2014年11月 

  

百田尚樹「至高の音楽」批判―扇動に乗ってはならない―・・・森本 恭正
 現NHK経営委員の百田尚樹氏は、2011年から13年まで、2誌に連載していたエッセイをまとめて「至高の音楽」と名付け、2013年12月PHP研究所より上梓した。私は同書を今年5月に購入。その時それは既に7刷を重ねていた。一読して、異常なまでのクラシックファンの作家が、恐らく市販のCDブックレット等にある情報を集めて書いたであろう、他愛ない一冊と思い、黙殺しかけた。が、時を待たずして、彼がNHK経営委員であることを知り(彼がNHK経営委員となったのは、この出版直後であった)、その後、彼の一連の政治的な発言を知ることとなった。
 クラシック音楽ファンである一作家が、クラシック音楽をどう聴こうが、また、それについてどのように言おうが、勝手である。だが、すでに公人となった百田氏が、ただでさえ歴史的にも権力との結びつきの強いクラシック音楽を指して、権力の側から「至高」と声高に叫ぶに至っては、最早、それは単なるファンとしての発言の域を越えていると思うのだ。
 訓練を積んだ職業的な音楽家である私が、この一文を書くにあたっては、恰もクラシックファンの集いの場に、敢えて乗り込んで意見しているようで、やはり躊躇があった。だが、彼の政治的発言をこの「至高の音楽」の記述と重ね合わせてみると、公人として、彼が政治的問題を口にする時の手法が透けて見えるような気がするのだ。そこで、彼と同じ土俵に上り、敢えて同書への批判を展開してみようと思う。
 至高の音楽―この一見常軌を逸したかにみえるタイトルを付けた理由を、彼は「クラシック音楽こそ最高の音楽である」と確信しているからだと言っている。つまり、百田氏は本気でクラシック音楽は「至高」であると考えているのだ。
 百田氏は、まるで劇音楽を聴くようにクラシック音楽を聴く。そして、「皆さんには、ただ虚心に音楽を聴いてもらいたい」(同書「決定版趣味」)などと言いながらも、実は「天地が震え、原始の地球の誕生を思わせるような壮大な音が鳴り響く」(ブルックナー8番終楽章)というような、陳腐で扇情的なことばで、音楽作品を繰り返し飾り立てる。加えて「すさまじい感動」「天才」「傑作」「完璧な音楽」「完璧な技巧」「世界最高峰」「壮麗」「壮大」「凄絶」と恰も感情の針が振りきれているかのように叫び続け、断定的賞嘆をもって読者をクラシック音楽へと煽り立てようとする。そこには、文学や美術、或いは様々な社会の動きと連動して生まれてきたヨーロッパクラシック音楽に対する、客観的で理知的な分析はない。あるのは唯、クラシック音楽に対する盲目的な崇拝である。その挙句、クラシック音楽はあらゆる音楽に優越している、つまり至高であると断言するのだ。
 クラシック音楽の演奏家でも作曲家でもない百田氏に、ここまでの断定をさせるのは、恐らく、19歳から聴きはじめて、現在は2万枚を超えるCDを持っているという、豊富な聴取量を持つが故の驕りからだろう。しかし、だからといってそれは、彼が音楽を深く理解していることにはならない。看過できない間違いを一つ示そう。
 同書で唯一提示されている楽譜−J.S.BACHの平均律ロ短調フーガ主題(BWV869)−に、楽譜が読めれば子供でも気が付く、信じがたい間違いがある。CHと続くべき音がC♯Hに、DC♯と続くべき音がD♯C♯になっているのだ。そして、そのコメントに「凄まじいばかりに半音階が使われていて・・・」と書いている。が、このような音列では、当然半音階にはならない。その上、ご丁寧にも「楽譜を載せているので、手元にピアノがあれば是非弾いてほしい」とまで言い、「奇妙な現代音楽のように聴こえるだろう」と続ける。それは、この間違い通りに弾けば、確かに「奇妙な現代音楽」のように聴こえるだろう。彼は、このフーガ主題をかつて携帯の待ち受けに使い、その着信音を聴いた人が例外なく示す「気持ち悪い音楽」という反応に、バッハの凄味を感じてほくそ笑んだという。彼の表現を借りれば、笑止!と言う他ない。まさか本当に間違ったまま打ち込み、その間違いを聴いてもわからなかったとは思いたくないのだが。
 「バッハの凄み」と彼はいう。同書中にこの「凄い」ということばが一体何度使われているか知れない。クラシック音楽を聴くとき、彼はいつも興奮し、誇大に、大仰に話す。まるで彼の考えるクラシック音楽とは、常に聴く者を圧倒し続ける為にあるかのようだ。人は何かに圧倒されたとき、思考は停止し、対象の一面しか見えなくなる。そして、対象に対する洞察も分析も批判もなしに、対象を崇めはじめる。彼は同書でクラシック音楽を至高と定め崇拝し、その優越性をことさら賛美して、大衆をクラシック音楽へと煽り立てているのだ。それは何かを隠蔽して、或いは物事の一面しか示さずに、大衆をある方向へ扇動するポピュリストの常套手段である。
 フランシス・フォード・コッポラ監督は、映画「地獄の黙示録」の中で、戦闘ヘリがナパーム弾で森を焼くシーンに、ヴァーグナーの「ヴァルキューレの騎行」を使った。その例を挙げて「この部分を聴くだけで、ヴァーグナーの桁外れの凄さがわかる」と、彼は言う。ナパーム弾が焼いたのは勿論ヴェトナムの森だけではない。その森に潜む兵士も、人々も、子供たちも、皆焼いたのだ。それは注意深くこのシーンを見ればきちんと描かれている。だが彼は、まるで戦争ごっこをしている男の子のように、米軍のヘリコプターによる勇壮な爆撃シーンをことさら盛り上げる為の「凄い音楽」として、「ヴァルキューレの騎行」を聴いている。だが、殺戮の残虐さへのアイロニーとして、コッポラ監督は敢えてヴァーグナーの音楽を使ったのではなかっただろうか。
 たとえそれがオペラ作品であっても、音楽作品を一面的な劇音楽として聴いてしまうと、或いは自分の中で都合の良いように、より強いもの、若しくは「凄い」ものへと劇化してしまうと、それは、音楽芸術の持つ無限の多様性に蓋をすることになるだろう。クラシック音楽をそんなふうに聴くことは、ある意味、危険を孕んでいるように思えてならない。他者に対する想像力が欠落し、感得すべき繊細な情緒を聴き逃し、ひいては虚しい誤解をしたまま聴き終る。
 が、しかし、百田氏は、クラシック音楽ファンの手練れである。
 恐らく聴き漏らしている音はないのだろう。彼はわざと、全て分かったうえで、クラシック音楽を感情の針を振り切らせるための興奮剤のようにして使っているのだ。そして、同書をもってそのような聴き方を奨励し、そのような聴き方から導かれるクラシック音楽のある一面の「凄さ」を喧伝し、読者をある極端な方向へ向けて煽り立てているのではないだろうか。同書の中の「音楽」という言葉をたとえば、「民族」とか「政治」とかと入れ替えてみたらどうだろう。このようなレトリックで彼の言説が進みはしないだろうか。
 初めて「地獄の黙示録」を観たとき、私が、ヴァーグナーの音楽とともにあのシーンで米軍の司令官に重ね合わせたのは、オーストリア生まれのポピュリストHの名前だった。彼も恐らく百田氏のような一面的な聴き方でヴァーグナーを聴き、讃嘆し、同様なレトリックで演説し、その結果人々を大きな悲劇へと陥れたのではなかったか。そのことを思い出して、少し大げさに言えば、今私はある恐怖感をおぼえている。

ブロードウェイ・ミュージカル 「ON THE TOWN」の日本初演
・・・本田悦久 (川上博)
 レナード・バーンスタイン作曲、ジェローム・ロビンス振付、ベティ・コムデンとアドルフ・グリーン脚本・作詞によるミュージカル・コメディ「ON THE TOWN」が、1944年にブロードウェイのアデルフィ劇場で初演 (続演回数462回) されてから70周年となる今年、日本で初演された。

 「ON THE TOWN」と云えば、ジーン・ケリー、フランク・シナトラ、ジュールス・マンシン、ヴェラ・エレン、ベティ・ギャーレット、アン・ミラーが歌って踊って大活躍した1949年のMGM映画 (邦題「踊る大紐育」) を映画館で観たのが最初で、その後はDVDで繰り返し観て、筆者のお気に入りミュージカル映画のベスト5に入っている。

 日本初演の舞台を観劇したのは、10月10日の東京・青山劇場。

 ストーリーは、ニューヨークで24時間の上陸許可を与えられたゲイビー (坂本昌行) 、オジー (井ノ原快彦)、チップ (長野博) の3人の水兵が街へ繰り出し、地下鉄に乗る。ゲイビーはミス・サブウェイのポスターの中のアイヴィー (真飛聖) にひと目惚れ。オジーとチップにも協力してもらい、彼女を見つけ出そうとしているうちに、オジーは人類学専攻のクレア (樹里咲穂) と、チップはタクシー運転手のヒルディ (シルビア・グラブ) と出会う・・・「ニューヨーク・ニューヨーク」「ゲイビーのお通りだ」「部屋においでよ」「ロンリー・タウン」「現実のコニーアイランド」等のミュージカル・ナンバーが素晴らしい。

 かつては役者でダンスのキャプテンだったビル・バーンズの演出・振付は見事で、地下鉄の乗客たちの傾き方で発車したり停車したりの状況を表現していて楽しい。

 ところで、ブロードウェイでは、1971年と1998年にリヴァイヴァルしているが、今年、日本に負けられないと、10月16日にリリック劇場でオープンした。

(写真提供: クオラス Quaras)

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