2014年10月 

  

Classic CD Review【交響曲・管弦楽曲・協奏曲(ピアノ・ヴァイオリン)】

「ブラームス:交響曲全集、悲劇的序曲、大学祝典序曲、ピアノ協奏曲第1番&第2番、ヴァイオリン協奏曲/クリスティアン・ティーレマン指揮、マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)、リサ・バティアシュヴィリ(ヴァイオリン)、シュターツカペレ・ドレスデン」(ユニバーサル ミュージック、ドイツ・グラモフォン/UCCG-1674〈3CD+1DVD〉)
 ブラームスの〈てんこ盛り〉とも言えるCD3枚とDVD1の4枚セットである。CDには交響曲第1番と悲劇的序曲、交響曲第2番と大学祝典序曲、交響曲第3番と第4番のカプリングによる3枚、そしてDVDのピアノとヴァイオリンの協奏曲3曲はCDではすべて発売済みだが、今回はそのビデオ版であり、ファンにとっては嬉しい1枚ではなかろうか。
 ブラームスの4つの交響曲、2つの序曲の演奏はティーレマンがシュターツカペレ・ドレスデンとの相性が未曾有の良さであり、今をときめく世界でも有数の指揮者で、尚且つ巨匠と言われるに相応しい証拠であろう。先ずはこの悠揚迫らぬどっしりとした演奏は正にティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンのたった2年の蜜月としては早すぎるかも知れないが、完全に金字塔と呼ぶに相応しいものであろう。ティーレマンは2008年から2010年にかけて録音されたウィーン・フィルとのベートーヴェンの交響曲全集でも評判を呼んだが、今回のブラームスの交響曲全集はそれを凌駕する出来であると筆者は考える。
 そして4枚目のDVDに収録されているポリーニのピアノ協奏曲第1番(2011年6月収録)と第2番(2013年1月収録)の演奏は円熟の極みであると同時に、両曲とも歳相応とは思えない完璧な技術を見せている。第1番、第2番とも指揮のティーレマンが大先輩のポリーニに手を貸しているシーンが微笑ましい。またヴァイオリン協奏曲のバティアシュヴィリは、現在グルジア出身の代表的若手女性ヴァイオリニストとして完璧なテクニックと持って生まれた豊かな音楽性でブラームスの奥深い音楽を好演している。この協奏曲3曲に関しても、ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンの好サポートが特に光っている。(廣兼 正明)

Classic CD Review【協奏曲(ピアノ)・器楽曲(ピアノ&チェロ)】

「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18、チェロ・ソナタ ト短調 作品19、前奏曲 変ト長調 作品23の10、前奏曲 変ロ長調 作品23の2 /河村尚子(ピアノ)、イルジー・ビエロフラーヴェク指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、クレメンス・ハーゲン(チェロ)」(ソニー・ミュージックエンタテインメント、ソニー・クラシカル/SICC-10214)
 協奏曲の最初から如何にも女性らしい叙情性と若さに溢れている、と言うのがこのCDを聴き始めたときの印象であった。ラフマニノフの音楽は彼の一番の特徴である叙情性だけではなく、力感も叙情性と同様に重要である。しかし彼女には彼女なりにラフマニノフを弾くために必要な表現力が備わっていた。それはソロとオーケストラがお互いに相手を尊敬してどちらが主体であるかを主張せず、室内楽的な掛け合いを大切にする技術である。第2楽章の叙情性も第3楽章のお互いの表情がソリスト、オーケストラとも見事である。
 チェロ・ソナタではチェロとピアノが平等な立場を持った曲だが、二人とも相手を尊んで弾いていることが、この演奏を成功させることになったことは間違いない。チェロのクレメンス・ハーゲン(オーストリアのハーゲン・クァルテットのチェロ奏者)とのコンビは実に息が合っていて楽しめる。(廣兼 正明)

Classic CD Review【声楽曲(オペラ・アリア)】

「ピュア|マリア・カラス / マリア・カラス(ソプラノ)、 ジョルジュ・プレートル、トゥリオ・セラフィン、ヘルベルト・フォン・カラヤン他指揮、リヨン国立歌劇場管弦楽団&合唱団他」 (ワーナーミュージック・ジャパン、ワーナー・クラシックス/WPZS-30031~2〈CD+DVD〉)
 1949〜69年のマリア・カラス全盛期に於けるセッション・レコーディングによるフランスのビゼー:歌劇「カルメン」の〈ハバネラ〉をはじめとし、ベッリーニ、プッチーニ、カタラーニ、ジョルダーノ、チレア、ドニゼッティ、ロッシーニ等のイタリア、ビゼー、サン=サーンスのフランス、そしてグルックのオペラから有名アリア18曲を選び、彼女の生誕90歳記念の今年、すべてアナログ・マスターテープから最新技術を駆使したリマスター・プロジェクトにより、現在のCDに大幅に近づいた音に変身させ、聴いているとカラスの全盛期を彷彿とさせてくれる。その内1953〜56年に収録された11曲がモノラルだが、その後に録音された7曲はステレオで収録された。この18曲は彼女の全盛期時代の声を集めてあるため、その声域と迫力は途轍もなく素晴らしく、この1枚でカラスのベストを楽しむことが出来る。そしてDVDには以下の曲がCDとは異なるモノクロの映像で収められている。1) ビゼー:「カルメン」より〈ハバネラ〉(1962年ハンブルク収録)、2)プッチーニ:「トスカ」より〈歌に生き、恋に生き〉(1964年ロンドン収録)、3)ロッシーニ:「セビリャの理髪師」より〈今の歌声は〉(1959年ハンブルク収録)の3曲である。DVDの最後にはマリア・カラス・リマスター・プロジェクト2014PR映像/「エンジニアは語る」が入っており、これを見ると録音プロジェクトの苦労が良く分かる。(廣兼 正明)

Classic CONCERT Review【管弦楽】

「アジアユースオーケストラ 東京公演2014」8月30日、東京芸術劇場コンサートホール
 毎年夏の楽しみはPMFオーケストラとアジアユースオーケストラ(AYO)の東京公演だ。いずれも音楽を志す若い演奏家たちが授業料なしの夏期講習として、世界的に有名なアーティストの指導の下、研鑽した結果をコンサートの形で発表するものだが、いずれもプロのオーケストラから常時聴けるとは限らない新鮮でひたむきな、しかもプロ顔負けの演奏が魅力となっている。PMFオーケストラは短期間で様々な指揮者のもと多種多様なプログラムをこなすため、また奏者に自由裁量がまかされているのか、時にアンサンブルが粗野になることもある。その一方、AYOはPMFオーケストラよりやや若いアジアの奏者たちにより構成され、リチャード・パンチャスとジェームズ・ジャッドの二人の指揮者と楽器別の指導者の下、3週間毎日9時間限られたプログラムを集中的に練習するため、アンサンブルがより緻密で息のあったものになっている。PMFオーケストラが日本国内の公演で終わるのに対して、AYOはアジア各地をツアーで回ることにも特徴がある。
 AYOの構成メンバーは毎年変わる。中には続けて参加するものもいるが、基本は一期一会のオーケストラだ。そのため毎年微妙に音色やアンサンブルの違いが感じられる。ホール、曲目の違いもあるだろうが、昨年がやや硬質な緊張度の高い響きだったものが、今年はふっくらとした柔らかみと軽やかさを感じた。特に弦楽器の響きが柔らかくしなやかで気品すら感じられる。
 この日のプログラムは頭のバーンスタイン「キャンディード」序曲のほかにふたつの「英雄」からなっていた。R.シュトラウスの「英雄の生涯」と、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。指揮はリチャード・パンチャス。
 最後のベートーヴェンが良かった。快速テンポ、流麗、明晰で、柔らかな響きがあった。浮き立つような第1楽章、よく歌う第2楽章「葬送行進曲」、明るい第3楽章スケルツォ、鮮やかな第4楽章というように、以前胃がもたれるような重々しいチャイコフスキーの交響曲第4番を披露したパンチャスとは思えない、心が晴れやかになる爽快な「英雄」だった。
 なお、第2楽章第1主題のオーボエの装飾音や、第4楽章第2変奏の弦楽四重奏から察するとベーレンライター版を使用したと思われる。
 2曲目のR.シュトラウスの「英雄の生涯」では、現在サンフランシスコ交響楽団に在籍するAYOのOBがコンサートマスターを務め、第3部「英雄の伴侶」で美音のやわらかで輝かしいヴァイオリンソロを聞かせてくれた。 
 AYOのまとまりのよい弦、8人のホルンをはじめとする金管や、木管群の演奏もよくこなれている。しかしトレイナー以上のレベルを発揮できなかったパンチャスの指揮のためか、R.シュトラウスの作品自体の性格のためか、感銘度はベートーヴェンと較べるとやや低い。よくここまでアンサンブルをまとめあげたと感心するが、後半の「英雄の業績」とか最後の「英雄の引退と成就」のような、しみじみとした部分になると年輪の厚みや人生の深みといった味わいがほしくなる。
 さて、毎年ツアーの最終日にはひとつの伝統がある。それは6週間前、香港のリハーサルキャンプで、若い演奏家たちが初めて顔合わせした時最初に練習する曲、エルガーの「エニグマ変奏曲」から「ニムロッド」をアンコールに演奏することだ。
パンチャスがマイクを持ち、『6週間前初めて会い1日9時間の厳しい練習をしたあと3週間におよぶアジア各地のツアーを行った若者たちも、明日は離れ離れになり自分たちの国に帰る』と語り始めると、泣き出すメンバーが続出する。涙をこらえながら懸命に「ニムロッド」を終え、抱き合い別れを惜しむメンバーの姿を見ていると、「ああ今年も夏が終わったな」と思う。(長谷川 京介)

Classic CONCERT Review【管弦楽】

「ヤクブ・フルシャ指揮 東京都交響楽団 第774回定期演奏会」
9月8日、東京芸術劇場、サントリーホール
 国際マルティヌー協会の会長でもあるフルシャは、マルティヌーの真価を伝え、日本に定着させる伝道師と言ってもいい。今回の意欲的なオール・マルティヌー・プログラムは演奏の質の高さから言っても大成功だと思う。
 フルシャの指揮は一本筋が通っており、マルティヌーへの共感とともに作品を知り尽くした自信が伝わってくる。
 交響曲第4番は、内から湧き出るシンコペーションのリズムと色彩感あふれる第1楽章、切れ味の良いリズムとトリオでの温かな旋律が印象的な第2楽章、ハリウッドの映画音楽を思わせる冒頭と弦楽器の旋律が美しい第3楽章、躍動する第4楽章まで、フルシャの無駄のない指揮によりすっきりと洗練された演奏に仕上がっていた。1曲目からフルシャ一人を指揮台に上げ賞賛する楽員の姿は、首席客演指揮者の契約延長が発表されたばかりのフルシャと都響の蜜月時代を実感させる。
 カンタータ「花束」は過去何度日本で演奏されただろうか。生演奏を聴くのは初めてだ。しかし今回は理想的な公演だったのではないか。
 声楽付きの管弦楽を指揮するのが大好きだと言うフルシャ。伸びのある豊かな声を披露したチェコから招いた4人のソリスト。繊細な弱音のハーモニーを聴かせた新国立劇場合唱団。透明感のある東京少年少女合唱隊。ヴァイオリン、ヴィオラ、イングリッシュ・ホルン、2台のピアノなどで素晴らしいソロを見せた都響。出演者全員が一体となり、一回だけの演奏会で終わるのはもったいないと思うほどの見事な演奏を展開した。
 「花束」は、ボヘミアやモラヴィアの境界ヴィソチナ地方に生まれたマルティヌーが故郷の民俗音楽をベースとした作品を集中的に作曲したころの傑作であり、フルシャの言葉によると「フランス音楽の影響を受けた華やかな交響曲とは別世界の、シンプルで天真爛漫、規模の大きな民謡」である。一言で言えば、「美と民俗音楽の調和と洗練」だと思う。これをフルシャはよく実現していた。
 第3曲「牧歌」の出だしなど、日本の民謡か、NHKの「明るい農村」のテーマを思わせる鄙びた味わいがあるかと思えば、第2曲「毒を盛る姉」のおどろおどろしい物語(恋人と逃げるため邪魔な弟を毒殺する話)と音楽はオルフの「カルミナ・ブラーナ」に通じるものがある。完成時期も近い。オルフは1936年、マルティヌーは1937年。これはあくまで推理だが、マルティヌーにカンタータの作曲を依頼したプラハ放送局はオルフの作品を聴いていたのかもしれない。
 第4曲「牛飼いの娘たち」ではソプラノ、シュレイモバー金城由起子(プラハ国民劇場専属)とメゾ・ソプラノのマルケータ・ツクロヴァーが伸びやかで美しい声を聴かせ、新国立劇場合唱団の女声もやまびこを模しきれいに響かせた。
 第6曲「家族に勝る恋人」での囚人がトルコの刑務所から出してくれと両親に嘆願する囚人役のテノール(ペテル・ベルゲル)、父親役のバリトン(アダム・プラヘトカ)のソロ、進行のナレーターの新国立劇場合唱団、救済する恋人役のソプラノのソロは、みな素晴らしい。そして都響のイングリシュ・ホルン、トランペットのソロもうまい。
 ここまでが第1部で、第2部の始まる前、可愛らしい民族衣装を着た東京少年少女合唱隊が登場する。アダムとイヴの楽園追放を歌った第7曲「クリスマス・キャロル」のリズムカルな歌は楽しい。
 最後の第8曲は重々しい序奏で始まる長い「人と死神」。アルトと合唱が物語を進行する。幸せに家族と暮らしている農夫(バリトン)は死神にとりつかれ、命乞いも空しく死神の射た矢に倒れる。間奏のヴァイオリン(山本豊重)とヴィオラ(鈴木学)のソロが美しい。最後は「気をつけなさい。こういうことは誰にも起こる。」という怖い歌詞が歌われたあと、静かに消え入るように終わる。
 フルシャは快心の出来だったのか、出演者全員に感謝の気持ちを表し、ソリストのあと児童合唱のリーダーと思われる団員二人に近づいて行き握手、楽員を次々に指名して立たせる。その態度がいかにも心からねぎらって賞賛しているようで、フルシャの人柄がよく出ていた。
 最後にフルシャがマルティヌーを讃えるようにスコアを高々と掲げていたのが印象的だった。フルシャにはこれからもぜひ都響と一緒にマルティヌーをはじめとする知られざるチェコの作曲家を紹介していってもらいたいと思う。(長谷川 京介)
写真:(c)堀田力丸
写真提供:東京都交響楽団

Classic CONCERT Review【ピアノ】

「白石光隆ピアノリサイタル vol.27」 2014年9月11日 津田ホール
 白石は1年間の活動の集大成として、毎年定期的に東京でコンサートを催し、今年で27回を数えるとのこと。白石は純粋なデリカシーを持つ叙情家であり、音は力や光輝に溢れるものではないが、しんみりと語りかけるような叙情を行う。すき通るような清潔さとでもいったらよいであろうか。
 プログラムの前半は、ハイドンの幻想曲「カプリッチョ」とシューマンのクライスレリアーナ。特にシューマンは白石の特色がよく表出されており、静かに歌うように弾き、そして速い楽曲は少しの力みもなく、細かな音型を淀みなく弾きこなす。驚嘆すべきテクニックである。ロマン的な香気の表現であり、日本人のピアニストもこの作品をコンサートのプログラムによく乗せるが、白石のように美しい効果を出せる人はあまりにも少ないように思う。
 プログラムの後半はグリフィス「白い孔雀」、ラフマニノフ「エレジー」、リスト 巡礼の年第2年「イタリア」より”ダンテを読んでーソナタ風幻想曲”。グリフィスの作品に接するのは初めてである。アメリカの作曲家であり、彼が留学中のドイツの動物園で見た白い孔雀の印象を音にしたといわれる。印象派的な音楽であり、美しい場面があって親しみやすい。
 リストが印象に残ったが、ここでも音楽が淀みなく流れ、構築性が見事で、白石は作品全体のイメージをつかんでいたからである。罪との葛藤が激しく表現される楽曲も、固く冷たい機械的な弾き方ではなく、音楽の内面が持つ力強い弾き方であった。
 確かに白石のステージはさわやかである。日常生活も爽やかで誠実な生き方をしているのではないだろうか。川端康成の小説ではないが「いい人はいいね」である。私は会場を出て、軽い手荷物を夜空に投げ、それを受け止めたとき「いい人になったような気がした」。さわやかな夜風が私の頬をなでた。
(藤村 貴彦)

Classic CONCERT Review【管弦楽】

「東京都交響楽団 第775回定期演奏会Aシリーズ」 9月19日、東京芸術劇場コンサートホール
 今年4月から都響の終身名誉指揮者となった小泉和裕。都響発表によれば、格式、内容ともにそれまでのレジデント・コンダクターよりも重みのあるものと位置付けているとのこと。来年4月から音楽監督に就任する大野和士と同格ではないものの、正指揮者以上であり、大野と共に都響の音楽を常時監督する責任者の一人ということになるのだろう。都響と小泉の信頼関係の深さが表れているのは間違いない。
 その信頼関係を裏付けるような見事な演奏となった。ブルックナー(交響曲第2番ハ短調[ノヴァーク:1877])がこれほど純粋な響きとして聞こえたのは稀なことだ。全体に明るく、張りと輝かしさがあり、清新で若々しい。引き締まった鋭さを持った演奏は緩急の対比が鮮やかで、全体の構成の見通しと各楽器間のバランスがすこぶる良い。何より印象的だったのは音楽が小泉和裕のものとしてよく消化されており、内から溢れ出てくること。こけおどしやはったりがなく、どこにも作り物めいたところのない自然さがいい。
 第1楽章の出だしから小気味よいテンポで音楽の流れがスムーズ。都響の優れた合奏能力を十二分に引き出す。第2主題のチェロの響きも木目調で美しく、その後に出る弦によるブルックナー特有のリズムの刻みもよく揃っている。低音弦の充実も素晴らしい。提示部最後「リエンチ」の動機に似た旋律のオーボエやクラリネット、ファゴットのソロも滑らかだ(オーボエ奏者は前半開演前からこのフレーズをしきりに練習していた)。展開部直前のホルンのソロも安定している。
 第2楽章はこの日最高の出来だった。弦群による対位法的な第1主題から都響の弦が集中力を最大にして奏でているのが伝わってくる。弦のピチカートの上で第2主題を奏でるホルンのソロもよい。木管を支える第1ヴァイオリンが奏する五連符の細かな動きも美しい。クライマックスはゆったりとおおらかでスケールが大きい。結尾のフルートとヴァイオリンのソロによる対話と、それに続く弦の第1主題冒頭動機の下行旋律の繊細さは見事。
 第3楽章の重厚なスケルツォはきりりとしており、トリオは温かい。
第4楽章第1主題の繰り返される総奏の切れ味が鋭い。いつもながらの都響の金管の切れ味と輝かしさは感心する。
 再現部から結尾に向かって演奏は熱くなり、結尾前の休止の張りつめた緊張感は息を呑む。最後にトランペットが三連音を繰り返しながらコーダになだれ込んでいく迫力はすさまじいものがあった。フライングもあったが、2階席からのブラヴォは怒涛のように鳴り響いた。小泉と都響にとっても全力を出し切った快心の出来であったと思う。それは演奏後の小泉の楽員に対する感謝と称賛によく表れていた。
 しかしこれだけのブルックナーでありながら、もうひとつ心のひだに食い込んでこない。自分が持つイメージ、敬虔、崇高、神への畏怖という表現を期待したためかもしれない。奥行きの深い音と重心の低さが加わればさらによかったと思ったことは確かだ。流線型で流れの良いブルックナーではあるが、心を鷲づかみにされるような、心の奥に突き刺さってくる何かが足りないと感じた。
 小泉が目指す方向はこれらとはすこし違うのかもしれない。過去に巨匠たちが指揮した重厚で深淵なブルックナーではなく、先入観を持たずにスコアを見直し、音楽の構成、バランス、アーティキュレーションを洗い直し、新鮮なブルックナーを表現しようとしたのではないだろうか。「小泉和裕ならではのブルックナー」を構築しようとしているのではないか。聴衆の盛大なブラヴォはそれに対する大いなる支持とみていい。1番と2番を終えた小泉&都響は、これから番号に従いブルックナーの交響曲を順次演奏していくと思われる。それが自分の好みや志向と違うとしても、虚心に耳を傾けなければならないだろう。
 前半のエロードのヴィオラ協奏曲についても触れたい。ブダペスト生まれでハンガリー動乱のさいオーストリアに亡命、作曲家・ピアニストとして活躍、ウィーン国立音楽大学教授にも就任したエロードが1980年に完成した曲で、鈴木学は2年前に日本初演を行っている。現代音楽だが古典的な手法で書かれており、とても聴きやすく美しい。特に第3楽章では都響の温かな響きに囲まれて鈴木学のソロが静かに消えていくところは感動を呼んだ。数少ないヴィオラ協奏曲の貴重なレパートリーになると思う。(長谷川 京介)
写真:(c)堀田力丸
写真提供:東京都交響楽団

Classic CONCERT Review【管弦楽】

「ナヌート&紀尾井シンフォニエッタ東京の「未完成」と「英雄」」
紀尾井シンフォニエッタ東京 第96回定期演奏会 9月20日(土)14時 紀尾井ホール
 1932年スロヴェニア生まれのナヌートは今年82歳。膨大な廉価盤CDがあったが今はほとんど市場から消えており、幻の巨匠と言われたこともあった。2009年の初来日に続く2013年2月に紀尾井シンフォニエッタ東京を指揮したブラームスの交響曲第4番他のプログラムで初めて彼の指揮を聴いたが、年齢を感じさせない若々しくエネルギッシュなもので、格調のある懐の深い音楽に感激した。今回はベートーヴェンとシューベルトの名曲をとりあげるというので、期待してでかけたコンサートだった。
 「レオノーレ序曲第3番」は出だしから重厚。第1ヴァイオリン8人、第2は6人、ヴィオラ6人、チェロ4人、コントラバス2人ほか管楽器という室内オーケストラとは思えない重々しく響く音が印象的だ。しかしその響きや音色に艶やかさがなく、室内オーケストラにありがちなギスギスとした印象を受ける。舞台裏から聞こえるトランペットもどこかさえない。
 シューベルトの「未完成」も「レオノーレ」と似た印象で、響きやふくらみが少なく潤いが少ない。しかし、第1楽章展開部の低音はよかった。河原泰則、吉田秀という2台のコントラバスから太く厚ぼったい響きが充分出てくる。ところが、そこだけが良くそのあとに続く部分で音楽的な高揚感がわいてこない。前夜に同じプログラムを演奏した疲れが残っているのだろうかと推測してしまう。
 ただ名誉のために一言付け加えなければならない。「レオノーレ」も「未完成」も、音楽の運び方、序奏あるいは主題から始まって展開を経て結尾に向かう流れ、クライマックスへ向かう力の集中には、ナヌートならではの巨匠的な風格があったことは確かだ。ナヌートはピリオド奏法には全く目を向けない指揮者で、旋律線と和声の透明度を追及するタイプではない。室内オーケストラにもフルオーケストラと同じような厚みと重い音を要求する。その意味で昨年に続き今回もナヌートの指揮をフルオーケストラで聴きたいと思う事しきりだった。
 後半のベートーヴェン「英雄」は前半より音楽に勢いがあったが、まだどこか乗り切れていないところがあった。そんななか、第1楽章の長大なコーダが始まったあたりで、ナヌートのカンマーバンド(タキシードのとき腹部に巻く帯)がカチッという音がして外れ、下に落ちてしまった。しかもナヌートの両足を囲む形だ。オーケストラのメンバーは驚いたのか、一瞬音色が変わった。ナヌートは気にせずそのまま指揮する。オーケストラは落ち着きを取り戻し、音色も響きも格段に良くなった。この日の演奏は、前半が冴えなかったが、このハプニング以降見違えるように生気をとりもどした。それはまるで薄く立ち込めた霧が晴れるような感じであった。
 そうだ、この音を聴きたかったという思いが広がる。こんなハプニングで音楽が変わることもある。災い転じて福、怪我の功名かもしれない。ナヌートは指揮しながら、うまく片足を抜いてカンマーバンドを指揮台の下に蹴とばした。さすがに巨匠、少々のことでは動じない。
 ナヌートは見違えるようになった紀尾井シンフォニエッタ東京とともに第2楽章の「葬送行進曲」で緊張感を保ったまま指揮、展開部の三重フーガも悲壮感たっぷりに聴かせる。第3楽章スケルツォには休みなく入っていき、コーダのフォルティシモを重厚に響かせる。第4楽章へもそのまま入り、王道を行く音楽をくりひろげる。展開部の第5変奏ではコントラバスが2台とは思えない重低音を鳴らす。最終の第7変奏の高揚感も素晴らしい。コーダも堂々と決まる。ようやくナヌートが本領を発揮した演奏を聴くことができ、満ち足りた気持ちで会場を後にした。
 なお後日、紀尾井シンフォニエッタ東京のある楽員から聞いた話によると、ハプニングに気づいたのは1列目のメンバーぐらいだったという。確かに演奏に集中していれば指揮者の足元までは目がいかないものだ。しかし弦の首席、副首席は気づいたはずであり、なによりナヌート自身があせったことは確かだろう。あのハプニングがナヌートに動揺をもたらすのではなく、停滞していた音楽に活を入れ、本来のナヌートが蘇るきっかけとなったと今も思っている。
(長谷川 京介)
写真:(c)Tadej Majhenic