楽章のスケルツォではトリオの表現に魅了された。美しい絹織物のような色彩感豊かで、滑らかで細やかな音が紡ぎだされる。
 第3楽章アンダンテの抒情は甘さが控え目で、イギリス的な抑制がきいて渋みがあり、感傷に流れない。
 第4楽章も細かなところまで目が行き届きながら小さくまとまらず、のびのびとした広がりもあり、音楽のスケールが大きい。アンダンテから続いてフルートのコラール「神はわがやぐら」が聞こえてくるところも宗教的な格調の高さがあり、第1主題は躍動感に満ちている。展開部から再現部にかけては音楽の勢いが増し、フガートの明快なコントラストの描き分け、コラールを奏でる金管の神々しさと次々に流れの幅と厚みが大きくなり、輝かしいコーダのコラールに至る運び方の見事さ。抑制と解放のバランスが絶妙なマクリーシュの指揮に魅了された。こうなると、本来のフィールドである彼の指揮する古楽をぜひ聴いてみたくなる。
なお、今回セルパンという蛇がうねったような形をした古楽器がメンデルスゾーンの指示通り用いられていた。第4楽章のコントラファゴットに重ねられるというが、吹かれているところを見逃してしまったことは残念だ。(長谷川 京介)
写真:(c)堀田力丸

Classic CONCERT Review【室内楽】

「マリオ・ブルネロ&アンドレア・ルケシーニ ベートーヴェン チェロ・ソナタ&変奏曲全曲演奏会第2夜」(2014年10月26日、紀尾井ホール)
 ブルネロのチェロは、超一流イタリアンレストランの口いっぱいにひろがるワインの風味や、芸術的に盛られた繊細な料理を思わせる。そしてその先には知的で奥深い世界が待っている。
 最近聴いたベートーヴェンのチェロ・ソナタの演奏では、昨年のクレメンス・ハーゲン&河村尚子による第1番と第3番、一昨年のドイツの若手チェリスト、ヨハネス・モーザー&高橋礼恵による全曲演奏会がある。ハーゲンの渋い重厚さも、モーザーの若さがストレートに出た切れ味のよさも、ベートーヴェンの演奏様式としては正攻法のひとつだろう。
 ブルネロは彼らとは違う方法をとる。聴くものを陶然とさせる繊細で色彩感豊かな響きを大きな武器として、考え抜かれた知的な分析により、深くベートーヴェンの作品に切り込んでいく。
 最初に、モーツァルト「魔笛」の“恋を知る男たちは”の主題による7つの変奏曲が演奏された。軽やかで滑らなスタート。
 チェロ・ソナタ第3番第1楽章では、冒頭第1主題の歌わせ方からして繊細で香り高い。奏者によっては指がもつれてしまう第2主題も滑らかな動きで、ふわりとしたワインの香しさが匂い立つようだ。
 次々と主題が導入され、あるいは短縮され緊張を高めていく再現部。この複雑に組み立てられた音楽を、緻密に手際よくさばいていくブルネロの手並みは、まるでイタリア料理の芸術的な盛り付けを見るように鮮やかである。
 第2楽章スケルツォでのブルネロとルケシーニの応答は、知的で洗練されたユーモアを感じさせる。
 第3楽章ではピアノのルケシーニとともにイタリアの明るい日差しのように生き生きとした色彩豊かな演奏を繰り広げる。
プログラム後半最初の第4番も思索的で繊細な演奏だったが、その繊細さは、第2楽章後半のアレグロ・ヴィヴァーチェでの重音を処理するには、少し弱かったのではないだろうか。
 第5番がこの日最高の聴きものだった。特に三部形式で書かれた第2楽章アダージョ・コン・モルト・センティメント・ダフェット(ゆっくりと 非常に感情をこめて 愛情をもって)は忘れがたい演奏だった。ベートーヴェンがここに書いた音楽の深みと広がりはチェリストにとっても最大の表現の場であるだろうが、ブルネロの真価はまさにこの楽章で発揮された。
 暗く沈潜する第1部から、明るい日差しが差し込んでくるような第2部への場面転換の妙。第2部での天国的な安らぎと憩い。そして再び痛切な歌が始まる第3部の深い悲しみとかすかな希望。これらをブルネロは幻想的に、きめ細やかに想像力豊かに演奏した。それは時間の感覚を忘れさせる濃密な空間であり、夢の中を漂っているようでもあった。
 しかし、ピアノのルケシーニがやや単調な演奏で、ブルネロの創り上げた幻想的な世界を現実に引き戻すかのようなかたちになったのは残念だ。
 ベートーヴェンのチェロ・ソナタはピアノが充実していないと、片肺飛行の飛行機のように、あるいは片方の度が合っていない眼鏡のようになってしまう。
プログラム前半はあまり感じなかったが、後半でのルケシーニのピアノは繊細さを欠いていた。第3楽章のフガートでは、第1主題のフーガが頂点を築き、そこから崩れ落ちるように奏でられるピアノは落差が小さく迫力に欠けた。ブルネロも後半のフガートや結尾では熱くなることはなく、わりにあっさりと弾いていた。
 それでも第2楽章の感動がしっかりと残っており、全曲を聴き終えた後の充実感は大変なものがあって、これだけ充足したあとに聴く作品はないのではと思っていた。
 しかし、アンコールにバッハのコラール前奏曲「主イエス・キリストよ、われ汝を呼ぶ」が奏でられると、これこそ最後を締めるにふさわしい曲だと納得する。ベートーヴェンの熱気を冷ますことなく、バッハはそのまわりを固め、しっかりと固定する。感動の記憶はより深く心に残る。それを可能にするのはブルネロの音楽の掘り下げが、バッハに匹敵するくらい奥深いからではないだろうか。(長谷川 京介)
写真:(c)堀田力丸

Classic BOOK Review【オペラ座】

三澤洋史「オペラ座のお仕事−世界最高の舞台をつくる」(早川書房)
 新国立劇場合唱団の指揮者として活躍し、同合唱団のレベルを世界的水準へと引き上げた筆者が、生き生きとした筆致で綴る「オペラ座の日常」。世界各国から集うアーティストたちとひとつのプロダクションを築く舞台裏、ネッロ・サンティら有名演奏家の稽古風景と音楽観、バイロイト音楽祭やスカラ座合唱団の独特のサウンドの秘密など、臨場感あふれる現場の話は、音楽ファンにはたまらない。傲慢な指揮者との衝突と和解を描くくだりは、異文化との交流が苦手な日本人への警鐘としても読むことができる。前段として著者が指揮者になるまでの過程、後段として理想の指揮者論が語られており、「音楽家 三澤洋史」の輪郭を知ることができるのも興味深い。(加藤 浩子)

Classic BOOK Review【ショスタコーヴィッチ】

ひの まどか「戦火のシンフォニー」(新潮社)
 作曲家の伝記シリーズで知られる著者が、最大の情熱をかけて取り組んだノンフィクション大作。ナチスドイツの包囲下に置かれたレニングラードを想って作曲されたショスタコーヴィチの「交響曲第7番」が、包囲のただなかにある同市で初演されるまでを描く。戦争を背景とした音楽ドキュメンタリーにとどまらず、極限下での音楽や音楽家の役割をていねいに、また熱く語って感動的だ。文献と現地取材を重ね合わせるのがこの著者のスタイルだが、本作を書くにあたってはロシア語を学び直し、膨大な資料にあたり、現地に通って証言を集めたというだけあり、説得力のある文章と内容が展開する。この町のために書かれた作品が、さまざまな事情により他の都市で、また他の国で先を争って上演されてゆく皮肉には、音楽と政治、そして時代との関係性を考えさせられる。伝記的記述のなかでも常に時代や社会との関係を忘れない著者ならではの力作である。(加藤 浩子)