2011年5月 

OPERA Review (リヨン発)
FESTIVAL MOZART "Così fan tutte" "Le Nozze di Figaro" "Don Giovanni" -
Opéra National de Lyon・・・・・・・・・・・・・・・by Mika Inouchi
リヨン国立歌劇場「フェスティヴァル・モーツァルト」
ダ・ポンテ3部作一挙上演・・・・・・・・・・・・・井内 美香
 リヨン歌劇場はルイ・エルロ&ジャン=ピエール・ブロスマンが支配人であった時代から個性的な演目やアーティストの選択で高い評価を得てきた劇場である。音楽監督も初代のジョン・エリオット・ガーディナーからケント・ナガノ、ルイ・ラングレー、イヴァン・フィッシャーが務めてきた。現在の総支配人セルジュ・ドルニは2008年に大野和士を常任指揮者に迎えている。今シーズンではエクサンプロヴァンス音楽祭他と共同制作をしたロバート・ルパージュ演出、大野指揮の「夜泣き鶯とその他の寓話」などが注目された。またモダンを中心としたレパートリーを持つリヨン歌劇場バレエ団もよく知られている。

 そのリヨン歌劇場で3月から4月にかけてフェスティヴァル・モーツァルトが開催された。ロレンツォ・ダ・ポンテ台本のイタリア・オペラ三部作「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」の同時上演である。3演目を日替わりで上演する事により、観客はモーツァルトの傑作を聴き比べて味わえるという企画だ。演出は3演目ともエイドリアン・ノーブル。指揮はリヨン歌劇場デビューのステファノ・モンタナーリ。この3演目に加えて歌劇場はモーツァルトにまつわる企画をいくつか立てた。モーツァルトのアリアを使った新しい舞台作品「ご存知でしょう…恋とは何かVous qui savez...ou ce qu'est l'amor」をリヨン郊外の小劇場で同じ時期に上演し、「レクイエム」を四重奏曲にアレンジしたドビュッシー・ストリング・カルテットの演奏会、モーツァルトのアリアを使ったポップスの作品を作曲させる若者向けのコンクール「モーツァルトは君達だ!Mozart c'est vous!」、そして7月には「コジ・ファン・トゥッテ」をメガ・スクリーンで野外上映する、などである。3公演のチケット、特に「フィガロの結婚」は発売と同時に売り切れとなり、モーツァルトの人気を示した。


「コジ・ファン・トゥッテ」
 演出家ノーブルはロイヤル・シェークスピア・カンパニーの芸術監督を務めた英国人。オペラでは最近メットで演出した「マクベス」やヘンデルの作品などで知られている。ノーブルは今回の3演目をすべて20世紀のアメリカに舞台をおいた。「コジ・ファン・トゥッテ」はカリフォルニア海岸のリゾート地が舞台だ。
幕が開くと舞台は少し岩場になった海岸。舞台奥には海が見える。長いバーカウンターがあり、男達がそこで飲んでいる。白っぽい色の麻のスーツに紫のスリッポンのドン・アルフォンソに、バミューダショーツにサンダル姿のフェルランドとグリエルモ。青年達は海軍の兵士という設定だ。そしてビキニ姿で海岸から上がって来るフィオルディリージとドラベッラは、携帯電話の中のお互いの婚約者の写真を見せあう。時代設定も良いしファッションもお洒落な楽しい舞台だ。アルバニア人に変身する場面では二人の若者が革ジャンに赤いバンダナ+サングラスのマッチョ系で登場し客席から大きな笑いが漏れた。デスピーナはスターバックスの紙袋を持ってミニ・スカート姿で登場する。このように演技の細部は面白いのだが、演出として見るとコメディ・タッチの描写に重きを置き過ぎている。その為、男達が毒を飲んだ時に女性二人が受けるショック、その後のキッスの要求へのとまどい、そして第二幕における新しい恋人達の恋愛遊戯などがギャグに負けてしまっているのが残念であった。最後はフィオルディリージとフェルランドだけがお互いの新しい愛を確認する、という選択になっている。



 楽器編成はティンパニー、ホルン、トランペットが古楽器を使用。通奏低音はフォルテピアノのみ。これは3演目に共通であった。これらの楽器が参加しただけでオーケストラの音色は大きく変わり、特に「コジ・ファン・トゥッテ」におけるホルン、「ドン・ジョヴァンニ」におけるティンパニーなどは、一度聴いてしまったらもうモダンの楽器には戻れなくなるほど効果的である。ホルンなど確かに音を外す頻度は高くなるが、その音色は大きな表現力を持っている。今年スカラ座で上演された「魔笛」ではティンパニーのみがバロック・ティンパニーであった。ヨーロッパの一流歌劇場においてはもはやこのような配慮無くしては、モーツァルト演奏は難しくなってきているようだ。
 ノンビブラートの弦とティンパニーで始まる「コジ」の序曲はなんとも鮮やかだ。古楽のヴァイオリニストであり最近は指揮活動も多いモンタナーリは軽快なテンポで全体を牽引していくが、その魅力が最大限に発揮されるのはオペラの中に隠されている各楽器の美しいラインを浮かび上がらせる手腕と、「コジ・ファン・トゥッテ」の場合には切ない繊細な美しさを持ついくつかのアリアにおける表現である。第一幕のフェルランドのアリア「愛の息吹はUn' aura amorosa」におけるオーケストラには青春の儚さがあるし、ホルンが歌と一体となる第二幕のフィオルディリージのロンド「お願いです、許して下さい、愛しい人Per pietà, ben mio, perdona」には気高い美しさがあった。



 歌手達は皆、容姿端麗、演技力抜群である上に役柄に合った声が選択されているし、音程も良い。しかし、特にイタリアの歌劇場と比べると声の美しさの点では見劣りがするし、歌における表現も同様であり、また今回は多くの歌手達が2演目以上に出演しているため、いくつかの役に関してはあきらかに声の疲労が感じられた。「コジ」ではフィオルディリージのマリア・ベングッソンは硬質の美声だが感情表現が少し物足りない時がある。ドラベッラのトーヴェ・ダールベルクはソプラノに近い音色でこの役にはもっと深いメゾの声が望まれたが音楽的には優れている。フェルランドのダニエル・ベーレはモーツァルトにぴったりのテノールだが支えが不安定。グリエルモのヴィート・プリアンテは容姿も声も魅力的で文句がなかった。ドン・アルフォンソのリオネル・ロートはベテランで安定していたが、演技が類型的になる傾向がある。デスピーナのエレナ・ガリツカヤはルックスも演技も素晴らしいのだが声量が小さく、特に第二幕のアリア「女が15にもなればUna donna a quinditi anni」ではオーケストラを超えられずかなり不満が残った。合唱団は演技も歌も手慣れたもので舞台を盛り上げていた。

「フィガロの結婚」
「フィガロ」の舞台はワシントン、ずばりホワイト・ハウスである。幕が開くと舞台中央にティエポロ風の大きな絵が床面に置かれており、壁が無く両側に扉だけがある。これが大統領の召使であるフィガロとスザンナの新しい部屋なのだ。この空間の外には椅子が沢山転がっており、下手側にはホワイト・ハウスの模型も置かれている。場面が変わると床の絵も、他の装置も変化するが壁の無い部屋の使い方は基本的に同じ。色彩はローズ、空色、金色、赤、白などの明るく楽しい色が中心。また、警備員、料理人からスポーツ・トレーナーまでホワイト・ハウスの様々な従業員達のコスプレも楽しい。
演出としては質の高い演技のリアリスティックな芝居で、パリ・オペラ座でマルターラーが演出した「フィガロ」などと比べると、こちらは眩暈がするほど『まとも』である。第二幕ではドアの向こうの衣裳部屋が見えているので、伯爵と伯爵夫人が争っている間のケルビーノの慌てぶりが分かったり、演出上の細かい工夫が上手く機能している。歌手達も自然な演技で、視線も指揮者ではなく常に相手役を見ているのに歌はオーケストラとぴったり合っている。ノーブルの演出手法がもっとも映えたのは今回の三作品の中では「フィガロ」であろう。


 ただ問題点が無いわけではない。第一幕の最後でフィガロが「もう飛ぶまいぞこの蝶々Non più andrai farfallone!」を歌うのは伯爵に対する皮肉なのに、その伯爵とドン・バジーリオが、アリアが始まる前に退場してしまうのはおかしい。また第四幕はそれまでと違った夜の庭という場面だが、噴水の上に雲をたくさん吊るしただけの舞台装置も美しくないし、スザンナと伯爵夫人の取り違えが上手く示されず、スザンナのアリアが伯爵夫人の青いドレスを着た彼女が舞台に一人で座って歌われるのも納得できなかった。

 序曲はかなり速いテンポ。これから何かが始まる予感に満ちている。モンタナーリの指揮ははっきりと有機的だ。今回、通奏低音がフォルテピアノのみなのでレチタティーヴォにおける展開が少々寂しい場面もあり、特に第四幕でマルチェッリーナとドン・バジーリオのアリアをカットした事によってレチタティーヴォ・セッコのみの長大な場面が出来てしまったのは残念だったが、オーケストラが介入する場面での各楽器の多彩な表現によってそれは充分に補われたと言えるだろう。特に第一幕ドン・バルトロのアリア「復讐だ、ああ、復讐だLa vendetta, oh, la vendetta」におけるティンパニーや金管の活躍は痛快だった。木管楽器も上手い。リヨン歌劇場のオーケストラは飛び抜けた名手はいないかも知れないが、指揮に対する弦パートの反応が良く、管楽器も打楽器も作品のカラーを良く捉えた演奏で、多彩なレパートリーを持つ歌劇場ならではの柔軟性を感じた。音楽的なクライマックスは第三幕の伯爵と伯爵夫人のアリア、そして第二幕と第四幕のフィナーレ。第四幕の最後、伯爵がフィガロと妻の逢引を信じて騒ぎ立てる所からはたたみかける音楽となり、本物の伯爵夫人が登場して真相が明らかになった後の伯爵の「何と!これは一体!O cielo! Che veggio!」でテンポが非常にゆっくりとなる。そして「伯爵夫人、許しておくれContessa, perdono!」からはアンダンテでまた雰囲気ががらりと変わり、最後のアレグロ・アッサイへと昇華される。皆がそれぞれの相手と走り去った後、伯爵と伯爵夫人のみが舞台に残り、伯爵がさし伸べた手を彼女が最後にそっと握る。それは私にはハッピーエンドに思えたのだが、本当はどうだったのだろう。


 伯爵のルドルフ・ローゼンは長身の整った容姿。声自体は平凡だが難易度が高いアリア「私が溜息をついているのにVedrò, mentr’io sospiro」は音楽的構成をよく理解した立派な歌唱だった。伯爵夫人のヘレナ・ユントゥネンは北欧出身の金髪のソプラノ。演技がコミカル過ぎて品が無いのが残念だが、二つのアリアはそれぞれ情感をもって歌い、特に目の覚めるような美しい青いドレス姿で歌った「どこへ行ってしまったの?あの美しい時Dove sono i bei momenti?」はオーボエ、ファゴットとの掛け合いも美しく、後半へのテンポの変化も絶妙な名演であった。スザンナのヴァレンティーナ・ファルカスはショートカットの美人、音楽的にもしっかりしていて演技も良かったのだが、大切な第四幕のアリアで歌のラインが正確でない上に、ヴァリエーションで最高音を変えて歌ったのは残念だった。フィガロはヴィート・プリアンテ。美声だし歌も上手い。性格表現にもう少し突っ込んだ所が出てくればなおいいだろう。ケルビーノのトーヴェ・ダールベルクは「コジ」ではドラベッラを演じているのだが、色っぽい美女から魅惑的な美青年に変身。ソプラノ寄りの声もケルビーノ役ならさほど気にならず、青っぽいティーン・エイジャーを完璧に演じていた。その他の歌手もみな適材適所。

「ドン・ジョヴァンニ」
 最後に観たのが「ドン・ジョヴァンニ」である。「フィガロの結婚」が音楽による芝居、「コジ・ファン・トゥッテ」が声を器楽的に扱った室内楽的オペラだとすれば、「ドン・ジョヴァンニ」はもっとも交響曲的側面が色濃いオペラである。その為だろうか、今回の3演目中では舞台と音楽でもっともアンバランスが生じたプロダクションとなった。リヨン歌劇場オーケストラは指揮者モンタナーリによってその美質を引き出され、モーツァルトの中でもより観念的で多彩な響きを持った音楽をたっぷり聴かせる名演となったが、歌手陣は音楽性と声がオーケストラのレヴェルに達していた人は少なく、ノーブルの演出に至っては単なる演劇的アプローチに終始し、音楽を視覚化しなくてはならない『オペラの演出』に対する彼の限界をはっきり示すものとなった。


 舞台はニューヨークのリトル・イタリー。薄汚いアパート群の裏階段からドンナ・アンナに追われたドン・ジョヴァンニが出てくる。鉄の非常階段を降ろして逃亡するドン・ジョヴァンニ、騎士長は20世紀のニューヨークなのになぜかフェンシングの剣を持って登場。アパートの住民たちがバルコニーに出てこの決闘騒ぎを見守っている。ゼルリーナとマゼットの結婚式は、こもをかぶったキャンティの瓶やご馳走が置かれた赤のギンガムチェックのクロスをひいたテーブルが並ぶパーティーで、マゼットは背広に口髭姿。ドン・ジョヴァンニの館での仮面舞踏会では来客達が18世紀風の衣裳をまとう。会場には白っぽい衣裳の幽霊たちが何人か出現している。騎士長の像がある墓地にもこの幽霊たちは登場し、最後にドン・ジョヴァンニが破滅する場面では彼にまとわりつき、服を脱がせて地獄に落とす…現代化するのはかまわないが、その事によって何を語りたいか、という一番大切な部分が欠けている退屈な舞台であった。

 ドン・ジョヴァンニはマルクス・ヴェルバ。ドン・ジョヴァンニ役は彼が世界中で歌っている当たり役だ。白いスーツ姿も役作りも音楽性も素晴らしいと思うが、声量が小さく響きが乏しいのがドン・ジョヴァンニ役には物足りない。マンドリンの伴奏による「さあ、窓辺においでDeh vieni alla finestra」は彼の美質が堪能できた。レポレッロはリオネル・ロート。演技は巧みだが歌い方はかなり大雑把。ドンナ・エルヴィーラは「フィガロの結婚」で伯爵夫人を務めたヘレナ・ユントゥネン。滑稽なドンナ・エルヴィーラ。エルヴィーラは確かにかなり滑稽な存在かも知れないが、ユントゥネンの役作りはその面ばかりが強調され、これではウィーン初演時に追加された女の性(さが)と愛を歌った名曲「あの人でなしは私を裏切りMi tradì quell’alma ingrata」の感興も薄れてしまうというものだ。筆者が聴いた27日は声も艶が無く疲れを感じさせた。ドンナ・アンナのマリア・ベングッソンは高音が楽に出る美声を活かし、冷たい中に情熱を秘めた歌唱が良かった。ドン・オッターヴィオのダニエル・ベーレは「コジ」のフェルランド役だが、役に合った声で歌も安定していた。騎士長のアンドレアス・バウエルは「フィガロ」のドン・バルトロ役も務めた歌手だが、響きのある声で最後の場面を引き締めた。マゼットはグリーゴリ・ソロヴィヨフ、ゼルリーナはエレナ・ガリツカヤ。


 音楽的に特筆すべきはドン・ジョヴァンニに変装させられたレポレッロが捕まる六重唱におけるクリスタルのような美しさ、そしてドン・ジョヴァンニの地獄落ちのシーンだろうか。「ドン・ジョヴァンニ」のティンパニー奏者はロール等での雰囲気の出し方が素晴らしく、まさにこの世の物ならぬ恐ろしい地獄の情景がまざまざと目に浮かぶような演奏。やはりこのオペラはここで終わるのがふさわしいのか、と思わせる迫力であった(今回はその後の最終場面も通常通り演奏された)。

 リヨン歌劇場の観客は中高年層に混じって若者も多い。上演中の拍手は少ないが、集中力を持って聴き、とくに芝居に対しては笑ったり反応も豊かだ。終演後の拍手は連日、大変熱心で、今回のフェスティヴァルが成功裡に終わったことを感じさせた。来シーズンは、フェスティヴァル・プッチーニ・プラスという企画が用意されており、プッチーニの「三部作」をシェーンベルク、ツィムリンスキー、ヒンデミットのオペラと組み合わせて上演するという試みがなされる。
〈写真1:Franchella Stofleth〉
〈写真2,3:Jean-Pierre Maurin〉
〈写真4,5,6,7:Jaime Roque de la Cruz〉

ARTIST Interview【リヨン発】
Interview: Stefano Montanari ・・・・・・・・・・・・・・・・・by Mika Inouchi
ステファノ・モンタナーリ、インタビュー・・・・・・・・・・・・・・井内 美香
 今回、「フェスティヴァル・モーツァルト」でリヨン歌劇場にデビューしたステファノ・モンタナーリ。来年は「フィガロの結婚」での来日も決定しているというマエストロに話を聞いた。

Q: 今回、「フェスティヴァル・モーツァルト」と銘打ってのダ・ポンテ台本の三部作の一挙上演です。この企画に参加したきっかけ、企画の魅力、そして実現するまでの苦労を教えて下さい。

A: 出演のきっかけはリヨン歌劇場の総支配人セルジュ・ドルニから連絡をもらった事です。僕が指揮をしたサンドリーヌ・ピオーとの「Between Heaven and Earth」というヘンデルのアリア集を聴いた彼が興味を持ったのです。イタリアで指揮していた「愛の妙薬」公演を聴きに来てくれ、その結果この話を頂きました。フェスティヴァルの企画は観客にとっては魅力があるものだと思います。三作品を続けて観られる機会はあまりないですから。ただ、僕達にとっては3演目を一度に準備をしなくてはならない、という事ですからリハーサルが大変でした。1月に「フィガロの結婚」の音楽稽古がスタートし、ほぼ同時に「コジ・ファン・トゥッテ」の演出稽古、「ドン・ジョヴァンニ」は最後でしたが、かなり複雑に3演目のリハーサルが組み合わされていたんです。2演目以上に出演する歌手も多かったし、僕は全部でしたから。特にそれぞれの作品への集中力を維持するのが大変だった。


Q: これらのオペラの初演は「フィガロの結婚」が1786年、「ドン・ジョヴァンニ」が1787年、そして「コジ・ファン・トゥッテ」は1790年です。今回は「コジ・ファン・トゥッテ」が最初に上演されましたね?

A: そうです。「コジ」は他の二作品に比べると人気が無い、とは言いませんが、他の二作品ほど派手ではないからかもしれません。それに加え、今回は演出的な理由もありました。演出家エイドリアン・ノーブルは三作品の中心にあるのは「愛」だ、と考えました。「コジ・ファン・トゥッテ」では本当に若者の愛、ティーンエイジャーの愛を描いている。それが発展して「フィガロの結婚」では大人の愛になり、裏切りの問題も出てくる。そしてこの裏切りは最後に「ドン・ジョヴァンニ」に描かれている堕落した、退廃の愛に行きつくのです。

Q: 観客としては3演目を一度に観るのは大変興味深い事でした。モーツァルトはたくさん聴いていても、こうやって一度に聴くとそれぞれの特徴がくっきり感じられるというか…ご自分ではそれぞれのオペラをどう捉えていますか?

A: 三演目の中でこれまで指揮をした事があるのは「フィガロの結婚」だけでした。「コジ・ファン・トゥッテ」はヴァイオリニストとしてオーケストラで演奏していた時から好きでしたが、このオペラを理解する事は難しい、とも感じていました。1790年に書かれたとしては知的な意味で大変進んでいたと思うし、音楽のラインが途切れることなく続きます。もちろんレチタティーヴォはありますが、その多くはオーケストラの伴奏がついたものですし、アリアの構成や、二つのフィナーレ。フィナーレはまさに傑作という言葉ふさわしいと思います。ごまかしが効かない洗練された音楽と言うのでしょうか。時には内面的で、音の重なりが本当にデリケートなのです。あえて言えば第二幕の冒頭部分が弱い、というか演奏をする時に退屈に感じさせない工夫が必要な部分だと感じます。
 「ドン・ジョヴァンニ」はその点、それほどの困難はありません。難しいオペラには違いありませんが、エモーショナルな面では最初から最後まで活き活きとしている。だから構成もしやすいのです。音楽的にドンナ・アンナやドンナ・エルヴィーラの歌は大変なので注意は必要ですが。

 「フィガロの結婚」は勿論素晴らしいオペラです。今回、残念だったのはマルチェッリーナとドン・バジーリオのアリアをカットしなくてはならなかったことです。これらはとても優秀な歌手が歌わないと映えませんが、素晴らしいアリアです。キャラクターのアリアと言って確かにストーリーに直接関係はないけれど、モーツァルトは時にこのように何かの考え方や意見を言うようなアリアを書いたのです。

Q: 今回の3作品の共通点はロレンツォ・ダ・ポンテが台本を書いたオペラだという事です。その視点からはいかがですか?

A: ダ・ポンテが書いたのは事実ですが、モーツァルトは多くの点で台本に介入しています。ダ・ポンテがマルティン・イ・ソレールに書いたオペラなどと比べてみるとそれが良く解ります。言葉の裏の意味、知的な遊戯、セックスに関する表現もモーツァルトらしい部分です。イタリア語が明快で現代人に一番分かりやすいのは「ドン・ジョヴァンニ」です。その点、「フィガロの結婚」にはより高尚な、古文的な表現があるのでその意味を理解する必要があります。そして一番、凝っているのが「コジ」の台本です。

Q: 「フィガロの結婚」はボーマルシェ原作ですし、「ドン・ジョヴァンニ」はモリエールやその前からの伝説があります。「コジ」はオリジナルですね。

A: 例をあげれば「コジ・ファン・トゥッテ」で変装したグリエルモとフェルランドが毒を飲むふりをした後、気がついた時に歌う台詞ですが、文章の構成がとてもラテン語的なのです。イタリア人でも理解は難しい。「tu sei l'alma mia dea!」と言うのですが、Deaという言葉は女神という意味なので、そう思ってしまう人が多い。そのすぐ前に「パラスかキュテレイアか?」という言葉もありますし。でも、これは「la dea alma」、つまり「(女神のように)浄い魂よ」、という意味なのです。「フィガロの結婚」にもそういう例はあって、スザンナの最後のアリアに「notturna face」という言葉が出てきます。この場合「face」は「(松明ではなく)天にある光」、それは月か、もしくはより可能性が高いのは明けの明星のことを指しているんですね。このような洗練された表現があちらこちらに散りばめられているのです。

Q: あなたは古楽で知られたアーティストです。古楽の近年の演奏傾向を知る事は、モーツァルトのオペラを演奏する上で必要だとお考えですか?

A: 近年の演奏傾向を知る必要があるかどうかは分かりませんが、当時の演奏習慣を知る事は必要だと思います。それはモーツァルトに限りません。ヴィヴァルディが活躍した時代は1740年位まで、モーツァルトは1770年代位からなのですからそれ程離れてはいないのです。音楽的なレヴェルではその間に大きな発展はありました。しかし、前の時代から伝えられて来ている事も多いのです。レチタティーヴォ、アリアの構成の仕方、楽器。楽器に関して言えば当時はいわゆる古楽器を使っていたわけです。弓もまだクラシック・タイプの弓、もしくはバロック後期の弓を使っていました。大きな改革はその後に来たわけですから。音楽的にはヘンデルのオペラに関係のあるスタイルで書かれている部分もあります。例えば「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・エルヴィーラの二つ目のアリアなどがそうですね。

 ですからモーツァルトは自分の先人達の音楽の歴史、その様式を知っていたわけです。これは私の個人的な考えですが、モーツァルトを演奏するには…モーツァルトだけではなくロッシーニでもドニゼッティでもそうですが…その前の作曲家たちを知らなくてはいけません。ヘンデルを演奏するのにモンテヴェルディなどの17世紀初頭のオペラを知らなくては何も理解できません。バロック期、オペラが誕生した時には、非常に多くの事がそこで生まれたのですから。


Q: 今回、いくつかの楽器は古楽器を使用していますね?ティンパニーにトランペット、そして…

A: ホルンです。そして「ドン・ジョヴァンニ」はトロンボーンも。これは私のアイディアではありません。この「コジ・ファン・トゥッテ」と「フィガロの結婚」のプロダクションがリヨンで初演された時に指揮したウィリアム・クリスティーが決めた事です。私もそのままでやりました。金管楽器の採用は楽にできるのです。トロンボーンはスペシャリストですが、その他の楽器は歌劇場のオーケストラ・メンバーがこれらの楽器にも精通しており演奏しています。弦は調律の問題があり導入が難しいのです。当時は平均律ではありませんから音程の取り方も違いますから。でも金管楽器を入れるだけで音色的にとても有利な点が出てくるのです。なぜならこれらのオペラにおけるモダン楽器の問題は、ホルン、トロンボーン、トランペットなどの音量が大きすぎるのです。モダン楽器の場合ベルが18世紀と比べて大きいのだから仕方が無いのですが、そうすると音量が当時より大きくなってしまう。音量のバランスをとるために必要以上にソフトに吹く必要が出てしまい、当時の金管に求められていた効果が出ないのです。トランペットが書かれている所ではトランペットが鳴るのがはっきり聴こえる必要があります。ティンパニーも同様で、モダン・ティンパニーの音は響きすぎる。その点、古楽器のティンパニーだとアタックの後すぐに音が消える。ドライな音が可能なのです。これが本来のティンパニーのエフェクトなのです。

Q: クリティカル・エディションの採用、アリアやレチタティーヴォのカット、そしてアリアにおける装飾についてはどうお考えですか?私は個人的にはモーツァルトのアリアの装飾は好きではない事が多いんです。ケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしらVoi, che sapete」の2番など、素敵だなと思う時もありますが…どちらかというと昔から聴いてきた歌のラインを邪魔しないでほしい、と思う事が多いです。

A: モーツァルトについていえば、僕個人は何もカットしないのが一番だと思います。作曲家が書いた音楽は書いたとおりに演奏するのが正しいと思うので。現代に生きていると、オペラの長さ、終演時間、それに演出家の要望だとか、様々な要素が入って来るのは理解できますが。

 アリアの装飾に関しては、当時は常に行われていました。演奏上のかなり確固たる習慣だったわけです。バロック、バロック後期には非常に盛んに行われていました。その後だんだん少なくなってきましたが、それでもかなり長い間やっていた。19世紀の半ばくらいまでです。ドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」を初演したバス・バリトン歌手ルイジ・ラブラーシュ (1794‐1858)の書いた「歌唱法メソッド」という本を読むとまだ装飾法に触れています。その頃にはもうアッポッジャトゥーラ(前打音)や、トリルなどの小さなものが中心ですが。
 大切な事は装飾音によってその曲がより美しくなるように注意して使う事だと思います。ケルビーノのアリアでは確かに装飾が映えるし、「コジ」ではドラベッラのアリアは二つともいいと思います。装飾の仕方を決める時には、歌手と一緒におこないます。彼ら自身が考えたり、僕が考えたものを伝えたり。歌手によっても、装飾に積極的な人もいれば、歌のラインを崩したがらない人もいる。フィオルディリージのアリアはすべて装飾を施しましたが良い出来だったと思います。一方「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・アンナのように初めから装飾が数多く書きこまれている場合はそれに何かを加えようとするのは無駄な事です。もう完成されているのですから。まあ僕はヴァイオリニストなので、シンプルなメロディー・ラインを見ると複雑な装飾をつけ加えたくなってしまう傾向はありますけれど(笑)。

Q: 通奏低音にはフォルテピアノをお使いですね。

A: フォルテピアノかチェンバロか。僕は個人的にはモーツァルトのオペラにはチェンバロを使うのは好きではありません。少なくともこの三部作では。音色の問題です。本当はフォルテピアノに少なくともチェロを足したかったのです。出来ればコントラバスも。でも今回はリハーサルの時間の問題でどうしても不可能でした。いずれにせよ以前「フィガロの結婚」を演奏した時にはチェンバロを使用したのですが、オーケストラと一緒に演奏する部分もありますし、どうしてもフォルテピアノの音色の方がふさわしいと思うのです。

Q: あなたの指揮で素晴らしいのはテンポがつねにその場に相応しく思える事に加えて、色彩というか表現の多彩さがあります。指揮を見ているとかなり拍子を大きくとって振る事が多いように見えるのですが、これはどのような選択なんでしょうか?

A: いつも同じ振り方をしている訳ではないんです。もちろん毎回、同じ振り方をしなくてはいけない場面は沢山あります。オーケストラが安心して弾けるように。必要な場面では細かく振りますしジェスチャーも明確でなくてはなりません。ただ、オーケストラがすべて問題無くいっている時、舞台にも問題が無い時には、オーケストラに自分達だけで演奏させるのが好きなんです。彼らにお任せしてその間、僕は休んでいるんです(笑)。彼らが歌手達を聴き、歌手達がオーケストラを聴いてお互いが演奏している時、それこそが完璧な時なのです。

Q: レチタティーヴォからアリア、重唱などへの移り変わりの継ぎ目が非常に滑らかに感じました。
A: 常に気をつけているのが連続性ということです。どのようにレチタティーヴォのカデンツァ(終止形)に到着し、その中からアリアに続いて行く要素を見出すか。和音をバン、バンと弾いて、さあ次、というのは嫌なのです。これは通奏低音を担当してくれた二人のフォルテピアノ奏者たちとも一緒に工夫した点です。例えば「ドン・ジョヴァンニ」のマンドリン伴奏で歌われるアリア「窓辺においでDeh vieni alla finestra」ですが、マンドリンをその前のレチタティーヴォの伴奏の最後のところから重ねて演奏したのです。このような工夫をオーケストラと一緒にするのは楽しいですね。

Q: 今日は長い時間どうもありがとうございました。最後に、指揮者としての今後のご予定を教えて下さい。

A: ここリヨンでは7月にもう一度「コジ・ファン・トゥッテ」を指揮します。その次のシーズンでは2012年6月に「カルメン」、その次の年には「魔笛」の指揮を依頼されました。「カルメン」は僕が希望したわけではなく歌劇場側からのリクエストです。なぜ僕に「カルメン」?とは思いましたが…冒険になりそうです(笑)。今年の秋にはトロントで「ドン・ジョヴァンニ」、11月にベルガモ歌劇場でピッチンニのオペラ「ラ・チェッキーナ」。そして来年の春には日本で藤原オペラの「フィガロの結婚」を指揮する予定です。僕が知っている日本のアーティストは皆、勉強熱心でプロフェッショナルな人ばかりですから日本での「フィガロ」がどうなるか楽しみにしています。

CONCERT Report [ミラノ発]
Concerto di Beneficenza per il Giappone ・・・・・・・・・・・・・・・・・by Mika Inouchi
(photo: Yasuko Kageyama)
イタリア在住の日本人演奏家達によるチャリティー・コンサート・・・・・井内美香
 東日本大震災の被災者へ義援金を送るチャリティー・コンサートが世界中で開かれている。ミラノでも去る4月10日(日)に北イタリア在住のバロック音楽演奏家たちが集まるチャリティー・コンサートが開催された。場所はミラノ・カトリック大学の近くにあるサン・ベルナルディーノ・アッレ・モナケ教会である。当日は初夏を感じさせる日差しの中、多くのイタリア人が集まり、小ぶりの教会は満員で立ち見の観客も多かった。


 参加アーティストは阿部早希子(ソプラノ)、森紀吏子(ソプラノ)、菊池晃子(メッゾ・ソプラノ)、福島康晴(テノール)、平井晴之(テノール)、守谷敦(フラウト・ドルチェ)、氏家厚文 (フラウト・ドルチェ)、松永綾子 (ヴァイオリン)、田淵宏幸(ヴァイオリン)、村田りか(ヴィオラ・ダ・ガンバ、リローネ)、懸田貴嗣(チェロ)、渋川美香里(ソプラノ、ハープ)、松岡友子(チェンバロ、オルガン)、藤本典子(チェンバロ)、ウルスラ・サン・クリストーバル(フラウト・ドルチェ)、ホセ・マヌエル・フェルナンデス(フラウト・ドルチェ)。


 ダリオ・カステッロのヴァイオリン・ソナタから始まり、フルート3本によるフランキーノ・ガッフーリオの曲、ペルゴレージ「スタバト・マーテル」、モンテヴェルディの「ドルチ・ミエイ・ソスピーリ」、「サルヴェ・レジーナ」や6声による「リタニア B.V.M」他の曲が祈りを込めて演奏された。世話役を務めたテノールの福島康晴さんによると、3.500ユーロを超す義援金が集まったそうで、全額が日本赤十字社に寄付されることになる。

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