2011年9月 

FUJI ROCK FESTIVAL フェイセズLIVE!・・・越谷政義(Mike Koshitani)
FUJI ROCK '11は7月29〜31日まで盛大に開催。ロニー・ウッド率いるフェイセズが30日、グリーン・ステージに登場。ロニーを中心にイアン・マクレガン(キーボード)、ケニー・ジョーンズ(ドラムス)、ミック・ハックネル(ヴォーカル)、グレン・マトロック(ベース)、それにロニーの息子のジェシー・ウッド(ギター)。

夜9時半すぎ、フェイセズはステージに元気な姿を見せた。全曲、紹介させていただく。

① Miss Judy's Farm/ジュディーズ・ファーム
アップ・テンポなアルバム『馬の耳に念仏』の1曲目がオープニング。ロニーは下手、早くも弾きまくる。ミックのヴォーカルもなかなか素晴らしいのだ。

② Had Me A Real Good Time/リアル・グッド・タイム
ミックの曲紹介でアルバム『ロング・プレヤー』からのナンバー。ミディアムなパワフルなサウンド、後半はテンポ・アップ。ロニーがグレンのところまで移動して向かい合って楽しそうにパフォーマンス。マックの演奏もぐっと前に出てくる。

③ Silicone Grown/シリコン・グロウン
アルバム『ウー・ラ・ラ』からのエキサイティングな作品、ここから息子のジェシーが下手から登場、演奏に加わる。マック(イアン)の素晴らしいキーボード!ロニーは演奏しながら上手側のマックの前に移動してその見事なプレイを称える。

④ Ooh La La/ウー・ラ・ラ
ロニー・レインをトリビュート。『ウー・ラ・ラ』のタイトル・ソング。ロニー・レインとロニーの共作、名作中の名作だ。ジェシーのアコギで始まる。曲が進むにつれ、ロニーやマックもコーラスに加わる。そのコーラスに会場のオーディアンスもジョイント。そのシーンが会場に設置されたスクリーンにも映し出される。ロニーがエンディングで「Yeah!]・・・。

⑤I Wish It Would Rain/雨に願いを
テンプテーションズのR&B名作。フェイセズも大好きで、70年代によくセットリストに加えていた。シングルB面で発表したことがあった。74年の武道館で、この曲前にロッドがオーディアンスに座って欲しいと語りかけていたことを思い出す。この日もミックがソウルフルに歌い上げる。

⑥Maybe I'm Amazed/恋することのもどかしさ
ビートルズ楽曲と紹介されたが、正式にはポール・マッカートニー作品。70年のバラード、ビューティフル・ナンバー。しっとりと聴かせる中で、ロニーはセンターでパフォーマンス(ボトルネック)。後半からパワフルな展開に・・・。ちなみにフェイセズはこのナンバーのスタジオ・ヴァージョンをシングル・リリースした(『ロング・プレーヤー』ではライヴ・ヴァージョン)。

⑦Flying/フライング
前曲からそのままアルバム『ファースト・ステップ』からのこのナンバーへ。ロニーもコーラスにジョイントしてこれまたしっとりとした雰囲気の中で聴かせる。エンディングでモニターに右足をのせてポーズをとるロニー・・・。

⑧Debris/デブリ
ミックがアコギを手にしてのビューティフル・ナンバー、ロニー・レインを思い出させる、『馬の耳に念仏』収録作品。ロニーがピックを上手側に投げ込む、そんな動作を交差させながらも一心にギターに専念する彼の姿が印象的。後半ではウッド親子が向かい合っての演奏・・・。

⑨Around The Plynth/アラウンド・ザ・プリンス〜That's All You Need/ザッツ・オール・ユー・ニ—ド〜Gasoline Alley/ガソリン・アレイ〜Prodigal Son/放蕩むすこ〜Mona(I Need You Baby)/愛しのモナ(アイ・ニード・ユー・ベイビー)〜Down Payment Blues/ダウン・ペイメント・ブルース〜The Jack/ザ・ジャック〜Around The Plynth/アラウンド・ザ・プリンス
ジャケットを脱ぎ、観客に大きくシャウトして、今度はロニーのソロ・パート。ゼマティスを手にしてのギター演奏をたっぷりと堪能させる。
「アラウンド・ザ・プリンス」(『ファースト・ステップ』)に始まり、『馬の耳に念仏』からの「ザッツ・オール・ユー・ニ—ド」。「ガソリン・アレイ」、少しヴォーカルも。そしてストーンズ・コーナーとも呼びたくなるような「放蕩むすこ」、そして「愛しのモナ」。後者では観客にもかけ声を求めヴォーカルも聴かせる。ヴォーカルも取り入れての「ダウン・ペイメント・ブルース」、「ザ・ジャック」AC/DC楽曲。エンディングは「アラウンド・ザ・プリンス」・・・。ロニーのフェイヴァリット・ソング・メドレー・コーナーにより大きな拍手!そして、次の曲前にロニーはステージに再登場したメンバーを紹介。

⑩Cindy Incidentally/いとしのシンディ
フェイセズのUK大ヒット・チューン(73年)、ロッド・スチュワート/ロニー/マックの共作。ここでもウッド親子が向かい合ってのギター・・・。

⑪(I Know)I'm Losing You/アイム・ルージング・ユー
ロニーのパワフルなギターでスタートのR&B名作。テンプテーションズのヒット作。フェイセズお気に入りのナンバーとして70年代からファンに知られている。ロニー、マックもコーラスにジョイント、よりソウルフルな展開!その後、ケニーのドラム・ソロをフィーチャー、見事なドラミングを堪能。ステージ下手ソデで煙草をふかしながらケニーの演奏を見守り&楽しむロニーの姿がスクリーンに映し出される。そして、再び他のメンバーがジョイントしてエキサイティングにエンディング。

⑫I'd Rather Go Blind/アイド・ラザー・ゴー・ブラインド
続いてはぐっとソウルフルに60年代後半のR&B名曲が登場場する。エッタ・ジェイムズほか、クラレエンス・カーター、ココ・テイラーのヴァージョンも僕は大好きだ(若いファンにはビヨンセでもなじみ深いだろう)。70年代フェイセズのレパートリーとしても知られ、武道館でも披露していた。シンプリー・レッドのミック、彼はR&B歌手として素晴らしい才能の持ち主だということを改めて認識させられたのだ。

⑬Too Bad/ひどいもんだよ
ぐっとテンポ・アップして『馬の耳に念仏』からの、いかにもフェイセズらしい楽しいナンバー。マックのローリング・プレイが大きく光る。ウッド親子がコーラス。エキサイティングなロックンロールで、オーディアンスもダンス・ダンス・ダンス。

⑭Pool Hall Richard/玉突きリチャード
74年武道館でも披露していた、その直前の前年秋リリース、山内テツが参加したフェイセズの第1弾シングル。アップ・テンポのこれまた軽快なロックンロールだ。このナンバーがラスト、でも時計を見るとまだ11時10分前・・・。

⑮Tin Soldier/涙の少年兵
アンコールではスモール・フェイセズに敬意を称して、懐かしのSF楽曲。まずは67年にUKシングル・チャート、トップ10入りしたこのナンバー。当時、わが国でもシングル・リリースされた。

⑯All Or Nothing/オール・オア・ナッシング
そしてSFといえば66年のUKナンバー・ワン・ソング、この楽曲だ。この時代はストーンズと同じレーベルに所属していた(Decca)。このナンバーは当時キングからシングル・リリースされた。ステージと観客が一体となってコーラス、♪All Or Nothing♪!このシーンにはメンバーたちが一番感激していた。ここでロニーたちはステージを去る。11時ちょっと前・・・。

⑰Stay With Me/ステイ・ウィズ・ミー
最後の最後、2回目のアンコール。もちろん、フェイセズの代表作の登場だ。ロニーがゼマティスでボトルネック。とにかくこの日のステージで彼はギターを弾きまくったが、ここでその印象がより強くなる・・・、RW/GTRが炸裂なのだ。観客も♪Stay With Me♪!!エンディングでロニーがピックを投げる・・・。下手側から、ジェシー/ロニー/ミック/ケニー/マック/グレンの揃い踏み。

素晴らしいLIVEであった!

FRF'11の模様はフジテレビNEXTで9月に放映される。

http://www.fujitv.co.jp/otn/fujirock11/

写真:北島元朗

ニック・ロウ LIVEリポート(8月12日@Billboard Live OSAKA)・・・犬伏 功
ライ・クーダーとの共演となった2009年のショウから2年、ニック・ロウが最新アルバム『オールド・マジック』を引っ提げ再び日本の地を踏んだ。前回はあらゆる意味で特別なショウだっただけに、気心知れたメンバーとの今回の来日はファンにとっても待ち望んだものだったのではないだろうか。

かつてブリンズリー・シュウォーツの一員としてパブ・ロック・シーンの隆盛を牽引し、プロデューサーとして英国パンク・ムーヴメントの導火線に火をつけたニック・ロウ。稀代のポップ・メーカーとしていつの時代も才能を遺憾なく発揮した彼が到達したのは、英国人としての“アメリカン・ルーツ”に向き合った音楽だった。94年の『インポッシブル・バード』辺りから顕著になったカントリー・フレーヴァー溢れる作風はもちろん、彼が既に自身のキャリアにおいて随所に散りばめてきたものに他ならないが、大きく違うのは彼がヴォーカリストとしての立ち位置を明確にしたということだろう。

会場に入るとほぼ満員状態。久々の単独ツアーに対する期待の大きさが伺えるようだ。軽い食事を済ませると客電が静かに落ち、ロウがひとりで静かにステージに登場。生ギター1本による(1)でショウはスタート、ロックパイル時代のナンバー(2)が歌われるとバンド全員がステージに姿を現した。メンバーはゲラント・ワトキンス(kbd)、ジョナサン・スコット(g)、ロバート・トレハーン(ds)、マシュー・ラドフォード(b)の4人。ロバート・トレハーンはボビー・アーウィンの名の方が通りがいいかも知れない。ヴァン・モリスンのバックも務めた腕利きのメンツ達だ。

全員が揃い、98年の『ディグ・マイ・ムード』からの(3)、そしてゴキゲンなロカビリー・ナンバー(4)へと続く。ここではゲラントのホンキートンクなピアノもノリ抜群だ。今回のメンツでアップライト・ベースを弾くニューフェイス、ラドフォードの存在が際立ったのもこのナンバーだった。彼のプレイがこのショウ全体をロカビリー色の強いものにしていたのは確かだ。

ハネたリズムが気持ちよい(6)や、まるで会話を楽しむかのような抜群のアンサンブルを聴かせる(7)など、今回のセット・リストは大半が先の『インポッシブル〜』以降のアルバムから選ばれたものだが、ソロ初期の大ヒット曲(10)は絶対に外せない。82年の『ニック・ザ・ナイフ』収録の、染み渡るヴォーカルが魅力の(11)もライヴではお馴染みのナンバーだ。中でもジョニー・キャッシュも取り上げた(15)などは今の彼の方がしっくりくるのでは、とさえ思わせる素晴らしい仕上がりだった。

そして深いエコーに包まれた(17)でショウは一旦クローズするが、暫しの歓声の後にメンバー全員が再び登場、ロウの物真似によるMCを挟んだ(18)でゲラントのヴォーカルをフィーチャー、ファン待望のロックパイル作品(19)で盛り上げた後、ロカビリー・フレーヴァー溢れる(20)で会場のムードはまた最高潮に。そして暫しのインターバルを経てロウのウィスパリング・ヴイスがたまらない(21)で静かにショウは終了した。

シンプルでありながらも芳醇なサウンド、そしてロウの味わい深いヴォーカル。彼らが歩んだ年輪が刻まれたような渋みを放つも、決して枯れていない。その艶はより深く、そして輝きを増しているようだ。ニック・ロウ、まだまだその歩みはとどまらないようだ。

*セットリスト(8月12日 ファースト・ショウ)
1.People Change [Nick Lowe Solo]
2.Heart [Nick Lowe Solo]
3.What Lack Of Love Has Done
4.Ragin' Eyes
5.Lately I've Let Things Slide
6.Has She Got A Friends?
7.I Trained Her To Love Me
8.I Live On A Battlefield
〜Band Introduction〜
9.I Read A Lot
10.Cruel To Be Kind
11.Raining Raining
12.Sensitive Man
13.Somebody Canes For Me
14.House For Sale
15.Without Love
16.(What's So Funny 'Bout) Peace, Love And Understanding?
17.I Knew The Bride (When She Used To Rock and Roll)
Encore 1
18.Only A Rose [Geraint Watkins Vocal]
19.When I Write The Book
20.Go Away Hound Dog
Encore 2
21.The Beast In Me [Nick Lowe Solo]

写真:Masanori Naruse

いずみたく追悼没20年記念ミュージカル「青空の休暇」・・・川上 博
 いずみたく作曲の数多いミュージカル作品の中で、一番好きなのは「洪水の前」(1980) だった。初演の年にアトリエ・フォンテーヌで2回観て以来、タクさん没後の1996年までに7回観ている。そのうちの1981年版と1996年版は新宿紀伊国屋ホールでの公演だった。

 ブロードウェイ・ミュージカル「キャバレー」と同じ原作の「私はカメラ」をミュージカル化したもので、「キャバレー」の舞台はベルリンだが、「洪水の前」は旧満州の大連に置き換えた。作・作詞・演出: 藤田敏雄、作: 矢代誠一、初演時の主役は財津一郎と秋川リサ。このコンビは、1996年には安崎求と鈴木ほのかになった。タクさんのミュージカル・ナンバーは、「大連 1931」「ダイヴィダニア」「タンゴ茉莉」「顔を見ないで」「朋友」「わが青春の茉莉」等、佳曲揃い。日本オリジナル・ミュージカルの傑作だった。

 8月11日の昼下がり、タクさんの想い出を胸に、今は紀伊国屋サザンシアターとなっている劇場に到着。原作: 辻仁成、脚本: 中島淳、演出: 鵜山仁、作詞: 佐藤万里、音楽: 吉田さとる、イッツフォーリーズの新作「青空の休暇」、THEIR BLOSSOM IN BLUE HAWAIIの英題もついている。 

 ストーリーは、真珠湾攻撃 (1941年12月8日、ホノルル時間の7日) から50年後 (1991年、平成3年) のある夜、かつて真珠湾攻撃に参加して生き残った戦友3人が、バー「ブルー・ハワイ」で、10年ぶりで再会するところから始まる。操縦士だった白河周作 (駒田一)、通信士だった早瀬光雄 (宮川浩)、偵察士だった栗城尚吾 (井上一馬)、 3人とも75才になっていた。二人は妻と死別し、一人は離婚、3人とも孤独な老人だ。若者時代の仲間に会って、楽しく痛飲するうちに、早瀬の発案で自分たちが攻撃したパール・ハーバーを見に行こうじゃないか、ということになり、ハワイに旅立つ。
 
 青空のハワイで先ず出会ったのは、日系の通訳ケイト (勝部祐子) とその母、 今村佳代 (藤森裕美)。ケイトは白河の亡くした妻、小枝にそっくりの女性だった。次は3人が爆撃した戦艦ウエスト・バージニアの乗組員で、爆撃で片足を失ったアメリカ人リチャード (グレッグ・デール) とその妻の浩子 (米谷美穂)、それに、牧場主の日系人、庄吉 (田上ひろし)。庄吉は見せたいものがあるといって、牧場に3人を案内する。それは、真珠湾攻撃のときに不時着した九七式三号艦上攻撃機で、庄吉の父親が隠し守っていたものだった。「これをもう一度大空に飛ばして欲しい」という庄吉の願いに、3人はやってみようと決意する・・・。「五十年後の」「アロハ 南の楽園へ」「穏やかな日曜日」「哀しみの淵」「旅人よ」「言葉にならない」「何が見えるだろう」「光りの中の」「最後の夢」「生きてくれ」「青空の彼方」等、全編のミュージカル・ナンバーは今回の新曲だが、1974年の日本テレビ「われら青春」の主題歌として山川啓介が作詞、いずみたくが作曲した「帰らざる日のために」も挿入歌として使われている。

 オープニング・シーンの「序曲」には「ブルー・ハワイ」が演奏され、劇中、「モナリザ」が替え歌のように歌われたり、ナット・キング・コールのレコードがちょっと流されたりする。音楽良し、出演者たちの熱演良し、ミュージカルとしてはよくまとまっていて、天国のタクさんもご満足のことだろうと思う反面、この真珠湾攻撃が日米開戦の火ぶたを切り、その後の様々な悲劇に繋がったことを思うと、66回目の終戦記念日を前にして、複雑な気持ちで劇場を後にした。

舞台写真提供:株式会社オールスタッフ

Chicago Blues Now・・・細川真平
7月24日、原宿La Donnaにて、“シカゴ・ブルース・ナウ”と題された、J.W.ウィリアムス・アンド・シャイタウン・ハスラーズ feat. デミトリア・テイラーのライヴを観た。ギタリストは、シカゴで20年以上活動する菊田俊介だ。

このバンド、リーダーでベースとヴォーカルを担当するウィリアムスの、手練な感じがいい。力みもなければ、構えてもいない。自然体でありながら、飛び出してくるのは、時に生々しく、特に激しく、時に優しく・・・なんて言えばいいんだろう、リアルな手触りのあるブルース。

日本のブルース・バンドによくあるような、力瘤を感じさせる歌や演奏も、それはそれで悪くはないのだが(イギリス人だってそうだったりする)、そこにはやはり、“ブルースに挑戦している”という意識があるのだろうと思う。だが、本物は挑戦していない。ブルースを呼吸している感じだ。

僕は菊田のシカゴで活動し始めた頃のプレイは知らないけれど、彼はきっとこの20年を、ギターが上手くなるよりも、ブルースを呼吸できるようになるために費やしたのではないかと、勝手に想像する。

フィーチャリング・シンガーのデミトリア・テイラーは、ジミー・リードとの活動で知られるブルース・ギタリスト、エディ・テイラーの娘(かつココ・テイラーの姪)だ。非常にパワフルな歌声を聴かせてくれたが、ちょっと一本調子と言うか、個人的にはあまりピンと来なかった。

今回の呼び物は、なんと言っても山本恭司のゲスト出演だろう。菊田と山本は昨年あるイベントをきっかけに親交を結び、菊田が現在制作中のニュー・アルバムにも山本が参加しているとのことだ。

山本は、ブルース・バンド/ブルース・ギタリストとの共演だからと、もっとガチガチなブルースを演奏するかと思いきや、確かにブルージーではありながらも、彼らしいロック・テイストが弾(はじ)ける、抜群のプレイを聴かせてくれた(1曲は『Superstition』だったからそれも当然かとも思うが、それ以外の曲でもそうだった)。ブルースに挑戦するでもなく、ブルースにおもねるでもなく、かと言って、俺はロックだと無意味な自己主張をするでもなく、彼もまた、呼吸するように演奏をしていた。“ジャンルを超える”というような、これもまた力瘤な言い方をすることなしに、こうやって境目を軽やかにジャンプして行き来する感じがとてもいいと思う。

と、非常に楽しいライヴだったのだが、なんとなく物足りなさを感じている自分もいる。何故なのかは分からないのだが、もっとコテンパンにノックアウトされたかった、というような感じだろうか。それは、ひょっとしたら僕自身、呼吸するようにブルースを聴けていないということかもしれない。

写真:石橋素幸

小劇場・ミュージカル「ブレイン・ストーム」を楽しむ・・・本田浩子
 8月3日、猛暑の中、下落合の小劇場TACCS 1179にミュージカル座の「ブレ」イン・ストーム」を見に行く。大劇場での華やかなミュジーカルは勿論見逃せないが、小劇場で良い出会いがあると、その満足感は大きい。2007年10月にスーザン・ストローマン演出のミュージカル「ヤング・フランケンシュタイン」を見にニューヨークに行った折に、何かのパンフレットでみつけたオフ・ブロードウェイ・ミュージカルの「フランケンシュタイン」が気になって、37 Arts という小さな劇場に行き、目の前で演ずる役者達の素晴らしさに感動した記憶があって、今回もそんな期待感を胸にでかけた。

 冷房も余りきいていない劇場の舞台が明るくなると、1人の男、阿部裕演ずる主人公の小説家黒瀬壌が舞台に立っている。黒瀬はハードボイルド作家として名を馳せていたが、今では長いスランプから気力をなくし、酒浸りの堕落した日々を送っていた。そんな彼の脳裏には売れっ子小説家としての華やかだった過去が甦ったり、現実に引き戻されると不安にさいなまれるという状態の繰り返し、黒瀬役の阿部の熱演も手伝って、観客である私もいつか黒瀬の心境に近くなり、おまけに黒瀬が絶望すると舞台天井からスルスルと首つり自殺用の縄が降りてくるという演出は、スリル満点で、舞台に釘付けになっていた。

 絶頂期には周囲からもちやほやされて、すっかり有頂天になった黒瀬は家庭も顧みず、駆け出しの頃から支えていた妻の陽子(元タカラジェンヌの真樹めぐみ)はそんな彼のもとを離れていく。負け知らずだった黒瀬を支えるのは今や酒だけとなり、心配した出版社の編集長の高城満(北村がく)は、精神科医の香山さゆり(鈴木智香子)を紹介する。ふてくされて診察を拒否していた黒瀬だが、香山に促されて渋々と質問に答え始める。そんな黒瀬をウツ病、それもかなり重症と診断した香山は、編集長の高城とその妻で副編集長の雪江(会川彩子)を呼び出して周囲に理解を求める。

 実際にはそんなにことはうまく運ばないだろうが、そこはミュージカル、黒瀬には三上聡史(谷口浩久)というマネージャーがついて、黒瀬に簡単で誰にでもできそうな仕事を見つけては持ってくる。一言二言しか言わないアテレコ役などをこなすうちに少しずつ自信を取り戻していく様子はかなりマンガチックだが、気持ちよく笑わせてくれる。時折黄色いドレスの女性(元宝塚娘役トップの舞風りら)が舞う姿は、黒瀬の内面を表現しているらしいが、何とも謎めいているがアクセントとして舞台を引き締めている。主役の阿部裕はドラマで活躍してきただけに、演技は勿論、その歌声は苦悩や喜びをしっかりと伝えてくれて説得力があり、玉麻尚一の曲がよく活かされている。脚本・演出共に竹本敏彰の舞台は芝居運びのテンポ良く、その上、作曲者自らピアノを弾いて舞台を盛り上げ、観客を目の前にしての役者は全員汗をかきながらの熱演で、客席数100人に満たない小劇場ならではの臨場感満点で見ていて心地よく見応えがある。エンディングではウツ病と知った妻も彼を支えようと戻り、浮き沈みの激しい黒瀬の未来も明るさを取り戻していく。ミュージカルは楽しいものという思惑は外れて、ウツ病患者の再起を描く不思議な舞台だったが、精神科医の香山が、結局人を救うのは周囲の愛と希望の光ですという言葉が心に残り、久しぶりの小劇場の舞台を満喫して帰途についた。

撮影:山内光幸

歌がある。声がある。ジョー山中がいる。「歌手の証明」。・・・池野 徹
1970年代の初めGRASS MENSの店でジーンズを探している時だった。抹香臭い香りの漂う中から、サウンドが聞こえてきた。東洋風のギター・サウンドのイントロから、つんざく様なシャウトするヴォーカルが空気を破った。「Flower Travellin' Band」の「SATORI」だった。ヴォーカルは、「ジョー山中」であった。衝撃的なサウンドとの出会いだった。

1968年、内田裕也プロデュースでバンド結成。1stアルバム「Anywhere」発表。1970年、大阪万博でカナダのロック・バンド「ライトハウス」に誘われカナダ・トロントへ。1969年、2ndアルバム「SATORI」発売。1971年に同アルバムのワールド・ヴァージョンをカナダ、アメリカで発表するや、東洋的な異色のロックとしてカナダチャート1位獲得。日本人のロックとして、パイオニア的存在となる。そして、1973年"The Rolling Stones"の日本公演のオープニング・アクトに決まっていたのだ。残念ながら来日中止になったが、その実力は、ストーンズにも認められた。しかし、Flower Travellin' Bandは、1973年に活動停止する運命となる。

時を経て、2008年再結成して、そのFlower Travellin' Bandがカナダ・トロントで37年ぶりにライヴを敢行して、2009年、ニューヨークのThe Studio Webster Hallでパフォーマンス。アメリカでのプレス紹介では「SATORI」について、「ヴォーカルのジョー山中は、精霊のような声で、イギー・ポップかロ
バート・ブラントのようだと、シターラの狂った音が弦を舐めるようだと。レッド・ツェッペリンに対抗できるバンドで、そのパワーは、東洋的に染められた北部アフリカの6ストリングの幻覚状態と、トムトムを墜落させる和音であり、これは、まさにオリジナルのロックのクラシックである」と評していた。

ジョー山中は、アフリカン・アメリカンの父と日本人の母との子供である。オノ・ヨーコが、「ジョーは第二次世界大戦が生んだ『War Baby』よ、大事にしてあげて」と内田裕也に言った。少年のころから皮膚感の違いは、ジョー自身肯定していて、けた違いの差別的イジメにも平気だったと言う。かえって、戦う事でエネルギーをもらったと言う。だから、ジョーは、自分の天性の3オクターブの声で、周りを納得させ、歌のプライドを持ち続けた男だ。

1973年にライヴ・アルバム「MAKE UP」を発売。その中に名曲「HIROSHIMA」がある。ギラッとした太陽。青い空、白い雲、8月になると、誰でも幼い頃の夏休みを思い出すだろう。そんな1ページに、忘れられない戦争の記憶が残っている。1945年8月6日午前 8時15分17秒、広島上空高度9632mよりその原子爆弾が投下された。43秒間落下して、高度600mで核分裂爆発を起こし巨大なキノコ雲が発生した。広島市民35万人中、14万人が死亡した。人類史上最初の核爆弾爆発された一瞬であった。

2009年8月20日、東京渋谷のDUO MUSIC EXCHANGEでジャパン・ツアーを始めたFlower Travellin' Bandが登場した。ジョーは、真っ白いブレザーに、真っ赤なパンツ、腰まで垂れたドラッドヘアー、「今また核問題が叫ばれてるが、俺たちはずっと歌って来た」と「HIROSHIMA」を熱唱したジョー山中とFlower Travellin' Bandの演奏が10分30秒も続いた。

石間秀樹のシターラのイントロが響く中、空間を引き裂くジョー山中の天に突き抜けるシャウトが、怒りと悲しみを象徴するかの様に観客を圧倒する。ジョージ和田のドラムがうなり、高く低くリズムを刻む。ピカドン投下の一瞬が、胸に迫って来る。悲しみと慟哭のサウンドがリフレインされうねりながら流れて行く。篠原信彦のキーボードが細かい刻みからアグレッシブに高まって行く。心底に響くベースの恐怖音が小林ジュンのギターリフから広がって行く。繰り返し繰り返し、高く深く、そのサウンドの流れは、ジョーの"Aren't....."の断末魔の叫びで終焉に向かう。

観客は、身じろぎもせずそこに縛られていた。この壮絶なるロック・サウンドは、戦い、鎮魂のための、ミサ曲ともなっている。ロックを越えた音楽そのものの世界に入っていた。ロック歴史に残る鎮魂曲だと思う。なぜ、今まで、8月6日のヒロシマの原爆慰霊祭の式場で演奏されなかったのだろうか。「黙祷」に続いてこの、Flower Travellin' Bandの『HIROSHIMA」が演奏されるべきだろう。より 原爆の恐怖を、蘇らせ、人の心に響き、より犠牲になった人たちへ、鎮めを与え、人間の五感に訴える、世界にパフォーマンス出来る音楽だろう。

ジョーと知り合って初めてのライヴを原宿の「クロコダイル」で聞いたとき、「人間の証明」を歌うジョーの声に、震えの来る感動を味わったのを覚えている。その声に、ある哀しみの表情がひしひしと伝わって来たのだった。

1977年ロスアンジェルスから帰国していたジョーに、映画のオーディションが知らされ、310人もの中から角川映画「人間の証明」の黒人青年ジョニー役に選ばれる。森村誠一の原作で、角川春樹プロデューサー、佐藤純弥・監督、岡田茉莉子・主演の強力スタッフにジョーは、運の強さを感じたという。まだ見ぬ母を尋ねてニューヨークから日本へ着き、ホテルのエレベーターで殺される、その手には「西条八十詩集」が手にあった。刑事役に松田優作が扮していた。主題歌は、大野雄二・作曲、西条八十の詩を英訳したものである。

「母さん、僕のあの帽子、どうしたのでしょうね」"Mama do you remember the old straw hat you gave to me"この詩の内容は、ある心象が謳われているとジョーは感じていた。それは、子供の母に対する云いがたい思慕のようなものだ。焼け野原の横浜でジョーを生み、さよならも言わずに死んでいった母を、謳うたびに胸に描いていたようだ。それがジョーの声をますます哀しく奏でる原因とわかったのだ。そしてこの「人間の証明」は、ジョーが大麻取り締まり違反で逮捕されている間、50万ヒットになったという曰く付きだったが、ジョー 山中の生涯の看板曲となった。

1981年、レゲエの神様とうたわれたボブ・マーリーが36歳の若さで他界。1982年、ジョー山中は、ジャマイカへ行き、ボブ・マーリーのウエイラーズと共演して、レゲエのファーストアルバム「Reggae Vibration-1」を発表する。続いて1983、1984年に、「-2」「-3」をリリース。そして2009年 「-4」と25年ぶりのレゲエあるばむを発表した。ジャマイカへ飛び、サード・ワールド等とのセッションで生のジャマイカの息吹が 聞こえてくるトラックになった。

その気持ちを突き動かす運命は、1981年のボブ・マーリーの死に影響されている所があったに違いない。ロスアンジェルスで、ジョーと生前のボブは出会っている。突き動かされてジャマイカに飛びレコーディングしたのだろう。そして今はっきり言える事は、ボブ・マーリー を継承した男はジョー山中をおいていないと言える。ボブの曲「No Woman No Cry」を歌えるのは、ジョーしかいないと証明出来る。

ジョー山中は、そのルーツのアイデンティティを問うまでもなく、ユニヴァーサルなルックスとヴォイスを持っている歌手だ。Flower Travellin' Bandのメイン・ヴォーカルで、ロックを。映画、人間の証明「Proof Of The Man」のオクターブハイのバラードを。幅広く歌い手としてのジャンルを確実に表現出来る、天性と実力を備えている。 それは、混血のメリットが生きた歌である事だ。だからこそ、日本を超えて世界に通用する歌手としてもともと羽ばたける可能性を持っていたというこである。

2011年7月9日、横須賀の自営隊病院に、ジョーを妻と見舞った。天気の良い日だった。ジョーはベッドで迎えてくれた。南の島へまた行きたいねと話し、妻が持参の冷たいコーヒーをだすと美味しそうに飲んだジョー。ベッドサイドに5月5日のライヴで撮った私の写真が並んでいた。帰りぎわに、妻と2人で両手を握り「死なないで、死ぬなよ」と云うと、「大丈夫!」とジョーは、激やせの手を力強く握り返してくれた。それを信じて、われらには、ジョーの歌と共に、ジョー山中は生きている。

ジョーの歌で、フェバリットなのは、「SATORI」「HIROSHIMA」そして「WOMAN(Shadows of lost days)」。ジョーはこの曲の声が出なくなったら終わりだねと云っていた。、「人間の証明」「雨の日はブルース」、「A MAN BEYOND THE SKY」「MUSIC LOVES ME」。ジョーのオクターブの凄さと幅広い声を聞くなら「HOUSE OF RISING SUN(朝日のあたる家)」につきる。密かに、ジョーにブルースを歌ってもらいたくて企画していた。リラックスしてピンスポットのステージでブルースを歌うジョーをイメージしていた。そして、我が息子の結婚式で謳ってくれた「AMAZING GRACE」は、忘れられないジョーの秘曲だった。

"JOE,Stand By Me, JOE, Stand By You"
*写真も著者

歌姫、エイミー・ワインハウスの「狂った夏」・・・池野 徹
日本では夏の宝くじの季節である。異様なCFが繰り返され、人々の心を揺さぶる。3億円と2千万円の二本立てだ。実際に宝くじに当たった人は、いるわけだが、普通の人が、3億円を当てたらどうなるだろうか。狂喜乱舞いきなりとんでもない世界へ引きずり込まれて、人間性を失ったりする状態におかれるだろう。

エンターテインメント世界、特に、歌手の世界では、この「宝くじ」状態が突如としてやって来る。勿論違うのは、棚からぼたもち式ではなく、その歌手の実力があって、認められその曲が突如として大ヒットとなり、目的の受賞までして、ミリオン族に変わるのである。マドンナが、「Like A Virgin」1曲で、世界のスターになったし、現在は、レディ・ガガがその典型である。

英国の歌手エイミー・ワインハウスが7月23日亡くなった。薬物とアルコール過多に寄るものと言われている。奇しくも27歳だった。27歳で逝った、ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンそして、1994年のカート・コベイン以来、2000年代の死の同期生となってしまった。

エイミー・ワインハウスは、2008年の第50回グラミー賞で、5部門で受賞して世間を驚かした。受賞曲は「Rehab」と云い、アルコール中毒のリハビリ中に創った曲で、なんと、グラミー賞にもアメリカ入国が認められなかったいわくつきで、当時話題を呼んだ。その2006年のアルバム「Back To Black」は、リバイバル・ミリオン・ヒットになる。しかし、エイミーの歌声は、ソウルフルで、ビリー・ホリディを彷彿させる、ハスキー・ヴォイスに魅力があった。久しぶりに出た個性派の歌手だった。

しかし、エイミーの私生活は、ブレイク・フィルダー・シビルとの結婚以来、酒とドラッグ漬けになり、その関係の波乱が、エイミーをいっそう不安定にしたのである。グラミー賞、ミリオンヒットと、その生活は、若くして異常なる世界に突入していたのだ。受賞後のヒット曲のなさも焦燥に繋がったとも云われてる。

歌手が、1曲ミリオン・ヒットすると、その時点では、頂点であるが、その曲に縛られてしまうのだ。どんなステージでも必ず歌わされるし、繰り返し繰り返し歌う事になる。それが歌手にとって、ハッピーなら良いが、次のニュー・ヒットを出す事に悩むはめになるのである。あのイーグルスも「Hotel California」のメガヒットでグループ解散まで追い込まれたりした時期がある。立て続けのヒットを持つ歌手は、ハッピーだが、たいがいは、そのナイーブな歌手たちにプレッシャーをかけてしまうのだ。その苦しみと歌の創造性にはさまれて、人間環境模様とともに、才能ある歌手たちが堕ちていくのは難しい事ではないのだ。

久しぶりの美味なる歌姫、エイミー・ワインハウスの歌唱は、もっと聴きたかった。あまりにも速い、「魔の27歳」エキスプレスに乗ってしまった。

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