2009年12月 

パルマ・ヴェルディフェスティバル2009・・・・・・・・・加藤 浩子
経済危機の影響

 ヴェルディのお膝元パルマで開催される「パルマ・ヴェルディフェスティバル」。本格的なシーズン前で、ヴェルディの誕生月でもある10月開催となってから3年目の今年は、催しとしては岐路に立っていることが明らかになったものの、内容は例年にも増して充実したフェスティバルとなった。
 何より残念なのは、開催前の迷走ぶり?である。原因は財政難。現政権の方針により、そして経済危機以来はさらに、イタリアの劇場の財政状態は悪化している。国庫からの補助が減った分の補填が、できなくなっている状況なのだ。
 パルマも例外ではない。それどころか、かなり影響をこうむっている劇場のひとつだろう。今年は、予定されていた3本のオペラのうち「群盗」は中止に追い込まれ、さらに1作は新制作ではなく、昨年と同じプロダクションの「ナブッコ」へと変更された。最終的に新しい演目は「2人のフォスカリ」1作となり、一昨年にフェスティバルがリニューアルされてから予定されている、「生誕200年にあたる2013年までにヴェルディの全オペラを上演する」という目標に黄信号が灯った。今後の巻き返しを期待したいところだが・・・。
 今回はオペラ2本をそれぞれ2回と、リサイタルひとつを聴いた。

お家芸の力、「ナブッコ」(10月14、24日所見、パルマ、レージョ劇場)


 イタリアの古い劇場でオペラを観ると、客席と舞台の一体感に感動することがしばしばある。演目と出演者をすべてのみこみ、舞台に一喜一憂する聴衆の息遣いが健在なのだ。劇場は生きていると思わされるのは、そんな公演に出会った時である。
「ナブッコ」では、そんなオペラ体験を楽しむことができた。
ヴェルディの3作目のオペラで、空前の大成功を収めた出世作「ナブッコ」は、イタリア人が愛してやまないオペラである。オペラが伝統芸能だとすれば、イタリアで、とりわけ地元客の多いパルマで体験する「ナブッコ」くらい、それを痛感させてくれる出し物はない。つじつまの合わないストーリーも、ジンタを思わせる音楽もまったく違和感なく溶け合い、田舎の中都市の劇場のオーケストラや合唱団が生き物となって、聴衆の熱気に呼応する、それがイタリアの「ナブッコ」なのだ。ドイツや日本で出会う「ナブッコ」は、器だけ同じで中身の違う別物なのである。
熱気あふれる音楽にふさわしい、血沸き肉躍る音楽づくりで最大の喝采を浴びたのは、指揮のミケーレ・マリオッティ。1979年生まれ(!)、まだ30歳の若さながら、ボローニャ歌劇場の指揮者をつとめる俊英である。極端なデュナーミク、思い切ったテンポの揺らし方、攻めたてるところは果敢に攻める指揮ぶりは、若きヴェルディの激情あふれる音楽にぴったりだった。
歌手陣も充実。世界最高のヴェルディ・ソプラノのひとり、ディミトラ・テオドッシュウのアビガイッレは、声、とりわけ弱声の魅力できわだった。イズマエーレを歌ったポルトガル出身の新鋭テノール、ブルーノ・リベイロは、声量はまだ見劣りするものの、様式感のある歌唱と、芯のある素直な美声で好演。フェネーナを歌った国際的メッゾ、アンナ・マリア・キウーリ、ザッカーリアを歌った中堅どころのバス、リッカルド・ザッネラートもそれぞれ魅力的な歌唱を聴かせた。
タイトルロールはヴェテランのレオ・ヌッチと新進のジョヴァンニ・メオーニのダブルキャスト。ヌッチの健在ぶりが印象に残ったが、メオーニも声に輝きのあるバリトンで、風格もあった。

圧巻、「2人のフォスカリ」(10月13日、パルマ、レージョ劇場、10月25日、モデナ、市立劇場)


今回のフェスティバルでもっとも圧倒されたのは、もうひとつのオペラ「2人のフォスカリ」である。正確には、フォスカリを歌ったレオ・ヌッチというべきだろうか。イタリア・オペラの満足感はよくも悪くも歌手に左右されるが、「2人のフォスカリ」のヌッチは、その原則を改めて思い知らせてくれた。Bキャストで登場した新進バリトンのクラウディオ・スグーラも、大成の可能性をうかがわせる表現力があって悪くなかったが、やはりヌッチの存在感は圧倒的だった。
ヴェルディの6作目にあたる「2人のフォスカリ」は地味なオペラである。バイロンによる原作は、政治と親としての愛のはざまで苦しむ老総督の葛藤が主体になっており、恋愛沙汰もないのであまりオペラ向きとはいえないが、ヴェルディはこの素材に愛着した。できあがったオペラは、形式こそ伝統的だが、後期の諸作に通じる心理描写を盛り込み、名作「シモン・ボッカネグラ」のさきがけというべき野心作になった。
ヌッチは、主人公の老総督の葛藤を、恐るべき集中力をもって表現した。無造作に書かれたように思える音のひとつひとつに内在するドラマを抉り出した「声」による演技力は驚嘆に値する。幕切れ、落命する前の総督が、失った息子を返せと迫る鬼気迫るアリアを歌い終わると、「ビス!(アンコール)」の嵐が客席から沸き起こった。全力での歌唱の後なのだからまさか、と思ったが、アンコールが始まった瞬間は全身がぞくりとした。知られざる名曲は、名唱があってはじめてよみがえる、そう痛感したできごとだった。
他の出演者も、スグーラの時より一ランクあがった歌唱を聴かせ、名歌手の底力を見せ付けられた公演となった。とりわけ、悪役ロレンダーノを歌ったロベルト・タリアヴィーニは、アリアのない役ながら堂々たる美声で、将来性を感じさせた。歌手の歌いやすさを第一に、音楽の流れを大事にしたドナート・レンゼッティの指揮も好感が持てた。
今後の運営に不安の残るフェスティバルではあるが、上演の水準は高い。これからも継続されていくことを願ってやまない。

トリノ王立歌劇場「椿姫」(10月22、23日所見)・・・・・・・・・・・・加藤 浩子

 来夏、初の来日公演を果たす、トリノ王立歌劇場。運営難がささやかれるイタリアの歌劇場のなかにあって、現総裁のヴァルター・ヴェルニャーノの舵取りのもと、公演内容、経営とも順調なことで知られている。1年前から、指揮者のジャナンドレア・ノセダが音楽監督に就任、音楽面でもさらに充実の時を迎えている。
 この10月、来日公演の演目である「椿姫」がトリノでプレミエを迎えた(プロダクション自体のお披露目は、今夏のサンタフェ・オペラ)。その公演に接する機会に恵まれたが、前評判通りの充実した公演となった。
 演出を担当したのは、フランス出身の気鋭の演出家、ローラン・ペリー。洗練された読み替え演出を得意とするペリーだが、今回は「ヴィオレッタの孤独」をテーマに、墓所の石に見立てた灰色の立方体で舞台を埋め尽くした、個性的な舞台となった。とはいえ終始地味なわけではなく、第2幕の隠れ家のシーンでは舞台の半分を田舎風にしたり、パーティの場面では歌手の衣装やシャンデリアで華やかさを出したり、終幕の寝室の場面では石がすべて白い布で覆われたりと、場面場面の雰囲気は巧みに演出されていた。音楽の隙間を雄弁に埋める動きの闊達さも、ペリー演出の特徴だろう。
 今回、ダブルキャストの両日を観たが、とくに歌手の揃ったAキャストが圧巻だった。タイトルロールを歌ったエレナ・モシュク(来日公演ではナタリー・デセイが予定されている)は、この役を東京の新国立劇場でも歌っており、定評のあるところ。来日の折にインタビューした際、「死ぬほど好き」な役だと語っていただけあって、渾身の歌唱を聴かせた。第1幕のコロラトゥーラはやや危うさもあったものの、第2幕以降の劇的歌唱は見事で、とりわけピアニッシモのうまさ、強靭さは特筆すべきできばえだった。
 アルフレードを歌ったフランチェスコ・メーリは、恵まれた素質を存分に発揮。強靭で輝きのある声は、それだけで十分魅力的に感じられた。やや一本調子なところもあるが、役柄には合っていた。
 ジェルモン役は、ヴェテランのカルロス・アルヴァレス。必ずしも本調子ではなかったようだが、格調高い美声はさすがで、「世間」を代表しながらも人間味のある父親を好演していた。
 安定した歌手陣の力もあいまって、ノセダの指揮も本領を発揮した。思い切りのよい、元気あふれる幕開けから、雄弁な第2幕、そして次第に沈静してゆく第3幕と、ドラマにめりはりがあり、聴いていて引き込まれた。オーケストラもよく応え、とりわけ弦楽器のフェミニンな響きの美しさは印象に残った。
 来日公演は歌手陣を一新、タイトルロールのナタリー・デセイをはじめ第一線の歌手が揃うので、今から楽しみである。

Endstation Sehnsucht (A Streetcar Named Desire) − Hamburg Ballet John Neumeier by Mika Inouchi (photo:Holger Badekow)
ハンブルク・バレエ、ジョン・ノイマイヤー振付
「欲望という名の電車」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・井内 美香
 ジョン・ノイマイヤー振付作品の上演で知られるハンブルク・バレエがノイマイヤーの「欲望という名の電車」を上演した。テネシー・ウィリアムズ原作で、1983年にシュトゥットガルト・バレエ団のマリシア・ハイデ主演で世界初演した作品である。シュトゥットガルト・バレエ団のレパートリーには入っていたが、ノイマイヤーの本拠地ハンブルクでは1987年以来22年ぶりの上演となった。

 有名な小説を元にしながら、ノイマイヤーはいくつかの大胆な変更を行っている。原作では物語はすべてニューオーリンズにブランチ・デュボアが到着してから後の事として描かれているが、「“過去”を踊る事は出来ないので」(ノイマイヤー氏のプログラム解説より)ということで、第一幕をブランチと妹ステラが育ったベルリーヴで、蝶よ花よの世界からいかにブランチが転落したかを描き、第二幕はニューオーリンズにして、ステラが結婚したスタンリーとの家にブランチが転がり込むところからを描く。また、音楽として第一幕にプロコフィエフの「束の間の幻影op.22」という夢見がちなピアノ曲を主に使い、第二幕にはシュニトケの「交響曲第一番」という20世紀の不安に満ちた曲を使用して二つの対照的な世界を作り出した。ポーランド系アメリカ人で工場に勤める野卑な男スタンリー・コワルスキーは、ノイマイヤーのバレエではボクサーとなってリングでの試合に挑むのである。第一幕は抑えた色調の豪華な屋敷での結婚披露宴、美しい招待客達の踊りから、ブランチの新郎アランが実はホモ・セクシャルであったことの発覚、そして名家だったデュボア家の没落までをノイマイヤーらしいシンボリックな演出で見せる。第二幕はけばけばしい色彩の中、路面電車の線路が舞台中央奥に引いてあり、ブランチは革の鞄を持ち、白いオーガンジーのワンピースと同じ色の美しい帽子をかぶってその向こうから登場するのだ。

 ハンブルク・バレエ団のダンサー達はノイマイヤーの作品を物語ることに熟練した役者としても一流のダンサーが揃っている。今回、初日にブランチ役を踊ったのはシルヴィア・アッツォーニ。アッツォーニは彼女のキャラクターからもブランチ役に必要な『淫らさ』の表現が少々足りない気はしたが、確かな踊りの技術と、ブランチの『純粋さ』『狂気』の表現はさすがであった。マッチョなスタンレー役を演じたカースティン・ユングも身体のコントロールが抜群でアッツォーニと良い対をなしていた。クライマックスの強姦シーンではシュニトケの音楽のジャズ調の部分が使われ、二人の真剣勝負の演技がこの物語の残酷さをまざまざと見せていた。アラン役のピーター・ディングルもリリックな表現で秀逸、また女性に慣れていない純情な男ミッチを踊ったロイド・リギンズの演技も感情表現が巧みで的を射たものであった。



 第一幕が終わったところでは大人しかった客席も、ブランチが精神病院に収容されて幕が下りた終演後は大きな拍手となり、ダンサー達とノイマイヤーは何度も舞台に呼び戻され、初日は成功に終わった。(11月14日)

「小澤征爾がフィレンツェの名誉市民に」・・・・・・・・・・・・・・・井内 美香
 これまでのフィレンツェ市への文化貢献を記念して、フィレンツェ市から指揮者の小澤征爾に名誉市民の称号が贈られることが決まり、11月14日12時、フィレンツェのヴェッキオ宮殿でフィレンツェ市長マッテオ・レンツィとフィレンツェ市議会議長のエウジェーニオ・ジャーニが出席し小澤征爾に対して名誉市民称号の贈呈式が行われた。

 11月に小澤はフィレンツェ五月音楽祭歌劇場でヤナーチェク「利口な女狐の物語」を指揮しており、これは松本のサイトウ・キネン・フェスティヴァルと五月音楽祭歌劇場との共同制作で、松本では昨年上演されたものである。演出はローラン・ペリ。

 小澤は1973年に初めてフィレンツェに登場して以来、同歌劇場で数々の作品を指揮しており、中でもブリテン「ピーター・グライムス」、リヒャルト・シュトラウス「エレクトラ」、メンデルスゾーン「エリヤ」、マーラーの「復活」などが代表的な名演として挙げられている。

 その他にも、今年からフィレンツェの大聖堂サンタ・マリア・デイ・フィオーリが建っているドゥオーモ広場が車両進入禁止となり、それを記念したコンサートが大聖堂内で10月25日に開かれた折に、小澤は歌劇場オーケストラと合唱団を指揮し、モーツァルト、バッハ、メンデルスゾーンの曲を演奏した。

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