2015年1月 

  

Classic CD Review【管弦楽曲(交響詩)、声楽曲(歌曲)】

「R.シュトラウス:4つの最後の歌、交響詩《英雄の生涯》 作品40 / アンナ・ネトレプコ(ソプラノ)、ダニエル・バレンボイム指揮、シュターツカペレ・ベルリン、ヴォルフラム・ブランドル(ソロ・ヴァイオリン)」(ユニバーサル ミュージック、ドイツ・グラモフォン/UCCG-1690)
 2014年8月に収録された今や人気絶大のスター歌手となったネトレプコと、指揮界の巨匠であるバレンボイムとのR.シュトラウス生誕150周年最後を飾るに相応しい最新ライヴである。「4つの最後の歌」を聴いているとネトレプコの音楽的な大きな成長が感じられる。 オペラで育ったネトレプコらしく、死をテーマにしたこの4曲に対する感情の移入が素晴らしい。彼女を伴奏するバレンボイムはオーケストラを見事に統率し、彼女の感情の吐露に最適な陰影をつけているのは流石である。
 バレンボイムは次の「英雄の生涯」で作曲者の思いを十二分に表現し、その管弦楽法の素晴らしさを見事に、そして堂々と彼流に再現して見せる。手兵とも言えるシュターツカペレ・ベルリンを従え、彼自身の音楽に作り上げていく様は何とも言えない大きさを感じる。そして特筆したいのは第3曲「英雄の伴侶」のソロを弾くこのオーケストラのコンサートマスター、ヴォルフラム・ブランドルの上手さである。このブランドルには極限とも言える音楽性の高さを感じさせてくれた。(廣兼 正明)

Classic CD Review【室内楽曲(弦楽四重奏曲 他)】

「シューマン:弦楽四重奏曲全集、ピアノ五重奏曲&ピアノ四重奏曲 / ジュリアード弦楽四重奏団、レナード・バーンスタイン(ピアノ/五重奏曲)、グレン・グールド(ピアノ/四重奏曲)」ソニー・ミュージックエンタテインメント、ソニー・クラシカル/SICC-1769〜70〈2枚組〉)
 ジュリアード弦楽四重奏団全盛期のアナログ時代、1964から1968年にかけて録音された懐かしい演奏が装いも新たに再登場した。当時としてはジュリアード弦楽四重奏団の音程の完璧さによる美しいハーモニーと歯切れの良いリズムを持った情熱的な迫力ある演奏に大きな魅力を感じていた。そしてそこには今をときめく若く新しいクァルテットたちの演奏スタイルの原点があると考えている。今回発売された2枚組の1枚目には弦楽四重奏曲の3曲が収録されており、ジュリアード全盛時代の歴史に残る名演が記録されている。この3曲には上記に挙げたジュリアードらしさが満載されており、彼等の完璧な技術に裏打ちされた驚くべき完成度を持った音楽は、半世紀を経た現在でも決して色褪せていない。
 しかし2枚目のバーンスタインとグールドとのピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲は各々微妙な考えの違いから曲全体としての完璧性が不足しているが、これだけの大物同士だけに致し方ないだろう。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲(ピアノ)】

「J.S.バッハ:イギリス組曲集〜第3,1,5番 /ピョートル・アンデルシェフスキ(ピアノ)」(ワーナーミュージック・ジャパン、ワーナークラシックス/WPCS-12882)
  ポーランド生まれのアンデルシェフスキは今最も活躍しているピアニストの一人である。レパートリーはショパン、シマノフスキ、モーツァルト、ベートーヴェン、バッハなどと可成り広く、どんな曲でもその演奏は聴く人に強烈な印象を植え付ける。先ず第1に強弱のコントラストに対する彼独自の感覚だ。今年4月から5月にかけて収録されたこのバッハのイギリス組曲集でも、研ぎ澄まされた神経がフレーズの一つ一つの音を支配しており、正に入神の演奏ともいうべき不思議な感覚を与える。今回収録されている3つの組曲の24曲すべてに、他のピアニストでは聴くことが出来ないバッハの美しさを感じることが出来た。そして彼はまだ40代の半ばで成長の過程にあり、今後も大きな楽しみを期待させるピアニストであることは間違えない。尚この他に12月24日にはアンデルシェフスキの再発盤10枚がワーナークラシックスからリリースされる予定とのことである。(廣兼 正明)

Classic CD Review【オペラ(アリア集、全曲)】

「マリア・カラス/名盤SACDハイブリッド・2014リマスター・シリーズ(全25タイトル、内アリア集13タイトル〈14枚〉、全曲12タイトル〈39枚〉)」(ワーナーミュージック・ジャパン、ワーナークラシックス/WPCS-12974~5他)
  今前世紀の50〜60年代に活躍した不世出のプリマ、マリア・カラスの音源のうち、1949年11月から69年3月までにセッション録音されたEMI原盤を中心とする全53枚25タイトルが、現在のレーベル所有会社であるワーナー・ミュージックより2014年11月、12月の2ヶ月に分けて再発売された。このところメジャーを含む多くの原盤が一部の大手に収斂化し、このところようやく落ち着きを取り戻したと言えるが、一時は可成りの混乱がみられたようだった。
 1923年12月生まれのカラスは26歳でEMIに初レコーディングを行い、45歳の1969年迄録音を続けたが、その後は声の衰えも顕著となり以後の録音は皆無である。従って録音で聴く限り今回発売された25タイトルにカラスのすべてが含まれていると言える。この25タイトルの詳細は次のホームページですべてがお分かりいただけると思う。 (廣兼 正明)
http://wmg.jp/mariacallas/
写真=ドニゼッティ:歌劇「ランメルモールのルチア」全曲

Classic CONCERT Review【室内楽(ヴァイオリン)】

「ジ・アート・オブ・ワディム・レーピン」(11月27日、すみだトリフォニーホール)
 キャリアを更新し続けている逸材ヴァイオリン奏者、ワディム(ヴァディム)・レーピンが連続公演を行なった。1日目はアレクサンドル・クニャーゼフ(チェロ)、アンドレイ・コロベイニコフ(ピアノ)との共演。そして2日目は新日本フィルハーモニー交響楽団(指揮ロベルト・トレヴィーノ)との顔合わせだ。レーピンは1971年シベリア生まれ。5歳でヴァイオリンを始め、11歳で初リサイタル後、15歳で米国カーネギー・ホールの舞台に立っている。ベルリン・フィル、ボストン響、ニューヨーク・フィルなど無数のオーケストラと演奏し、2014年春には故郷で第1回トランス・シベリア芸術祭の芸術監督についた。初日では、61年生まれのクニャーゼフ、71年生まれのレーピン、86年生まれのコロベイニコフが広いステージの真ん中にちょこんと集まり、雄大な楽器の鳴りでチャイコフスキーの大作「ピアノ三重奏曲 イ短調作品50「偉大な芸術家の思い出に」」等を骨太に仕上げていくさまに快哉を叫びたくなった。ときに体をゆらしながら、ときに客席に視線を配りつつ悠々とプレイするレーピン。まさに定冠詞つきの“アート”が、ここにあった。(原田和典)
写真:(c)K. Miura

Classic CONCERT Review【室内楽(ヴァイオリン)】

「東京ニューシティ管弦楽団 第96回定期演奏会」(11月29日、東京芸術劇場コンサートホール)
 東京ニューシティ管弦楽団を聴くことは正直に言って今回が初めてだが、非常に力強い響きを出すオーケストラである。演奏された三曲は、どの作品も期待を裏切らない演奏であり、張り詰めた表現を目指している姿勢が感じられ、今後の成長も楽しみの一つ。
 指揮者はアンドレイ・アニハーノフ。歴史的指揮者ムラビンスキーの高弟ドミトリエフに師事し、1987年度全ソ連青年識者コンクールで優勝し、現在東京ニューシティ管弦楽団の客演指揮者でもある。感情の幅の広さ、奥行の深さ、強弱緩急の弾力的な表現など、ロシアの指揮者の特徴を備えているが、リズムや音色の作りなどにもう一息の精密さが欲しい。音の磨き方は少し古い時代のロシア趣味かと思われた。
 プログラムの最初はプロコフィエフの「古典交響曲」。アニハーノフの指揮をニューシティはしっかりと受け止め、活気あふれる良い演奏であった。
 二曲目はラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。セルゲイ・ソボレフが弾く予定であったが、風邪が悪化したためにルーステム・サイトクーロフに変更。彼は1994年ローマ国際ピアノ・コンクールで優勝し、2011年11月にテミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグ・フィルと来日している。速い音階的なパッセージも乱れず、音のツブも見事に揃えてよどみなく弾く爽快なテクニックなど、サイトクローフの長所が発揮され、最後まで強く迫ってくる演奏であった。
 後半はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。内から自然に湧いてくる高揚感のある演奏であったが、もう少し明暗の変転があっても良い。東京のどこのオーケストラよりも若い聴衆の姿が見えた。将来が楽しみなオーケストラである。(藤村貴彦)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「井上道義 復帰コンサート」(11月29日、埼玉会館大ホール)
 中咽頭がんから復帰を果たした井上道義。10月のN響、大フィルから始まった復活のコンサートはこの日が7度目。曲目はブラームスのヴァイオリン協奏曲と交響曲第2番。以前音楽監督を務めた新日本フィル、10代から知っている竹澤恭子という気心知れた仲間に囲まれて元気に指揮する姿から順調な恢復ぶりがうかがえる。新日本フィルも竹澤も井上の回復を祝福するように気持ちの入った演奏を繰り広げた。聴衆の拍手も温かい。会場の埼玉会館は開館から50年で残響は少ないが、ブラームスには合っている。
 ヴァイオリン協奏曲は重厚で遅いテンポで堂々と始まる。井上道義は男性的でぐいぐいとオーケストラから深く重い音をつかみ出し、ひとつひとつのフレーズを愛おしむように丁寧に指揮する。第2楽章の古部賢一のオーボエソロでは、体全体を使って大きな身振りで一緒に歌うような姿を見せた。再び音楽をすることができる喜びをかみしめているように見えた。
竹澤恭子のヴァイオリンも井上に負けず劣らず、弾き出しの重音の押し出しの強い響きから男性的で力がみなぎる。カデンツァの安定した技術と音楽性は聴くものを圧倒する。第2楽章アダージョ中間部のあでやかな表情とたっぷりとした豊かな響きも素晴らしい。第3楽章の歯切れの良い躍動感あふれる演奏まで、集中力は最後まで切れなかった。井上も竹澤に寄り添うようにきめ細かく丁寧につけていた。竹澤は井上に促されてアンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番のアンダンテを弾いた。一歩一歩ゆっくりと歩むような演奏は心がこもっており、「つらいこともありましたが、恢復され本当によかったですね」と井上に語りかけているようだった。
 後半の交響曲の前にマイクを持って井上道義が登場。
 『なぜ交響曲第2番をやることにしたか。ヴァイオリン協奏曲と同じニ長調だからではない。二年前に埼玉会館に来た時、近くの別所沼公園を見ていい意味で人工的で素晴らしいと感激した。日本の自然を真似した公園とは違い、ヨーロッパの公園のようで、ブラームスの2番がふさわしいと思った。ぼくの病気は大丈夫です』と語った。
 協奏曲同様、交響曲での井上の指揮は重厚さを維持し、充実した響きを新日本フィルから導き出す。こういう男性的で骨太のブラームスを聴くのはひさしぶりだ。コンサートマスターには元N響の山口裕之が座り、対抗配置のヴァイオリン群は、引き締まった明快な音を出していた。チェロとヴィオラも素晴らしく、井上道義の求める男性的な響きをつくりだす。
 オーボエの古部賢一のソロは交響曲でも冴えていたが、もうひとりの立役者はホルンの井手詩朗だ。特に第1楽章コーダ456小節目からの独奏と、第2楽章17小節目からの木管とともにフガートを続けるソロが素晴らしく、井上道義も演奏後最初に起立させ讃えていた。アンコールはブラームスの「ワルツ」を踊るように指揮した。コンサートが終わったあとの井上道義の表情には再び音楽に携わることができる喜びがあふれていた。(長谷川京介)
写真:(c)Takashi Iijima

Classic CONCERT Review【協奏曲】

「ミロシュ、ギター協奏曲の夕べ」(12月4日紀尾井ホール)
 当初ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」とともに「ある貴紳のための幻想曲」が予定されていたが、ミロシュの強い希望により、ギター・ソロ3曲と弦楽をバックにした2曲に差し替えられた。ミロシュの「アランフェス協奏曲」はテクニックがあるが、さらりとしている。思い入れたっぷりの演奏をするタイプではない。ひとつひとつの音がもう少し表情豊かだといいのだが。
 東フィルは8-6-4-4-2の弦。指揮のヨルダン・カムジャロフは元気のよい速いテンポでメリハリのあるダイナミックな指揮だが粗さもある。第1楽章の弦のスピッカート(弓を弾ませながら歯切れよく演奏すること)が揃わなかったのは残念。第2楽章アダージョでは、イングリッシュ・ホルンのソロを思い切り吹かせ、ミロシュも歌いこむということはなく情緒纏綿にはならない。
 後半のギター・ソロでは、最初のグラナドスのスペイン舞曲集から第5曲「アンダルーサ」がよかった。テンポをおとしてゆっくりと弾く表情が繊細で抒情があった。できればアランフェスもこうしてほしかった。アンコールの同じスペイン舞曲からの第1曲はさらによい。即興的でのびのびとしている。ミロシュの特徴はこうした自由に羽ばたく演奏にあるのだろう。
 「アルハンブラの思い出」はさらさらと流れるが味わいは少ない。弦楽の伴奏の「ロマンス」とピアソラの「リベルタンゴ」は弦楽のアレンジは面白いがギターがそれほど目立たないものがあった。
 ヨルダン・カムジャロフの指揮するプロコフィエフの「古典交響曲」は面白かった。細かなことを気にすることのないおおづかみの音楽で、思い切ったダイナミックな表情づけをする。ドラマティックな演奏を好むようだ。テンポは当初ゆったりとしていたが、第4楽章は一気に駆け抜けた。2013年に新日本フィルを指揮しており、来年2月には仙台フィルを指揮する予定が入っている。なかなかのイケメンで人気が出そうだ。
(長谷川京介)
写真:(c) Lars Borges/Mercury Classics

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「パーヴォ・ヤルヴィ、ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団 ブラームス・シンフォニック・クロノロジー 第1日」(12月10日、東京オペラシティ・コンサートホール)
 初日はラルス・フォークトのピアノでピアノ協奏曲第1番と、交響曲第1番のプログラム。
 前半は格闘技のような演奏だった。第1楽章から荒々しい響きとざらついた音色のドイツ・カンマー・フィル。ヤルヴィは煽り立てるように指揮し、対するフォークトも、ゴリゴリとしたピアノで対峙する。男性的で体育会系のブラームスにすこし辟易する。第2楽章アダージョはさすがにファゴットやクラリネットのソロや、フォークトのピアノ、特にカデンツァに美しさや静謐さ、ロマンティックな気分が充満していた。しかし第3楽章になると、再び男同士の対決となり、雄弁な音楽が始まる。唯一第2主題の美しい弦と、短いフガートがしばしほっとする瞬間だった。しかしこの第3楽章はヤルヴィとフォークトの荒ぶる演奏がふさわしく強い説得力があった。フォークトのアンコールはブラームスの「ワルツop39-15変イ短調」。
 後半の交響曲第1番は、荒々しいだけの演奏にはならなかった。これまで私は聴いたことのない解釈で、一度ブラームスを分解してドイツ・カンマー・フィルの規模(10型)のオーケストラにふさわしい作品として一から組み立て直したような新鮮な解釈が面白かった。こういう激しく動く演奏は大オーケストラでは小回りが利かず無理だと思う。
 第1楽章序奏のテンポは新幹線並みに速く、ティンパニは落雷のような強い打音を聞かせる。ヤルヴィのつくるフレージングも個性的。6月にハーディングと新日本フィルが今日と全く同じプログラムを演奏したが、ハーディングのようにヤルヴィも第1主題の48、49小節目のアクセントを大きく伸ばすように強調、これまでにない表情づけで新鮮味を与える。提示部の繰り返しをするが、テンポが速いのでしつこさはない。第1楽章は嵐がうねるようで、チェロ奏者など身体を左右に大きく揺らしながら副旋律を鳴らす。
 第2楽章のアンダンテ・ソステヌートは、普通に美しい。オーボエのソロもクラリネットもコンサートミストレスのソロも、ドイツ・カンマー・フィルの各奏者たちも素晴らしいが、超一流のオーケストラならできることで、第2楽章、第3楽章までは意外に平穏に過ぎた。
しかし衝撃は第4楽章にあった。冒頭の序奏からただならぬ雰囲気が支配し、弦のピチカートから全オーケストラの総奏にかけて嵐が一気に発展してふきすさぶ。アルペンホルン風のホルンは鋭さを持って咆哮し、フルートのソロはあたりを支配するようにおおらかな美しさを放つ。
 弦の有名な第1主題の表現には驚いた。雄大ではなく、ゆりかごに眠る赤ん坊をそっと抱きかかえるような柔らかさ。その意外性!台風の目のように、嵐の中でその一点だけが静かな空間という不思議な感覚にとらわれる。展開部で盛り上がっていく段階は徐々に力が強くなり、再帰再現部で第1主題が出ると、さきほどのゆりかご状態にもどる。このアップダウンの激しさ。主題が繰り返されクライマックスに近づいていくが、その力強さに圧倒される。220小節目アニマートから再び嵐が始まり、285小節目(N)で最初の大爆発が起こる。ドイツ・カンマー・フィルの小さなサイズのオーケストラとは思えない核爆発のようなインパクト。
 そしてコーダ。ピウ・アレグロからのティンパニの激しい打音と、407小節目からのコラールの金管の咆哮による二つ目の爆発、そしてコーダの最後の大爆発。
 大オーケストラを凌駕するような瞬発力と爆発力による圧倒。
 あの音の厚みと強靭さ。いったいなにが起きたのか、呆然自失になるような衝撃。
 最初の猛スピードからドラマが始まり、途中すこし油断している間に最後に大砲で吹き飛ばされたような気分。こういう体験も音楽にあるということか。
 アンコールのハンガリー舞曲第10番のユーモアと、第1番の抒情をもってしても、この衝撃は薄れない。(長谷川京介)
写真:(c) Ixi Chen

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「パーヴォ・ヤルヴィ、ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団 ブラームス・シンフォニック・クロノロジー 第2日」(12月11日、東京オペラシティ・コンサートホール)
 2日目は「ハイドンの主題による変奏曲」、クリスティアン・テツラフのヴァイオリンでヴァイオリン協奏曲と交響曲第2番のプログラム。
 初日はヤルヴィとカンマー・フィルの度肝を抜くような交響曲第1番にショックを受けたが、2日目となるとヤルヴィの指揮のパターンがわかり、耳も慣れてきた。カンマー・フィルもざらつきが消えたわけではないが、音が柔らかくなり雑然としたところがなくなってきた。
 テツラフによるヴァイオリン協奏曲が素晴らしかった。繊細さと強靭さが同居するヴァイオリンで、クリスタルなダイヤの美しさと堅牢さを持っている。そのクールな音色と切れ味の鋭い奏法は、ドライな響きのドイツ・カンマー・フィルとよく合う。カンマー・フィルのメンバーは指揮に合わせて弾くというよりも各々が自発的に弾く。テツラフの鋭く繊細なヴァイオリンはカンマー・フィルの規模がちょうどよい。オーケストラがヴァイオリンを覆い尽くすといったことがない。
 やや速めのテンポで進められたヴァイオリン協奏曲は、テツラフが弾く最初の重音の鋭いやすりを一気にかけるような怜悧な響きが衝撃を与える。高音の音程は正確で細い糸がピンと張った細やかさと強さを併せ持つ。カデンツァはヨアヒムのものだと思うが、一気呵成に弾ききる。第2楽章の中間部ではカンマー・フィルのヴァイオリン群がテツラフに寄り添うように親密な響きを奏でる。第3楽章ではカンマー・フィルの躍動に乗ってテツラフも激しく弾くが、バランスを欠くことはなく、最後まで細やかさと強靭さを失わない。
 アンコールのバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番のラルゴは鋭さが影をひそめ、ひたすら細やかな美しさと柔らかさに満ち、感動を呼んだ。
 交響曲第2番は昨夜の第1番に較べて音がこなれていた。あるいはヤルヴィはこの交響曲の穏やかな性格(実際には激しさと暗さもあるが)に合わせて、第1番の激情とは違うアプローチをしたのかもしれない。頭から最終楽章まで、見通しが良く見事にコントロールされた明快な演奏だが、第1番のときのように、盛り上がるところをより劇的に強調するところは変わらない。第4楽章のコーダは昨夜の爆発を思わせる盛り上がり。
 「ハイドンの主題による変奏曲」は各変奏の描きかたの違いが面白い。活発な変奏のダイナミックとゆったりとした変奏の細やかな表現。そのコントラストが見事。第8変奏の不気味さ、終曲の主題の再現でクライマックスへと盛り上げて行く運び方もすばらしい。
 アンコールはハンガリー舞曲の第3番と第5番。表情たっぷりで、楽しいことこの上ない。第5番はト短調とロビーに貼りだされていたが、嬰ヘ短調では、という指摘が友人からあった。ト短調だとするとシュメリング編曲版かもしれない。(長谷川京介)
写真:(c) Ixi Chen

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「パーヴォ・ヤルヴィ、ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団 ブラームス・シンフォニック・クロノロジー 第3日」(12月13日、東京オペラシティ・コンサートホール)
 3日目は、「大学祝典序曲」、ラルス・フォークトのピアノでピアノ協奏曲第2番、交響曲第3番のプログラム。
 ピアノ協奏曲第2番の演奏が強い印象を残した。確かにこの曲は第1楽章と第2楽章の男性的な内容に対して、第3楽章、第4楽章は女性的ともいえる穏やかな楽章だが、フォークトとヤルヴィ、カンマー・フィルほどそのコントラストをはっきりと打ち出した演奏を聴くのは、実演も録音も含めて初めてのことだ。
 第3楽章の中間部でフォークトはクラリネットと親密な会話を交わしたが、後半もカンマー・フィルのチェロの首席、ターニャ・テツラフの女性らしい柔らかなチェロの響きに合わせるように、これ以上はないと思わせるほど微妙なトリルで会話する。第4楽章ではヤルヴィとカンマー・フィルがターニャに替わって対話の相手を務める。その信じがたいほどの繊細さ。それまでのカンマー・フィルの荒々しい響きがうそのように消え去り、ただただ細やかに歌う。それまで神経を張り巡らせながら聴いてきたヤルヴィとカンマー・フィルが心の琴線に触れてきた。
 交響曲第3番は、第1番の激情にあふれた演奏、第2番の構成力とともに激しさを含んだ演奏と較べると、一番常識的な演奏と言えるかもしれない。映画「さよならはもう一度」のテーマになった第3楽章の繊細な弦の表情も今回初めて聴く。逆に第4楽章のコーダはもっとひそやかに謎めいたように終わるかと期待したのだが、何も仕掛けがなく拍子抜けするほどだ。
 「大学祝典序曲」のコーダは巨大なスケールでワーグナーのようだった。
 アンコールのハンガリー舞曲集第6番の出だしの和音のあとのトレモロの思い切った表情づけは聴衆の笑いを誘う。
 アンコールと言えば、フォークトが聴かせたショパンのノクターン嬰ハ短調(遺作)は、彼が只者ではないことを知らしめる神韻縹渺(しんいんひょうびょう)たる趣があった。(長谷川京介)
写真:(c) Ixi Chen

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「パーヴォ・ヤルヴィ、ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団 ブラームス・シンフォニック・クロノロジー 第4日」(12月14日、東京オペラシティ・コンサートホール)
 最終日は「悲劇的序曲」、クリスティアン・テツラフのヴァイオリン、妹のターニャ・テツラフのチェロでヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲と、交響曲第4番のプログラム。
 4日間聴いて、ヤルヴィとカンマー・フィルがやりたいこと、伝えたいことが自分なりにわかってきた。個人的な推測であり、見当はずれかもしれないがそれを箇条書きしてみた。
1. ブラームスを現代の感性で表現するとどういう演奏になるのか示す。
2. ブラームスの音楽構造を徹底的に分析し、包み隠さず再現する。
3. ブラームスが音楽に込めた意図を探る。何を、なぜ、どう主張しているかを明らかにする。
4. カンマー・フィルは楽員個々の表現を優先し、アンサンブルは後からついてくる。指揮者は楽員と納得するまで話し合う。
5. ソリストはこうしたカンマー・フィルの姿勢に共感できる相手を選ぶ。
と、ここまで書いたところで、プログラムの舩木篤也氏の解説を読むと、パーヴォ・ヤルヴィが語った言葉が紹介してあった。『私にとっては(ブラームスの)エモーショナルな側面がより難しいのです。ブラームスの音楽はとても論理的で、完璧に整えられているわけですが、論理だけでは交響曲は作れませんし、演奏もよくはならない。演奏者はそこに一つのストーリーを見つけ、それを語る方法を見出さねばなりません。』
 ヤルヴィといえども、作品の構造は明らかにできても、それをブラームスが意図した感情や衝動、エモーションと共に表現するのは難しい、ということがこの言葉からよくわかる。4日間を通して、ヤルヴィの演奏がなぜあれほど激しかったり、静かだったり、あるいはロマンティックなほど感情を出していたのか、この言葉でようやく理解できた。プログラムをしっかりと読んでいなかったので気づかなかったのだが4日間すべての演奏を聴いたあとだからこそ、より深く理解できる言葉なのだ。
 交響曲第1番での異常なまでの激情、交響曲第2番の論理が勝るような演奏、交響曲第3番のロマンティシズム、交響曲第4番での論理と感情のバランスのとれた演奏。それぞれの交響曲の性格や物語性をヤルヴィが深く追及した結果があのような演奏になったのだろう。協奏曲でもヤルヴィの考えは徹底されたと思うが、ソリストの意向も尊重されたのだと推測する。
 「悲劇的序曲」はカンマー・フィルの実力がよくわかる演奏だった。10型のオーケストラとは思えない厚みと重心の低さ。岩盤を突き破り基礎を築いたような盤石の音。決して美しい音ではない。しかしこれがカンマー・フィルの音なのだ。ドイツの堅牢な金具を使ってブラームスを締めあげていくような音。それでも温かみはある。「悲劇的序曲」では木管のハーモニーや、弦のピチカートの響きや、対位法的に弦が重なり合う音にそれは聴くことができた。
 「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」はヤルヴィとカンマー・フィルの分厚いバックがまず耳に入ってくる。特にヴィオラとチェロの音の厚みと存在感は強烈で、中低音が前にぐいぐいとでている。「悲劇的序曲」と同様にこの二重協奏曲は激烈な音と表現に包まれた。
 ターニャ・テツラフの響きの良い柔らかな音とクリスティアン・テツラフの切れ味鋭い音の対話とまじりあいは素晴らしい。ただ第2楽章コーダはもう少し繊細さがほしかった。クリスティアンはソロのときより鋭さがコントロールされていたが、音程の不安定なところもあった。全体として作品の緻密さ、すきのなさ、ヴァイオリンとチェロの使い方、抒情と雄渾のバランスがよくわかる名演と言えるのではないだろうか。二人のアンコールのコダーイの「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」第3楽章は唖然とするようなテクニック全開の凄演。ハンガリーの草原が見えるようだった。
 交響曲第4番はこれこそ今回のツィクルスの集大成とも言えるような、論理と感情のバランスがとれた演奏。ヤルヴィとカンマー・フィルならではの激烈さも随所に表れる。構成、流れ、古さと新しさの融合、変奏の妙、ブラームスのアイデアの秀逸さ。これらが聴き手によく理解できる名演だった。第2楽章から4楽章まで一気に進む。第4楽章の気合の入ったコーダ。びくともしない存在感。完璧な構成と流れ。どこにも隙はない。
 ハンガリー舞曲第3番と第10番がアンコールに演奏されたあとのシベリウス「悲しきワルツ」はヤルヴィの看板曲であるとともに、「ありがとう。さようなら」の言葉だろう。そのきわめて微小な弱音のピチカートは幽界からの囁きのように不気味で、同時に吸い寄せられるような魅力に満ちた美しさがあった。(長谷川京介)
写真:(c) Ixi Chen

Classic CONCERT Review【室内楽(ピアノ四重奏)】

「フォーレ四重奏団演奏会」(12月12日  トッパンホール)
 フォーレ四重奏団はフランスの作曲家ガブリエル・フォーレの生誕150年の1995年にドイツのカールスルーエでフォーレの教育理論に共鳴する4人のカールスルーエ音楽大学卒業生によって結成された。その後短期間に数多くの賞を獲得し、世界中の音楽ファンの心を虜にした。そして今や「ピアノ四重奏」という室内楽としては決してメインとは言えないジャンルで、母校のカールスルーエ音楽大学から常設の四重奏団(クァルテット・イン・レジデンス)に任命され、世界中に活躍の場を広げている。
 この日はマーラー:ピアノ四重奏曲 断章 イ短調、R.シュトラウス:ピアノ四重奏曲 ハ短調 Op.13、ブラームス:ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 Op.25の3曲である。最初のマーラーは未完成曲だが、マーラーらしい美しさと優しさを前面に出し、聴衆との接点をつかんだ。そして2曲目のR.シュトラウスでは、第1楽章では叙情性をメインに、第2楽章はスケルツォの軽く速い面白さと中間部分の美しさを対比させ、第3楽章でのハーモニーの素晴らしさを聴かせ、フィナーレではヴィヴァーチェの軽妙な演奏で上手さを発揮した。そして何と言っても白眉は最後のブラームスだった。前2曲に較べ第1楽章から気合いの入れ方が違い、彼等には完全にブラームスが乗り移ってしまったような異様なムードが観客席を覆い始めたようだった。何よりも4人の弾き方に熱が入り、弦楽器奏者は前後左右への揺れが振幅を増し、フォルティッシモではピアノを含むすべての楽器の音量が室内楽の限度を超えているのでは、と思えるくらいの熱演であった。この熱演の為か正規のプログラムが終わった途端の拍手は全く止まることはなく、筆者もこれ程までの拍手は初めてのような気がしている。結果3曲のアンコールでこの素晴らしいコンサートは幕を閉じたのだった。
(廣兼 正明)
写真:(c)Mat Hennek

Classic CONCERT Review【室内楽(ピアノ四重奏)】

「フォーレ四重奏団演奏会」(12月12日 トッパンホール)
 室内楽のコンサートに通う回数からして、大きなことは言えないが、この夜のフォーレ四重奏団の演奏は、これまで聴いたなかで最高位に位置するものだ。アルカント・カルテットを初めて聴いた時に並ぶ感動と言っていいかもしれない。常設のピアノ四重奏団は極めてめずらしい。1995年ドイツ・カールスルーエ音楽大学卒の4人で結成。アルバン・ベルク四重奏団に4年師事。今年で19年目を迎える。
 聴いてまず驚嘆したことは、4人のバランスの完璧さ。ひとりひとりの音は極めて明確に美しく聞こえるが、お互いに連携が完全にできており、ある旋律線だけが浮き上がるという事はない。ピアノが弦を凌駕しうるように鳴らされることは一度としてない。
 今回のプログラムは作曲家の若書きの作品が集められている。16歳のマーラーの唯一残された室内楽、ピアノ四重奏曲「断章」イ短調。20歳のR.シュトラウスのピアノ四重奏曲ハ短調作品13。28歳のブラームスが書いたピアノ四重奏曲第1番イ短調作品25。マーラーの作品もR.シュトラウスもブラームスのピアノ四重奏曲の影響を少なからず受けている。川下から川上をたどるという構成になっていた。
 フォーレ四重奏団が素晴らしいのは、演奏から作曲者の顔がはっきりと浮かんでくることだ。マーラー最初期の作品は一聴ブラームスのような始まりだが、展開部後半の濃厚な音楽には後期の交響曲の影が感じられ、最後のふたつの和音のあとの静寂の先には交響曲第9番のコーダが見える。フォーレ四重奏団はひそやかに繊細に、陰影の濃い濃密な演奏で表現し、マーラーがすぐ手の届くところにいるように感じさせる。
 R.シュトラウスにはさらにはっきりとその後の作風が表れている。第1楽章の恍惚とするところは「ばらの騎士」であり、第2楽章スケルツォは「ドン・キホーテ」を思わせる。ここでのフォーレ四重奏団のリズミカルな弓の動きは瞠目させるものがある。中間部のトリオは「ばらの騎士」の一風景かもしれない。第3楽章アンダンテはシュトラウスの歌曲に通じる。濃密なR.シュトラウスの世界をフォーレ四重奏団はたっぷりと描きながら、第4楽章ヴィヴァーチェを手に汗握るスリリングで鮮やかな演奏で締める。
 休憩後のブラームスのピアノ四重奏曲第1番は前半をさらに上回る名演。第1楽章からフォーレ四重奏団の演奏は完全にブラームスの世界を描き切る。暗さと情熱、そして前へ向かおうとする姿勢。ひとつの動機がさまざまな形で使われ大きな世界を描いていく。第2楽章のヴィオラの保続音に乗って演奏する他の三人の雄弁さ。第3楽章の賛歌のおおらかさ。4人のバランスの良さとハーモニーの美しさ。そして最大のクライマックスは、ブラームス自身が「ツィゴイナー風のロンド」記した第4楽章のプレスト。ブラームスが大きな影響を受けたツィゴイナー音楽の祭典のような楽章。冒頭のテンポの速い踊りからピアノのものすごく速いパッセージが続き、テンポの遅い踊り、そのあとの哀愁を帯びた旋律と民族的な音楽が続く。こうした音楽がすべて渾然となって最後の饗宴になだれ込んでいく。そのものすごい迫力と完璧な技術。最後の終止を伸ばして決めると大喝采が起きた。R.シュトラウスといい、このブラームスとい、フォーレ四重奏団の演奏を聴いたら作曲家たちがどれほど喜ぶことか、その顔が想像できるような鮮やかな演奏だ。
 アンコールは3曲。チェロのコンスタンティン・ハイドリッヒが全て日本語で曲名を告げたが、いずれも素晴らしい。ムソルグスキーの「展覧会の絵」から「卵の殻をつけた雛の踊り」は「これはフォーレ四重奏団の編曲です」と告げる。ピチカートと弓を楽器にたたきつける奏法を主にした超絶テクニックを要する最高に面白い編曲。続いて、エドゥアルト・フーベルトの「フォーレタンゴ」。これはピアソラのような暗い情熱に満ちた曲。そして、最後にシューマンのピアノ四重奏曲変ホ長調作品47から「アンダンテ・カンタービレ」が演奏されたが、これが絶品だった。
 『生きていることは素晴らしい。あなたの人生に陰りや克服できない困難があったとしても、生きているだけで素晴らしい。』シューマンの幸福感が感じられる曲だが、今の自分にはそう聞こえた。(長谷川京介)
写真:(c)KASSKARA

Classic CONCERT Review【室内楽】

「アリーナ・イブラギモヴァ、J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲」(2014年12月21日、王子ホール)
 ようやくアリーナ・イブラギモヴァのバッハを理解できたのは、なんと最終曲「パルティータ第3番」になってから。素晴らしい演奏だということは聴いてすぐわかったが、その本当の魅力まではつかみ切れていなかった。気づくのが遅すぎる。しかし、最後になったが、わかってよかった。あやうく大きな魚を逃すところだった。
 私なりに理解したアリーナ・イブラギモヴァのバッハの特長をまとめると、こうなる。
1. 全体の構成と流れの見事さ。緩急と曲ごと楽章ごとの表情づけの的確さ。
ひとつずつ煉瓦を設計図通り積み上げていくような着実な歩み。あとからふりかえると全体の構成がみえてくる演奏。パルティータ第2番第5楽章「シャコンヌ」を頂点に6曲を組み立てたのだろう。ソナタとパルティータそれぞれの楽章も全体の中でどう表現すべきか練られていたに違いない。ひとつひとつのフレーズは考えに考え抜かれ、これしかないという確信が伝わってくる。緩急の対比はすごい。特に速いパッセージの鮮やかな表現力に瞠目。
2. 曲の掘り下げの深さ。シャコンヌが一番いい例。30の変奏が一本の太い糸で通され、ごく自然な発展の流れができるとともに、ひとつひとつの変奏の表情が深い。
3. 技術。全曲暗譜でほぼ完ぺきに弾く技術。フーガほかの明晰な重音の素晴らしさも特筆すべき。各声部がはっきりと浮かび上がってくる。
4. 音色。実はこれが一番の魅力かもしれない。真っ白な磁器に、あでやかな色彩を施していくような、繊細で多彩で豊かな色彩感。よく聴いていると次々に色が浮かんでくる。最初はそれがわからなかった。大理石のようにひんやりとした冷たい感触の音色だと思っていたが、とんでもない間違いだった。その多彩なこと。眩暈がするくらいだ。最後の最後になって、このことに気づくとは何たる不覚!もったいない。
5. 感情や人間的な表現については押えられている。そのため最初は演奏について冷たい印象を持ってしまったが、イブラギモヴァのバッハは情に溺れたり流されたりするものではない。演奏に個人の感情をこめたり、あるいはJ.S.バッハの人間像を演奏の中に浮かび上がらせることはしない。偉大なこの作品の構成、構造、響きを明らかにすることに力が注がれている。
 1曲ごとに書き始めると切りがないので、特に印象深かったものについて書きたい。演奏は後半がより素晴らしかった。
 やはりパルティータ第2番の「シャコンヌ」。主題の重音の明晰さと存在感。第11変奏から盛り上がって行く推進力。第16変奏以降の重音の響き。第25変奏からコーダまでの充実。ソナタ第3番の第2楽章フーガのひそやかな開始から深く入っていくありさま。第4楽章アレグロ・アッサイの目も覚めるような速い輝かしい演奏とそのなかから旋律線がくっきりと浮かび上がってくる快感。パルティータ第3番のふたつのメヌエットの描き分け。第7楽章ジーガのユーモア。前半ではパルティータ第1番全体が素晴らしかった。
 いくらでもあるけれど、これくらいに。幸いCD(hyperion)でも生の良さが充分伝わってくるのはありがたい。何度も聴いて思い出したい。(長谷川京介)
写真:(c) Sussie Ahlburg