●ミラノ・スカラ座「ドン・カルロ」
イタリアを代表する歌劇場、ミラノ・スカラ座の今シーズンのオープニングは、ヴェルディの傑作「ドン・カルロ」。この秋の日本公演の、演目のひとつでもある。
その最終日を観た(1月15日)。指揮はミラノ生まれのダニエレ・ガッティ、演出はフランス人のシュテファン・ブラウンシュヴァイク。もちろん、新制作での上演である。
前回、スカラ座で「ドン・カルロ」が上演されたのは1992年。ムーティ指揮、ゼッフィレッリ演出の壮麗なプロダクションだった(現在はDVDにもなっている)。それから16年を経て、フランスの若手演出家が創造したステージは、昨今流行のシンプルな舞台。基本の装置は長方形の枠で、これを舞台の奥に置き、そこまでの平面は遠近法を生かして奥行きをつける。王朝物語の豪華な雰囲気は、もっぱらクラーネンブロックの衣裳に頼っていた。
それはそれでいいのだが、問題は、物語の説明に「子供」が登場することである。今回は5幕版ではなく、上演回数の多いスカラ座4幕版での上演だったが、省略されている5幕版の第1幕にある物語を補うため、たとえば第1幕で子供がパントマイムよろしく舞台の奥で演技をするのだ。しかしこれは言わずもがなの印象しか与えなかった。スカラ座に来る観客の多くは、「ドン・カルロ」の物語など頭に入っているのではないだろうか。
演技づけも工夫に乏しく、演出面では満足のいくプロダクションとはいえなかった。
それに引き換え、指揮のガッティの充実ぶりは素晴らしかった。基本的にはインテンポだが、アクセルを踏み込むところは踏み込み、低音の厚みを思い切り響かせる。時にワーグナーとも見まがう響きだが、作品の時期としては不思議ではないのかもしれない。
ただヴェルディがワーグナーと決定的に違うのは、「運命」という通奏低音が絶えず鳴り響いていることで、ガッティの棒はそれをあざやかに浮き彫りにしていた。びろうどに覆われた石造りの大伽藍のような「ドン・カルロ」の比類のない音楽が垣間見える、感動的な演奏だった。
歌手では、フィリッポ2世を歌ったフルッチョ・フルラネットと、宗教裁判長を歌ったマッティ・サルミネンが圧倒的。役を完全にものにしており、彼らが出てくると空気が濃密になる。サルミネンは同時期、チューリッヒで「トリスタン」のマルケ王を並行して歌っており、さすがにやや疲れが見えたものの、役に入り込む貫禄は十分。現在、この役の最高峰のひとりであるフルラネットは、堂々たる美声と劇的迫力で終始舞台をリードしていた。第3幕第1場での2人の劇的な二重唱では、ガッティの棒も冴えに冴え、奇跡的な音楽空間を作り出していた。
エリザベッタを歌ったミカエラ・カロージは、スピント系の美声で安定感はあるが、今ひとつ存在感が欲しいところ。エボリ公女役のアンナ・スミルノヴァは、声が伸びない上にコロラトゥーラに難があり、ミスキャストではないかと思われた。タイトルロールのステュアート・ネイルは、堂々たる声(と体格)で一応こなしてはいたものの、まだ役をものにするまでには至らず、ロドリーゴ役のトーマス・ヨハンネス・マイヤーは、ネイル同様役の把握の弱さに加えて声も飛ばず、要の役としては物足りなさを感じずにはいられなかった。最終日のためセカンドキャストであることは致し方ないが、天下のスカラ座のシーズン開幕演目、それもこれまで数々の名演を重ねてきた「ドン・カルロ」にしては、セカンドにしろ歌手が弱い印象は否めなかった。「ドン・カルロ」のような作品の場合、いくら指揮がすぐれていても、歌手が弱いと限界があることを痛感した一夜だった。
今後のスカラ座がどうなるのか、注意深く見守って行きたい。
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●チューリッヒ歌劇場公演「シモン・ボッカネグラ」(新制作)
スカラ座のあるミラノからアルプスを越えたチューリッヒのオペラハウスは、充実した公演内容で注目を浴びている歌劇場である。ドイツものもイタリアものもバロック・オペラも、それぞれが適切な配役で舞台にかかるのだ。
今シーズンの新制作であるヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」も、音楽、演出ともに充実した公演だった(1月16日所見)。
音楽面では、まず歌手陣の充実があげられる。タイトルロールを歌ったレオ・ヌッチは、体調が万全でないように見受けられ(後に風を引いていたときいた)、声の切り替わる時の独特な癖がちょっと気になったが、後半では持ち直し、語るような、品格のある歌を聞かせてくれた。演技も、歌役者の面目躍如といえる見事なものだった。
シモンのライヴァルであるフィエスコ役は、この役のエキスパートともみなされているイタリアのバス、ロベルト・スカンディウッツィ。筆者の聴いた日がちょうど400回目(!)のフィエスコ役だったが、さすがに役を手中にしており、持ち前のびろうどのような声を巧みに操って、役に内在する暗い情念と悲愴な美しさを見事に引き出していた。最終場のシモンとの和解の二重唱で、衝撃を受けた後の弱弱しいピアニッシモなど、円熟の境地といっていいのではないだろうか。
これが初役というガブリエーレを歌ったのは、これもイタリアのテノール、ファビオ・サルトーリ。技術的にきわめて安定し、甘く張りのある美声を豊かに響かせて、満場の喝采を浴びていた。第1幕第1場でのフィエスコとの二重唱では奇跡的なハーモニーを創り出し、この曲の存在を認識させる名演。体温がじわりと上昇する感覚に、鳥肌が立った。 パオロ役のマッシモ・カヴァレッティも、凄みのある歌と演技で存在感を示した。男声陣がすべてイタリア出身で、しかも国際的なキャリアを築いた歌手ばかりという点に、この劇場の贅沢さがうかがえる。
対して唯一の女声ソリストであるマリア役のイザベル・レイは、技術的には安定しているものの、この役らしい娘らしい柔らかさという点ではやや物足りなく思われた。
指揮のカルロ・リッツィは、音楽的に不足はないもののやや微温的で、もう少し牽引力が欲しいところ。けれど歌手が揃っているため、最後まで密度の高い舞台を楽しむことができた。
演出は、「シモン」をもう何十回と手がけているベテラン、ジャンカルロ・デル・モナコ。さすがに作品を手中にしており、音楽に沿った美しい舞台となっていた。舞台奥に何かしら扉を配して舞台の狭さをカバーし、第1幕や最終幕ではその奥にベランダと海―この作品のテーマのひとつーを示して、解放感を演出。マリア・フィリッピの衣裳も、前半は赤、後半は海に還るシモンを弔うように全員が青となり、白を基調とした舞台とあいまって、イタリア人のすぐれた美的感覚が十二分に示されたプロダクションとなっていた。
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● ロベルト・スカンディウッツィ インタビュー
今回、短い時間だったが、フィエスコを歌ったロベルト・スカンディウッツィにインタビューすることができた。日本にも何度となく来日し、サントリーのホール・オペラや新国立劇場でオペラに出演しているバス歌手である。
北イタリア、トレヴィーゾ出身のスカンディウッツィは、現代を代表するバス歌手のひとりと認められているが、国際的な名声を獲得したのは、1989年、ロンドンのロイヤル・オペラハウスで、ショルティの指揮のもとフィエスコ役を歌ったことである。彼によればその後の6シーズンは、オファーの8割がフィエスコ役だったという。おかげで自分の「看板」となったそうだ。
もちろん、スカンディウッツィはこの役が好きである。フィエスコは「完璧な役」だと彼は言う。「ヴェルディの音楽には、エレガンスと情熱があり、母音の響きが美しく、テッシトゥーラが完璧。ヴェルディが成熟して、声のことを知り尽くしていた時の作品」。
同じ理由で、スカンディウッツィは、ヴェルディの作品のなかでは後期に属する「運命の力」や「ドン・カルロ」を高く評価していた。(「ドン・カルロ」のフィリッポ役は、2001年に新国立劇場で歌っている)。
フィエスコ役というと日本では、NHKのイタリア・オペラやスカラ座の来日公演でこの役を歌ったギャウロフの印象が強いが、イタリアの響きにこだわるスカンディウッツィは、自分のお手本として同じイタリア人であるチェーザレ・シエピをあげていた。スカンディウッツィのイタリア語の美しさには定評があるが、それは彼の、イタリアの響きへのこだわりの結果でもあるようだ。
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●「セメレ」(再演)
チューリッヒで観たもうひとつの演目は、昨シーズンの新制作で大きな話題を呼んだ、ヘンデルの「セメレ」である(1月17日所見)。この作品は英語で書かれているため、オラトリオに分類されているが、内容、音楽とも実質的にはオペラで、今回もオペラとして上演された。ピリオド演奏の大御所、ウィリアム・クリスティの指揮に、才気あふれるロバート・カーセンの演出、そして世界最高のメッゾ・ソプラノ、チェチーリア・バルトリのタイトルロールと、これだけ揃ったヘンデルは、そう望めないだろう。
果たして期待通り、「旬」の熱気を感じる公演だった。
まずはバルトリ。彼女あっての「セメレ」であることは間違いない。第3幕でセメレの歌う2つのアリアは、人間技とは思えない声域の広さ、驚異的なアジリタの連続による至難の曲だが、バルトリはこの2つを技術的には難なく、表現の上では彼女の個性でもあるテンペラメントをたっぷり注ぎ込んで、まさに人間技とは思えない名演(快演!?)を展開、会場を熱狂の渦に巻き込んだ。他の歌手もそれぞれ健闘していたが(とくにジュノーを歌ったサラ・フルゴーニ、イリスを歌ったレベカ・オルヴェーラはユーモアたっぷりに好演)、やはりバルトリは格が違うと思わされた。
指揮のクリスティは、劇場の音響がデッドなせいか、彼らしい色気という点でやや物足りなく感じられたものの、洗練されたリズム感と若々しい活気は健在で、ヘンデルの音楽の愉しみを味合わせてくれた。
ロバート・カーセンの演出は、彼らしい、冴えと分かりやすさが同居したもので、時に陥りがちな過剰さもさほどではなく、一流のエンターティンメントと呼びたくなる舞台を創り上げていた。愛人のセメレを妻の謀略で殺されたジュピターが、また他の女性に手を出す幕切れなど、遊び心もたっぷり。「旬」の勢いを、肌で感じた一夜だった。
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