2017年3月 

  

追悼アル・ジャロウ
ジャズヴォーカルの表現域を広げた魔法の声・・・・・櫻井隆章
 ジャズシンガーのアル・ジャロウが亡くなった。2017年2月12日、ロサンジェルスの病院で死去。享年76歳。

 ジャズヴォーカルの地平線を大きく広げた人だった。1975年のデビュー・アルバム「 We Got By 」では、“ここまでこねくり回す歌い方があったのか”と従来のジャズ・ファンを驚かせ、早くも77年の三作目でライヴ盤を世に出し、自らの実力の高さを示してみせたのだった。そのライヴアルバム「Look To The Rainbow, Live」で初のグラミー賞最優秀ジャズヴォーカル・アルバム賞を受賞。80年からはポップ〜R&B〜AORの分野にも挑戦し、81年に発表したアルバム「Break Away」ではグラミーの最優秀男性ポップ・ヴォーカル賞を、同作収録の「Blue Rondo a la Turk」でグラミー最優秀ジャズヴォーカル賞を受賞。更に92年発表の「Heaven and Earth」でグラミー最優秀R&Mヴォーカル賞を受賞。これにより、グラミーのジャズ、ポップ、R&Bの3部門でグラミーを受賞した最初の個人シンガーとなった。グラミーは計6度の受賞を受けている。

 彼は1940年3月12日、ウィスコンシン州ミルウォーキー生まれ。アイオワ大学で心理学を学び、カウンセラーとして働きだしたが、シンガーとなる夢を実現すべくロサンジェルスに移る。ジャズクラブで歌っていたところでチャンスを掴んだ。彼には、その無名時代から行動を共にしていたマネージャーがおり、この男が実にやり手。彼のメジャーデビューと共に個人事務所を開設し徐々に規模を広げた。一時はデヴィッド・サンボーンやマーカス・ミラーといったメジャーアーティストも抱える程に。業界内で知らない人はいない存在にまでした。

 2010年7月に公演先のフランスで呼吸障害に倒れ、一時は重篤という情報もあったが、後に回復。その後に日本公演も行っていた。来日回数も多かった。筆者がインタビューした90年代に驚いたのは、何と彼はスモーカーであったこと。“タバコを吸いながらも、あの絹のような歌声が出せるのか”と思ったものだった。謹んで、合掌……

追悼ジョン・ウェットン
プログレッシブロックの堅固な砦だった気骨ある歌声・・・・・櫻井隆章
 イギリスのロックベーシスト兼ヴォーカリストのジョン・ウェットンが亡くなった。享年67歳。2017年1月31日、逝去。

 男性的なヴォーカルが人気だった。ベーシストとしても、攻撃的でエッジの効いたプレイで評価が高かった。元々、幾つものマイナーなバンドで活動をしていたが、新メンバーを探していたキング・クリムゾンの総帥ロバート・フリップにスカウトされ、1973年発表のアルバム「太陽と戦慄」でメジャーデビュー。74年の「暗黒の世界」、同じ74年「レッド」、そして75年発表のライヴアルバム「USA」で第二期クリムゾンが解散するまで、同バンドに在籍した。

 その後はユーライアヒープやロキシー・ミュージックなどに短期間在籍しながら、78年に新バンド、U.K.を結成。再び一躍注目を集めたが、アルバム数枚を発表しただけで解散。その後の82年に満を持してイギリス・プログレ界の腕利きを集めたバンド、エイジアを結成し、大成功を収めた。折からのMTV時代に、同チャンネルで日本武道館からの世界生中継を行ったことも話題となった。

 彼は1949年6月12日、イギリスのダービー州ウィリントン生まれ。数々のマイナーグループを渡り歩き、実力を付けて行った。そしてやっと栄光の座を掴んだこととなる。ルックスとスタイルが良いので、ステージで映える人であった。その上に、男性的でスケール感も感じるヴォーカリストだったから、常にグループの中心にいる感じでもあった。エイジアのデビューアルバム「詠時感〜時へのロマン」は、全米1位を獲得。キャリア最高の成功を収めたのだった。
 21世紀になると体調を崩すことが多くなり、2006年に再結成されたエイジアでのツアー中だった2007年夏に心臓の冠動脈に異常が発見され、8月に手術。2008年にツアーを再開した。2017年、かねてから罹患していた大腸癌の治療の為にエイジアでの活動を休止することを発表。間もなく病状が悪化、1月31日に死去。

 70年代キング・クリムゾンでは、2016年12月7日に初代ベーシスト兼ヴォーカリストであったグレッグ・レイクが癌の為に死去しており、二人続いてのベーシスト兼ヴォーカリストの逝去となった。Rest In Peace……

パリでフランス語版「ハロー・ドーリー!」・・・・・本田悦久 (川上博)
☆ジェリー・ハーマン作詞・作曲のブロードウェイ・ミュージカル「ハロー・ドーリー!」は、1964年1月16日から1970年12月27日までの約7年間 に2,844回上演し、「マイ・フェア・レディ」の持つ2,717回を凌いで、ロングラン記録を更新した。ブロードウェイ初演の頃、サッチモことルイ・アームストロングが歌った「ハロー・ドーリー!」のレコードが1964年から65年にかけて世界的に大ヒットした。サッチモは、1969年に完成した映画「ハロー・ドーリー!」にゲスト出演し、ドーリー役のバーブラ・ストライサンドを相手にタイトル・ソングを掛け合いで歌ったシーンが印象的だ。

 外国ではメキシコやドイツに続いてフランスが早かった。フランスはそれまで、ミュージカルにはクールで、「マイ・フェア・レディ」の時など多くの国で上演されても、フランスは無視しているかのようだった。大分経ってフランス語上演があったが、ベルギーからのツアーのカンパニーで、フランスのプロダクションではなかった。

 ところが「ハロー・ドーリー!」への対応は比較的早く、1972年9月29日、パリのテアトル・モガドールでオープン。続演5か月目に入ったところで、観る機会を得た。同行者は佐藤和雄氏 (ビクター)。フランス語版の演出はエレーヌ・マルティーニ、ドーリー役は人気コメディアンヌで歌手のアニー・コルディ。アニーはフランスのキャロル・チャニングだ ! まさに適役で、表情豊かに素晴らしいドーリーを演じてくれた。タイトル・ソングが歌われるハイライト・シーンでは、アニーが、白いハンカチで顔の汗を拭うサッチモの仕草を真似て笑わせた。
共演はジャック・マレイユ (ヴァンダゲルダー)、ジャン・ポマレ (コーネリアス)、クリスチャン・パリジー (バーナビー)、ピエレッテ・デランジュ (アイリーン)、アーレット・パトリック (ミニー)、他。 (1973. 02.10. 記)

ミュージカル「ピッグ・フィッシュ」を楽しんで・・・・・本田浩子
 このミュージカルは、ダニエル・ウォレスの小説に基づいた2003年の同名映画 (ティム・バートン監督、台本・ジョン・オーガスト) にアンドリュー・リッパが歌詞と音楽を担当して、ブロードウェイでミュージカルとして、2013年に上演された。今回、白井晃の演出で日本初演となった。私は2月10日に、日生劇場で見る機会を得た。

 ウィル・ブルーム (浦井健治) は、話し好きの父エドワード・ブルーム (川平慈英) の奇想天外の話に魅せられて少年時代を過ごす。例えば、「ウィルの生まれた日には身の丈よりも大きな魚を釣った」というのも何回聞かされたことか・・・。「真夜中に友達と一緒に森にでかけ、魔女に会って、運命を占ってもらった。」「人魚に泳ぎを習ったから、父さんの泳ぎは天下一品。」など、どれも楽しくて、目を丸くして父の話に聞き入ったものだった。

 「洞窟に住む巨人カール(深水元基)と一緒に故郷の町を出て、サーカスに入り、エーモス団長 (ローリー) の下で三年間働いて、ようやくサンドラ (霧矢大夢)の居場所を聞き出し、彼女の好きな水仙を贈ってプロポーズ。」というのもよく聞かされた話だが、ウィルの母サンドラとの出会いの話は、他にもいくつもあってどれが本当なのか分からない。それでも父の話はいつも面白く、少年ウィル (りょうた) は心躍らせて話に聞き入っていた。

 嘘なのか本当なのか分からないが、ともかくも楽しい川平エドワードの話に沿って、その話通りの舞台が繰り広げられ、魔女 (J Kim) が現れたり、巨人カールとサーカスの賑やかな場面が現れては、歌ありダンスあり、ウィル少年だけでなく、大いに観客を楽しませる。楽しい佳曲が揃っているが、エドワードとサンドラが歌う「時が止まった」は、二人のハーモニーも心地よい本格的バラード、ウィルが一幕と二幕で歌う「ストレンジャー」も聞かせるし、エドワードと魔女たちが歌う「お前の欲しいもの」は、コミカルだが、迫力満点。

 ウィルの奇想天外な話を、子供の時は楽しんだが、大人になったウィルはあり得ないと否定する。そんなウィルの結婚式当日、何を喋るか分からない父親に出番を与えないように、乾杯の音頭も取らせない。しかし、そんなことにはお構いなしのエドワードは、マイクに向かって、いつも通りに喋り始め、内緒にしていたウィルの妻、ジョセフィーン (赤根那奈) の妊娠まで喋ってしまい、ウィルの父親不信は頂点に達する。もう父親とは、付き合えないと頑な気持ちのウィルに母親から電話があり、父ががんの末期と知る。

 ジョセフィーンと両親のもとに戻ったウィルは、何とか父と和解したいと願う。しかし、父の持ち物の整理をするうちに、とんでもないものを見つけてしまう。それは、父の故郷の土地の登記簿・・・そこには父と並んで、昔から父に憧れていたジェニー・ヒル (鈴木蘭々) の署名があった。ウィルの疑惑は膨らみ、仕事柄、出張の多かった父は、母サンドラとは別にもう一つ家庭があったんだ、それを誤魔化す為に、年中ほら話をしていたに相違ないと思ったウィルは、真相を確かめるべく父の生まれ故郷を訪れる。しかし、父の古い友人ジェニーの話は、思惑を外れ、ダムに沈む町の人々の為に、役所に出向いて保証金を可能にした話だった。その上、この地を離れない、自分は水に沈んでも構わないというジェニーの為にダムの近くの土地をプレゼントするのだった。美談は決して語らなかった父の真意は、人を喜ばす事だったと悟り、今や、ウィルは晴れ晴れとした思いで、病室で父のほら話に調子を合わせるのだった。

 エドワードが亡くなり、父親になったウィルは、魚釣りをする息子に、いつの間にか、エドワード流の大げさな物言いを仕込み、祖母のサンドラは、思わず微笑みを漏らす。スーザン・ストローマン演出のブロードウェイ版は、100回公演を目前に閉じてしまったそうだが、川平慈英をストーリー・テラーに起用したことで、俄然活気ある舞台になり、霧矢大夢ママ、浦井健司ウィルほかの好演が後押しして、拍手鳴り止まぬ良質な舞台となった。

<写真提供:東宝演劇部>

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