2017年12月 

  

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

札幌交響楽団、第604回定期演奏会、ラドミル・エリシュカ指揮(10月27・28日、キタラ大ホール)
 本公演はエリシュカの日本での引退公演となった。それにともないメインの曲目も、当初予定されていたベートーヴェンの「英雄」から、「シェエラザード」に変更された。「シェエラザード」はエリシュカの札響との初共演(2006年)の曲目である。プログラムはスッペの「売られた花嫁序曲」、ドヴォルザークの「チェコ組曲」、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」。
 ロビーに足を踏み入れると、会場が異様とも言えるほど高揚している。首都圏からファンや関係者が多く駆けつけており、みな一様に顔が紅潮している。これは特別なコンサートなのだ。誰もがその思いを隠せない。エリシュカが指揮台に現われて指揮棒を振りおろす直前、会場が完全に無音になった。全員が舞台に集中している。ものすごい雰囲気だ。
 「売られた花嫁」序曲は、エリシュカらしい細部まで丁寧に実直に音を並べた誠実な演奏。音域の狭い(3度)第一主題。これがフーガ風に展開される際の各声部の毅然とした力奏に身が引き締まる。いささか力みも感じられたが、第二主題に入る頃にはこの作品らしい寛いだ雰囲気が広がっていった。弱音が多い展開部の後半では静けさが漂う。大家の晩年の音楽なのだと実感させられる。第二主題の再現(297小節)に向けてエネルギーを高揚させてゆく設計。おそらく、第一主題の再現は実質的に展開部だと位置づけられているのだろう。屈託のない嬉々とした終結が快くエリシュカらしい。続く「チェコ組曲」。憂いを帯びた第2曲「ポルカ」が有名だが、エリシュカはレガートをかけずにキビキビとリズムを刻む。若々しい。エリシュカの音楽はまったく枯れていない。
 後半のシェエラザードはこの作品について多くを考えさせられた。通常この作品に接するとオリエンタルな絵巻を眺めるような気分にさせられるが、エリシュカ=札響の演奏では自己の内側に別な場所が開かれるような体験をした。どういうことか。冒頭のサルタンの主題。残酷なサルタンを象徴するように凶暴に最強奏されることが常である。しかし、エリシュカはこの主題を金管を抑え弦主体で包み込むように演奏した。驚いた。思えば、「海」の主題はこの動機を胚種として形成されている。何もかもを飲み込む海、あるいはすべてがそこから生まれる海。残虐なサルタンの主題も愛らしいシェエラザードの主題も、この「海」へと還ってゆくかのようなのだ。第二楽章の「カレンダー王子」の主題を吹くファゴットのおどけた哀愁、それがオーボエ、弦へと受け継がれる各奏者の生きた息遣い、クラリネットのソロを支える弦のピッツィカートの克明な響き。これらが確信に満ちた足取りのなかで展開される。手綱を握る「眼」が光っている。第三楽章冒頭のVn.のユニゾン。D線からG線に移る際にビオラのような深い響きに変わる。丁寧にスコアの指示に従い余計な色づけをせずに誠実に音にしてゆく。終楽章も「嵐」へといたずらに煽るのではなく一歩一歩踏みしめるようだ。リムスキー=コルサコフは管弦楽法の名手として名高い。しかし、この作品はワーグナーの影響を受けてオーケストレーションを肥大化させる前の時期の作品で、打楽器こそ多いが編成は二管である。エリシュカの楷書体で克明な演奏で聴くと、絢爛豪華な絵巻というよりも、循環主題の交響曲のようだった。
 これで聴き納めなのは残念だが、エリシュカが日本で活躍した10年、とても楽しませてもらった。エリシュカの音楽には、個性的であろうとしないがゆえに内から溢れ出る真摯な個性がある。それに打たれた日本の聴衆の「耳」は確かだったということだろう。(多田圭介)

Classic CONCERT Review

トロンボーン ユニット ハノーファー
ジョン・ウイリアムズ、アントン・ブルックナー、ティールマン・スザート、ダニエル・シュニーダー、ロルケ・ラーベ、デリク・ブルジョワの作品(一部は奏者の一人ラーシュ・カーリンによる編曲)(11月5日 東京文化会館小ホール)
 ドイツのオケで活躍する8人のトロンボーン奏者による演奏会だった。同種の楽器によるアンサンブルは純粋な響きの変化を楽しめて素敵だ。全員が溶け合うように一つになった時は、至福感に包まれると言ってもいいだろう。冒頭がそうだった。とはいえ、ソロの音色にも感動した。艶があり、優しく優美な音色には誰もが魅了される。バス・トロンボーンとの対比も素敵で、まだまだ粗削りなところはあるが、それでもアンサンブルとしてはとても楽しめた。聴衆を飽きさせない工夫はプログラム構成でも感じた。ファンファーレで始まり、次に古楽あるいは教会音楽としてのブルックナーのモテットなど静かな安らぎを感じさせる曲、後半の2曲目のラーベの作品は偶然性を取り入れた即興性豊かな作品で、奏者4人が会場の四隅から、多角的な演奏を聴かせた。スライド管やマウス・ピースを取り外すなど視覚的にもとても楽しめた。観客へのサービスとして、メンバーの一人がローマ字にした日本語を読んでいた。仲間の紹介をした時「頭が剥げても(今まで一緒に演奏してきた)」と言うと会場に笑いが起きたのだが、彼は聴衆がなぜ笑うのか分からず「Why funny?」とつぶやいた。訳も分からずローマ字を読んでいたのだろうが、これはこれで人柄が出ていて好感が持てた。(石多正男)

Classic CONCERT Review

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第311回定期演奏会
メンデルスゾーン:序曲「静かな海と楽しい航海」
ブルッフ:スコットランド幻想曲(Vn独奏 郷古廉、ハープ 平野花子)
メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」
指揮:川瀬賢太郎 (11月11日 東京オペラシティコンサートホール)
 スコットランドから日本は四七抜き音階を学んだ。それは明治時代になって、19世紀後半のこと。「蛍の光」「赤とんぼ」「お正月」などの旋律は我々の身体に滲みこんでいる。実は、同じ頃ドイツ人もスコットランドに関心を持っていたようだ。メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」をはじめ、この日の交響曲「スコットランド」、そして1880年のブルッフの「スコットランド幻想曲」だ。したがって、コンサート全体が半ば日本的な幸せ感に包まれていたと言ってもいいだろう。もちろんそればかりではない。ブルッフの幻想曲からはパワーをもらえた。郷古のヴァイオリンはいくぶん鋭角的だが、演奏への繊細な気遣いがそのまま音になり、さらにそれがppで演奏されると非常に魅力的で、思わず聞き入ってしまった。オケとのアンサンブルも出過ぎず、目立ち過ぎず、楽しんでいる感じがよかった。ハープを独奏として扱うかどうか、判断に迷う。他の演奏会ではオケの一員の位置づけをしているところも多い。第4楽章で少しソロとしての聴かせ所があるとはいえ、平野には申し訳ないが、伴奏の一つとしての印象しか残らなかった。川瀬は伴奏指揮者としても評価されるだろうが、後半の交響曲「スコットランド」でのオケ統率力は鮮やかだった。オケが前半とは音がはっきり違うほど、豊かに響いた。この交響曲は主題が親しみやすくすぐに覚えられるが、また随所に自然描写(例えば、第1楽章最後近くで嵐か戦闘を思わせる描写)がある。この両者の表現にも説得力があった。(石多正男)

Classic CONCERT Review

中井恒仁&武田美和子 ピアノデュオリサイタル“ピアノの芸術”Vol.3
チャイコフスキー:交響曲第6番“悲愴”(作曲者自身による連弾版)
ムソルグスキー:展覧会の絵(ナウモフによる2台ピアノ版)
 素晴らしい二重奏の世界だった。二重奏にはもちろんいろんな在り方があるだろう。巨匠二人がぶつかり合って即興的に演奏する協奏型、どちらか一方がぐいぐい引っ張る独奏主導型、二人がすっかり溶け込んでしまう融合型。中井と武田の二重奏はそれぞれソリストとしての力、二重奏を楽しむ気持ち、そして融合、いずれの点も感じられた。上記のいずれとも言い難い一つの理想形を示してくれたように思えた。ご夫婦だということで、長年二人で二重奏を楽しんできた、その歴史の積み重ねを感じさせるものだった。
 編曲の目的にはいろいろあるが、交響曲をピアノや室内楽に編曲する場合、レコードのない19世紀にはより多くの人々が楽しめるように出版社主導のもとに編曲されたものが多い。だから、どうしても原曲に劣る印象を残す。チャイコフスキーの「悲愴」連弾版はそれをチャイコフスキー自身が行ったということで、もともと連弾版だったのではないかと思わせるくらい充実した作品になっていた。ただ、聴衆はどうしても交響曲と比べてしまうので、第4楽章の「ラメント—ソ」(悲しみに沈んで)の表現は弦楽器に勝てないかなと思った。とはいえ、「展覧会の絵」は編曲のすばらしさ、そして演奏のきらびやかさ、彩の豊かさに感激した。オリジナルは独奏ピアノのための作品で、これを2台にしたのだから、音が加わっていたり、カデンツァが挿入されたりしている。中井がしっかりした音で原曲にしたがって演奏する上を、ppの装飾的なフレーズを演奏する武田の音が非常に快かった。当夜を通じて、ダイナミックレンジの広さ、表現の幅の広さ、響きの多彩さ、そしてなんといっても二人の息と感性の調和! 素晴らしかった、楽しめた。(石多正男)

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲】

ヘルベルト・
ブロムシュテット



レオニダス・カヴァコス

ヘルベルト・ブロムシュテット レオニダス・カヴァコス(ヴァイオリン) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(11月12日、サントリーホール)
 ブロムシュテットのブルックナーは「純粋」だ。夾雑物や誇張、テンポの動かしや、余計なアゴーギクとは無縁。それはブルックナーのひとつの理想形と言える。
 ゲヴァントハウス管弦楽団は素晴らしかった。バイエルン放送響の明るい音とよい対照を示す影のある深く、しっとりとした音。弦と木管に特に顕著だ。金管の落ち着いた艶のある音もブルックナーにぴったり。
 第1楽章のひそやかなヴァイオリンのトレモロと、チェロとホルンによる第1主題を聴いて、名演を確信した。インテンポで揺るがない全管弦楽によるコーダの厚みは圧倒的。
 第2楽章アダージョ、3度目の主題が第1ヴァイオリンの艶やかな6連符の上に盛り上がっていく。ノーヴァク版による演奏だが、練習番号Wの頂点ではシンバルとトライアングルは使われなかった。これは、バンベルク響と同じ。練習番号Xの4本のワーグナーテューバと続くホルン2本が加わっての、ワーグナーに捧げた葬送音楽のふくらみと芯のしっかりとしたハーモニーも実に深い。
 第3楽章スケルツォの予想を超える雄大さに、ブロムシュテットのこれまで知らなかった一面を見た気がした。大きな波とも、荒れ狂う海とも形容したくなる、スケールが大きいスケルツォ。90歳のマエストロの小さな動きの指揮から、これほど巨大な音楽がどうしたら生まれるのか。トリオのなんと雄大なことか。
 第4楽章フィナーレは見事の一言。隙がまったく無い。滔々と流れる大河のように、広く大きな世界を築き上げて、演奏を終えた。
 前半のレオニダス・カヴァコスをソリストに迎えたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は、音楽性の高い演奏であることは確かだが、カヴァコスが本来持っている実力を完全に発揮したとは言えないのではないだろうか。その理由は、演奏に輝くものがなかったから。もっと内側から湧き出すべきエネルギー、覇気が感じられなかった。昨日のブラームスの疲れがとれていないのでは。ただ、アンコールに弾いたバッハのガヴォットは繊細な装飾音で魅了した。ゲヴァントハウス管弦楽団のオーボエの深い音に酔った。そして弦のピチカートのなんと奥深いことだろう。本当に味わい深いオーケストラだ。(長谷川京介)
 
写真:ヘルベルト・ブロムシュテット(c) 
レオニダス・カヴァコス(c)MarcoBorggreve

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

ユベール・
スダーン


フランク・
ブラレイ

ユベール・スダーン フランク・ブラレイ(ピアノ)東京交響楽団(11月14日、サントリーホール)
 スダーンの指揮するドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」は、スケールが大きい。民族色はあまりないが、明快でシンフォニック。聞き慣れた曲が新鮮に響く。父の胸に抱かれるような、包容力がある。
 第2楽章がとても温かい。特に中間部に味わいがある。16型の編成。8台のコントラバスが厚みのあるピチカートをたっぷり響かせる。
 76小節目からのpppのチェロのトレモロにも神経が通っていて音が深い。フルート、オーボエ、クラリネットのソロもよく歌う。コンサートマスター、グレブ・ニキティンとチェロの二重奏も素晴らしい。
 第4楽章のホルン、トランペットの主題も響きにふくらみがあり、音楽に余裕が生まれる。弦に主題が受け継がれるが、低弦を際立たせるので厚みがあり、土台がしっかりとした音楽になる。
 前半のレーガー「ベックリンによる4つの音詩」は5日前に上岡敏之新日本フィルで聴いたばかり。めったに演奏されない曲が重なることも珍しい。上岡とはまったく違う解釈。例えれば、スダーンを色彩豊かな印象派の明るい絵画とすれば、上岡はレンブラントのように影を生かした演奏と言えようか。切れ味のよい指揮だった。
 フランク・ブラレイをピアノに迎えた、ダンディ「フランスの山人の歌による交響曲」も明るい響き。この曲が循環形式で書かれていることがよくわかる、流れに一貫性があり、すっきりと見通しがよい。
 ピアノ協奏曲のようにピアノを前面に置いたことはよかった。6月に大野和士都響で聴いたときは、ピアノは蓋を取り外し、指揮台に向け置かれたため、ロジェ・ムラロの音はほとんどオーケストラに埋もれてしまっていたが、今回は良く聞こえた。川崎に次いで二回目の演奏ということもあり、ブラレイとスダーン東響の息が良く合っていた。ブラレイのアンコールはドビュッシー、前奏曲集第1巻から第6曲「雪の上の足跡」。ひとつひとつの音の違いをよく表現していた。(長谷川京介)

写真:ユベール・スダーン(c)F.Fujimoto


Classic CONCERT Review【オーケストラ】

ピエタリ・インキネン 日本フィル ブルックナー:交響曲第5番(11月18日、サントリーホール)
 北欧的なブルックナーとも言えるだろうか。第2楽章アダージョの再現部でゆったりと第2主題が出たときに、ひんやりとした澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだようなすがすがしい気持ちになった。それは、同時にインキネンと日本フィルの演奏が、精神的な高み、聖域に達した瞬間でもあった。
 インキネンのブルックナーは、爽やかさを基底に置きながら、全体の構造が明解で、すっきりと見渡せる特長を持っていた。
 日本フィルの金管は力演だったが、古巣にゲストで入った日橋辰朗のホルンの素晴らしさが、全体の演奏を持ち上げることに大きく貢献していた。全曲に渡って彼のホルンが最高の輝きを聞かせた。それはソロばかりではなく、フルートとの対話にせよ、第2楽章アダージョのコーダの主導にせよ、あらゆる場面で、要所を固めた。インキネンが演奏後、真っ先に日橋を指名したのも当然だろう。
 インキネンと日本フィルのブルックナーは、これまで第7番、第8番を聴いたが、回を重ねるたびに、充実した響きになってきていると感じた。明解さに、力強さも加わり、たくましくなってきている。今後が楽しみだ。
 なお、1曲目にフィンランドの作曲家、ラウタヴァーラ(1928-2016)の「In the Beginning」(日本フィル共同委嘱作品/アジア初演)が演奏された。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オペラ】

シルヴァン・カンブルラン 読響 メシアン:歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」<演奏会形式>(11月19日、サントリーホール)
 240人の出演者全員の意識が一つになり、理想的な公演が実現したことを喜びたい。読響創立55周年&メシアン没後25周年記念でもあるが、全曲日本初演の意義と共に、日本演奏史に残るコンサートになったことは間違いない。
 出演者全員がヒーローだが、筆頭はカンブルラン。世界で最も回数多く(24回!)この曲を指揮しているだけでなく、作品に対する愛も最も深いと想像する。その気迫と情熱のこもった、細部まで目の行き届いた指揮は、演奏のレベルを限りなく高めた。
 ソリスト全員が素晴らしかった。中でもヴァンサン・ル・テクシエ(バリトン)の品格があり、温かく包み込むような声は、(聖フランチェスコ)にふさわしい。
 エメーケ・バラート(ソプラノ)は、身体全体から発声しており、その滑らかな美しい声は(天使)そのもの。最初はオルガン席サイドから登場。最後の場面もその場で歌ったが、声の通りが素晴らしく、距離をまったく感じさせない。
ほかに、(重い皮膚病を患う人)のペーター・ブロンダー(テノール)の役柄を掘り下げた歌唱が、強く印象に残った。
 新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル(指揮:冨平恭平)の合唱は、弱音の微妙さから、最大のクライマックスの厚みまで、本当に満足がいくものだった。
 読響の演奏は讃えられるべきだ。分奏を繰り返した成果が見事に発揮され、読響演奏史としても、語り継がれるべきアンサンブルを聞かせた。中でも数多い打楽器、特にシロフォン、シロリンバ、マリンバ、グロッケンシュピール、ヴィブラフォンは、鳥の声として常に複雑なリズムを叩き続ける。その正確な演奏は練習の積み重ねから生まれたのだろう。木管、金管、弦もベストを尽くした。
オンド・マルトノはオルガン下と、LC、RCブロック後方壁際に置かれ、立体的な響きを作り出した。第5景『音楽を奏でる天使』での、「天使のヴィオール」主題と、かすかに聞こえる合唱のハーモニーは、天上の世界そのものを思わせた。
 第6景『鳥たちへの説教』での木管による様々な鳥の鳴き声は、木管の聴きどころであり、打楽器と共に鳥類博物館に迷い込んだような感覚を楽しんだ。
 第8景『死と再生』の大団円は、演奏が最高度に達し、文字通りまばゆい輝きとなって結実した。カンブルランの手が下りるまで、保たれた静寂は、聴衆もまた演奏に参加していたことを実感させた。ソロカーテンコールに登場したカンブルランが、聴衆に何度も拍手を送ったことが、それを裏付けていた。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【器楽・ピアノ】

桐榮哲也ピアノ・リサイタル(11月20日、トッパンホール)
 桐榮哲也(とうえいてつや)の演奏を聴くのは2度目。今回も作品に真摯に向き合い、外連味や自己を前面に出すことなく、譜面を通して作曲者の意図に忠実に沿う姿勢に打たれた。
 折り目正しく、考え抜かぬかれた演奏であるが、それが長所とも短所ともなることが、生のコンサートの難しさでもある。
 良い面として、出たのはシューマン「幻想曲」第3楽章。シューマンのあふれるほどの感情が、桐榮の抑制のきいたピアノと絶妙のバランスがとれ、格調高かった。またベートーヴェン「幻想曲」は、思い切りの良いピアノが、ベートーヴェンの断固とした強さを表現し、中間部分でのよく歌う演奏は、作曲者のロマン性を余すところなく伝えていた。
 ドビュッシー「練習曲」の3曲、とくに第4番の低音のやわらかな響き、第5番の柔軟な右手が印象的。ラフマニノフ「楽興の時」第1曲のきめ細やかな音、第4曲の盛り上げとバランスの良さは素晴らしい。
 一方で、時にもっと大きな表現、感情の発露があってもいいのでは、と思わせる面もあった。例えば、シューマンでは第1楽章の陰影不足、第2楽章の情感。ラフマニノフは第2曲の技術以外の表現、第3曲のロマン性不足、第5曲のノクターンのような曲想は桐榮に合うと思って期待したが、意外にあっさりとしていた。第6曲はよくピアノを鳴らしたが、もうひとつ何かが足りない。ファンタジー、霊感のようなものがほしい。
 こうした点は、桐榮のまじめに考えすぎる姿勢がブレーキとなり、時に迷路に入り込んでしまうからではないか、と想像する。
 プレッシャーから解放されたのか、アンコールで弾いたスクリャービン「練習曲OP.8-12」の、鳥のように自由に大空を飛ぶ演奏は、桐榮の本来持っているはずの、大きな表現力をうかがわせた。すべての演奏をこのように行うことは、作品の様式感を壊すかもしれないが、失敗を恐れず、チャレンジしてほしい。(長谷川京介)

写真:(c)Yoshinobu Fukaya/aura.Y2

Classic CONCERT Review

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第51回ティアラこうとう定期演奏会
グローフェ:ミシシッピ組曲
ガーシュィン:ラプソディー・イン・ブルー(ピアノ独奏 奥田弦)
J.ウィリアムズ:「ハリー・ポッターと賢者の石」より
同:「スター・ウォーズ」組曲
指揮:栗田博文 (11月25日 ティアラこうとう大ホール)
 20世紀はアメリカの世紀である。軍事をはじめ経済、文化、社会のすべてをリードした。音楽や映画も同じで、この日はこれらを存分に楽しめた。16歳だという奥田は、すでにさまざまな舞台に慣れているはずだが、ステージへの登場退場の姿が初々しく、その人柄からも多くの聴衆が魅了されたのではなかろうか。ガーシュウィンの即興部分では、他では聴けない彼独自の世界を堪能させてくれた。奇をてらうことなく、むしろ上品で、一般のジャズプレーヤーよりはるかに美しい音で演奏してくれた。即興は破天荒というよりはクラシックの変奏曲に近い感じだったが、彼の素直な人間性が聴けたようでよかった。コンサート前半が終わるところで2曲のアンコールは珍しいが、1回目は自作の「いにしえの曲」、2回目は聴衆からお題をいただいての即興だった。会場とのコミュニケーションがよく取れていて、会場全体がホッコリとした空気に包まれた。
 指揮の栗田も解説トークを入れた。ガーシュィンではピアノが即興なのでリハーサルの時とは違う、これに合わせるのが大変だったなどと本音を語られると、こちらも演奏者たちへの距離感がぐっと縮まる。後半のJ.ウィリアムズは言わずと知れた20世紀映画音楽の大巨匠。とはいえ、映像を離れてオケだけの演奏では気づかなった発見もあった。チェレスタ、ハープ、さまざまな打楽器の音を楽しむことができ、グローフェなどとは違うオーケストレーションの巧みさがよく感じられた。金管中心の華やかな部分の後、弦楽器が優美で抒情性のある主題を演奏すると、その対比の美しさに改めて感動した。元気をもらえるだけではない、優しさに包まれた曲でもあることにも気づかされた。
 東京シティ・フィルは江東区に溶け込もうとしている。終演後、団員がロビーに立ち、聴衆と会話し、見送る姿は、帰宅への道の快いいざないとなった。(石多正男)