2011年7月 

天才的シンガー健在、ラッセル・ワトソン来日!・・・村岡裕司
 サラ・ブライトマンやアンドレア・ボチェッリと共に、クラシカル・クロスオーバーの立役者として大活躍。日本でも熱狂的なファンに支持されているラッセル・ワトソンが3年ぶりのコンサートで来日した。ここ数年の彼は病魔との闘いに苦しみ、3度にわたる手術を経験して、克服。最新アルバム『ラ・ヴォーチェ』では試練を経験したアーティストならではの表現力も加わり、天才的シンガー健在を実感させてくれる。

 「自分で感じている点は、声が成熟したということですね。それは年齢によるものでもあるし、病気で療養中もただ寝ていたわけではなくて、努力をして声が出るように色々勉強もしましたからね。その結果、声の厚みとか豊かさ、強さが、以前より出るようになったと思います。低音も以前より出るようになったと思うし、高音についてももっと響くようになったと思います。よりパワフルになったというか。ただ、力が付くと、コントロールをしなくてはならない。力が付いたことに加えて、コントロール出来るようになったことが、以前と比べて顕著な違いになったと思います。それが決定的によかったですね。世界でいちばんいいスポーツ・カーを所持していたとしても、それを乗りこさないと価値がないですからね」。

 エンニオ・モリコーネとの共演でも有名なローマ・シンフォニエッタを起用。ニーノ・ロータの「ゴッドファーザー愛のテーマ」からイタリアン・ポップ・ソング「アリヴェデルチ・ローマ」、歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」まで、様々な名曲を熱唱。病という試練を音楽表現の点ではプラスにしているかのような内容になっている。

 「病院のベッドで寝ていて、医者から『すぐに手術しなければ死ぬぞ』と言われてみて、自分のキャリアや声のことより、まず生きたいと思いましたね。色々な経験はあったし努力はしてきたけど、まず生きたいという気持ちがあったのです。2回目の脳腫瘍が見つかった時、医者から『みつかってよかった、でなければ死んでいただろう』と言われて、その点では非常にラッキーでした。そういうことがあって、人生において『生きることは何か』を改めて考える機会になったし、生きることの原動力について考え直す機会にもなりました。人生においては、当然仕事もするのですけど、周囲の人たちがどれだけ大切であり、彼らに感謝することも大切だと思いました。彼らに愛を与え、逆に愛を受けられるかが大切なんですね。お金であったり、車であったり、自分の成功であったりと、それらが自分にとってのすべてではなく、人が大切なのです。そのような考えが今の自分の音楽に反映されていると思います。以前の私はステージに立ったら、ただ歌うだけでした。でも、今の私はステージに立ったら、生きるんだ、その瞬間を呼吸するんだ。その時の泣きたくなるような感動を持ってステージに立って歌うようにしています。その気持ちとは、声ではなく、心から、そして頭から生まれるもので、おそらくステージを観て下さる皆さんには感じて頂けると思います」
 
 彼の言葉通り、ステージは圧倒的な迫力でオーディエンスを魅了した。僕が観たのは5月30日のBunkamuraオーチャードホールのステージ。日本フィルがプロデュースしたラッセル・ワトソン。オーケストラと東京混声合唱団を率いて、アンコールも含めて“歌いまくった”という趣の素晴らしい内容だった。クラシカル・クロスオーバー系のシンガーの中ではポップ・ソングも歌いこなせる人だけに、フランク・シナトラやディーン・マーティン、トニー・ベネットら、エンターテイナー系の大先輩たちのステージの魅力も継承したような、ゴージャスな雰囲気がポイントだった。クラシカル・クロスオーバーが支持されている一つの要因は、ラッセルのように古い音楽や伝統的なパフォーマンスでも、新しいグルーヴを注入することで感動的な表現になる——ラッセルの古くて新しいステージ・パフォーマンスをエンジョイしてみて、改めて痛感させられた次第である。

セカンド・サマー・オブ・ラヴ・アゲイン!
西暦2011年夏、プライマル・スクリームでROCKする・・・小松崎健郎
 1991年、プライマル・スクリームのアルバム「スクリーマデリカ」によってすべてが一変した。ロックがテクノ、ハウスと融合、“セカンド・サマー・オブ・ラヴ”とも賞された至福のムーヴメント、レイヴ。その象徴とも言うべき存在だったのがプライマル・スクリームであり、その後も彼らは様々な変遷を重ねながら今なおロックし続けている......

 あのロック史に残る名盤「スクリーマデリカ」が発売されたのが1991年のこと。

 今年はそれから20周年にあたるというので、ソニーミュージックからはその<20周年アニヴァーサリー・ジャパン・エディション>が2種、5月末に発売されたほか、ワードレコードからはメイキング・ヴィデオ、さらにはライヴ映像、それぞれのDVDもリリースされる。

 さらに、なんと8月にはソニックマニア(12日:東京 幕張メッセ)とサマーソニック(13日:大阪 豊洲)出演のため来日までしてくれちゃうのだ。親日家の彼らのこととはいえ、とにかくうれしい。www.creativeman.co.jp

 しかも、それにあわせる形で、8月27日よりシアターN渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて、彼らが所属していたクリエイション・レーベルの創設者アラン・マッギーの半生を描いたドキュメンタリー映画『アップサイド・ダウン 〜クリエイション・レコーズ・ヒストリー〜』までもが全国順次公開される(提供・配給:キングレコード+iiae))。www.udcrs.net

 ファンにとってはまさに歓喜の季節の到来、“セカンド・サマー・オブ・ラヴ・アゲイン”といったところだろう。

 ここではソニーからの2タイトルをご紹介しよう。ともにジャケット写真は同じだが仕様が異なるので注意が必要だろう。


「スクリーマデリカ(20周年アニヴァーサリー・ジャパン・エディション)」
ボックス・セット(ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル/SICP3126〜9)

デジパック・エディション(ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル/SICP3130〜1)

 まずは豪華ボックス・セット。こちらは3CD+DVDの4枚組。

 CDディスク1は「スクリーマデリカ」オリジナル・アルバムのリマスター版CD(リマスタリングは、プライマル・スクリームの準メンバーでもあるマイ・ブラディ・バレンタインのケヴィン・シールズ監修のもと、ジョン・デイヴィスが手がけている)。レイヴ・ムーヴメントのアンセムとも言うべき「ローデッド」や「カム・トゥゲザー」、永遠のロックンロール・チューン「ムーヴィン・オン・アップ」に顕著なように、最新の技術によってリマスタリングされたことで、まさに、より進化(深化)した“21世紀ならではの「スクリーマデリカ」を体感することが出来る。レイヴ・ムーヴメントが一過性のものでなかったことがお分かりになるだろう。

 ディスク2は、当時様々な形で発売された「スクリーマデリカ」関連のシングル・リミックス集。「ローデッド」の元ネタとでも言うべき自作曲「アイム・ルージング・モア・ザン・アイル・エヴァー・ハヴ」(1989年発表のクリエイション・レーベル移籍第1弾となるセカンド・アルバム「プライマル・スクリーム」収録)をボーナス・トラックとして追加。

 そしてディスク3は、1992年3月7日に米ロスアンジェルスのハリウッド・パラディアムで行われたライヴ盤。

 一方、DVDは30分にも及ぶ「スクリーマデリカ」制作秘話なども満載のドキュメンタリーに加え、「ローデッド」、「カム・トゥゲザー」、「ムーヴィン・オン・アップ」など10曲のヴィデオ・クリップ集だ。

 ファンにとっては未発表写真満載の豪華ブックレットも最高のプレゼントとなるに違いない。というわけで、このボックス・セット、もちろん日本独自仕様、しかも完全生産限定とあって、是非とも早めの入手をお勧めしたいところだ。

 一方のCD2枚組のデジパック・エディションは、4枚組ボックス・セットのディスク1(オリジナル・アルバムのリマスター版CD)、そして「スクリーマデリカ」期の最後を飾る「ディキシー・ナーコEP」(4曲)とをカップリングしたもの。いうなれば通常盤なのだが、デジパック仕様での発売は期間限定なので、こちらもお早めに。

 それにしても思うのだが、プライマル・スクリームほど、一般的な音楽性の変遷と無縁のバンドもそうはあるまい。

 普通だと、たとえばスキッフル演ってた連中がビートバンドとなりデビュー、やがてフォーク・ロックなどもやるようになりサイケに移行、で、ついにはプログレ・バンドに......て具合に、ある程度筋が通るようなものなのだが。

 そういった従来のバンド像に対して、プライマル・スクリームときたら、ザ・バーズの初期を髣髴とさせるネオ・アコ・バンドとしてデビュー、けど、セカンド・アルバムではオーソドックスなロックンロール、でもって次はアシッド・ハウスやテクノやったり(つまり、これが「スクリーマデリカ」期にあたる)、かと思いきやその次はアーシーで骨太なロック、でこのまま行くとかと思えば、お次はサンプリングやらのミクスチャー・サウンド、でもってその次は、王道ロック・サウンドを追求、といった按配なのだから。

 こうした彼らの姿勢を節操ないと感じる方も少なくはないと思う。

 しかも、近年はまったくないが、初期なんか、その日の調子によってライヴの出来不出来の差が、あまりに激しかったのである。個人的には、いつだったか忘れたけど、ボビー・ギレスピーがヘロヘロになって(ドラッグのせいだろうけども)音程は調子っぱずれ、ほとんどライヴと呼べないようなシロモノ(?)を目撃したこともあった。

 英本国でも、実はボビーらのそういった姿勢(一作ごとに目まぐるしく変化するサウンドも含めて)を、ここぞとばかりに攻撃する音楽評論家も結構な数いたのである。

 しかし、プライマル・スクリームのどのアルバムをとってみても、一貫して脈打っているのは“ロックンロール”に対する揺るぎないまでの愛情であり信念であり確固たる主義主張なのだ。だからこそ美しい。そしてまた、これほどまでに、摩訶不思議かつ最高のロック・バンドも、そうそうざらにはいるもんじゃない。



 2003年に日本のみで発売されたライヴ盤「ライヴ・イン・ジャパン」(ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル/SICP390)のなかで、ボビーが日本のファンに寄せたメッセージが、何よりもこのバンドの存在意義を雄弁に物語っている。
 “核心に触れよう”で始まるそのメッセージは、最後にこの一言でしめくくられていたのだ。

 “HAIL HAIL ROCK & ROLL(ロックンロール万歳)”

 セカンド・サマー・オブ・ラヴ・アゲイン! 西暦2011年夏、プライマル・スクリームでROCKする!


ミュージカル「スウィーニー・トッド」に背筋を凍らせて・・・本田 浩子
 5月25日青山劇場でミュージカル「スウィーニー・トッド(フリート街の悪魔の理髪師)」を観る。「太平洋序曲」「カンパニー」「リトル・ナイト・ミュージック」「イントゥ・ザ・ウッズ」等、数々のヒット・ミュージカルの作詞・作曲家として知られるスティーヴン・ソンドハイムの1979年のブロードウェイのヒット作品「スウィーニー・トッド」は、日本では1981年、市川染五郎(現・松本幸四郎)と鳳蘭のコンビで上演され、19世紀ロンドンを舞台に「無実の罪で愛する家族と人生を奪われた理髪師の復讐劇」という、ホラー的な異色ミュージカルとして話題を呼んだ。

 2007年、初演から26年振りに再演され、市村正親と大竹しのぶのミュージカル初共演として大きな話題を呼び、ミュージカル畑の市村と芝居畑の大竹がぶつかりあっての舞台は、迫力満点で見応えがあった。今回はその再演という訳で、観る前から背筋に怖さが走る。

 何しろ、2階の床屋でスウィーニー・トッド(市村正親)が復讐の目的の為に次々と客の喉を掻ききり、その証拠隠滅の為に死体の人肉をミートパイに混ぜたのを1階のミセス・ラヴェット(大竹しのぶ)のパイ屋で売りさばくという19世紀中頃の怪奇小説が原点だけに、ミュージカルは明るく楽しいという思いこみは禁物だが、人間の持つ悲しいまでの家族愛がスウィーニー・トッドを通してしっかり伝わってきて、胸に染みる。



 トッドの妻をキムラ緑子が、初演に続いて、気のふれてしまった乞食女として熱演、トッドの娘ジョアンナ役のソニンの甘い歌声が舞台に花を添え、ジョアンナに一目惚れする青年アンソニーに田代万里生が扮して、憎しみと欲望が大きく渦巻くこの舞台では、唯一人ストレートな素直な心の、アンソニーの純粋さや正義感と一途な恋心が、美しい歌声にのせて客席に響いて、爽やかな安らぎを与えてくれる。

 一方、トッドから妻と娘を奪った悪役のターピン判事には安崎求が扮して、邪悪な欲望の塊の老人を、神への信仰がありながら、自身のソニンへの欲望を抑えきれない苦しみを、日頃の心地よいバリトンとはひと味もふた味も違う、少ししゃがれた老人の声になりきって演じ歌うシーンは、説得力がある。

 舞台の進行に欠かせない少し頭の弱いトバイスを武田真治が見事に演じ、舞台を盛り上げ、ターピンの部下でもう一人悪役のビードルをベテラン斉藤暁が演じて、舞台を引き締めていた。

 それにしても、市村トッドがヒゲをあたると、血しぶきが上がり、その上、死体が滑り台のように一階に落ちるシーンは、いつ観ても怖い! 満杯の客席はシーンと静まりかえり、観客全員固唾をのんでいるのが、良く分かる。東北大震災の後だけに、舞台はイギリスの19世紀とはいえ、権力に振り回される庶民の状況に対して、演者も観客もある共感を持ち、様々な思いが心によぎりながら、この作品の作り出す空間を共有している気がした。

 ひきしまって説得力満点の見事な演出は宮本亜門。舞台装置も良く、ソンドハイムの難曲を出演者全員がこなしきって、完成度の高い舞台となっていた。

*写真:渡辺 孝弘

飯田さつきCD発売記念メディア関係者招待ライヴ・・・三塚 博
 新鋭ジャズ・シンガー、飯田さつきのデビュー作『アイ・ソート・アバウト・ユー』の発売を記念したライヴが6月8日、新宿/ハイアット・リージェンシー東京・飛鳥の間で開催された。

 この日はメディア関係者に限定して行われたもので、会場には音楽評論家、新聞・雑誌ライター、放送関係者など50人ほどが顔をそろえた。ジャズ評論家の瀬川昌久・岩浪洋三両巨頭がツーショットで挨拶するという、冒頭から異例の展開。ジャズ界からの期待度を強く印象付けた。



 彼女を子供のころから知る内田晃一氏の乾杯に続いて、早速本人が登場、軽快な演奏とともにライヴが始まった。今回バックを受け持ったのは宮本貴奈(p)、工藤精(b)、長谷川ガク(ds)のピアノ・トリオ。宮本貴奈氏はジョージア州アトランタ在住で今回の作品のプロデュースを務めたピアニストだ。気心の知れたコンビといった印象で息もぴったり。「スワンダフル」に始まり、2007年、大学3年生のときにJAZZ DAYコンテストでグランプリを受賞した「スカイラーク」、2010年度の日本ジャズ・ヴォーカル賞を受賞した「アイ・ソート・アバウト・ユー」など、デビュー作から8曲を披露した。

 師匠でもある後藤芳子氏は「すばらしいミュージシャンとの出会いがヴォーカリストにとって何よりも大切」と会場でエールを送った。スタンダードの魅力を自分と同じような若い世代にもっともっと知ってもらいたいという、彼女の思いがひしひしと伝わってくる小気味好いライヴだった。まだ20代半ばの彼女、これからどんな活躍をみせてくれるか期待したい。

*写真:Kazuya Sakamoto

1周年を迎えたユニバーサルミュージック「SA-CD SHM仕様」シリーズ
〜驚愕のローリング・ストーンズ・レーベル作とザ・フーのシングル・ヒッツ〜
・・・犬伏 功
 ユニバーサルミュージックによる「SA-CD SHM仕様」が1周年を迎えた。1999年に登場し抜群のポテンシャルを擁しながらも、専用プレーヤーが必要なことなどから広く普及することのなかったSACD。しかし、今や配信による圧縮音源が主流になる一方、HDトラックスなどによる高ビットレート・ソフトのダウンロード販売が注目を集めるなどハイエンド・ユーザーの欲求は増しており、CDフォーマットを挟んだ高低両端のせめぎ合いが続いているのが現状だ。そんな状況が「SA-CD SHM仕様」の登場で一変、一時は死滅するかとまで思われたSA-CDを蘇らせることになった。だがこれは決してフォーマットの特性が優れていたという理由だけではない。改めてアナログ・レコードのポテンシャルが見直されている中、オリジナル・マスターの持ちうる力をより忠実に、そして最大限に再現しようとする「SA-CD SHM仕様」の基本コンセプトがあったからこそ、なのである。
 
 このシリーズの“売り”は「フラット・トランスファー」だ。フラット、つまりDSD化に際して音調整や加工を一切行わないのである。これは昨今の過剰なリマスター合戦へのアンチテーゼと言ってもいいのかも知れない。かつて、米モービル・フィデリティー社がリリースしたビートルズのアルバム群に対しエンジニアのジェフ・エメリックが苦言を呈したことがあった。オーディオ的な“良さ”の追求が、必ずしもその作品を“良く”しているとは限らないのである。時には担当エンジニアの“主観”によって大胆な味付けが行われていることも珍しくない現在の状況に対し、マスターが持つ“本当の音”は何だったのかを知りたいという欲求に応えてくれるのが、この「フラット・トランスファー」だというわけである。

 この「SA-CD SHM仕様」はザ・フーの『マイ・ジェネレイション』や『フーズ・ネクスト』などを筆頭に数多くの“世界初”を世に送り出したが、ローリング・ストーンズ・レーベル期諸作のSA-CD化は正に衝撃だった。5月に発売された第一弾、『スティッキー・フィンガーズ』はアコースティック・ナンバーの艶かしさはもちろんのこと、このアルバムが持つ芯の太さと繊細さを全編に渡って堪能できるという絶品の1枚だった。米モービル・フィデリティー盤アナログのあまりに上品な響きに違和感を感じたことも、今や懐かしい思い出になったというわけである。
 
そして今回、新たに2枚のアルバムが登場した。74年リリースの『イッツ・オンリー・ロックン・ロール』と77年リリースの『ラヴ・ユー・ライヴ』の2枚だ。そしてこれらは先の『スティッキー〜』を超える衝撃を秘めていたのである。
 
 まずは『ラヴ・ユー・ライヴ』を聴いてみよう。流石“ありのまま”を売りにしたシリーズだけあり、アナログ時代の各面を無理に繋ぐような処理もないのに好感が持てるが、それにしてもこの“臨場感”は一体なんだ・・・。1曲目の「ホンキー・トンク・ウィメン」が始まる前にもうこの空気感にのまれてしまいそうになるのだ。このひとつひとつの音が浮き出るような再現力はSA-CDならではだろう。当然ながらCDのような窮屈な感じはなく、ヴォリュームを上げても音が全く耳障りではないおかげで気がつくと相当な音量になってしまうのは毎度のことだが、特にライヴ盤の場合は音を上げれば上げるほど臨場感が増すのが恐ろしくもある。ライナーノーツでレコード・コレクターズの寺田正典編集長も触れていた、再現度の向上でオーバーダヴなどのスタジオ作業の痕跡が浮き彫りにされるのではという心配は、作品全体が解像度を向上させているためそれほど気にならなかった。容量の限界を見据えよりよく聴かせようとするCDリマスターにおける、特定音域を持ち上げるような加工が一切行われていないからで、これは“意図的加工”が意図しない姿までも露にしてしまうという、現在の“CDリマスター”に於ける問題点を改めて意識させるよい例ではないだろうか。
 
 今回、このSA-CD版を聴いて改めて実感させられたのは、大会場での包まれるような臨場感との対極ともいえる、アナログ時代のC面に収録されたエル・モカンボでの迫り出してくるような生々しさだ。ここでのミック・ジャガーのヴォーカルはまるですぐそこで歌っているような錯覚すら覚えるのである。
 
 一方の『イッツ・オンリー・ロックン・ロール』はこのアルバム本来の姿を露にした驚愕の1枚であり、『ラヴ・ユー・ライヴ』とは違う意味での“ありのまま”を伝えているのだ。
 混沌とした音作りに張りつめた緊張感を感じる本作、元々それほどレンジの広いアルバムではないだけにSA-CD化がどれほどの効果をもたらすか多少の不安もあったが、聴いてみるとまるで薄いヴェールを剥いだような鮮度の高さに驚かされる。それだけではない。「タイム・ウェイツ・フォー・ノー・ワン」は同名の編集盤でのみ聴けたリム・ショットがフェード・アウトしない全長版が収録されているではないか。これは初のデジタル化だ。そして最後を飾る「フィンガープリント・ファイル」はなんとピッチを上げる前のヴァージョンが収録されているのだ。これは一部ブートレグでアセテート盤を音源としたヴァージョンが聴けたが公式盤としては世界初登場だ。しかもこれらは複数のマスターを継ぎ合わせたものではないという。これらの事実が証明しているのは、ここで使用されたマスターは最終リリース・ヴァージョンより前のものであるということだ。これなら鮮度の向上も頷ける。確かに聴き慣れた「フィンガー〜」とはキーの違うこのヴァージョンに違和感を覚えなくもないが、これに慣れると今まで聴いてきた“ピッチ・アップ”ヴァージョンが不自然に聴こえてしまうから恐ろしい。このアルバムはトータル・タイムが長く、カッティング・レヴェルが下がることを危惧し一度完成したマスターを土壇場で縮めた可能性も示唆されるが、そんな想像を掻き立てさせてしまう、今まで秘められていた“ありのまま”を伝えてくれるのがこのSA-CD版なのである。
 
 このシリーズ、ストーンズ作品はこれからもリリースを控えているが、まだまだ驚きが隠されてそうだ。今後の展開にぜひ期待したい。

 最後に、同時発売となったザ・フーの『ザ・シングルス』もご紹介しておこう。これは84年にリリースされた編集盤のカヴァーを用いてはいるが中身は別物。65年のデビューから82年までの英国シングルA面曲をクロノロジカルにまとめたものだが、英米と日本それぞれにあるマスターを吟味し最良のものを集めた労作となっている。特に70年代以降の作品は目眩がするほどの解像度で圧倒されるが、さらに驚きは「不死身のハード・ロック」が全くの別ミックスで収録されていること。これは想像だが、ここで聴けるミックスこそが72年のオリジナル版なのではないだろうか。日頃は評判の芳しくないアルバム『イッツ・ハード』も、ここに収録された「アセーナ」を聴けば評価が覆るかも、と思わせてしまうほどのハイレゾ効果をぜひ楽しんでいただきたい。


「スティッキー・フィンガーズ/ザ・ローリング・ストーンズ」(UIGY-9066)

「ラヴ・ユー・ライヴ/ザ・ローリング・ストーンズ」(UIGY-9070)

「イッツ・オンリー・ロックン・ロール/ザ・ローリング・ストーンズ」(UIGY-9069)

「ザ・シングルス/ザ・フー」(UIGY-9067)

初音ミク・アメリカ公演記者会見・・・サエキけんぞう
 日本外国特派員協会主催で、6月13日に初音ミクのアメリカ公演について、記者会見が行われた。

 ヤマハの音声合成エンジン、ボーカロイIIを使用した、人工音声ソフト≪初音ミク≫は、5万本を売り上げる大ヒットで、そのパッケージに描かれたアイドル画を元に、ネットの描画サイトで「絵師」といわれる、一般ファンに自由に描かれて挙げられ、また、初音ミク・ソフトを使った自作曲が動画サイトに、10万曲以上もUPされ、空前のブームを巻き起こした。

 7月2日に、ミクの半透明の透過板「ディラッドボード」に映し出される画像を使って、アメリカ公演がロサンゼルス/ノキア・シアター行われる。Anime Expo 2011の中で「MIKUNOPOLIS2011」として催されるイベントは、既に3500枚のティケットがソールド・アウトし、追加を検討中とのことだ。ヴァーチャル・アイドルは、1990年代に登場し、失敗に終わっているが、人工音声ソフトという、思いがけない形で、21世紀にブレイクした。アニメ分野では多数のオタクの棲息するアメリカで、ミクの成功は約束しているようにも思える。

ブライアンが、ミックが、時を経て迎えてくれる
≪ジャレッド・マンコーウイッツ写真展≫・・・池野 徹
 あのローリング・ストーンズも何と、来年、2012年には、デビュー以来50周年を迎える。浮き沈みの激しい音楽界に於いて、 いや、ロック・ミュージックの世界で、健在してる事は驚きに値する事 だ。そのストーンズに関わったアーティストは数知れないだろう。その中で、ストーンズの初期、1965〜67年、ストーンズのオフィシャル・カメラマンとして認められ、メンバーで、リーダーだったブライアン・ジョーンズを中心にストーンズを撮っていた写真家、ジャレッド・マンコーウイッツGered Mankowitz(1945-)の写真展が、 東京・恵比寿の「TRAUMARIS SPACE」で行われている。

 わずか27歳で去ってしまったギタリストのプライベートなプロフィールが見る事ができる。よく見ると、マッシュルームカットのボーイッシュな顔、しかしいつも哀(かな)しみと何かに取り憑(つ)かれた風貌(ふうぼう)が撮られている。ジャレッドは、ブライアンは写真嫌いだったと言っていたそうだ。しかし、アルバム『Between The Buttons』の撮影をスタジオ収録のあとに、ブライアンが一台の車にメンバー乗り込ませて、ロンドン郊外に誘い撮影した思い出があるという。そのブライアンの写真には、来るべき影が映っている。そして、愛車アストン・マーティンの前で足を組んで座っているミック・ジャガーの何と可愛らしい事か。この2人の他にメンバーもまさに、まだ顔のシワも刻まれてない、初々しい、しかし先行き不安のある当時のストーンズのフェイスが写っている。

 写真家ジャレッド・マンコーウイッツは、1945年ロンドンに生まれ。ファッション、舞台写真を学び19歳でスタジオオープン。 かのストーンズと因縁の深い歌手、マリアンヌ・フェイスフルを撮った事がきっかけで、ストーンズのマネージャーに認められ、20歳そこそこでオフィシャル・カメラマンとなる。初期ストーンズのアルバム『Out Of Our Heads』『Got Live If You Want It』『Big Hits』『Between The Buttons』を手がける。

 そのほかYardbirds、Traffic、Free,そしてJimi Hendrix、その後70〜80年代にはElton John、Kate Bush、Eurythmicsと英国ロック・ミュージッシャンを撮り続けてい る。87年には、George Harrisonの「Cloud Nine」のカヴァー作品集も出している。当然、世界各地で写真展を行って いる。

 ジャレッドの凄(すご)いところは、当時オフィシャル・カメラマンとして、ストーンズとの著作権、肖像権等すべてをマネージメントして契約して持っていたと言う事である。今も継続されているのは凄い事だ。若いジャレッドと若いストーンズの連中と良い関係だったろうなと思われる。羨(うらや)ましい話だ。プライベートまで撮れると言う事は、普通の関係でないと思われる。当時の時代背景も良かっただろうし、現在みたいにセキュリティに囲まれたミュージッシャンとは違うコンタクトをとれたのはまさに羨むべき事である。写真するとは、人間関係の接点が密だから許せる作品が出来上がって来る。ストーンズ・フリークの私もストーンズを撮るチャンスに一度、恵まれたが、ある時期、密着できる様な世界に入れたらと何度思った事か。ジャレッドとは、1999年、写真「i-con .tact」のために来日。新宿伊勢丹美術館で出会った。瀟洒な草食系の男と言う印象だった事を覚えている。あなたの、フェバリットなストーンズ・ソングを反芻しながら当時の写真とい うメカニズムを、想いに変える事が出来るだろう。

*「ジャレッド・マンコーウイッツ写真展 ローリング・ストーンズ1965-1967」
6月1日〜7月3日 16:00-24:00  日曜14:00-22:00 月・祝日は休み
TRAUMARIS SPACE
東京都渋谷区恵比寿1-18-4ナディフアパート3F
03-6408-5522
http://www.traumaris.jp

ジョン・ウォーカーの訃報に接して・・・星加 ルミ子
 ウォーカー・ブラザースは不思議なグループだった。もともとアメリカはカリフォルニアで結成された3人組だったが、1965年にイギリスに渡って「太陽はもう輝かない」をヒットさせ、2年後の67年に解散してしまった。ところがなぜか日本で人気が高くなり、68年に再結成して来日公演を行った。3人の中でも端正なスコットの人気が突出していたが、その陰で男っぽさただようジョンの人気もなかなかだった。最近はあまり噂もきかなかったが、突然入ってきたニュースが訃報とは・・・。来日した時、浅草や銀座につれ出して写真撮影したことを懐かしく思い出す。黙とう。

八木誠さんを偲んで・・・上柴 とおる
 まだ65歳という若さで去る6月5日に逝去されてしまった八木誠さん。1960年代後期、まだ20歳そこそこの頃から音楽番組の選曲・DJをスタート。同時にシングル盤やLPのライナーノーツ、音楽雑誌等への原稿執筆も。洋楽全体を'ポップス'と捉えてその中から'キャッチー'な魅力を持つ楽曲、アーティストを広く世に紹介していた八木さんの嗅覚を信頼していた音楽ファンも少なくないでしょう。もちろん私もその中の一人。業界人ではない40代の知人が八木さんの訃報に接して「良質なポップスの品質保証的な存在でした」。誠に的を得た表現だと思います(僭越ながら自分自身もまさにそうありたいなと願っております)。CM(レコード会社発のスポットをよく聴きましたね)までこなしてしまう器用さもある八木さんにはまたリスナー(洋楽ファン)と同じ目線でざっくばらんに語りかける親しみやすさがあり幾多のラジオ番組を通じてたくさんのファンを生み出しましたがその'ルックス'とも相まって女性ファンも多く、染めたロング・ヘアーに中性的?な衣装、華奢な体つき。。。若い頃の八木さんはある種'アイドル'的なオーラを放っていたように思います。そんな音楽評論家は私の知る限り他にはおられないのではないかと。しかしそんな'スター人気'に浮かれてという印象はなく八木さんの原稿を読んだ方なら言うまでもないでしょうがネットはもちろん海外資料も潤沢ではない時代にこまめにチャート情報やディスコグラフィーといったデータをしっかり調べまくった上で執筆されたライナーノーツなどご本人の生真面目さ、使命感(こういうことはきちんと伝えて行かないといけないといったような)を感じさせてくれました(アイドル系アーティストについての原稿等ではお茶目な一面を垣間見せてもらいましたがきちんと使い分けされてましたね)。キャリアを積み重ねて'大御所'となられても後輩の業界人に対して尊大なということもまるでなく良き先輩としてフレンドリーに接しておられた八木さん。常に'自分は同じポップス好きの兄貴分'といった意識をお持ちだったのではないかと思います。1980年代には全国各地のラジオ局ディレクターやDJ、音楽評論家等を繋いだ「ポップタウンサークル45」なる集団を立ち上げて良質のヒット曲をラジオから生み出そうと(後のヘヴィー・ローテーションの先駆けかと。局単位ではなく全国ネットで)頑張っておられましたがそれを手伝っていたスタッフ(高校生や大学生も)の中から多くのDJ、番組制作者、レコード会社ディレクター等が巣立って行きました。いわゆる'八木チルドレン'といったようなあれでしょうか?八木さんは多くの優れた弟子を育て上げた'名伯楽'と言ってもいいでしょう。中学3年生時に「八木誠」という名前を知り(DJとしてのデビューは神戸の「ラジオ関西」ですね)大学時代には八木さんのFM番組の常連(リクエスト採用)となっていた私の個人的な思い出話を下記のブログに綴っております。ご一読いただければ幸いです。八木さん、いろいろとありがとうございました♪ 
                           
http://www.clinck.co.jp/merurido/_friends/00012/msg_dtl.php?ky=00012-1307470506

http://www.clinck.co.jp/merurido/_friends/00012/msg_dtl.php?ky=00012-1307862228

このページのトップへ