2014年7月 

  

Classic CD Review【協奏曲(ピアノ)、器楽曲】

「プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番、他/ベフゾド・アブドゥライモフ(ピアノ)ユライ・ヴァルチュハ指揮、RAI国立交響楽団」 (ユニバーサル ミュージック、デッカ/UCCD-1397)
 このところ人気上昇のアブドゥライモフ初の協奏曲CDである。ウズベキスタンに生まれたアブドゥライモフは5歳からピアノを始め、8歳でウズベキスタン国立交響楽団との協演でデビューを果たしたという早熟な子供だった。それから16年経った今、彼は世界を駆け巡る人気ピアニストに成長し、多くの音楽ファンを楽しませている。彼の作り出す音楽は若い天真爛漫さと、持って生まれた落ち着いた成熟さを併せ持っている。勿論技術の素晴らしさは彼の音楽表現にとって不可欠であることは論を俟たない。今回のチャイコフスキー、プロコフィエフとも彼自身が選んだそうだが、若さの割に音楽の大きさを感じる演奏であり、このままで行けばこのピアニストの限りなく大きな将来を予感させてくれる。
 尚、指揮をしているユライ・ヴァルチュハはスロヴァキアのブラチスラヴァ出身の若手だが、協奏曲の伴奏にかけては見事なセンスを披露している。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲(ヴァイオリン)】

「ファンタジー/フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 作品13、イザイ:悲劇的な詩 作品12,子供の夢 作品14、フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調、フォーレ:夢の後に 作品7の1 /南 紫音(ヴァイオリン)、江口 玲(ピアノ)」(ユニバーサル ミュージック、UCI/UCCY-1038)
 ロン・ティボーで2位をとってかれこれ10年近く経つ。そして2008年にCDデビュー以来南紫苑は今回が3枚目のリリースとなる。イザイに傾倒している南紫苑、本人としては満を持してのリリースに違いない。筆者が初めて聴いた6年前の「デビュー・リサイタル」と銘打ったCDから6年後の印象は、音楽の表現力が格段に広がり、大人の域に達してきたということである。そしてより素晴らしいことは、名器を完全に制御していることである。最初のフォーレのソナタから始まって最後のこれもフォーレの「夢のあとに」まで、彼女自身の音楽表現を彼女の思い通りに楽器に歌わせている感じだ。言い方を変えれば楽器との相性が良いのだろう。それから伴奏の江口玲の上手さは例によって絶品の一言である。(廣兼 正明)

Classic CD Review【オペラ】


「モーツァルト:歌劇《フィガロの結婚》/アンドレイ・ボンダレンコ(バリトン、ジモーネ・ケルメス(ソプラノ)、ファニー・アントネルー(ソプラノ)、クリスティアン・ヴァン・ホルン(バス)他、テオドール・クルレンツィス指揮、ムジカ・エテルナ(オリジナル楽器使用)」(ソニー・ミュージックエンタテインメント、ソニー・クラシカル/SICC-30153〜5)
 先ずは驚くべき斬新な躍動感を持った「フィガロの結婚」、このプロダクションを企画し、指揮をしているのが、ギリシャ・アテネ出身の若手、テオドール・クルレンツィスである。まだ40歳になっていない彼はアテネからサンクトペテルブルクへ出て作曲と音楽学を学び、今から10年前に友人たちとピリオド・オーケストラとコーラスから成る「ムジカ・エテルナ」をノヴォシビルスクで創設したが、これは彼の考えからして作曲当時の音を実現するためにどうしても必要だったと言う。その後モスクワからも遠く離れた街にあるペルミ国立歌劇場音楽監督のポストへの打診があった時、彼の手兵である「ムジカ・エテルナ」も一緒であることを許諾の条件として提示したという。その結果今回の録音が実現したのである。このCDを聴いてみると先ず最初に書いた序曲の可成り速いテンポに驚かされる。それは何とも斬新であり躍動感に充ち満ちているが、第一幕の幕が開くと急にに落ち着いたテンポとなる。そしてキャストの顔ぶれを見ると所謂一般のオペラ歌手の人たちとは異なり、クルレンツィスが集めた完全にバロック・オペラのキャストと言える歌手たちである。聴き慣れないと違和感を感じることがあるかも知れないが、慣れるとこの演奏に溶け込める。ここには映像がないのが残念ではあるが、頭の中で当時のオペラを自分なりに想像して聴くのも又楽しからずや、といったところである。今後、今年中に「コジ・ファン・トゥッテ」、来年には「ドン・ジョバンニ」とダ・ポンテ三部作が揃うことになる。 (廣兼 正明)

Classic CONCERT Review【室内楽】

「小林響 ヴァイオリン・リサイタル ブラームスへの思い」 2014年5月31日 JTアートホールアフィニス
  小林響は、イスラエルに留学し30年が過ぎ、その地で5年間室内学を学んだとのこと。今回のリサイタルでは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタが3曲演奏されたが、内容の説明力もさすがに的確であり、表現に落ち着いた味がそなわっているように感じられた。
 けばけばしいハッタリなど少しもなく、それでいていて区切りごとにしっかりとけじめをつけて弾いていたのが印象的。若いヴァイオリニストからはなかなか聴くことのできない表現である。特にこのヴァイオリニストは、低音域から中音域にかけてきれいに響き、まさにブラームスのヴァイオリン・ソナタにふさわしい。
 プログラムの前半は、第2番イ長調と、第3番のニ短調。明るく伸びやかな第2番、そして、やや暗い内省的な第3番の堆肥をしっかりと描き分け、音色に対する敏感な感覚と、すばらしい熟達した表現によって、あのブラームス独特の星の降るような美しさといったら良いのであろか、そのことを聴いていて満喫させ、音楽的にも訴える内容を持っていた。特にゆったりとした緩徐楽章の第2楽章が美しい。
 後半は、最も有名な第1番のト長調「雨の歌」。プログラムは前半と同じような感じを受けたが、特にこの作品は外面的な効果を狙うヴァイオリニストが多い中で、小林はブラームスの内省期にあった作曲者のしみじみとした情感を浮き出させることに成功し、聴き手を惹きつけるものがあった。
 ピアノはカナダのモニック・ディ・マージェリー。二重奏としての細かい配慮を見せており、多様な楽想を弾き分ける技巧が素晴らしい。土曜の午後、室内楽を聴くのは幸福である。トーマス・マンやドストエフスキーの小説を読んでいるような充実した一時を感じるからである。(藤村貴彦)

Classic CONCERT Review【ピアノ】

「パウル・バドゥラ=スコダ ラスト・コンサート」6月5日(木)19時 すみだトリフォニーホール
  86歳のスコダ、最後の来日コンサートということもあり、会場はほぼ満席。ピアノ音楽をわかった聴衆が多くマナーも良い。
 スコダのピアノは、現代の多くのピアニストたちのような磨かれたテクニックを誇示し、大言壮語して力で聴くものをねじ伏せるタイプとは正反対で、朴訥な語り口で誠実に穏やかに聴くものに語りかけてくる。
 技術は全盛期の録音(1956年)のショパンのエチュードと較べてもわずかに衰えたと思えるだけで、語り口や音楽性は基本的に変わらない。
 プログラムのなかではまずシューベルトの即興曲が素晴らしかった。ほのぼのとした雰囲気のなかで安らかな音楽に包まれる幸福感を味わう。ウィーンの伝統とはたぶんこういう音楽のことを指すのだろう。共通の文化の中で人と人とが素直に信じられる時代、今は失われてしまった時代の郷愁を感じさせる演奏だ。
 スコダは右手が奏でる滑らかで美しい音楽の流れと、左手の刻む安定した温かな低音部のバランスが良く、ピアノ全体を気持ちよく響かせる。
 ハイドンのソナタでは、第1楽章第1主題、第2主題の一部で指運びに滑らかさがなく、少し不安を感じたが、展開部になると音楽が生き返り説得力を増し、その後は順調な流れに終始した。
 後半のモーツァルトの前に、ウィーン国立音楽大学教授でもあったピアニストの今井顕とともにマイクを持ってステージに現れたスコダが音楽やモーツァルトについて語る場面があった。スピーチの内容は以下の通り。
 『間もなく「聖霊降臨祭」が来ます。(註:今年は6月8日)この日はすべての人が様々な言葉を話すことができる奇蹟が起きた日です。音楽は言葉を超えます。ハイドン、モーツァルト、シューベルトの音楽は言葉が違っても誰でも理解できます。モーツァルトは動物にもわかります。ソニーの社長大賀典雄さんの自宅に伺ったとき大賀さんの小さな愛犬が今夜最初に弾いたモーツァルトの幻想曲を弾くと喜びました。モーツァルトのピアノ協奏曲第27番は1991年1月5日に完成。モーツァルトは1年も命が残されていません。第3楽章は「春への想い」という子供の歌です。(と言ってピアノでメロディーを弾きながら良く通るきれいな声で歌う。)とても明るい曲ですが、哀しみのベールに覆われています。』
 オーケストラは東京交響楽団。8型の小さな編成。スコダが弾き振りをした。これもまたウィーンの音楽。スコダのピアノは、中庸でゆったりとして、どこにも肩肘をはることなく穏やかに流れる。やはり高音部の響きやトリルが美しい。オーケストラもニュアンス細やかな表現。弦が良く歌い低音弦のピチカートの響きも良い。コンサートマスターはグレブ・ニキティンが務めていた。
 アンコールはオーケストラと一緒にモーツァルトのピアノ協奏曲第27番第2楽章ラルゲットの再現部を弾き、最後に「グラスハーモニカのためのアダージョ」を弾いた。後者では指を立てグラスハーモニカを再現するかのような透明な音を奏でた。
 スコダのラスト・コンサートは最後まで温かな雰囲気の中で幸福感を残して終わった。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【ピアノ】

「アルド・チッコリーニ ピアノ・リサイタル」 6月18日(木)19時 東京芸術劇場コンサートホール
  2012年の来日公演を上回る充実したチッコリーニの演奏に圧倒されたリサイタルだった。
丸くなった背中で杖をつきながらピアノに向かってゆっくりと歩く姿は88歳という年齢を感じさせ、一昨年よりすこし痩せたように見える。しかしピアノに向かったとたんその様は一変、音楽はよどみなく溢れ出し、最初の一音からすぐにチッコリーニの世界に引き寄せられる。
 脱力し無駄のない身体全体を使った打鍵から生まれる演奏は、穏やかだが、底力を秘めており、深みと渋い味わいはチッコリーニのこれまでの活動の集大成ともいうべき年輪を感じさせる。
 聴き進むに連れチッコリーニとピアノが同化し、ピアノそのものが音楽を奏でているかのような錯覚に陥る。音楽の流れがどこまでも自然体で、スケールが大きく、年齢からくる衰えを感じさせない。
 21歳のブラームスが書いた「四つのバラード」はチッコリーニによって熟成され、不安げで暗い曲想に内省的な深みが加えられる。その一方でチッコリーニは、第2曲冒頭で若き日を回想するような味わいを聞かせ、第3曲中間部では一瞬の淡い光を、第4曲冒頭でみずみずしい抒情性を見せるなど、見事なコントラストを描いていく。
 グリーグの「ピアノ・ソナタ ホ短調」では第2楽章が歌心に満ちており、第4楽章の旋律的な第2主題をコラールのように敬虔に響かせた。
 後半ボロディンの「小組曲」も全体に深みがあり、何気ない「マズルカ」にも気品と味わい、そして郷愁がある。終曲の「ノクターン」のしみじみとした風情と優しさ、深い余韻は忘れがたい。
 この夜の演奏の中では、カステルヌオーヴォ=テデスコの「ピエディグロッタ1924 ナポリ狂詩曲」が最高の聴きものだった。
 「ピエディグロッタ」とはナポリに伝統的に伝わる祭だが、この作品もナポリに古くから伝わる歌などから素材を得ている。チッコリーニは同じイタリア出身のカステルヌオーヴォ=テデスコのピアノ曲に注目し、この曲も録音も行うなど、作曲家と作品に対する並々ならぬ共感が演奏からはっきりと伝わってきた。
 愛おしむように奏でられる1曲1曲に深い味わいがあったが、中でも第4曲「ヴォーチェ・ルンタナ」は素晴らしかった。幻想的な別世界に運ばれるような、どこか遠い懐かしい場所に帰って行くような心地よさと郷愁を覚える。カステルヌオーヴォ=テデスコの作品の本質をここまで示すことのできるピアニストはチッコリーニだけだろう。
 アンコールは実に3曲。定番のスカルラッティの「ソナタ ホ長調K.380」のトリルの美しさはこれまで以上に輝き、ドビュッシーの「ミンストレル」は諧謔に満ち、最後にルービンシュタインも青くなるような力強いファリャの「火祭りの踊り」で締めた。驚くべき体力と技術、そして表現力。スタンディング・オベイションがまき起こったのは当然の帰結だった。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【管弦楽】



「東京都交響楽団 第772回 定期演奏会Bシリーズ/フルシャ&都響の「春の祭典」 6月24日(火)19時 サントリーホール
 ヤクブ・フルシャと都響によるストラヴィンスキー「春の祭典」を聴く。
 細密画のように細かな部分まで丁寧に克明に描かれた凝縮度の高い演奏。フルシャと都響が一体となり、集中力を発揮した。
 客観的、冷静でありながら、同時に燃えるハートも感じさせる。頭脳的でありながら、切れ味のいいリズムの野性味、追い込んでいくときの力強さや迫力、演奏の熱さも不足しない。
 都響の木管群はファゴットをはじめ安定。金管も輝かしく、打楽器も好調。矢部達哉、四方恭子のダブルトップで弦楽器群も万全の布陣だった。正確で名人芸的な各楽器のソロを味わいながら、オーケストラ全体の重心の低い圧倒的な演奏のスリルや興奮も楽しめるという演奏になっていた。
第1部の「大地の踊り」終結部の一気呵成の勢いや2部の最後「生贄の踊り」の集中度と激しい緊張感は瞠目するものがあった。
 野性的なところや、おどろおどろしい表現はスパイスのように効果的に配置され、全体として音楽が洗練されているところに、フルシャの趣味の良さ、上品さを感じる。精度と密度のきわめて高い演奏は室内楽的ともいえる。こういう「春の祭典」を聴くのは初めてだ。
 バルトークのピアノ協奏曲第3番を弾いたピョートル・アンデルシェフスキは個性的なピアニスト。協奏曲のピアノの出だしの音を聞いた瞬間他とは違うと感じた。民族的というのか異国的というのか、バルトークの世界に合う独特の音色とタッチだ。
 第2楽章は、フルシャと都響の弦がレリジオーソ(宗教的な)の指示通り、霊妙な響きで入っていくが、応えるアンデルシェフスキはコラール旋律を素っ気ないように淡々と弾く。後半のピアノが木管の奏するコラールを修飾するところなど、もうすこし情感や思い入れがほしかった。しかし、これがアンデルシェフスキの個性だろう。
 それでも、第3楽章のコーダのヴィルトゥオーゾ的な技巧と華やかさは聴衆のブラヴォを巻き起こし、アンコールは2曲。バルトークの「3つのハンガリー民謡」と、バッハの「フランス組曲第5番〜サラバンド」。後者ではグレン・グールドが弾くバッハのインベンションのようなどこかクラヴィコードを思わせる響きとタッチで、ピアノの鍵盤を薄くさわるだけで音をつくっていく。個性の強いアンデルシェフスキのリサイタルを聴いてみたい気持ちにさせられた。
 冒頭のオネゲルの交響的素描第1番「パシフィック231」もがっちりとした緊密度の高い演奏。都響のチェロ群の力強いリズムは機関車の推進力をよく表していた。
 フルシャに対する楽員の信頼と好感度、人気ぶりを知ったのは、「春の祭典」のあとの長いカーテンコールの時。フルシャ一人を讃えて指揮台に上げるのは普通のこととして、場内の灯りがついて聴衆が帰り支度を始めても、ステージ上の楽員たちはそのまま立ち続け、最後にもう一度フルシャを指揮台に呼び戻した。フルシャへの楽員たちからのソロ・カーテンコールともとれる光景はすがすがしい。フルシャと都響への期待がますます大きくなった。(長谷川京介)
Photo:
(C)Petra Klackova(指揮者)(上)
(C)K.Miura(ピアニスト)(下)