2014年8月 

  

Classic CD Review【交響曲】

「モーツァルト:後期三大交響曲〜交響曲第39番、第40番、第41番〈ジュピター〉/ニコラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(オリジナル楽器使用)」(ソニー・ミュージックエンタテインメント、ソニー・クラシカル/SICC-30170〜1)
 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス創立60周年記念リリースの第3弾である。約22年前にアーノンクールはモーツァルト没後200年記念特別演奏会でこの3曲をヨーロッパ室内管と演奏している。22年前と今回が異なるのは、オーケストラがオリジナル楽器によるウィーン・コンツェントゥス・ムジクスに代わったことと、これだけの歳月を経たアーノンクール自身の解釈で、この3曲をセットではあるが独立した曲と考えていたことと、今回は3曲を一つの統一された「器楽によるオラトリオ」との考えに至ったことである。それが明らかなのは新しいCDのライナーノーツでも彼が述べている第39番のフィナーレと第40番の第1楽章の間隔がほぼないことだ。これは如何にもアーノンクールらしい推察と確信である。前録音も当然のことながら現代楽器の弦楽器をはじめピリオド奏法だが、新録音は完全なピリオド楽器によるピリオド奏法であり、よりアーノンクールの考えが手兵のオーケストラにより見事に表現されている。(廣兼正明)

Classic CD Review【交響曲】

「ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(ノヴァーク版)/クラウディオ・アバド指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団」 (ユニバーサル・ミュージック、ドイツ・グラモフォン/UCCG-1664)
 今年の1月に亡くなったクラウディオ・アバドの昨年8月に行われたルツェルン音楽祭に於ける最後の公演ライヴである。この時アバドは80歳と2ヶ月、体調も決して良くなかったようだ。この演奏会はアバド通例の音楽祭開幕コンサートではなく、一週間後に行われた彼の2回目のコンサートである。プログラムもシューベルトの「未完成」とこのブルックナーの第9番で共に未完成の曲であり、何か最後のパフォーマンスを予感させるものがある。CDのリーフリット表紙にあるアバドの笑顔も何となく寂しげだ。演奏は極自然で全楽章とも誠に美しく、まさに入神のアバドがそこにあると言える。オーケストラもアバドと一心同体で、特に最後の第3楽章では神々しささえ感じさせてくれる正に畢生の名演となった。この日のシューベルトも出来ることならばCD化して欲しいものだ。 (廣兼正明)

Classic CD Review【協奏曲(ピアノ)】


「モーツァルト:ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調 K.456、ピアノ協奏曲第19番 へ長調 K.459/内田光子(ピアノ、指揮)、クリーヴランド管弦楽団」 (ユニバーサル・ミュージック、デッカ/UCCD-1399)
 クリーヴランド管弦楽団との内田光子モーツァルト弾き振り第4弾が久し振りのリリース。毎度のことながらその清楚なモーツァルトは美しい。今回は第18番 変ロ長調K.456と第19番 ヘ長調K.459のカプリングである。今回で第9番、第18番、第19番、第20番、第21番、第23番、第24番、第27番の8曲の弾き振りによる収録が完成したことになる。内田のモーツァルト協奏曲については絶対に他の指揮者は不要である、と言うより余分である。モーツァルトのピアノ協奏曲でここまで完璧な演奏はない、と断言することを憚らない。音楽作りを決めるのは内田だけでなければならない。伴奏をしている小編成のクリーヴランド管の内田への信頼度は正に抜群であり、オケ全体が神経を研ぎ澄まして彼女の音楽に完全に集中している。フルート、オーボエの見事としか言いようのない名サポート、そしてヴァイオリンのピアノ・ソロをそっと包み込む音色の素晴らしさ、低弦によるリズムの的確さにはこれ以上の完璧さを求めることは不可能としか言いようがない。内田光子は最高のモーツァルト弾きの域に到達したと見るべきであろう。 (廣兼正明)

Classic CD Review【器楽曲(ヴァイオリン)】


「シルヴァー・アルバム〜ムター&オーキス25年の軌跡」 (ユニバーサル・ミュージック、ドイツ・グラモフォン/UCCG-1662~3)
 ムターとオーキスのコンビが既に25年も続いているとは月日の経つのも早いものだ。しかしこのアルバムを聴いてみるとなるほどと合点がゆく。お互いに相手の作り出す音楽を完全に咀嚼しており、アンサンブルは完全に息が合っているとも言える完璧さだ。どんなに素晴らしい音楽を奏でる人同士がデュオを組んだとしても、お互いに息が合っていなければ、アンサンブルとして最悪である。それは心が異なるからであろう。このCDのライナーノーツにムターが次のような事を言っていると紹介されている。「ランバートと出会えたことは、私の人生にとって幸運だった。共演を始めた時からお互いの息がぴったりと合っており、フレージングも同じだった」と。このCDにはベートーヴェンの第7番、ブラームスの第2番、モーツァルトのK.481、フォーレの第1番プレヴィンの第2番の各ヴァイオリン・ソナタ、ペンデレツキの「ラ・フォリア」、クライスラーの「美しきロスマリン」、「ウィーン奇想曲」、「愛の悲しみ」、ブラームスのハンガリー舞曲第1番ト短調、第2番ロ短調、第5番ト短調、マスネーの「タイスの瞑想曲」、ラヴェルの「ハバネラ形式の小品」、ドビュッシーの「美しい夕暮れ」が収録されており、たとえ小品のどの一つを聴いても2人の絶品とも言えるアンサンブルが楽しめる。(廣兼正明)

Classic CD Review【吹奏楽】

「吹奏楽銘盤選 フレデリック・フェネルの遺産」(日本コロムビア/COCQ-85071-75)
 この度「フェネルの遺産」として東京佼成ウインドオーケストラ(以後TKWO)のCDが発売された。指揮者フレデリック・フェネルの名はオケのファンには耳新しいが、吹奏楽ファンにとっては神様で、日本の吹奏楽の発展に尽くした人として良く知られている。フェネルは1984年に来日してTKWOの常任指揮者となり1996年に桂冠指揮者の称号を与えられるまで、12年間在任した。この度、生誕100年・没後10年にあたり歴史的な名演を選んで日本コロムビアより復刻された。佼成出版が、音楽事業から撤退したことにより、全く入手できなくなっていたもので、フェネルがTKWOを成熟させた最高の時期の録音ばかりである。グレインジャーの「リンカーンシャーの花束」、ホルストの「吹奏楽の為の組曲第1・第2番」、ウイリアムズの「イギリス民謡組曲」などが演奏されている。それ等が「パリのアメリカ人」、「ローマ三部作」、「スペイン狂詩曲」などの、5枚のシリーズになっている。いずれもすばらしい作品ばかりである。 (斎藤好司)

Classic CONCERT Review【室内楽(チェロ)】

第9回ワンダフルoneアワー:ウェン=シン・ヤン・チェロ・リサイタル(4月17日 、富ヶ谷・Hakuju Hall)
  それにしても前回の公演は圧巻だった。豊かな音量と鮮やかな音色が深い余韻を残し、演奏が全部終わった後も直ちに座席から立ち上がれなかったほどだ。あの妙技をまた聴きたいと思っていただけに、約1年という短いスパンで彼が再来日してくれたことは実に嬉しい。前回は譜面台をおかずにプレイしていた覚えがあるのだが、今回はスコアを見ながら演奏していることが確認できた。ほとばしるような奔放さ、音符と音符の間から熱気がこぼれおちるかのような弾きっぷりは昨年の公演に軍配があがるけれど、シューマン「民謡風の5つの小品集 op.102」、ショスタコーヴィチ「チェロ・ソナタ ニ短調 op.40」からフーバー「無限への転移」までを堂々と弾きこなし、ホールの隅々にまでみずみずしいサウンドを轟かせる姿は、まさにヴァーチュオーソ。次のライヴが楽しみでしょうがない。(原田和典)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

コンポージアム2014 ペーテル・エトヴェシュの音楽(5月22日、東京オペラシティコンサートホール:タケミツメモリアル)
  若い世代の作曲家に管弦楽曲の創作を呼びかける「武満徹作曲賞」の本選演奏会を核とした好評企画「コンポージアム」が今年も盛大に開催された。今年の審査員に選ばれたのはハンガリーの作曲家、ペーテル・エトヴェシュ(1944年生まれ)。22日は彼の楽曲が自身の指揮、NHK交響楽団、マーティン・グルービンガー(パーカッション)によって綴られた。体がよじれるようなハーモニー、生き生きと躍動するリズム、そして長くても20分以内に収められたバラエティに富んだ楽想はアヴァンギャルド・ジャズやプログレッシヴ・ロックのファンにも喜んで受け入れられよう。マーティンが、まるでエクササイズかブートキャンプのように激しく体を動かしながら様々な打楽器をプレイする「スピーキング・ドラム」は視覚的にも圧巻だった。なお「2014年度武満徹作曲賞本選演奏会」は25日に行なわれ、大胡恵(日本)の「北之椿 ─ 親和性によるグラデイション第2番 ─」が第1位に輝いた。(原田和典)
Photo:
エトヴェシュ:(c)
Wilfried Hoesl

Classic CONCERT Review【ホルン】

B→C(ビートゥーシー):バッハからコンテンポラリーヘ(163)大野雄太(6月24日、東京オペラシティリサイタルホール)
 ホルンの奥深さを真正面から突きつけられたようなステージだった。コルノ・ダ・カッチャ、ナチュラルホルン、B♭シングル・ホルン、フルダブルホルンの4種を使い分けた内容。「難しい楽器なのだろう」というのは、ホルンを吹いたことのない僕でも構造を見ればわかる。だが、それだからこそ取り組みがいも人一倍なのだろう。大野雄太はときに繊細に、ときに大胆不敵にホルン群から様々な響きを引き出していた。1979年生まれの彼は、東京藝術大学大学院在学中に新日本フィルハーモニー交響楽団に入団。2011年、東京交響楽団の首席奏者になった。コルノ・ダ・カッチャのまっすぐな音色が余韻を醸し出す「クロマティック・ホルンのためのコンチェルティーノ」(ヨハン・クリストフ・シュンケ作曲)も美しかったが、大野との“ホルンに未来はあるのか”という居酒屋談義から生まれたという佐々木良純・作曲「多芸な練習曲 第2番」での、吹き手にとってはサディスティックそのものというべき展開(特殊奏法が山積みであった)にも思いっきり引き込まれた。(原田和典)

Classic CONCERT Review【室内楽】

アリス=紗良・オット&フランチェスコ・トリスターノ ピアノ・デュオ・リサイタル 2014年日本公演(2014年6月24日 すみだトリフォニーホール)
 若い感性のほとばしるピアノ・デュオである。1988年生まれのアリス=紗良・オットと、1981年生まれのフランチェスコ・トリスターノ。2つのベクトルにより、これまでのクラシック音楽の枠組みに加え、彼らの感性の表現様式の在処を示すデュオだった。それは世界のアーティストの中で今、 1980年代生まれの情熱の発露であると同時に、この世代に課されたミッションでもあるだろう。
 プログラムはラヴェル「ボレロ」トリスターノ編曲に始まった。トリスターノが得意のアイデアを駆使し小太鼓のリズムを刻めば、アリスが旋律を担う。会場は、2人のボレロにまだ踊るに至ったとはいえないものの、曲の進行とともに打ち解けるに時間は掛からなかった。
 ラヴェル編曲/ドビュッシーの夜想曲、ラヴェル「ラ・ヴァルス」が続いた。「夜想曲」の2つ目、「祭り」でアリスが火付け役を見事に果たす。彼女の鋭く研ぎ澄まされたリズム感覚と巧みな打鍵、それを支えるトリスターノの間の手は、文字通り新たな感覚による祝祭気分を醸し出す。ラヴェル「ラ・ヴァルス」の強烈な打鍵と、ソフトなタッチで心揺らす3拍子を交え、まぎれもなく新世代のオリジナルなワルツの出現だ。私たちは2台のピアノによる踊りを食い入るように魅せられた。
 後半はトリスターノ自作「ア・ソフト・シェル・グルーヴ」で開始。トリスターノが得意とするテクノ全開だ。トリスターノが足踏みしてリズム感を増幅すれば、アリスは、会場の手拍子に火を付けて進行する。そこに無理はない。
 ストラヴィンスキー「春祭」は、20世紀クラシック音楽のスキャンダルを代表する一つだ。それは今回のデュオの重要なコンセプトでもあり2人のメッセージだ。時代がスキャンダルを欲しているといわんばかりの火花を散らせ、ときに怒濤のように流れ出る2人の表現には、1980年世代の挑発として受け止めたい気持ちに駆られた。(宮沢昭男)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】



ハーディング、新日本フィルのブラームス(6月28日、パルテノン多摩 大ホール)
 ブラームスが26歳で作曲したピアノ協奏曲第1番と、43歳で完成させた交響曲第1番を配したプログラム。
 ブラームスの作曲時の年齢で描きわけたのか、作品の読み込みの結果なのか、ハーディングは協奏曲では若く溌剌としたブラームスを、交響曲ではあるときは重厚に、あるときはそよ風のように爽やかに硬軟織り交ぜ、皮肉をピリリと効かせ、多面的で複雑なブラームスを表現して、最後まで聴き手を惹きつけた。
 ポール・ルイスは趣味がいいピアニストだ。全体に端正でバランスのよい弾き方で、力が入り過ぎることはなく、味わいが深い。たとえば第1楽章序奏が終わり初めて入ってくるときの雰囲気とか、第2楽章アダージョでのしみじみとしたピアノ、第3楽章の後半「幻想曲風に」の情緒あふれるカデンツァなどにそうしたルイスの特徴がよく出ていた。
 一方で、ここぞというとき、たとえば第1楽章の展開部冒頭の力強い第1主題とか、第3楽章コーダ前のカデンツァなどでは、豊かな充実した響きを作り出し、この大作を十二分に味あわせてくれた。
 ルイスはアンコールでシューベルトの「アレグレット ハ短調D915」を弾いた。2011年から王子ホールで2年かけて5回のシューベルト・チクルスを行ったルイスの歌心のある胸に染み入るようなシューベルトは、さすがに素晴らしかった。
 ハーディングは正面からブラームスと向き合う。堂々とした第1楽章冒頭、続く第1ヴァイオリンのじっくりとした歌わせ方、第2楽章中間部のロマンティックな部分、さっそうとした第3楽章など、誠実な若きブラームスの姿が浮かんでくるような気持ちのいいストレートな指揮だった。ルイスとは旧知の仲でありお互いの息がよく合っていた。
 さて、後半の交響曲第1番。冒頭に書いたように、一筋縄ではいかないハーディングらしいブラームスで、随所に聴きどころがいっぱいあり、面白かった。
 16型、ヴァイオリンは対抗、コントラバスは下手に配置。
 冒頭の序奏はゆったりと重厚に進める。しかし第1主題第1主題の48、49小節目のアクセントをやや伸ばすように強調し、これまでにない表情づけで新鮮味を与える。
第2楽章は、冒頭のオーボエソロのあとの第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが美しい旋律をかけ合うところなど、対抗配置が効を奏していた。
第4楽章の有名な第1主題を、ほかの指揮者がやるように威風堂々ではなく、そよ風がそよぐように爽やかに歌わせ、意外性を見せる。
 第4楽章コーダも輝かしい勝利というよりも、こうしてこの曲は終わりを告げました、というようなどこかつきはなしたところがあり、熱狂ではなく冷めた冷静な目で見ているところがある。聴衆もすこしとまどうように拍手をしていた。
全体の印象として、ブラームスが苦心して様々な要素を織り込み、いじりすぎた交響曲の、作り物めいたあまり洗練されたとは言えない側面をあぶりだした演奏と言うのは言い過ぎ、考え過ぎだろうか。とにかくほかの指揮者からは聴けない、個性的なブラームスの交響曲第1番であった。
 新日本フィルは当日の湿度も気温も高い悪コンディションのなか健闘し、低音弦がよく聞こえる座席だったせいもあるが、コントラバス、チェロの響きは充実していた。管ではハーディングは特にホルン(吉永雅人)を協奏曲でも交響曲でも立たせ讃えていた。木管群も好調でオーボエ(古部賢一)、フルート(荒川洋)クラリネット(重松希巳江)が立派なソロを聞かせてくれた。欲を言えば、新日本フィルからこの上にさらに引き締まった音、芯の強いしっかりした響き、鉄壁の力強さが生まれてきたら一層素晴らしいと思う。(長谷川京介)
Photo:
ダニエル・ハーディング:(c)Halald Hoffmann
ポール・ルイス:(c)Jack Liebeck

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

ラモン・オルテガ・ケロ、オーボエ・リサイタル(7月2日、浜離宮朝日ホール)
 超難関のミュンヘン国際コンクールで40年ぶりに優勝、バイエルン放送響の首席オーボエ奏者として活躍しているラモン・オルテガ・ケロのリサイタル。2012年ヤンソンス&バイエルン放送響のベートーヴェン・ツィクルスで際立った演奏を聞かせた時から注目していたが、今回改めてその才能に瞠目させられた。
 なめらかな指使いで、息継ぎが目立たず、フレーズのつなぎかたが自然。技術的に完璧で、どんなに速いパッセージも自在に楽々とこなす。音は明るく開放的で、力強さも持つ。高音から低音まで美しく艶やか。オーボエの難しさである音を即座に出すタイミングも正確、ピアニシモが本当に美しい。
 前日のサロン・コンサートの疲れか、日本の湿気と暑さが楽器に影響したのか、前半少し精彩を欠き、本調子ではないようだった。
 それでもサン=サーンスのソナタ第3楽章の3連符と16分音符が入り混じる難しい箇所や、シュンケのボレロ終盤の速いパッセージ、プーランクのソナタ第2楽章スケルツォの高音域のトリルなどは鮮やかに吹き、技術の高さを見せつけた。
 プーランク第2楽章中間部、プロコフィエフに対する敬意を表したと言われる「ロメオとジュリエット」に似た部分で聴かせた歌心や、終楽章コーダのピアニシモの静謐さも素晴らしかった。
 後半は調子が戻り、ケロの持ち味と魅力が全開した。シューマンの「幻想小曲集」は3曲が一貫した音楽となり、泉のようにあふれ出る。
ピアノのアニカ・トロイラーは2009年ミュンヘンのコンクールで「シューマン最高解釈賞」を受賞しているだけあってシューマンへの共感も深く、ケロとのやりとりも一体感があった。トロイラーはほかの曲でも切れ味とリズム感の良さ、重くならない軽やかなタッチと輝きのあるピアノを聴かせ、ケロのオーボエによく反応しながら、ともに音楽をつくっていく姿勢を見せた。
 ケロはファリャの「恋は魔術師」のみ楽譜を見ながら演奏した。あとはすべて暗譜で、プログラムに載せた作品を知り尽くしていることがうかがえる。
ファリャへの共感ぶりや、「カルメン幻想曲」の乗りのよさをケロがスペイン生まれであることに帰するのはいかにも短絡的だが、そう言いたくなるくらいケロの身体から音楽が自然に生まれてくるのを感ずる。
 「カルメン幻想曲」のハバネラの超絶技巧を吹き終えると、客席からため息のような、驚嘆の声が漏れ聞こえた。
 ここまで聴き手を圧倒する表現力を持つオーボエ奏者は稀有ではないだろうか。26歳のラモン・オルテガ・ケロの成長はこれで終わるはずはなく、この先どこまで伸びていくのか期待は大きい。
 NHKによるテレビ収録があり、近々BSプレミアム「クラシック倶楽部」で放送される予定。

プログラム:
サン=サーンス:オーボエ・ソナタ ニ長調 Op.166
シュンケ:アンダンテとボレロ
プーランク:オーボエ・ソナタ FP185
シューマン:幻想小曲集 Op.73
ファリャ:恋は魔術師(A.タルクマン編)
ボルヌ:カルメン幻想曲
アンコール:火祭りの踊り(ファリャ:恋は魔術師より)

ラモン・オルテガ・ケロ(オーボエ)
アニカ・トロイラー(ピアノ)
                    (長谷川京介)


Classic CONCERT Review【オーケストラ】


メッツマッハー&新日本フィルの「英雄」(7月13日、サントリーホール)
 メッツマッハーの指揮するベートーヴェンの「英雄」は、ほぼノンヴィブラートの透明ですっきりとした弦の響き。低弦はしっかりと鳴らし、重心は低い。金管や木管の強調もアクセントとなり効果的。全曲を速いテンポで駆け抜ける。建築設計図のように全体の構造がわかる演奏になっていた。
 ベーレンライター版を使用したと思われるが、第4楽章第2変奏が弦楽四重奏になるところも耳目をひく。第1楽章の展開部や第4楽章の主題の変奏は鮮やかに描き分けられる。
その一方で、メッツマッハーの指揮からは、英雄的なものや悲壮感はあまり感じられない。最初の「エグモント」序曲はそうした要素が多少あったと思うが、「英雄」第2楽章の「葬送行進曲」は堅固で力強いものの、感情移入する余地は少ない。メッツマッハーのベートーヴェンはこうなるだろうと予想していたが、いわゆるベートーヴェン的な側面も少し期待していた自分にとっては、肯定と否定が相半ばする感想を持った。コンサート後、メッツマッハーの意図がどこにあるのか考えてみた。
 メッツマッハーは自著「新しい音を恐れるな」(春秋社刊)のなかで、たたき上げのチェリストだった父の音楽の捉え方を紹介している(メッツマッハーは父の影響を受けたと思う)。それは『音楽が自分から語り出すように仕向けること。文字通り音楽がおのずと展開するように演奏する』というもので、この点はベートーヴェンの主題と展開、変奏での見事な再現としてメッツマッハーの指揮からよく伝わってきた。
 ではなぜあのような無味とまでは言わないが、「英雄」のイメージから遠く離れたベートーヴェンを目指したのかという疑問が残る。
 21世紀の現代の眼でベートーヴェンを見ると、そう映るということなのだろうか。
「英雄」は主題とその変奏、展開が古典的に行われたひとつの作品にすぎないということなのか。あるいは友人が言うように、<間にツィンマーマンの作品を置いたメッツマッハーの意図は、ツィンマーマンを知った耳に響かせるベートーヴェンの、その自明な「ベートーヴェンらしさ」とは何か、を考えさせるような企み>だったのだろうか?
結論は出ない。いずれにしても、こういう疑問を聴き手に抱かせるメッツマッハーは類のない個性の持ち主であり、何度も聴いてみたいと思わせる指揮者であることは確かだ。
新日本フィルがメッツマッハーの指揮に忠実に献身的に応えていたことは特筆したい。
 さて、この日心が激しく動かされたのはホーカン・ハーデンベルガーのトランペットによるツインマーマンのトランペット協奏曲「誰も知らない私の悩み」だった。
向井大策氏のプログラム解説によると、ツィンマーマンの作品は「バロック時代のコラール前奏曲」「十二音技法による自由な変奏曲」「協奏的なスタイルのジャズ」の3つの形式を用いた「多元的な」作品とのことだが、一貫して聞こえてくるのはタイトルになった黒人霊歌「誰も知らない私の悩み」に流れる深い哀しみだ。その哀しみを表すようなトランペットのハイノートが心に突き刺ささる。ハーデンベルガーのテクニックは驚くべき高さで、トランペットから極細の水晶の糸が伸びていくような高音の伸びの良さに加えて、弱音の美しさ、輝かしい音色、バルブの速い動きと正確な音程など、どれをとってみても世界最高レベルだと確信させる。コーダの長い弱音が糸をひいて空に消えていくさまは圧巻だった。アンコールに吹いた「マイ・ファニー・バレンタイン」の弱音のコントロールの見事さには言葉を失うほどだった。
 5人のサックス奏者、ハモンドオルガン、ピアノ、ハープ、打楽器など多くの奏者が加わった新日本フィルの熱演とメッツマッハーの正確な指揮にもブラヴォを送りたい。(長谷川京介)

Photo:
メッツマッハー:(c)Harald Hoffmann
ハーデンベルガー:(c)Marco Borggreve

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

インバル、都響 マーラー:交響曲第10番[デリック・クック補筆による、草稿に基づく演奏用ヴァージョン](7月20日、サントリーホール)
 第5楽章コーダの消えゆく先にある何物かが見えた。さらなる高みに向かうのか。もろもろの悩みと苦しみのかなたにある救いか。解脱したあとの開放か。浄土に足を踏み入れたのか。
 それまでの世俗の苦痛から解放された世界が見えた。
 インバルの指揮は整い、制御され、歌われ、ゆるぎなく構築される。ほころびはなく、磨かれ、鍛えられ、練り上げられた音が隙間なく音楽をうめていく。息苦しくなるくらいに。その最後にこうした世界が待っていようとは思いもよらなかった。
 インバルと都響のマーラー・ツィクルスは、事情により行けなかった第6、7、9番を除く第1番「巨人」、第2番「復活」、第3、第4、第5番、そして第8番「千人の交響曲」を聴いた。いずれもインバルが都響の技量を最大限引き出した名演だったが、今回の第10番のような高みには至っていなかった。
 過去の演奏ではオーケストラを精確にコントロールしようとするインバルの姿勢が強く出ており、完ぺきであるものの、聴き手との間に微妙な距離があるように感じられた。CD録音のマイクが林立した舞台を見て、まるでスタジオでモニターをしているようだと皮肉を言ったことさえあった。
 それが今回の第10番では、これまでとは異なる濃密な空気と時間が会場を支配した。マーラーの交響曲第10番の「デリック・クック補筆による、草稿に基づく演奏用ヴァージョン」を高く評価し、ツィクルスの最後を締めくくる重要な作品と位置付けるインバルの強い意志を如実に反映した結果とも言えるだろう。特に第5楽章は別次元と言いたいほどの充実ぶりで、楽章の開始の強烈な大太鼓の響きから何か異常なものが始まり、遠い世界から聞こえるようなフルートのソロが別世界に聴き手を導いていく。第1楽章の不協和音が再現し、その後を引き継ぐトランペットの高く長く伸びる音はもだえ苦しむ悲鳴のように心に突き刺さる。ハープの分散和音に癒され、一度大きく盛り上がりを見せたのち、コーダに向かってバスクラリネットを伴いながら音楽が静かになっていくあたりから、ホール内の様相が変わっていくように感じられた。マーラーが自筆スケッチにAlmschi!(アルムシ。妻アルマの愛称)と書きこんだコーダの頂点で、ヴァイオリン群がばらばらなボウイングを見せ、そこから音楽が消え入るように終わっていくまで、音が完全に消えたあとの静寂を含めた時間は何秒、いや何分だったろうか。
 それは「大地の歌」や「第9番」の最後に似ているようで、何かが違う。浄土に足を踏み入れたような、死生を超越した世界のようにも感じる。インバルと都響が実現したものは記憶に刻まれる。マーラー・ツィクルスの掉尾を飾るにこれ以上ふさわしい演奏はない。(長谷川京介)

インバル写真:(c)Sayaka Ikemoto

Classic BOOK Review【モーツァルト】

澤田義博『パリのモーツァルト〜その光と影』(アカデミア・ミュージック)
 モーツァルトと、「パリ」という都市との関係を、豊富な知識と写真、図像を駆使して描き出した興味深い1冊。「モーツァルティアン・フェライン」の会長をつとめる著者は、本業の関係でパリに長く滞在した際、モーツァルトの足跡を丹念に追った。本書はその集大成であり、これまで紹介されていないモーツァルトゆかりの場所の紹介に加え、当時のパリの音楽事情、パリの音楽界におけるモーツァルトの評価、パリがモーツァルトに与えた影響、彼の死後のパリにおけるモーツァルト受容など、さまざまな、また新鮮な角度から、両者の関係を再構築している。父レオポルトに対する厳しい評価や、モーツァルトのスペシャリストとして知られた名ピアニスト、クララ・ハスキルとディヌ・リパッティの「パリ」と「モーツァルト」論も新鮮だ。(加藤浩子)