2015年2月 

  

Classic CD Review【交響曲】

「ベートーヴェン:交響曲第4番 変ロ長調 作品60、第7番 イ長調 作品92 / 小澤征爾指揮、水戸室内管弦楽団」(ユニバーサル ミュージック、NHKサービスセンター、デッカ/UCCD-1413)
  2014年1月と5月に水戸芸術館コンサートホールATMで収録された小澤征爾の最新ライヴ盤。このCDではファンはすっかり昔の元気を取り戻した小澤を聴くことが出来る。彼の演奏は張りのある音が曲全体に漲っており、病を見事克服した小澤には、病を得る以前に較べ驚くほどの円熟味が感じられ、完全復活どころか一段も二段も上の境地に達したと言える。特に両曲の第2楽章での叙情的とも言える歌心は以前の小澤にはなかったものである。特に第4番の第2楽章は素晴らしい。そして両第3楽章のスケルツォ部分とトリオ部分の緩急の対比も実に見事。
 その上で特筆したいのは水戸室内管弦楽団の飛び抜けた上手さである。国内外の名手たちによって編成された室内オーケストラだが、指揮者を置かないアンサンブルを基本にしているため、そのアンサンブルの良さは格別で、胸の空く気持ち良さだ。CDリーフレット表紙写真の小澤の目には完全復活の鋭さが感じられる。 (廣兼 正明)

Classic CD Review【交響曲】

「ブルックナー:交響曲第6番 イ長調 WAB106「ノーヴァク版」/ パーヴォ・ヤルヴィ指揮、フランクフルト放送交響楽団」(ソニー・ミュージックエンタテインメント、ソニー・クラシカル/SICC-10215)
  今年の9月からN響の常任指揮者に就任する人気者のパーヴォ・ヤルヴィが、フランクフルト放送交響楽団と組んで2008年5月に、第7番からリリースが始まったブルックナー交響曲全集のVol.5(第6番)が発売される。前回のVol.4(第4番)からは何と1年半振りだ。まあブルックナーほどの大曲となれば、その指揮者、オーケストラにとっては媒体そのものが後世に半永久的に残る訳で、録音には事前の準備に可成りの時間が必要であることは間違いなかろう。さて今回の第6番はブルックナーのシンフォニーの中で最もブルックナー的でない明るく煌びやかなイ長調で書かれており、メロディックな部分も多くあるためファンも多い。そして初稿完成後に書き換えが殆ど無いことでも知られている貴重な存在でもある。しかしこの曲は何故か演奏される機会が少ない。パーヴォもこの不公平な扱いにCDのライナーノーツの冒頭でクレームをつけている。パーヴォ自体この曲に対しては可成りの乗り気を示している事が良く分かる。彼の演奏を聴くと先ず明るく覇気がある。そして完全にこの曲を楽しんでいることが解る。残りの5曲(第0,1,2,3,8番)も既に収録済みであり、日本でのリリースが待たれる。(廣兼 正明)

Classic CD Review【室内楽曲・器楽曲(アコーディオン)】

「ヴィヴァルディ:協奏曲集《四季》、他 / リシャール・ガリアーノ(アコーディオン、アコーディナ)+弦楽五重奏(ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス各1)」(ユニバーサル ミュージック、ドイツグラモフォン/UCCG-1692)
  フランス、カンヌ生まれの名アコーディオン奏者、リシャール・ガリアーノによるヴィヴァルディの「四季」である。4歳でアコーディオンを始め、その後ニースで和声法、対位法等を本格的に習得、そしてクリフォード・ブラウンのジャズに傾倒、ピアソラの影響をも受ける。こんなガリアーノがアコーディオンで演奏する四季とはどんなものだろう。彼は以前からこの「四季」に興味を持っており、これを演奏するためにガリアーノ七重奏団を創設したが、そのメンバーは上記本稿のタイトル欄の通りである。6人なのに七重奏にした訳はガリアーノが2種類の楽器を使い分けるからで、因みにクラシック・ファンには全く知られていない「アコーディナ」は鍵盤ハーモニカ(ピアニカ)の鍵盤をボタン式に変えたような楽器である。ガリアーノは今年の2月に「ガリアーノ七重奏団」として来日し「四季」を演奏する。
  さてガリアーノの四季は結論から言えばバロック音楽に対して大変真面目に、そしてしっかりと弾いている。弦楽五重奏の伴奏でアコーディオンのソロを初めて聴いたとき、大きな違和感はなかったが、部分によってはやはりアコーディオンのリードを発音体としての音が気にならない、と言えば嘘になるかも知れない。しかしよくここまでのアンサンブルが出来たことに対しての驚きの方が大きい。そして冬の第1楽章冒頭でのアコーディオンが作る風の擬音は面白い。
(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲(ピアノ)】

「In a Landscape〜ある風景のなかで/榎本玲奈(ベルタレコードYZBL-1040)
  ピアニスト榎本玲奈のファースト・アルバム「In a Landscape(ある風景のなかで)」は、国の異なる4人の作曲家が選出されている。イギリスのグラハム・フィトキン(1963-)、日本の佐藤聰明(1947-)、アメリカのジョン・ケージ(1912-1992)、そしてエストニアのエリッキ=スヴェン・トゥール(1959-)。ケージ以外は戦後の作曲家であるが、彼の「In a Landscape」という曲を軸にアルバムが構成されていることがわかる。
 フィトキンはミニマルないしはポストミニマルの作曲家で、「The Cone Gatherers」(1987)、「Fervent」(1994)、「Relent」(1998)の3作品が取り上げられている。冒頭に収められた「Relent」は、曲名の「やすらぎ」という意味合いに反して、刺激的かつリズミカルに音をドライヴしながら、不規則な運動を繰り返していく。榎本は他のピアニストに比べると少し遅めにはじめるが、それによって内部のリズムを浮き上がらせることに成功している。ロック世代のフィトキンと対になるのがエリッキ=スヴェン・トゥールのピアノ・ソナタ(1985)。In Speという実験的なロック・バンド出身の彼は、1980年代初めにミニマル的な反復やパルス、ネオバロック、無調的なモダニズムの手法を巧みに融合してきた。ソナタは調性に基づく3楽章の古典的なソナタだが、聴いているとペダルの使い方に独特の効果をもたらしている。長く引き伸ばされたペダルが生み出す音は、ケージの「In a Landscape」(1948)にも共通する。榎本は形を変えていくパッセージの色彩を動かして、音の万華鏡を見ているかのような印象を与える。
 佐藤聰明の「コラール」(2000)は、トレモロによるモワレ効果を狙った初期のピアノ曲を思い起こさせる。それは当時ミニマルの変種やニュー・トナリティーと呼ばれたが、原点回帰のこの「コラール」はバッハ没後250年を記念した作品で、和音がモーダルなメリスマ的な旋律を光の環のように取り巻いており、ゆらめくような静寂のなかに祈りの高まりが感じられる。そしてアルバム・タイトルとなっているケージの「In a Landscape」(1948)は、確定されたリズム構造をもつ作品で、ペダルを押したまま夢心地にモーダルなメロディーが放射されていく。その反復的なモーダルな音の動きは、広い意味のニュー・トナリティーの最初期の作品であり、このアルバム全体の基調音といっていいだろう。いいかえるなら、そこから見える風景の未来のパースペクティブがこのアルバムなのだ。湖上で波紋を広げようとしている美しいジャケット写真、ケージのニュー・トナリティーの最初の波紋がミニマルを経て今日まで広がっていく。これがピアニスト榎本玲奈の現在地点である。
(三橋 圭介)

Classic CD Review【器楽曲(ヴァイオリン)】





「ベートーヴェン:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ集(全3集10曲) / ルノー・カピュソン(ヴァイオリン)、フランク・ブラレイ(ピアノ)」(ワーナーミュージック、ワーナー クラシックス/WPCS-13046〜48〈分売〉)
  フランスを代表するヴァイオリニスト、ルノー・カピュソンの来日を記念しての再発である。今回は第2弾として11枚が同時に発売されたが、その中の3枚がこのベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタである。ピアノは彼の最も気の合う仲間の一人、フランク・ブラレイがつとめている。そしてこの11枚の内訳を見ると、ベートーヴェン以外にシューベルト2枚とブラームス2枚の7枚がドイツとオーストリアで、フランスものは1枚半しかない。筆者はこのすべてを聴いてみたが、ベートーヴェンとブラームスの出来が他に較べて一段と素晴らしい。特にベートーヴェンのソナタはどの曲もまとまりが良く、フランス風とも言える典雅なムードを湛えており、洗練されたベートーヴェンがここに形作られている。例えば第5番「スプリング・ソナタ」の第1楽章でよく言う「春風駘蕩」が本当の春風の爽やかさを感じさせてくれる。そして「アレキサンダー・ソナタ」の3曲目、第8番の可愛らしさも実に上手く表現されている。そしてブラームスの「ソナタ」と「ピアノ四重奏曲」に関してもどことなくフランスの香りがしてくる。これがルノー・カピュソン独特の持ち味なのだ。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲(チェロ)】

「宮田大 チェロ一會集/フランク:チェロ・ソナタ イ長調、ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ、フォーレ:エレジー Op.24、黛敏郎:BUNRAKU チェロのための(1960年)、尾高尚忠:夜曲(1942年) / 宮田大(チェロ)、ジュリアン・ジェルネ(ピアノ)」(N&F、NF25502〈CD〉、NF65502〈SACD〉)
 これは「一會集」と言うに相応しいアルバムである。久しく聴いていなかった宮田大の大きな成長を証明する会心の出来である。最初のフランクに於ける熟成した音で第1楽章から完全に圧倒されてしまった。そしてこの曲がヴァイオリンのためのソナタからのアレンジではなく、音域から見ても最初からチェロのための曲としてフランクが考えたといわれる所以なのだ。そして昨年の10月まで使用していた故・斎藤秀雄所蔵の名器テストーレを今回の収録にも使用したが、これだけ朗々とした音を聴くと、矢張りこの楽器との相性は抜群と言わなければならない。今回はフランク、ラヴェル、フォーレとフランス物を中心にプログラムとなっているが、宮田のこれまでの音楽歴から見ても至極当然であろう。そしてこのアルバムの演奏を聴くに付け、現在フランス物をこれ以上素晴らしく演奏するチェリストが日本にいるだろうかと考えてしまう。最後に入っている日本人作曲家の2曲も演奏的には決して易しくはないだろうが、日本人ならばとても取っつきやすい曲であり、チェロと三味線の融合の極みとも言えるムードを持っている。 (廣兼 正明)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「千葉フィルハーモニー管弦楽団 第30回演奏会」1月10日、習志野文化ホール
 千葉フィルは創立30周年を迎え、1985年に県内の高校オケOBOGを中心に結成されたという。音楽監督 兼常任指揮者は金子健志である。オーケストラに興味・関心を持つ人が増え、アマチュアによる演奏会も多い。千葉フィルは技術が大変高度で、どの楽想も豊かな情感が息づいているのが大きな特色ではないだろうか。楽団員一人ひとりも熱心に音楽に取り組んでいる様子がよくわかり、特にヴァイオリンの奏者などは、ダイナミックな箇所で、内側から突き上げてくるような激しい気分で音楽を盛り上げる。豹が獲物を狙うような感じであり、その一方では、形の正しさ、釣り合いの良さも、巧みに表現されていた。
 プログラムの前半は、シベリウス 交響詩《エン・サガ》、バルトーク《中国の不思議な役人》ハイライト。バルトークの作品は、プロのオーケストラでも弾くのは難しいが、千葉フィルの演奏は、よく引き締まっており、木管のうまさが印象に残った。指揮者の金子健志が、本当にやりたいものを、まっすぐにこのオケに持ち出し、熱心に研究した成果が良い結果を生んだのだと思う。アマチュア・オーケストラも、キャリアを積み重ねてゆくと、このような素晴らしい演奏ができるのだと感心しながら聴いたのであった。
 プログラムの後半はチャイコフスキー 交響曲第6番《悲愴》。千葉フィルは、チャイコフスキーを13回、演奏会で取り上げ、重要な作曲家の一人だという。金子健志は、絶妙なバランスをとりながら音楽を進めてゆき、特に第2楽章が美しく、弦が艶のある柔らかな音でよく歌っていた。それに対して第3楽章は、もう少し、音量の豊かな変化と、力強い推進力があってもよかったのではないだろうか。終楽章は、過度を避け、陰影のある表現であった。
 2015年8月2日のマーラー 交響曲第6番《悲劇的》も楽しみである。
(藤村貴彦)

Classic CONCERT Review【室内楽(チェロ)】

「ダニエル・ミュラー=ショット 無伴奏チェロ・リサイタル」1月13日、浜離宮朝日ホール
 初めて聴くチェリスト、ダニエル・ミュラー=ショット。1976年ミュンヘン生まれ。39歳。1992年、15歳で「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」で優勝。世界の一流オーケストラ、指揮者との共演履歴は「きら星のごとく」。一年前にアラン・ギルバート指揮ベルリン・フィルとドヴォルザークの協奏曲を共演したと聞けば、楽壇での評価の高さがわかる。
 ダニエル・ミュラー=ショットとはどんなチェリストか。それを判断するため、今回のリサイタルでは、まずJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲第5番「サラバンド」に注目してみた。この曲は個人的に強い印象がある。ヨーヨー・マがカラヤンの追悼セレモニーで弾き、ロストロポーヴィチが小澤征爾N響と共演したさい阪神淡路大震災直後だったため、コンサートの最後に「犠牲者への追悼」として弾いた。もちろんダニエル・ミュラー=ショットの演奏は、リサイタルの中での演奏であり、追悼の意図はない。しかしこの曲の持つ厳粛な内容をどう弾くのか興味があった。
 結論から言えば、それは極めて繊細で誠実で、フレーズのひとつひとつが明解で曇りがなく、どこまでも素直な表現になっていた。ミュラー=ショットが師事したチェリストの名前を見れば、彼の特長もよく理解できる。ワルター・ノータス、ハインリヒ・シフ、スティーブン・イッサーリスという錚々たるアーティストの芸風をミュラー=ショットも受け継いでいるのではないだろうか。ノータスの実演は聴いたことはないが、シフはピアノ・トリオのチェリストとして、スティーブン・イッサーリスは協奏曲を二度聴いた。彼らの美点である響きの明快さ、端正さ、激しい表現でも失われない気品というものが、ダニエル・ミュラー=ショットにも受け継がれている。
ただその誠実さ(生真面目さと言ってもいいかもしれないが)は、時に思い切った表現の壁になっているようにも感じられた。バッハの無伴奏チェロ組曲では、重厚さや厳めしさよりも、音楽としての美しさに焦点が向けられるため、良い響きで美しい演奏ではあるものの、深く響いてくる部分が減じることもある。第2番と第5番が弾かれたが、ピリオド奏法とは無縁のストレートな演奏だった。
 ミュラー=ショットは近・現代の作曲家の紹介にも積極的である。
 ヒンデミット、アメリカの作曲家ジョージ・クラム、プロコフィエフの未完成の無伴奏チェロ・ソナタ嬰ハ短調という技巧的にも内容的にも、演奏者に高い水準を求める作品も見事に弾ききった。プロコフィエフだけは一瞬音程のあやしいところはあったけれど。
 ただ、ここでも荒々しさや激しい主張という点でやや物足りなさを感じたことは確かだ。しかし、ヒンデミットでの演奏は冒頭の力強い主題から充実ぶりは素晴らしい。特に「緩やかに」と指示された第3楽章の静謐さには魅せられた。
 アンコールはラヴェル:ハバネラとツィンツァーゼ:チョングリ、そしてブリテン:無伴奏チェロ組曲 第2番よりデクラマートの3曲。こちらは緊張がとけてのびのびとした演奏になっていた。
 ツィンツァーゼの「チョングリ」は師のスティーブン・イッサーリスもよく弾くので師からの直伝ではないだろうか。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「下野竜也 東京都交響楽団 第782回定期演奏会Aシリーズ<日本管弦楽の名曲とその源流⑲>1月15日、東京文化会館
 クレージー・キャッツやドリフターズがもしクラシックの名手だったらどうなるか。そんなことも頭に浮かんだ川島素晴の「室内管弦楽のためのエチュード」。川島素晴のモットーは「Action Music」すなわち演じる音楽であり、ステージと客席が一体となるような、聴く者も一緒に演奏している気分になるような音楽を目指していると川島は片山杜秀とのプレトークで語った。
 下野竜也の指揮は水を得た魚のように鮮やかで、後半のシュネーベルやカーゲルが都響の生真面目な演奏も相まってやや硬くなったのに対して、川島作品は楽しんで指揮しているように見えた。
 「室内管弦楽のためのエチュード」の第1曲から第5曲まではすでに初演されており、今回都響の委嘱により第6曲が加えられ、全曲演奏された。
 第1曲「Pre-Bridge」にはドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ストラヴィンスキー「春の祭典」などの引用がある。曲名は群馬県の前橋に由来。前=Pre、橋=Bridgeという造語。
 第2曲「Cool!(KTR-Hocket)」バーンスタインのウエスト・サイドストーリー風の指のスナップが入る。札幌で上演されるので「Cool」。「ホケット」は交互に旋律をかけ合う中世の音楽技法。
 第3曲「Spring」は委嘱を受けた大阪いずみホールにかけてある。最後にクラヴェス(ラテン音楽で使われる拍子木)を転がし打ち止めるという指示がある。大阪のボケを表すと思われる。最後下野の指揮はオヨヨのようなポーズで決める。これも指示があるのだろう。笑いが起きる。
 第4曲「River」は名古屋の白川ホールからの委嘱。川にかけたタイトル。スメタナの「モルダウ」の引用らしいフルートのグリサンドから始まる。
 第5曲「Vivace」は紀尾井ホールにちなむ。「生(き)生(お)生(い)」から生き生きとのヴィヴァーチェ。テンポが速い。
 第6曲「U-Zoo Potpourri」。都響の事務所が上野の東京文化会館にあり、上野と言えば動物園なのでこのタイトルになった。作曲の前に川島素晴は上野動物園に取材に行ったそうだ。「展覧会の絵」と「動物の謝肉祭」を意識したという。
 各曲の間にプロムナードとしてコミカルな旋律(コダーイ「ハーリ・ヤノーシュ」の「ウィーンの音楽時計」に似たメロディー)がはさまれ、パンダやサル山、トラ、ペンギンなどが描かれる。個人的には「両生爬虫類館」のぬめりのある音楽が印象に残った。
 ユーモアと皮肉に満ちた川島素晴の作品だが、音楽そのものは非常に緻密につくられていて、緊張感とともに一貫した流れがある。不協和音も多いが音響とリズムのセンスが抜群で、その才能が注目されているのがよくわかる。
 パフォーマンス的な要素は、ふざけているのではなく、川島素晴の作品の根幹である演劇と音楽の融合、昇華がもたらすものだ。従って彼の作品は会場に足を運ばないと全貌はつかみきれない。今回はその貴重な機会となった。
 後半は川島素晴自身が選んだ作曲家と作品が並ぶ。いずれも日本初演。二人とも音楽に演劇的な要素を組み入れることを重視する作曲家だが、今回のふたつの作品にはパフォーマンスはない。
 ドイツの作曲家ディーター・シュネーベル(1930〜)の「シューベルト・ファンタジー」は25分の演奏時間。1978年作曲のあと1989年に改訂しているので、改訂版によるものと思われる。小さな弦楽オーケストラを大きな編成のオーケストラが取り囲むように配置される。作品の下敷きになっているのは、シューベルトのピアノ・ソナタ第18番「幻想」の第1楽章。長野麻子氏の解説によれば、5オクターヴに及ぶ自然倍音を音列風に重ねた緻密なスペクトル(合成音)を形成したものとあるが、音がグラデーションのように広がって行くイメージとも言える。
 下野竜也都響の演奏は響きがやや硬く、倍音のふくらみは演奏からはあまり感じられなかった。
 「指揮者が倒れる」という指示のある「フィナーレ」やティンパニ奏者がティンパニに頭を突っ込むという「ティンパニ協奏曲」など、パフォーマンス作品で知られるマウリシオ・カーゲル(1931〜2008)の「ブロークン・コード」(タイトルは分散和音の意味)は、16型の大オーケストラで演奏された。
 音の動きに想像力を働かせて聴いてほしいと片山はプレトークで語った。聴いていると時間の感覚がなくなる。音の細やかな層が重なり合ったり、飛び交ったり、火花が散るような、光が行き来するような不思議な印象を持った。
 聴衆の入りは5割くらい。コンサートでこれほど少ない拍手を聴くのは初めてだが、盛んに拍手する熱心な聴衆も多い。自分もその一人だった。劇場型の現代音楽のコンサートは非常に刺激的であり面白い。こういう音楽は現場に行かないとわからない。(長谷川京介)
写真:(c)Naoya Yamaguchi
写真提供:東京都交響楽団

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ジャナンドレア・ノセダ指揮NHK交響楽団」1月16日、NHKホール
 ムソルグスキー(ラヴェル編)の「展覧会の絵」でノセダの力量を思い知らされた。マリンスキー劇場、トリノ王立歌劇場とオペラハウスで評価を高めてきたノセダの指揮は、劇場型と言っていいのではないだろうか。少なくとも「展覧会の絵」ではその側面が十二分に発揮されていた。
 最後の「キエフの大門」に向けて音楽が盛り上がって行く過程はオペラで様々なエピソードが積み重なり、最後には大きな流れとなって最後の大団円、カタストロフィを迎えるように劇的に表現された。
 それはまるでひとつのオペラを観るようであり、物語にそって音楽が進行していくような流れができていた。各曲の表情は掘り下げが深くて豊かで、また歌心にも満ちている。
 第2曲「古城」のアルト・サクソフォーンのよく歌う旋律(ソロは見事だった)や、第4曲「ブィドロ」のテューバの豊かな表情、そして第6曲「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ」ではゴールデンベルクを表す弦の重くたっぷりとした響きをN響から引き出した。こういう響きはふだんのN響からはなかなか聴けない。
 第9曲「バーバ・ヤガーの小屋」から「キエフの大門」のコーダは最大の山場として指揮者の腕の見せ所であり、どんな指揮者もここぞとばかりに派手に音を鳴らすところではあるが、ノセダの指揮は、単なる大きな音響ではなく、オペラのクライマックスのように念入りに表情を深くとって表現された。音に説得力があると言ったらいいだろうか、音楽で聴くものを説得し屈服させるだけの力強さがそこにはこめられていた。劇的な表情づけのうまさ、クライマックスへ持っていく運び方など、オペラ指揮者として身に付けたものが「展覧会の絵」でも発揮されていた。
 プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番を弾いたジェームズ・エーネスはノセダとも旧知の間柄。二人にはこの曲の録音もある。
 エーネスのヴァイオリンは端正で品が良く美しい。第2楽章の歌い上げるヴァイオリンのソロとそれにつける細やかなノセダの指揮が素晴らしかった。アンコールで弾いたJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番の第4楽章は、昨年12月に聴いたアリーナ・イブラギモヴァの激しい表現とは対照的に、エーネスはどこまでも艶やかで美しい。これも見事なバッハだ。
 最初に演奏されたリムスキー=コルサコフの組曲「見えない町キーテジの物語」は、ノセダのインタビューによれば、ロシアにおけるワーグナーの「パルジファル」という愛による救済をテーマにしたオペラからの音楽。N響の音を聴いていると、ああこれこそ日本のオーケストラだと思う。絹織物のような弦の響き。しかし野性味は少ない。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【吹奏楽】

「東京佼成ウインドオーケストラ 第122回定期演奏会」 1月17日、東京芸術劇場コンサートホール
 この日、池袋には、ロシア・サンクトペテルブルグと神奈川県の風が吹いた。2014年よりこの楽団の首席客演指揮者となったトーマス・ザンデルリンクは、サンクトペテルブルグで育ち、レニングラード音楽院で指揮法を学んだ正統派で、ショスタコーヴィチから曲を献呈されるという経歴を持っている。
 プログラム1曲目のムソルグスキー作曲・伊藤康英編曲による「聖ヨハネ祭の夜」は19世紀ロシア国民楽派を代表するモデスト・ムソルグスキーが晩年に書いたオペラ「ソロチンスクの市」の一場面に用いられたものである。
 2曲目は、「ヴァイオリン協奏曲 二短調」(ハチャトゥリアン作曲・木村牧麻編曲)。ソリストがヴァイオリンを軽々と持ってステージに現われた時から聴衆は不思議な興奮を覚えた。アラム・ハチャトゥリアンはグルジア・トビリシに生まれたアルメニア人であるが、モスクワ音楽院で作曲を学び、オイストラフにこの曲を献呈した。ソリスト石田泰尚は、あたかもパガニーニが憑依したような演奏ぶりであった。
 プログラム後半、ムソグルスキー作曲・ハインズレー編曲の組曲、「展覧会の絵」はこの日、指揮者と東京佼成のメンバーが一体となって創りあげた壮大な絵画のようであった。ザンデルリンクの指揮は、シベリア生まれのドイツ人ならではのリズム感を表現し、それにメンバーは全身で応えていた。久々にTKWOの素晴らしさを実感した。(斎藤好司)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ハンヌ・リントゥ 東京都交響楽団 第783回定期演奏会Bシリーズ」1月23日、サントリーホール
 20回にわたり続けられてきた「日本管弦楽の名曲とその源流」シリーズ最終回は都響委嘱作品、一柳慧の交響曲第9番「ディアスポラ」の世界初演が行われた。開演前に一柳慧氏と片山杜秀氏のプレトークがあった。
 会話の内容をかいつまむと以下の5点になる。なお、第9番という番号についての話はなかった。
 1.作曲の動機は戦争体験を音楽で残しておきたいため。
 2.第1楽章から第4楽章にかけ順次演奏時間が長くなり新しい扉を開けていく。
 3.第4楽章は「河」をイメージ。鴨長明の方丈記「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」を表現。偶然性の音楽。重奏は変奏のたび異なる。同じ演奏は二度とない。
 4.ティンパニにHとFの音があるが、広島と福島の意味がこめてある。
 5.今日のプログラミング(シベリウスとルトスワフスキ)は音楽と人間性がかい離している現代への警鐘。シベリウスは人間と音楽の親密さがあり、ルトスワフスキはポーランドで小国の悲哀を味わった。日本を含めた辺境の小国の作曲家の作品を集めた。
 その交響曲第9番「ディアスポラ」(離散、四散の意味)は34分くらいの作品。
第1楽章は序奏、導入部で静かに始まる。第2楽章はテンポが速く激しい。第3楽章はやや長く、チェロのソロがコントラバスのソロにつながり、やがて弦の合奏から全オーケストラの総奏になる。同じような音型が繰り返される。
 第4楽章はスメタナのモルダウを思わせるフルートから始まり、かなり流れの速い河のように音楽が流れていき、ルトスワフスキのチェロ協奏曲のように途中オーケストラが激しく自由に咆哮する部分がある。戦争の犠牲者の悲鳴なのかもしれない。最後は激しい爆発で終わる。
 率直に言って、作曲の手法に特別目新しいものは感じることができず、大音量の合奏も、前半のルトスワフスキの音楽がもつ壮絶さと較べると聴き手を戦慄させるまでには至らず、映画の音楽を聴いているような気持にもなった。大作ではあるが、成功作といえるのかどうか今の時点での評価は難しいのではないか。聴衆の反応は盛り上がりに欠けたが、前半のピーター・ウィスペルウェイのルトスワフスキのチェロ協奏曲の演奏が素晴らしすぎたので、一柳作品はその煽りを受けたのかもしれない。
 シベリウスの交響詩「夜の騎行と日の出」ではハンヌ・リントゥの指揮が冴えていた。暗く重い弦の響き、木管のひそやかな響き、夜明けのコラールのホルンよく揃ったハーモニーとコーダのホルンの息の長い余韻が美しい。都響のホルンは見事。リントゥはこの秋首席指揮者を務めるフィンランド放送響と新日本フィルを交互に指揮してシベリウスの交響曲ツィクルスを行うが、そのコンサートへの期待が大きくふくらむ演奏だった。
 ピーター・ウィスペルウェイをソリストとしたルトスワフスキのチェロ協奏曲は大変な名演となった。ウィスペルウェイはこの協奏曲をこれまで何度演奏しているのだろうか。曲に対する把握が完璧で非常に深い。
 この曲は大きく4つの部分からなり、チェロとオーケストラ(特に金管)が戦うように音楽を交わしあう。チェロは作曲家自身を、オーケストラは体制側を表していることは明白だ。冒頭のチェロの独奏のレの音の繰り返しは強烈だ。片山杜秀氏の解説ではその回数は演奏者に任せられ15回から20回程度と楽譜に書いてあるそうだが、ウィスペルウェイは35回繰り返した。以下金管あるいは全オーケストラとの激しいやりとりが続き、最後にチェロが超人のように一人全オーケストラに挑みついに屈服させ、ラ(La)の音を繰り返す。片山氏の解説を借りればルトスワフスキの頭文字と自由=Libertyを表すというが、それは正しいと思う。
 この曲は2012年1月ジャン・ギアン・ケラスのチェロ、レナード・スラトキン指揮N響でも聴いた。それもすごい演奏だったが、曲のつかみはウィスペルウェイが何枚も上手だ。ケラスは技術的には完ぺきだったが、ウィスペルウェイのような深み、文字どおり体制と苦闘する作曲者のうめき声や呪詛の声までの深みはなかった。
 ウィスペルウェイはアンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲から第2番のサラバンドを弾いたが、導入にまたルトスワフスキの冒頭のレ音を入れたので、そのユーモアに笑いが起きた。しかしその笑いもどこまでも深く繊細なチェロの音により、感嘆から深い感動に変わって行った。
(長谷川京介)
写真:(c) Kaapo Kamu
写真提供:東京都交響楽団

Classic CONCERT Review【オペラ】

「藤原歌劇団創立80周年記念公演ファルスタッフ」1月24日、東京文化会館
 ヴェルディの「ファルスタッフ」は正直苦手だ。これまでサイトウ・キネン・フェスティバル(2003年小澤征爾指揮)と、昭和音楽大学(2011年松下京介指揮)の二度聴いただけ。山場となる場面はなく、喜劇がたんたんと進行していく。目立つアリアはなく最後に10人のソロと合唱による壮大なフーガはあるが、ヴェルディの他のオペラのような立派なアリアやドラマ性に欠けるため、好きなオペラとは言えなかった。
 ただ今回は巨匠アルベルト・ゼッダが指揮するというので、足を運んだ。ロッシーニの権威であり、2012年東フィルとのコンサートで聴いた「ウィリアム・テル」序曲やベートーヴェン「田園」の生き生きとしたリズム、色彩感にあふれた響きは忘れられない。
 86歳のマエストロは身体が少し小さくなられたように見えたが、その表情は少年のように若々しい。「ファルスタッフ」の最初から最後まで、指揮する姿には生命力が満ち溢れている。休憩が各幕間にもうけられたのはゼッダの身体も気遣ってのことだろう。
 ゼッダはオーケストラ(東フィル)を終始鼓舞しながら、歌手たちを後押しするように音楽を前へ前へと進めて行く。その推進力はどう考えても86歳という年齢を超越している。第2幕の最後のファンファーレや第3幕最後の10人のフーガの指揮もすごかったが、第3幕のフォードが娘とカイウスの結婚をすすめようとするときの背景に流れるメヌエットがはっとするほど格調が高かった。
 その表情から、ゼッダのつくる音楽が喜劇なのに哀愁を帯びているように聞こえ、これまでわからなかった「ファルスタッフ」がすこし理解できたような気がした。
ゼッダはプログラムの「ファルスタッフ〜夢と現(うつつ)の狭間で」というエッセイの最後に、「喜劇の持つ軽妙なリアリズムが純粋なおとぎ話の夢幻へと推移する中で、夢の儚い(はかない)なぐさめが厳しい現実の直視を幾らかなりとも和らいでくれているのである。」(冨永直人訳)と書いているが、これは現実的な喜劇が森の中での場面の第3幕に入ったとたん、登場人物たちが子供のように戯れ、音楽がファンタジーのようになることで聴衆も世知辛い浮世をひととき忘れ、登場人物と共に別世界に入っていくことを意味しているのだろう。メヌエットが儚い夢の中の音楽のように聞こえ、どこか懐かしい気持ちになったのは、ゼッダの指揮の魔法のせいかもしれない。
 今回の演出では、これまでのファルスタッフ公演で見られたような子供たちは登場せず、大人たちがファルスタッフをよってたかってつつく。演出の意図はゼッダが言う「登場人物たちが幼き日の戯れに興じる」ことを表すためだろう。
歌手陣はファルスタッフ役の牧野正人の健闘が光っていた。演技と言い声量といい、ファルスタッフらしさは充分に出ていた。クイックリー夫人を演じたメゾの森山京子の「Re-ve-ren-za」は可笑しくて今も耳に残っている。フォード役の堀内康雄も立派で、ナンネッタの光岡暁恵も好演。ただ全体に歌手たちの歌唱や演技を見聞きした限りでは、「ファルスタッフ」の登場人物を日本人が演ずる限界も感じた。プログラムの河野典子氏の解説によれば「ファルスタッフ」はイタリア人の歌手にもむずかしいとされる。それは歌手たちが歌うよりも喋り続ける点にあり、イタリア語のイントネーションを効かせ、なおかつ言葉の裏の意味(スラングも含め)まで把握しなければいけないからだという。
 ゼッダが歌手たちを懇切丁寧に指導しただろうし、出演者たちの努力も大変だったと思うが、それでも日本人の顔かたちや仕草が出ること、発音の抑揚の振幅の少なさや、畳みかけるようなリズムに乗り切れない点に違和感を覚える。イタリア語がわかるわけはではないが、雰囲気としてそう感じる。
 演出は粟國淳。第1幕ガーター亭の建物の枠組を最後まで使いながら、小道具係が黒子的に時にそのほかの登場人物となって舞台のしつらえを変えていく。
 ファルスタッフがテムズ川に放り投げられる場面では大きな布を川の流れにみたてて動かす。これは昭和音楽大学の舞台で実際に水が流れる川をつくったリアル感が、浅く幅の狭いかわいらしいテムズ川であったとしても、勝っていたかもしれない。しかしこの季節に水に投げ込まれたらファルスタッフ役は風邪をひいてしまうだろう。
(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「東京ニューシティー管弦楽団 第97回定期演奏会」1月24日、東京芸術劇場コンサートホール
 ニューシティーの今月の定期は、指揮者に大井剛史とチェリストの遠藤真理を迎えての公演。プログラムの前半は、深井史郎《パロディー的な四楽章》、そして尾高尚忠《チェロ協奏曲》であり、意欲的なプログラムである。どのオーケストラの定期でも、前半に邦人作品だけを取り上げることは滅多になく、その意味でも今回の定期は興味深かった。深井作品と尾高作品については、ここでは改めて紹介する必要はないだろう。尾高尚忠の《チェロ協奏曲》を弾いた遠藤真理の演奏は実に立派であり、豊富な音が出ていた。表現に無駄がなく、聴かせようとする音楽がまっすぐに客席に届いている。第一楽章、第三楽章の急な楽章は力強い。それに対して歌謡的で日本的情感を感じさせる第2楽章は、遠藤真理の持つ詩人的な美質も感じられ、彼女は並の音楽家ではない。
 プログラムの後半はドヴォルザーク《交響曲第8番》。指揮者の大井剛史は2013年より山形交響楽団の正指揮者、国内の数々のオーケストラ、オペラ、バレエを指揮して高い評価を得ているとのことだが、彼の音楽を聴くのは今回が初めてである。ニューシティーのオーケストラに耳あたりの良い響きを作り出すことに成功した演奏であった。音力の増減、音色の変化、旋律のしなやかな歌わせ方、バランスの微妙な工夫など、この指揮者の特性が感じられるドヴォルザークであった。特に第3楽章などは、音楽が自然に内からこみ上げてくるような趣があって美しかった。大井は自分の描いているイメージを率直に楽団員に伝えることができる指揮者のように思えた。
 ニューシティーの定期は昨年の11月に初めて聴いたのだが、楽団員一人一人が熱心に音楽に取り組んでいる姿勢が客席に伝わり、常に質の高い音楽を聴かせてくれるような感じがするのである。次回の定期も楽しみである。(藤村貴彦)