2010年11月 

ロックンロール誕生から55年
そのロックンロール史に必ず登場するのがチャック・ベリーだ
・・・越谷政義(Mike M. Koshitani)
 1955年をロックンロール誕生年と制定するなら、今年で55年。そして、その年にシーンに登場したのがチャック・ベリー。リズム&ブルースとカントリー&ウエスタンが融合して新たなムーヴメント、ロックンロールがポピュラー・ミュージックのメインストリームとして大きく発展していく中、エルヴィス・プレスリーやジェリー・リー・ルイス、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセントらともに黒人のリトル・リチャードやボ・ディドリー、ファッツ・ドミノらの貢献が実はよりニュー・ウェイヴのエクスプロージョンの原動力となった。そんな黒人ロックンローラーの中で最も注目されていいのがチャック・ベリーだ。彼が50年代後期に放った「メイベリーン」「ロール・オーヴァー・ベートーベン」「スクール・デイ」「スウィート・リトル・シックスティーン」「ジョニー・B.グッド」といった数多くのヒット・ナンバーはまさにロックンロールのスタンダードとして現在でも多くのロックを愛するミュージシャン、ファンに親しまれている。チャック・ベリーの音楽は60年代にイギリスから世界に飛び出したローリング・ストーンズやビートルズのルーツにもなっている。彼のステージはわが国でも何度か実現、多くの観客を熱狂させた。ブルースの発展にも大きな役割を果たしたシカゴのチェス・レコードは実はロックンロール誕生期にも重要な位置にいた、チャック・ベリーが所属していたのだった。

 この秋、チャック・ベリーデビュー55周年を記念して彼の名作アルバム16枚がユニバーサルミュージックからSHM-CD/紙ジャケでリリースされた。これを機に、より若い音楽ファンにもチャック・ベリーの偉大さを楽しんでもらいたい。
「アフター・スクール・セッション (エクスパンデッド)』(UICY-94624)
1957年リリースのファースト・アルバム。ミック・ジャガーやキース・リチャーズがリアル・タイムで(LPで)必死に聴いていた。もちろん1曲目は「スクール・デイ」。「トゥー・マッチ・モンキー・ビジネス」もゴキゲン、そしてマニアは「ウィー・ウィー・アワーズ」といったブルースにも大拍手なのだ。
「ワン・ダズン・ベリーズ (エクスパンデッド)』(UICY-94625)
58年リリースのセカンド・アルバム。イチゴ・ジャケットで知られる。「スウィート・リトル・シックスティーン」はじめデイヴ・クラーク・ファイヴがカヴァーした「リーリン・アンド・ロッキン」、ビートルズがカヴァーした「ロックンロール・ミュージック」ほかが収録。
「チャック・ベリー・イズ・オン・トップ (エクスパンデッド)』(UICY-94626)
1959年リリースのサード・アルバム。「キャロル」「メイベリーン」「スウィート・ロックンローラー」「ジョニー・B.グッド」「リトル・クイーニー」「ロール・オーヴァー・ベートーベン」「アラウンド・アンド・アラウンド」ほかが収録。ということで、無名時代のRSやB4が一番聴いたのがこのアルバムだろう。
「ロッキン・アット・ザ・ホップス (エクスパンデッド)』(UICY-94627)
1960年リリース4作目。「バイ・バイ・ジョニー」「ダウン・ザ・ロード・アピース」(オリジナルはエイモス・ミルバーン)「コンフェシン・ザ・ブルース」(ウィルター・ブラウンのオリジナル)「レット・イット・ロック」ほかが収録と記せばお分かりのようにミック&キースがこれまた必死に聴いていたアルバムだ。
「ニュー・ジュークボックス・ヒッツ (エクスパンデッド)」(UICY-94628)
61年リリースの5作目。これまたストーンズのルーツになったアルバム。彼らの
UKファースト・アルバムA面1曲目は「ルート66」、チャック・ベリーのこのア
ルバム・ヴァージョンからの選曲なのだ。
「ツイスト (エクスパンデッド)』(UICY-94629)
1962年リリースのチャック・ベリー初のベスト・アルバム。
「チャック・ベリー・オン・ステージ (エクスパンデッド)』(UICY-94630)
1963年3月リリースの擬似ライヴ・アルバム。当時はよくこの手法が登用された、ストーンズもやっていた。未発表スタジオ録音に歓声をオーヴァーダブ。このCDボーナス・トラックには63年の本物のデトロイト・ライヴが収録。
「セント・ルイス・トゥ・リヴァプール (エクスパンデッド)』(UICY-94631)
1964年リリースの8作目。出所したチャックが放った同年ヒット「ネイディーン」「ノー・パティキュラー・プレイス・トゥー・ゴー」「ユー・ネヴァー・キャン・テル」ほか収録。個人的には、チャック・ベリーをリアル・タイムで聴くようになったのはこの頃からだった・・・。
「チャック・ベリー・イン・ロンドン (エクスパンデッド)』(UICY-94632)
ビートルズやストーンズで再認識されたチャック・ベリーが、65年初頭にロンドンでレコーディングしたナンバーを中にして発表したアルバム。ボーナス・トラックのボ・ディドリーとのセッションも聴き逃せない。
「フレッシュ・ベリーズ (エクスパンデッド)』(UICY-94633)
65年UK、66年USリリースされた10作目。チャック・ベリーはこのあと60年代後半はマーキュリー・レコードに所属していた。
「バック・ホーム (エクスパンデッド)』(UICY-94634)
1970年リリース、アルバム・タイトルからも分かるようにチェス・レコード復帰1作。
「サンフランシスコ・デューズ(エクスパンデッド)』(UICY-94635)
1971年にリリースされたチェス復帰第2弾。
「ザ・ロンドン・チャック・ベリー・セッションズ (エクスパンデッド)』(UICY-94636)
1972年リリースの本作はタイトルからも分かるようにイギリスでのレコーディング&ライヴ・ナンバーを収録。ベリー・アルバム中、アメリカでは最高のセールスを記録、USアルバム・チャートで8位までランク・アップした。スタジオ・レコーディングではイアン・マクレガンやケニー・ジョーンズ、ライヴではその後アベレージ・ホワイト・バンドとして有名になる面々がそれぞれバックを務めた。11分のセクシー・ライヴ・ヴァージョン「マイ・ディンガリング」は最高に楽しい。このナンバーはシングル・カットもされチャック・ベリーにとって初のUSナンバー・ワン・ソングにも輝いたのだ。
「バイオ (エクスパンデッド)』(UICY-94637)
1973年リリースのバイオ・アルバム。ジャケットのフロント・カヴァー・ショットもチャックの少年時代のものが使用されている。
「チャック・ベリー(エクスパンデッド)』(UICY-94638)
1975年リリースのチェスのファイナル・アルバム。バック・カヴァー・ショットにも写っている娘のイングリッド・ベリー(ヴォーカル)の参加も当時ファンの注目を集めた。
「ヘイル! ヘイル! ロックンロール (エクスパンデッド)』(UICY-94639)
1987年リリースのこのアルバムは1986年にキース・リチャーズが制作したチャック・ベリー還暦LIVE、映画にもなった≪ヘイル!ヘイル!ロックンロール≫のサウンド・トラック。キースのほかエリック・クラプトン、リンダ・ロンシュタット、ロバート・クレイ、ジュリアン・レノンらが参加。ストーンズ・ファミリーもバックを務めているということでRSファンのマスト・アイティムでもある。

ジョン・レノン・リマスター2010・・・広田寛治
 今年はジョン・レノン生誕70年、没後30年。レノンの作品が新たにリマスターされ、さまざまな形態でファンの前に登場している。。
「ジョン・レノンBOX』
 まず注目は『ジョン・レノンBOX(LENNON Signature Box)』(EMIミュージック・ジャパン/TOCP70911〜9)だ。
00年代のリマスター&リミックス盤とは異なり、アナログ・レコードの感触に近いサウンドで、レコードで聴きなれた世代には納得できる仕上がりになっている。ボックスには、オリジナル・アルバムのリマスター盤全8作のほか、ボーナス・ディスク2枚を収録。1枚は『シングルス』(「平和を我等に」などシングル盤のみで発売された6曲収録)、もう1枚は「ホーム・テープス」(スタジオ・アウトテイクや自宅録音の13曲収録)。こちらには未発表の「ワン・オブ・ザ・ボーイズ」「インディア、インディア」も収められている
 8枚のオリジナル・アルバムは単体でも発売。ただし、今回のリマスター盤は限定発売で、従来のリミックス&リマスター盤が通常版として販売されることになる。
オリジナル・アルバム
単体で限定発売されるオリジナル・アルバムは以下の8枚。各盤ボーナス・トラックはなし。『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』はオリジナルどおりの2枚組。それぞれプラケースではなくデジスリーブ・パッケージとなって、『心の壁、愛の橋』は3分割ジャケットを上から見た面が印刷されている形になっている。
『ジョンの魂』(TOCP70900) 『イマジン』(TOCP70901) 『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(TOCP70902〜03) 『マインド・ゲーム(ヌートピア宣言)』(TOCP70904) 『心の壁、愛の橋』(TOCP70905) 『ロックン・ロール』(TOCP70906) 『ダブル・ファンタジー』(TOCP70907)
 ヴォーカルを前面に出したリミックス盤がオリジナル盤をあわせた2枚組で登場。ジャケット(表裏とも)はショーン・レノンがオリジナル盤のジョンとヨーコの写真をイラスト化したもの。
『ミルク・アンド ハニー』(TOCP70908)












「ザ・ヒッツ〜パワー・トゥ・ザ・ピープル』(TOCP70909=通常盤 TOCP709010=デラックス・エディション)
リマスター盤発売にあたり新たに編集されたベスト盤。「パワー・トゥ・ザ・ピープル」「真実が欲しい」「夢の夢」など全15曲を収録。デラックス・エディションには同内容のCDのほか、全収録曲のビデオ・クリップを収めたDVD付。
「ギミ・サム・トゥルース』(GIMME SOME TRUTH)』(TOCP70922?5)
4枚組の編集盤で、これは限定版。4枚はそれぞれテーマ別の選曲となっている。ポリティカル・ソングを集めた「ワーキング・クラス・ヒーロー」、ラヴ・ソングや家族に向けた歌を集めた「ウーマン」、人生についての曲を集めた「ボロウド・タイム」、ジョンが影響を受けたロックンロールのカヴァー等を集めた「ルーツ」。

ポール・マッカートニー&ウイングスの『バンド・オブ・ザ・ラン』
2010年最新リマスターでリリース・・・越谷政義(Mike M. Koshitani)
 ポール・マッカートニー&ウイングスの「バンド・オブ・ザ・ラン」や「ジェット」、36年前だった、毎日のようにFENから流れてくるのを楽しんだ。ビートルズが解散してまだ間もない頃で、音楽ファンは各メンバーのソロ・アクティヴィティーに注目していた。

 ポール・マッカートニーの作品集がヒア・ミュージック/コンコード(ユニバーサルミュージック)からファンの前に装いも新たに登場することになった。B4フリークはもちろん、20世紀のクラシックともいえるPM作品集を若いロック・ファンにもどんどん接して欲しい。もちろんポールは現役選手、ライヴ活動で忙しい。来日公演が諸事情でなかなか実現しないのがとっても残念だ。
 そんな中でまずリリースされるのが1973年末リリースのベスト・セラー・アルバム『バンド・オン・ザ・ラン』。UK/USチャートでともにナンバー・ワンに輝いた、アメリカでのセールス300万枚という記録が残っている。USビルボード誌アルバム・チャートではなんと116週ランキングされたのである。第17回グラミー賞(75年3月1日発表)で、ポール・マッカートニー&ウイングスはこのアルバムで“Best Pop Vocal Performance by a Duo, Group or Chorus”を受賞している。
 そして今回『バンド・オン・ザ・ラン』は様々なヴァージョンでリリースされる。ディスク・コレクターはもちろんすべてマスト(大変だけどこれはコレクターなら当然ですよネ・・・)。CDはすべてアビイ・ロード・スタジオで2010年にリマスターされた。
「バンド・オン・ザ・ラン 通常盤』(UCCO-9879)
UK/LP収録ヴァージョンによる1CD。 「バンド・オン・ザ・ラン」「ジェット」「ブルーバード」など9曲収録。
「バンド・オン・ザ・ラン デラックス・エディション』(UCCO-9952)
『通常盤』にCD&DVDを加えての2CD+DVD。《CD-2》にはUS/LPからの「愛しのヘレン」、同曲シングルのB面「カントリー・ドリーマー」、『ワン・ハンド・クラッピング』からの「ジェット」などマニアックな9ヴァージョン収録。そしてDVDにはビデオ・クリップ「バンド・オン・ザ・ラン」「マムーニア」「愛しのヘレン」ほか、1時間近いスタジオ・ライヴが収められている。デヴィッド・リッチフィールド監督の『ワン・ハンド・クラッピング』、TV放送用に74年にアビイ・ロード・スタジオで収録された映像。収録楽曲は「ワン・ハンド・クラッピングのテーマ」「ジェット」「ソイリー」「C・ムーン」「リトル・ウーマン・ラヴ」「恋することのもどかしさ」「マイ・ラヴ」「ブルーバード」「レッツ・ラヴ」「オール・オブ・ユー」「アイル・ギヴ・ユー・ア・リング」「バンド・オン・ザ・ラン」「死ぬのは奴らだ」「西暦1985年」「ベビー・フェイス」。曲間でミュージシャン同士がいろいろ論議していく生の収録模様がダイレクトに味わえるのもたまらない(もちろん字幕付)。
「バンド・オン・ザ・ラン スーパー・デラックス・エディション』(UCCO-9951)
『デラックス・エディション』にCDを加えての3CD+DVD。まずこの“スーパー・デラックス・エディション”が11月3日発売。《CD-3》は99年のドキュメンタリー・ディスクの最新リマスター・ヴァージョン(21ヴァージョン)。リンダ・マッカートニーとクライヴ・アロウスミス撮影による未発表写真や、ポールの最新インタビュー掲載の120頁のブックレットも楽しみだ。

35年ぶりにLIVE IN JAPAN バッド・カンパニー・・・越谷政義(Mike M. Koshitani)
 ブリテッシュ・ロック・シーンの歴史を語る上で忘れることのできないポール・ロジャース。フリーやバッド・カンパニーのヴォーカリストして知られる。彼のステージを初めて味わったのは1971年の≪Rock Carnival#4 ニューロックの旗手 フリー特別公演≫。ストーンズの弟バンドとも称されたりして我が国でも話題となり、70年には「All Right Now」が大ヒット。その年の暮れからキョードー東京の招聘によるロック・カーニバルがシリーズ化しジョン・メイオール、BS&T、ブラック・サバス(中止)に続く第4弾がフリーだった。71年4月30日と5月1日 。

 MCはカメ&アンコーの斉藤安弘さん。初日は東京/神田共立講堂。前座はモップスと成毛滋グループ(つのだ☆ひろがドラムス)。第一部終了後、ステージ狭しと数多くのスピーカーを並べ、その前にフリーの4人が登場。ポール・ロジャースのマイク・スタンドを自由に操りながらのアクションはミック・ジャガーを感じさせた。アンコールはロバート・ジョンソンの名作「Crossroads」だった。翌日は土曜、深夜12時30分から日本側からも成毛滋グループ、Mほかがジョイントしてのオールナイト・コンサート。ヘッドライナーはフリーの予定だったが、ひとつ前に登場、午前3時30分頃。招聘元の当時のスタッフに取材したところ、フリーのメンバーの睡魔と疲労のため順番を入れ替えたという。アンコールはデビュー作から「The Hunter」。フリーの演奏はここで終了することになっていた。セットも成毛滋グループ用にチェンジ。しかし、観客は大きな声援と拍手を送り続ける。サイモン・カークがつのだのドラムを叩きだし、アンディ・フレーザーが「Crossroads」のイントロを弾き始める、しかし音が出ない。アンディはベースのヘッドをアンプに突き刺し、サイモンはドラム・セットを投げつけ、ポール・ロジャースはマイク・スタンドをステージ後方にすっ飛ばした。ここでフリーはステージから去っていった。このシーンはよ〜く憶えている。そんなフリーは大の親日家、ポールが日本女性の清水マチさんと結婚。メンバーに山内テツが在籍していたこともある。

 そして75年にバッド・カンパニーが初来日、3月3日@日本武道館。たった1回のコンサートだった。演奏曲目は、「Deal With The Preacher」「Rock Steady」「Little Miss Fortune」「Ready For Love」「Whisky Bottle」「Feel Like Makin' Love」「Shooting Star」「Seagull」「Bad Company」「Easy On My Soul」「Movin' On」「Can't Get Enough」「The Stealer」「Good Lovin' Gone Bad」・・・。その後ソロやクイーンとしても日本にやってきているポールがバッド・カンパニ―としてコンサートを行うのは35年ぶりのことだ。

 10月25日の東京国際フォーラム/ホールAでの2010年のバッド・カンパニーをたっぷりと堪能した。
 オープニング・アクトはスティーヴ・ロジャース。マチ&ポールの息子のスティーヴは、妹のジャスミンとBOAというグループを結成。98年にアルバム『ザ・レース・オブ・ア・サウザンド・キャメルズ』のリリースにあわせてプロモーション来日、雑誌「FM fan」用にインタビューした。「意識して音楽を聴くようになったのは10代になってからで、B.B.キング、ココ・テーラーらのブルースから入って、その後バッド・カンパニーやジミ・ヘンドリックス。年齢を重ねるとともにいろんなスタイルに興味を持ち、最近は多種多様な文化とか民族音楽も積極的に聴いている」、と語っていたがそんな言葉を思い出させるようなスティーヴの個性あふれたステージが展開。「FREEDOM」から始まり全8曲を披露してくれた。

 そしてバッド・カンパニー。メンバーはポールとドラムスのサイモン・カークを中心にポール・ロジャース・バンドのリン・ソレンセン(ベース)、元ハートのハワード・リース(ギター/マンドリン)、そして曲によってローディーのマーク・ウルフ(ギター)がジョイント(ミック・ラルフスが健康上の理由から来日出来なかったのが残念だった)。今回のセットリストは日替わりメニュー。入場時に関係者から配布された曲目表もここに掲載しておくが、本番では若干異なっていた。

 僕の観た25日のオープニングは「ロックン・ロール・ファンタジー」。当時としては久々という感じも覚えた79年リリースの5枚目アルバム『ディソレーション・エンジェル』から。ポールのヴォーカルのうまさを早くもダイレクトに伝えるミディアム・アップのナンバー、ゆったりとしたサウンド展開ながらもぐっとホットに幕開けだ。

 USシングルの最高位は13位だが、グループとして唯一のゴールド・シングルに輝いている。そしてリアル・タイムで彼らを味わったファンとしては『バッド・カンパニーV』というタイトルでもなじみ深い3枚目の『ラン・ウィズ・ザ・パック』からソリッドな「ハ二ー・チャイルド」、ハワードのギターにぐっと安心させられる。3曲目は『ディソレーション・エンジェル』から「ロックン・ロール・ファンタジー」に続いてシングル・カットされた「ゴーン、ゴーン、ゴーン」、ちょっとセンチな失恋ソング。77年リリースの4枚目のアルバム『バーニン・スカイ』(当時はバーニング表記だったような)を当時、レコード会社のスタッフからまずジャケットを見せられてポールの法被姿に大拍手したものだ。そのタイトル・ソングがイントロもしっかりと味あわせてくれながら4曲目に登場、「バーニン・スカイ」。気骨あふれた作品で、今回の東京初日も含めてしばしばオープニング・ソングとしても登場。そしてポールのブルース・ハープでスタートするのがぐっとダウン・トゥ・アースな「オ―・アトランタ」、マイ・フェイバリット。『ディソレーション・エンジェル』収録ソングで、この日はエンディングでジョージアといフレーズを♪On my way back to Tokyo♪とポールがシャウト、大喝采を浴びていた。6曲目で雰囲気を大きく変えてポールがアコギでの弾き語り「シーガル」(カモメ)。ジェントルなしっかりと聴かせる作品、74年のデビュー・アルバム『バッド・カンパニー』のラスト・チューンだった・・・。そして本国イギリスでも大ベスト・セラー、アメリカではアルバム・チャート1位に輝いた『バッド・カンパニー』は、やはりフリーからのファンとしては一番の思い入れがある。クインティプル・プラチナムを記録、70年代ロック名盤。そのLP・A面2曲だったのがまさにスタートしたばかりの当時のバッド・カンパニー心境を素直に表現した「ロック・スタディ」、この日の7曲目だ。サイモンのドラミングも35年前と変わることない。♪Let the music flow♪なんていう一節なんてたまらない。余談ながら、アルバム・リリースの翌年に、もちろんこのナンバーに触発されて中村俊夫(MPCJ会員)が“Rock Steady”という音楽雑誌を創刊している。8曲目はバッド・カンパニー最後のアルバムとなった82年の『ラフ・ダイアモンド』から「エレクトリックランド」、ポールはピアノも演奏。続いては新曲「MISTER MIDNIGHT」、マークがギターでジョイント。ポールは現在ソロ・アルバムを制作中と語っていたので、きっとそこに収録予定の作品だろう、R&Bタッチなサウンドが印象的だった。そして、開幕前に入手した曲目表には記されてなかったが、10数年ぶりかな、ライヴで味わうのは、「夜明けの刑事」の登場だ。懐かしい・・・、ふと音楽仲間だった故・鈴木ヒロミツの「でも、何かが違う」を思い出した。そして名曲「フィール・ライク・メイキン・ラヴ」「シューティング・スター」と続く。75年リリースのセカンド・アルバム、トリプル・プラチナムを記録した『ストレート・シューター』からの2ソングス。「フィール〜」ではポールがブルース・ハープ、会場も一緒になってシャウトする。そしてビートルズ、「ラヴ・ミー・ドゥ」が歌詞に登場する「シューティング〜」、ここでも観客がコーラス、ポールはタンバリンも手にしていた。

 そして、コンサートが終盤に突入して会場がより一体となったのがデビュー作のオープニング・ソング「キャント・ゲット・イナフ」、バッド・カンパニーの代表作。会場は興奮の坩堝と化す。ラスト・ソングは同じくファースト・アルバムからで、セカンド・シングルとして75年初頭にヒットした「ムーヴィン・オン」(初来日直前にFENでよく聴いた)。ポールが心からジャパン・ツアーを楽しんでいるのが手に取るように分かるステージングが印象的だった。アンコールは多くのファンの期待通りファースト・アルバムから2曲。ポールが再びピアノで「バッド・カンパニー」とこれまたバラードで、ロックのスロー・ソングがこんなにも素晴らしいということを改めて痛感させる「レディ・フォー・ラヴ」。やはりブルースをしっかり自分のものにしているミュージシャンの音楽はまさに永遠なのだ、そんなことをダイレクトに感じさせたこの日のバッド・カンパニーのLIVEだった。
*撮影 (c) 森 信英 (GEO) ≪10月23日≫

≪バッド・カンパニーお薦め作品≫
『バッド・カンパニー』(ワーナーミュージック・ジャパン/WPCR-13902)
『ストレート・シューター』(WPCR-13903)
『ラン・ウィズ・ザ・パック』(WPCR-13904)
『バーニン・スカイ』(WPCR-13905)
『ディソレーション・エンジェル』(WPCR-13906)
『ラフ・ダイアモンド』(WPCR-13907)
『ハード・ロック・ライヴ』(WHDエンタテインメント/ IEZP-21)


昆劇「牡丹亭」・・・本田浩子
10月7日、TBS主催の昆劇、坂東玉三郎特別公演「牡丹亭」を観に赤坂アクトシアターに向かう。中国で600年以上の歴史を持ち、日本の歌舞伎同様、ユネスコ世界文化遺産に指定されている伝統劇昆劇の中でも、最高傑作のひとつと言われている「牡丹亭」に現代の歌舞伎界を代表する女方の一人である玉三郎が主演するというので、観る前から期待感が高まる。

正直なところ、私は昆劇を観るのは初めてなので、幕が開く前にプログラムに目を通す。玉三郎以外は全員蘇州昆劇院の役者たちで、大事な音楽部門は全て選び抜かれた演奏者たちがそれぞれ司笛、堤琴、三弦、司鼓、小銅鑼、二胡、琵琶、提琴、古箏、笙など、古くからの中国の楽器を奏で、それに合わせて演者は蘇州語で歌い舞い演ずるというもの。その習得は大層難しいこともあり、又優雅すぎる昆劇よりも新興の京劇におされて衰退していったそうだが、2001年にユネスコ世界遺産に指定され、今又、玉三郎氏が昆劇院と三年の制作過程を経て、中国で失われていた伝統的な女方を見事に復活させ、玉三郎版「牡丹亭」として、2008年の京都・北京での公演で成功して以来、中国本土で絶大な評価を受けている作品と書いてある。

幕が開くと、深窓の令嬢、玉三郎扮する杜麗娘(とれいじょう)が後ろ姿でたたずんでいる。ただそれだけで、美しい一幅の絵になる。鍛え抜いた芸の力か、天性の才能か、もうそこは玉三郎の美の世界、浮き世の憂さも吹き飛んで、イヤも応もなく夢の世界に誘われてしまう。

今まで歌舞伎、或いは義姉弟(玉三郎の養父は歌舞伎俳優の故・守田勘弥)の水谷良重(現・八重子は勘弥と初代・水谷八重子の娘)との共演で観てきた姿・動き・声とはまるで違い、舞台にはまさに数百年昔の中国南宋時代の乙女が、中国の楽器による生演奏に合わせ割と高音のゆったりとした歌声を響かせながら気品と16歳の娘らしさに溢れた初々しい姿で舞い踊り、可愛らしい沈国芳扮する侍女の春香(しゅんこう)と共に、春の日の散歩を楽しむ(写真1)。舞台に春の花が咲いている訳ではないが、春香の案内でたおやかに舞い踊りながら、深窓の令嬢が生まれて初めて外の世界の春の美しさに出会い、その素晴らしさに酔いしれる姿は、楽曲の音色と二人の若い娘の歌声と共に、観客にも春の美しさが心に染み渡り、客席は息を?むような静けさに包まれている。

散歩の後、部屋に戻った杜麗娘は疲れてうたた寝をしていると、夢に美しい青年、兪玖林扮する柳夢梅が現れ、二人はたちまち恋に落ち、契りを結ぶ。二人の恋の歓喜の二重唱は優雅な舞い姿と共に、圧巻! 夢から覚めた杜麗娘は我にかえるが、柳夢梅を忘れられない。その日から杜麗娘は、重い恋煩いに悩まされ(写真2)、夢が叶うはずもないと知り、食べるものも喉を通らず遂には春香に殺して欲しいと(写真3) 頼む。やつれていく自分の姿に死を覚悟した杜麗娘は、我が姿を絵に描き留めて、春香に夢での出会いを話し、自分が死んだらこの絵を誰の目にも触れないように埋めて欲しいと頼む。

季節が移り秋になると、杜麗娘の病いよいよ重く、朱惠英扮する母と春香に別れを告げる。嘆き悲しむ二人に、杜麗娘は来世での復活を信じて花園の梅の木の下に埋めて欲しいと言い残して息絶える (写真4)。
三年の年月が流れ、奇しくも杜麗娘が眠る寺にやってきた柳夢梅は、花神の計らいか杜麗娘の絵姿を見つけ、夢で出会った乙女と気づくと夢中で呼びかける。その呼びかけに応えるように、杜麗娘が現れる。美しい姿と優雅な動きだが、生身の娘ではなく絵姿というはかなげな雰囲気が舞台に溢れ(写真5)、劇場はファンタジーの世界に包まれる。「死んでからも尚私を想っていて下さって嬉しい」というシーンは、メーテルリンクの「青い鳥」の中の想い出の国で「思い出してくれれば、私達といつでも会えるよ」と亡くなった祖父母がチルチルとミチルに言うシーンにつながり、古今東西を問わず、人の心、想念の大切さに胸が一杯になり、観る者の心に強く響いてくる。

毎夜訪れる若い娘が実は亡くなった杜麗娘と知った墓守の石道姑は、柳夢梅の懇願に応えて亡き人を甦させる儀式を行う。二人で墓を掘ると花神達の助けで、喜び溢れる生身の杜麗娘が現れ、文字通り恋人同士は夢のような再会を果たし、花神たちに囲まれる (写真6)。

石道姑役を演ずる国家一級演員の呂福海は、優雅さと同時にコミカルさを兼ね備えた狂言回しの役どころだが、言葉は分からないのに、字幕の助けを借りなくても、若い二人の熱い想いに困惑したり、やがて二人の為に一肌脱ごうという気概が充分に伝わってくる。主役の柳夢梅役の兪玖林も国家一級演員の肩書きを持つ昆劇院の役者だが、そんな中にあって玉三郎の杜麗娘はひときわ美しく優雅で、観客の心を優しさと温かさで満たしてくれる。玉三郎の歌舞伎役者としての研鑽と鍛錬が、異文化の伝統的な音楽劇である昆劇で、大輪の花を咲かせた舞台に、すっかり魅了されて劇場を後にした。
写真:(C)阿久津知宏

想い出のアーティストたち (2)
ドリス・デイ訪問記≪2≫・・・本田 悦久(川上 博)
 4度目の正直で、ドリス・デイとの初対面が実現したのは、1984年7月のことだった。この時は、サンフランシスコからロサンジェルスへ行く途中、カーメルへ寄れる旨、連絡をとっておいたところ、「7月22日の日曜日、午後の遅い時間にお会いしたい」とのテレックスを、旅先の香港のホテルで受け取った。
 22日の午後3時半、ちょうど民主党大会で大騒ぎしていたサンフランシスコを後にして、ウィングス・ウェストという、あまり聞かない名の航空会社の12人乗り位の小型機で、モンテレイに飛ぶはずだった。「はずだった」というのは、アメリカの国内便によくあることだが、予約を確認してあってもオーバー・ブッキングで乗り損なうことがあるのだ。このときも数人がこぼれて、その中に運悪く入ってしまったが、その日は1時間半待ちでもう一便あって救われた。モンテレイまでの飛行時間は、およそ30分。遅れる旨の連絡を、航空会社からモンテレイ空港に出迎えてくれているテリーへ入れておいてもらったので、空港ではテリーとブルース・ジョンストンが待っていてくれた。「ヒコーキ、ミスったね」とブルース。彼はテリーの25年来の親友であり、ビズネス・パートナーでもある。彼はザ・ビーチ・ボーイズの一員であるが、ソングライターとしても売れっ子であり、バニー・マニローに書いた 「I Wrote A Song」 は、1500万枚のレコード売上があったという。

 ブルースは、モンテレイ空港からカーメルへ向かう30分位の車の中で、ドリスについて色々と語ってくれた。彼女が大変に健康で、裕福で、目下のところは、”ドリス・デイ・ペット・ファウンデーション” の仕事に打ち込んでいること、20代、30代の頃に映画やレコードで築いたイメージを損ないたくないので、ショーの世界にカムバックする意志がないこと。日本からの誘いも何回かあったが、その中には、エンペラーがファンだからとか、プライム・ミニスターが会いたがっているとか、妙なことを云って近づこうとしてきた人たちもいたこと。彼女がベバリーヒルズを離れた理由が、市の条例で一軒に3匹以上の犬を屋内で飼えないからだということ等々。そして、その中で最も重要で嬉しい話は、ドリスが20年ぶりでレコーディング・セッションに戻ったことだ。ブルースによれば「あなたの意向を受けて、テリーとぼくが毎日のようにドリスを説得したので、彼女もとうとう重い腰を上げた」となる。しかし、吹込が実現しそうだという話はここで初めて知ったわけではなく、4月 (1984年) にロサンジェルスでテリーと再会した時、既にテリーから聞いていて、デモ用に録音した一曲を耳にしていた。ドリスの声もよく出ており、これはいけると思ったが、果たして彼女を本番吹込みからアルバム完成まで追い込めるかが心配だ。それが、とにもかくにもレコーディングを始めたのだから、まずはめでたい話。それも私がドリスに会おうとする日の3日前に最初の曲を、前日に2曲目を吹込んだというのだ。

 さて、車はカーメルに入り、やがて夕陽に映えるドリス・デイの別荘に到着。高台にあって、湖やゴルフ場を見おろす。何とも素晴らしい景観で、まさに映画の一シーンのよう。広大な敷地の右手奥にドリスの家、左の奥にテリーの家。テリーの方の庭先で、先ず3人でカリフォルニア・ワインをあける。30分位したところで「そろそろママの家に行こうか」とテリー。そこへ、「遅いから、お迎えに来たわ」とドリス、「やっとお会いできて感激です」と、感動ひとしおの私。「あなたのことはテリーから聞いていたわ。”ヨシヒサ” って言いにくいから、”ヨシ” って呼ぶわよ」とドリス。まさしくスクリーンで見なれたあの明るい笑顔、レコードで聞きなれた独特のハスキー・ヴォイスだ。
 思い起こせば、筆者が高校生の頃ベティ・ハットンのミュージカル映画『アニーよ銃をとれ』に夢中になり、ベティ・ハットンのサウンド・トラック盤がまだ出ていなかったので、関連のレコードを探したところ、「朝に太陽、夜に月」が見つかった。レス・ブラウン楽団の演奏で、歌がドリス・デイ。片面が「センチメンタル・ジャーニー」だった。それで初めて知ったドリス・デイだが、すっかり気に入って、彼女の他のレコードを求めたり、映画『二人でお茶を』『情熱の狂想曲』を観に行ったものだ。また、日本封切りが遅れたり、未公開だった映画『ラッキー・ミー』『ヤング・アット・ハート』『ラブ・ミー・オア・リーブ・ミー (後の邦題は
、情慾の悪魔)』を、当時、米軍の施設だった日比谷のアーニー・パイル劇場や九段のFEAF劇場、市ヶ谷のパージニグ・ハイツにもぐり込んで観たこと、ドリスのレコードを懸命に集め、その後、レコード会社に入って洋楽企画・制作を仕事とするようになったこと等が、次々と甦ってくる。
 あの頃から30年以上も経っているというのに、目の前の彼女は、時の流れをあまり感じさせない、チャーミングなドリス・デイである。香港から持参した英国製陶器のヨークシャテリアに、彼女は「わたしプレゼント大好き!」と大はしゃぎ。包みを自分で開いて、早速、彼女の犬仲間の一員に加えてくれた。「わたしのところに犬が何匹いるか知ってる? 17匹よ。それに猫が8匹。誰にも言っちゃダメよ! 」。勿論、生きた本物の話である。「うちの会社のマークも犬です」「そうね。ヒズ・マスタース・ボイス、あの犬も大好きよ」「私はイヌ年で・・・」と、それは話がややこしくなるので止めにした。ブルースが盛んに写真を撮ってくれる (ここに掲載の写真の殆どは、ブルース・ジョンストンがシャッターを切ったものである) 。
*以下、次号に続く。「レコード・コレクターズ」誌、1985年3月号より抜粋・転載

追悼:ソロモン・バーク・・・越谷政義(Mike M.Koshitani)
今年の5月、わが国で素晴らしいステージを披露してくれたキング・ソロモンこと、ソロモン・バーク。10月10日、ロサンゼルス空港からオランダ/アムステルダムのスキポール空港に向かったが、アムステルダム到着の飛行機内で死亡が確認された。亨年70。心からご冥福をお祈りする。

1960年代に僕がオーティス・レディングとともに最もよく聴いたリズム・アンド・ブルース・シンガーのひとりがソロモン・バークだ。なぜならミック・ジャガーが歌手として大きな影響を受けたのがソロモンで、ストーンズは「Everybody〜」のほか「Cry To Me」そしてウィルソン・ピケットのオリジナルだがほぼ時を同じくしてヒットした「If You Need Me」を録音していたからだ。
ソロモン・バークは1940年3月21日、ペンシルヴァ二ア州フィラデルフィアで生れた。幼い頃からソロモン教会で伝道活動を始め、少年説教師としてWDASラジオにも出演していた。もちろんゴスペル・ミュージックも歌っていて、50年代中期からはゴスペルをレコーディングするようになった。55〜58年にかけてApolloで「Christmas Presents」(かなりヒットしたとのこと)「Iユm in Love」「I'm All Alone」など9枚のシングルをリリース(60年代にLP化)。59年にリズム&ブルース・シンガーに転身し、SingularとMalaでシングルをリリース。60年にジェリー・ウエクスラーに認められAtlanticに迎えられた。「Keep The Magic Walki'/How Many Times」に続くアトランティック・レコード2枚目のシングル「Just Out Of Reach(Of My Two Open Arms)」が61年秋に大ヒット、ビルボード誌R&Bチャート第7位、HOT100第24位を記録した。そのソウルフルな実に説得力ある歌いぶりは多くのファンの心をつかみ、その後も70年代後半まで確実にヒット・ソングを放った。チャート・イン・ナンバーは30をこす。
・Just Out Of Reach(Of My Two Open Arms) 1961(発売の年) 7(R&Bチャート最高位) 24(HOT100最高位) Altantic2114(品番)
・Cry To Me 1962 5 44 Altantic2131
・I'm Hanging Up My Heart For You 1962 15 85 Altantic2147
・Down In The Valley 1962 20 71 Altantic2147(両面ヒット)
・If You Need Me 1963 2 37 Altantic2185
・You're Good For Me 1963 8 49 Altantic2205
・He'll Have To Go 1964 ミ(この時期R&Bチャート休載) 51 Altantic2218
・Goodbye Baby(Baby Goodbye) 1964 -(同) 33 Altantic2226
・Everybody Needs Somebody To Love 1964 -(同) 58 Altantic2241
・Yes I Do 1964 -(同) 92 Altantic2254
・The Price 1964 -(同) 57 Altantic2259
・Got To Get You Off My Mind 1965 1 22 Altantic2276
・Tonight's The Night 1965 2 28 Altantic2288
・Someone Is Watching 1965 24 89 Altantic2299
・Baby Come on Home 1966 31 96 Altantic2314
・Keep Looking 1966 38 ミ(109/Bubbling Under The HOT100) Altantic2349
・Keep A Light In The Windows Till I Come Home 1967 15 64 Altantic2378
・Take Me(Just As I Am) 1967 11 49 Altantic2416
・Detroit City 1967 47 -(104/Bubbling Under The HOT100) Altantic2459
・Wish I Knew(how It Would Feel To Be Free) 1968 32 68 Altantic2507
*Altanticでは32枚のシングル、そして6枚のアルバムをリリース
・Up Tight Good Woman 1969 47 -(116/Bubbling Under The HOT100) Bell759
・Proud Mary 1969 15 45 Bell783
・The Electronic Magnetism(Thatユs Heavy Baby) 1971 26 96 MGM14221
・Love's Street And Foolユs Road 1972 13 89 MGM14353
・Weユre Almost Home 1972 42 - MGM14402
・Get Up And Do Something For Yourself 1972 49 MGM14425
・Shambala 1973 97 MGM14571
・Midnight and You 1974 14 ABC/Dunhill4388
・You And Your Baby Blue 1975 19 96 Chess2159
・Let Me Wrap My Arms Around You 1975 72 Chess2172
・Please Don't You Say Goodbye To Me 1978 91 Amherst736
70年代前半にはそのほかPrideでもシングルを発表。Atlantic以外では1枚のアルバム、5枚のシングルしかリリースしなかったが、何といってもBell時代が懐かしい。クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの「Proud Mary」、アイク&ティナ・ターナーも良かったけど、ソロモン・バークも素晴らしかった。同名のアルバムにはオーティス・レディングの「These Arms Of Mine」ほかが収録。そしてこのアルバム「プラウド・メアリー」は69年末に日本発売されていた(CBS・ソニーレコード)。2000年に「Proud Mary/The Bell Sessions」としてCD化され、ボーナス・トラックではエルヴィス・プレスリーで有名な「In The Ghetto」(Bell、5枚目のシングル)やボブ・ディラン「The Mighty Quinn」ほかのカヴァーも聴かれる。生前オーティス・レディングはソロモン・バークを尊敬していた、「Down In The Valley」「Home In Your Heart」を録音している。
80年代に入って5年程ゴスペルの世界にいたソロモン・バークだったが、その後は再びR&Bシーンで活動するようになった。あの巨体からのこみ上げてくるようなソウルフルな歌声は実に素晴らしいものがあった。

今年の春に初来日公演が実現した。5月30日の日比谷野外音楽堂でのコンサート終了後、ソロモン・バークと初めて会うことができた。5年前にTELインタビューしたことをしっかり憶えててくれて、記念写真も撮らしていただいた。短時間だったけど、名刺を持ってるかなどととても気さくにストーンズのことなどを話した・・・。

2005年アルバム「MAKE DO WITH WHAT YOU GOT」のライナー用に電話インタビューした。インタビュー素材はそのライナーをはじめ、アトランティックでのサード・アルバムのライナー、CDジャーナル誌ほかで活用させていただいた。

完全ヴァージョンを掲載させていただく。

M:素晴らしい新作「MAKE DO WITH WHAT YOU GOT」についてうかがいます。実に力作、このアルバムについてまずご紹介下さい。

S:この作品は一言で言えばエキサイティングなアルバムだ。プロデューサーのドン・ウォズは仕事相手としてエキサイティングな人だし、人間として、そしてプロデューサー、アーティストとしてもおもしろくてユニークな人物だ。そんな彼との仕事は非常におもしろかったよ。

M:プロデューサーのドン・ウォズといえば、年齢的にはあなたの弟という感じですが。

S:いやぁー、弟なんてもんじゃないさ。更に若いね。

M:彼はブルース、リズム&ブルース、ロックンロール、そしてカントリーにも造詣が深い。いつ頃に出会ったんですか。どういうきっかけで、今作のプロデュースを担当するようになったんですか。彼との仕事はいかがでしたか。

S:彼と初めて出会ったのは6年前、ロックンロール・ホール・オブ・フェイムでのことだった。彼と奥さんと親しくなってね。彼らはその頃から『もし男の子が生まれたらソロモンと名付ける』と言っていてね、本当に男の子が生まれたらソロモンって名前にしちまったんだ(笑)! 私の名付け子だ。今作のプロデューサーとして彼が人選されているなんて初めは全く知らなかった。何しろ彼は金のかかる大物プロデューサーだから我々の予算では到底ありえないと思っていた。事の成り行きはShout! Factoryのフース夫妻がはまり役のプロデューサーを抑えたので自分たちのレーベルと契約をしてみないかという話を持ちかけてきたことから始まった。『どんなプロデューサーだい?』と一応、聞いてみたが、多分パフ・ダディやらDr.Dre辺りの名前が挙がると思いきや、ドン・ウォズと聞いてひっくり返ったよ。彼との仕事はエキサイティングだったよ。数々の素晴らしいミュージシャンたちの大ヒットを掘り起こしてね。ギターにレイ・パーカー・ジュニア、それから私の専属ミュージシャンのエディ・タウンズとオルガンのルディ・コープランド。ドラムのジェームズ・ガドソンも最高だし。素晴らしいメンバーに囲まれて作った作品だ。

M:そして、今作を堪能しながら改めて貴方の歌手としての素晴らしさ、音楽への懐の深さを感じました。貴方の書き下ろし「After All These Years」にまず注目しました。

S:エディ・タウンズと書いた曲だ。人生で体験してきたことについて書いた曲で、アルバムの中で最も気に入っているナンバーのひとつだね。子供たち、家族など、私の人生をかけがえのないものたちについて書いている。

M:ドクター・ジョンとヴァン・モリソンが貴方のために新曲を書いてます。

S:ヴァン・モリソンは親友であり、同志でもある。そして偉大なソングライターでワールドクラスのエンタティナーだ。彼は前作でも曲提供をしてくれた。新作用にも曲を書いてもらえて光栄に思っている。「At The Crossroads」は名曲だ。彼の書く詞は素晴らしく、彼の思考回路からは色んな風景が浮かんでくる。ヴァン・モリソンの曲を聴いたり、彼のライヴを観ていると、彼の描く歌詞の世界が見えてくる。ドクター・ジョンは神秘的でマジカルなミラクルマンだ。彼の手にかかればなんだって魔法をかけられたみたいになる。誰にもわからない意味不明な歌詞を書く男だが、彼から曲を渡されたら大ヒットの可能性十分なだけに黙って受け取るべきだね(笑)。曲もいいし、コンセプトも気に入っているが何よりも「Make Do With What You Got」のメッセージに心を打たれた。人間というものは自分が手にしているものを忘れがちだ。せっかく手にしているものをうまく活用しない。自分の庭先に咲いている花の香りを楽しむことを忘れ、自宅で入れたコーヒーを味わおうとせず、自分の周りを包む愛に気づかないことが多い。他のものに気を取られているからだ。隣の芝生は青く見えるということだな。その結果、傷つき、裏切られ、そしてそまつに扱われる。だが皆そろそろ目を覚まし、自分が掴んでいるものに気づき、もっと幸せに、よりよい人生にするべきなんだ。自分の持っているものを活用させるべきなんだ。それが「Make Do With What You Got」なんだよ。

M:ドン・ウォズのプロデュースということでストーンズ・カヴァー「I Got The Blues」も登場します。

S:ストーンズは最愛の友人だよ。幸運にも彼らは私の曲、「Everybody Needs Somebody」を14回もレコーディングしているんだよ。DVDも含めてね。今度はようやくこっちがアルバムでストーンズの曲をカヴァーすることができて嬉しいよ。彼らの私の曲のカヴァーが素晴らしかっただけに、その素晴らしさの半分でも彼らの曲のカヴァーで果たすことができたら万々歳だ。

M:ボブ・ディランやザ・バンド、そしてデイヴィッド・ラーフィンのナンバーも取り上げていますね。

S:そう。そもそもこのアルバムの選曲は全て私とドン・ウォズ、そしてレーベルの副社長のショーン・エイモスとで決めたんだ。35の候補曲からこの10曲に絞ったんだ。この10曲は意味を持ったひとつのストーリーになっているよ。CDやDVDを通してストーリー、すなわち自分の感じていることを伝えることが大切なんだ。私のメッセージは昔と変わらず、愛と喜び、そして平和についてなんだ。

M:そしてブルースやケイジャンの作品も取り上げています。

S:そう。それにカントリーもね。ハンク・ウィリアムスがその昔書いてレコーディングしたゴスペル・ナンバーをカントリー・ソウル風に料理してみたよ。曲の良さを新たに引き立たせるためにね。それはやはり今の時代、名声と富に酔いしれ、自分のルーツや今後進むべき道などを考えなくなったエンタティナーが少なくない。人生の道の泥濘にはまることだってあるということを知らない人が多すぎる。金なんかでは魂は救えないということをこの曲で伝えたい。金をたっぷり稼いで、りっぱな家を建て、大きな車を買ってきらびやかな宝石類を手に入れたとしても、人間はそれだけで満ち足りるわけがない。そんなものだけでは幸せにも健康にもなれない。死ぬ間際になって心を救ってくれるのはそういう類のものではない。このことをアルバム全体通して伝えたかったんだ。

M:日本では映画「「ライトニング・イン・ア・ボトル」が上映中です。ラジオ・シティ・ミュージックホールでのステージはいかがでしたか。また、貴方にとってブルースとはどんな存在なんでしょう。

S:ステージは最高だったよ。「ライトニング・イン・ア・ボトル」はまだ観ていないけれどね。≪現在午前4時。『ライトニング・イン・ア・ボトル』のソロモン・バークの演奏が素晴らしかったとどうしても伝えたかった≫というメールももらったよ。ブルースは私にとって様々な役割を果たしている。私の人生の基盤となっているのがゴスペルだ。私の人生はゴスペルと真実、そしてスピリチュアルな面を基本としている。でも人間は誰でも人生でブルースや幸せと喜びなどを経験する。浮き沈みがあるからこそ人生で色んなリズムを叩き出し、色んなサウンドを奏でることができる。ラップが今の若い世代にあれだけ支持されているのもそういうところからきている。若者はラップを通して自分たちが辿ってきた道を考えさせる術を与え、時には自分たちが認めたくない真実と向き合わされ、自分たちの知らない世界に対する恐怖に共感し、もしくは自分たちの感情の捌け口となり、心の傷を癒す。音楽はそういう役割を果たしている。音楽はヒーリングを行い、メッセンジャー的役割も果たしている。音楽は老いも若きも、金持ちにも貧乏人にも、あらゆる肌の色の人たちに答えを与えている。特別な需要があるのだよ。

M:バイオグラフィー的な質問に移らせてください。音楽との最初の出会いはゴスペルだったんですか。

S:その通りだ。私は教会で生まれ育ったようなものだからね。アメリカはペンシルバニア州フィラデルフィアで生まれ育った。冗談ではなく、教会の上で産声を上げたんだよ。私が産まれたとき、真下にある教会では礼拝が行われていた。私のバックグラウンドと人生そのものが神の恵みと奇跡と繋がっているのは自分にとって喜ばしい限りのこと。私には21人の子供がいる。娘が14人と息子が7人。孫は75人に曾孫が15人。全員に気を取られているわけにはいかんから、お互いに連絡を取りながらやっている。美しいだろう?

M:10歳になる前にお祖父さんの建てたSolomonユs TempleでThe Wonder boy Preacherとして活動。

S:祖父ではなく、祖母の教会だ。

M:ラジオにも出演していらっしゃったと聞いていますが。

S:7歳のときから牧師活動を始めたのだよ。7歳のときに初めてフィラデルフィアの教会にて説教をし、12歳のときに初めて自分の会衆に説教をした。若干12歳で自分の会衆を持つようになり、私のキャリアが始まった。それはエキサイティングだったよ。同時に自分の番組もラジオで持つようになってね。週一回、土曜日に15分ほどの番組が放送された。エキサイティングで素晴らしい時期であり、素晴らしい体験だったし、素晴らしい人生を送ることができたのは神様のお恵みがあったからこそだ。

M:55年にApolloレーベルからリリースされた「Christmas Presents」がデビュー・シングルです。レコード・デビューのきっかけは。最初はゴスペル歌手でしたね。

S:いやいや、私は今も昔もゴスペル歌手だよ。レパートリーを広げて行っただけだけど、だからと言ってゴスペル歌手から離れたわけではない。自分の人生においての音楽業界のヴィジョンを広げただけだよ。曲を通じて色んな歌詞やメッセージを表現していたまでだ。「Christmas Presents」は1954年に私が初めてレコーディングした曲だ。劇的な時代で様々なことを学び、そして授かった・・・レコード・デビューは・・・ある教会が主催したコンサートに参加したら、それがきっかけでレコード・デビューとなったんだよ。そんなことがあった1954年は私にとって不思議な年だった。祖母が亡くなったばかりで、私にとっては辛い時期だった。だから例の教会には頭の中をリラックスさせようと思って行ったのだが、なんとそこでレコード・デビューに抜擢されたのだよ。間髪入れずに♪Christmas Presents From Heaven♪のレコーディングが行われ、曲はクリスマスの2日前に発売された。私にとって、非常に劇的な時期であり、この1曲は今までレコーディングした中で私のベストだね。あの1曲の体験を越えようと日々努力をしているよ。

M:R&B界転向のいきさつは。アトランティック・レコードへ迎えられたいきさつは。

S:アトランティック・レコードの一件について話しているだけで1日が終わってしまうな。その全貌について話せないのが残念だが、実は今年中に本を出すことになっているんだ。そこから様々なエピソードを君に読んで聞かせてあげたいよ。とにかくアトランティック・レコードとの契約はエキサイティングな時期だった。マネージャーとふたりでアトランティック・レコードを訪ねていったんだよ。『こうしてアトランティック・レコードに来れただけで光栄です』と伝えると、向こうはなんとデモ・テープも聴く前から『契約をしましょう』という話になった。その3日後には『君にぴったりの素晴らしいブルース曲がある。この曲で君は間違いなく偉大なブルース・アーティストの仲間入りだ』という電話がかかってきた。だが私は聖職者だ。教会の牧師がブルーズ・アーティストだなんて当時は以ての外だった。レーベルにおいての私の位置づけに関して双方の食い違いがあったんだ。『だったらソウル・シンガーとしてどうだろう』とこちらが提案すると、『何を言っているんだ。世界最高のR&Bレーベルなんだ。このレーベルの一員でありたいならこっちが命じた曲を黙って歌え』とジェリー・ウエクスラ?が息巻いたのだが、『この男がソウル・シンガーになりたいと言うならそうさせてやれよ。人の生き方まで指図しちゃあいけないよ』とアーメット・アーティガンが言ってくれたおかげで、そこから私のレコードに『ソウル』という文字が入るようになり、ソウル・シンガーとして認知されるようになった。残念ながら彼らはソウル・シンガーに合うような楽曲を見つけることができず、代わりにカントリー・ソングをレコーディング用に4曲分渡された。カントリー曲なんかじゃソロモン・バークの一巻の終わりだな、俺たちはカントリーとは無縁だからなとレコード会社の連中は思っただろう。私をこらしめたつもりじゃないかな。ところが私はスタジオに入り、「Just Out Of Reach」「My Twenty Arms」「Travel On」「Put Your Sweet Lips A Little Closer To The Phone」「You Have To Go」「I Wanna Call A Tear Fell」などのヒット曲をレコーディングした。それによって黒人がレコーディングしたカントリー曲が初めてアメリカのラジオで流れ、初めてアメリカでチャート・インしたんだ。歴史の新たな幕開けだった。素晴らしい時代だ。レコード会社が事態を認識するまで1年はかかったね。何しろ当時のラジオ局ではカントリー曲を歌う黒人歌手を当てはめる枠が存在しなかった。ラジオやミュージック・チャートにはそんなカテゴリーがなかったもんだから、全く新しいカテゴリーを作ることができたんだ。『ヘイ・マーン、これはカントリーでもR&Bでもない。ソウルだよ!』ってね。私は音楽業界で50年も過ごしてきた。それを嬉しくも誇りにも思う。そして今日、こうやって日本との初インタビューが実現した。こんなに待ったのだから、今回こそ日本に行ける機会があるのではないかと願っている。日本へ行くことは長年の夢であり、心から待ち望んでいることなんだ。私のハートは日本に向かって大きく広げている。日本の人々に真心を込めた演奏を披露する機会を是非いただきたいと願っているよ。このアルバムが日本人の心を揺さぶる何かがあればいい。このアルバムを聞いて是非我々にチャンスを与えてほしいね。私は日本に向けてハートを開いている。私の家族も日本人の一人一人に愛を送っているよ。とにかくこのアルバムを聴いて、我々とともに人生の十字路進んでいこう。何10年と待ってこうしてやっと日本の皆さんと話ができるようになった。このチャンスを是非活かしたい。

M:オーティス・レディングは貴方を目標にしていました。

S:オーティスは偉大なアーティストで最高の友人であり、兄弟でもあり、また素晴らしいミュージシャンでもあった。いい父親でもあったよ。そんな素晴らしい人がい亡くなってしまったときの喪失感は・・・だがそういう素晴らしい人物は(心の中で)永遠に生き続けている。彼のスピリッツは私の思い出の中に永遠と残る。ライヴ中も彼の存在を意識しているよ。オーティスは私のツアーに4年も同行していたんだ。彼のファースト・アルバムが出る前の話だよ。それは、それは楽しかったさ。常に一緒に行動し、いろんなことを共に経験した。彼のことに触れてくれて本当にありがとう。

M:ストーンズとの最初の出会いは。2002年のLA/ウィルターン・シアターでのストーンズとジョイントした「Everybody Needs Somebody To Love」は素晴らしかったです。DVD「Four Flicks」にも収録されています。

S:ストーンズと初めて会ったのは2001年だ。それからの付き合いだよ。彼らとの初の顔合わせから最高に気が合ったよ。彼らとは6日間ツアーで一緒だった。ロスからラスベガスまでのソールアウト・ライヴでね。観客も熱狂的で、とにかく楽しいライヴだったよ。また機会があれば是非一緒にやりたいね。

M:60年代後半のBellレコード時代も忘れられません。「Proud Mary」は当時日本でも大いに話題になったのです。

S:本当に? それは素晴らしいことだ。「Proud Mary」はアトランティック・レコードを去ってから初めて録ったレコードだ。アトランティック側からは何年も前からマッスル・ショールズでレコーディングするよう言われ続けていたのだが、それを拒み続けていた。アトランティックとの契約が切れる時期まで待っていたんだ。そしてアトランティックを離れ、タミコ・ジョーンズとふたりで「Proud Mary」のレコーディングの為に勇んでマッスル・ショールズに入った。素晴らしい出来栄えのアルバムだと思った。そもそも私は「Proud Mary」というこの曲が大好きで、アメリカで大ヒットしている真最中にカヴァーしたんだ。単純にカヴァーしたのではなく、黒人向けのラジオ局でかかるよう、「Proud Mary」の真の歴史が伝わるように歌ったんだ。なぜかと言えば当事、アメリカの黒人向けラジオ局はジョン・フォガティのこの曲を完全に無視していたからね。だから私は「Proud Mary」はその昔あった大きな船だという解説を付けたんだよ「Proud Mary」の歴史、そしてこの曲の持つ重要性について語った。ついでにこの曲をアイク・ターナーに耳打ちをし、彼はそれにのってティナにこの曲の歌い方を指導。その結果は皆さんの知っての通りだ。

M:そういえば、ベル時代にエルヴィス・プレスリーの「In The Ghetto」をシングル・リリース。

S:そんなことまで知っているのかい。すごいな。

M:エルヴィスについて一言、語ってください。

S:エルヴィスはこの音楽業界では神聖な名前だね。エルヴィスは我々にとって傑出したヒーローだ。彼は壮大なブラック・ゴスペル・サウンドを自分の言葉とエモーションを込めて広め、プレスリー時代という歴史的なムーヴメントを築き上げた。ミシシッピーの南部にある小さな町からのし上り、テネシー州のメンフィスに自分の帝国を作ってしまった。彼の歌は実にソウルフルだった。真のソウルだよ。エルヴィス・プレスリーの曲やCDを聴くと、なんのためらいもなく、心の底から歌っているのがわかる。勉強になるよ。アップテンポでもスローな曲でも、どんな曲でも100%出し切っている。彼の全てを感じることができる。他の人が「Hound Dog」を歌っても、瞼の裏に見えるのは彼の動く姿だ。彼の体の動き、足のゆれぐらい、前髪が落ちる瞬間などが見えてくる。多くの素晴らしいものを与えてくれたアメリカのアイドルだよ。

M:エルヴィスとも縁の深いギタリスト、レジー・ヤングが「MAKE DO WITH WHAT YOU GOT」でバックを務めています。

S:そう、いいだろう? やっぱり偉大な人が残してくれたものをちょこっと拝借しないとね。ドン・ウォズは天才だからね。このアルバムには世界最高のミュージシャンを使いたいというのが彼の願いだったんだ。そしてその通りに
ったよ。彼は一級のミュージシャンばかりを連れてきた。タイミングも素晴らしい。アルバムのプロデューサーとして彼を愛さずにはいられないね。彼は全てを把握している。こっちには余計なことを言わずにやるべきことをやる。このアルバムの成果が多くの人々の耳に入り、『これはいい曲だ』と言ってもらうのが私の心からの願いだ。ま、それでだめだったら次回のお楽しみってことで。でも私は皆を信じ続けているのだから、皆も私を信じ続けてほしいね
(笑)。

M:長きに亘って歌い続けていらっしゃいます、素晴らしいことです。その秘訣は。

S:神の許す限り、私は音楽を続けて行きたいと思っている。秘訣かどうかはわからないが、私はアルコールを飲まないし、ドラッグもタバコもやらない。子供は21人もいるのだから世の中繁栄のためには役立っているかな。家族や人生、そして愛を愛し、愛について語るのも大好きだ。神と宗教との深い関わり合いを持ち、男女は人生の悲しみを共に乗り越えるためには形式的な繋がりも必要だと思う。人生をどのように過ごしたいかという考えは誰でも持っているが、その秘訣は人生のベストなものを掴むことだ。それは神の思し召しでだり、愛と幸せと平和の恵みがあってこそだ。それが秘訣だよ。

M:21世紀に入ってますます元気いっぱい。01年3月、ニューヨーク/ウォルドーフ・アストリア・ホテルで行われた第16回<ロックンロール・ホール・オブ・フェイム>殿堂入りした際の受賞の喜びのコメントもとても印象的でした(21人の子供、48人の孫、7人の曾孫にありがとう)。「MAKE DO WITH WHAT YOUGOT」をフィーチャーしてのコンサートがアメリカ始まったようです。日本でのコンサートをぜひして下さい!

S:アメリカだけではなく、世界をまわるよ。現在はピッツバーグやクリーヴランドを経由してノース・キャロライナ州に向かう。そしてノース・キャロライナからサンフランシスコに入り、そこからオーストラリアに旅立ち、オーストラリアからスイスへ向かったころには丁度夏のフェスティバル・シーズンに突入しているだろう。願わくはそれまでに日本行きが決まれば嬉しいよ!!私はいつでも日本へ行く準備は出来ている!電話を待ってるよ!明日にでも日本語の会話集を買うよ。日本語で『Hello』ってなんて言うんだ? コンニチワ? コンニチワ?、コンニチワ?(歌いだす)。曲になりそうな響きだな。ライヴでは前作と今作からのナンバーに加え、60年代から70年代のスタンダード・ヒット曲ももちろん。すごいライヴだから是非とも観てもらいたいね。『North Sea Jazz Festival』というDVDも近々発売される。日本に行った時のセットリストはそれを観ればヒントになるよ。日本行きを実現させたくてワクワクしている。私の日本行きが実現するよう、君たちにもお願いするよ!愛しているよ。最高のライヴになること間違いない。

http://www.thekingsolomonburke.com/

写真:宇多村 一雄(LIVE)

JVCケンウッド・トワイライトイベント MPCJスペシャル Vol.16
西藤ヒロノブ スペシャルLIVE ≪ニョーヨーク&アイランド・ジャズ・ナイト≫
・・・細川 真平


 
毎回好評のJVCケンウッド・トワイライトイベント。第16回は、ニューヨークで活動するジャズ/フュージョン・ギタリスト、西藤ヒロノブの登場だ。彼はスペインのフレッシュ・サウンド・レコードより、日本人として初めてCDをリリースしてもいる。
 1曲目にガット・ギターで演奏したのは「Solo Guitar〜All the things you are」。アウトロでループされたフレーズに乗って、バックのメンバーが登場。西藤もエレキに持ち替えて、「Traveler」を。ゆったりした曲調だが、後半では徐々に熱くなるプレイが聴けた。
 ここでトーク・タイム。ミMPCJのメンバーの鈴木道子、岩浪洋三とともに、留学していたバークリー音楽院の話、ニューヨークの話などを。
 3曲目は「Remaining 2%」。ファンキーな60年代風ジャズ・ナンバーで、メンバーとの熱いジャムが楽しかった。
 ここで鈴木が再登場し、西藤が今はまっているというハワイの話から、ハワイ・カウアイ島在住の写真家でサーファーの佐藤傳次郎が紹介される。このイベントで、後方のモニターと会場横スクリーンに映し出されていた波の映像と海の写真は、佐藤の手によるものだ。
 次に、ギタレレ(ウクレレに似た小型のギター)、パーカッション奏者のKAZZが紹介され、登場。KAZZとともに西藤もギタレレを手にし「Tasogare」へと。海の匂いのする、リラックスした曲と演奏だった。
 短いトークを挟んで、最後の曲は「A Coastal Flower」。ガット・ギターを使っての、スローでロマンティックな演奏に、お客さんたちも心地好く酔ったようだ。
 アンコールでは、再びエレキを持って「Reflection in the Wave」。アップ・テンポなフュージョン・ナンバーだ。ワウ・ペダルも使ってファンキーに決め、後半は音数多く、アグレッシヴなプレイで超満員の会場を盛り上げた。
 このイベントが終わると、すぐにニューヨークへ帰るという西藤。次に来日するときには、またひと回り大きくなった姿を見せてくれることだろう。



写真:轟 美津子

=MPCJ会員からの声=(アイウエオ順)

今回の西藤ヒロノブ・スペシャルは、スタンダード・ジャズをアレンジしたギター・ソロから始まり、セミアコ、アコースティック、ギタレレと縦横無尽にギターを弾きまくる西藤ヒロノブと息の合ったサポート・ミュージシャン、それに加え写真家佐藤傳次郎氏の映像、素晴らしいカッコイイ・パフォーマンスを体験出来た。やっと涼しくなりかけた秋の夜長を、アイランド・ジャズが熱気あふれる熱帯夜に変えてしまった。(上田 和秀)

ジャズ、ニューヨーク、ハワイ、サーフィンを愛する西藤ヒロノブのギターは様々な波を感じさせてくれる。心地よい穏やかな波、気持ちよくサーフィンできる波、命をかけないとメイクできないようなビッグ・ウエーブ、次々と聴く者に襲いかかってくる。新しいサウンドが生まれそうな予感。これから、どんな世界を創り出していくのか楽しみだ。MPCJスペシャル最大のメンバー5人でのライヴ。過去最高の音量。サーフ・フォトグラファーの佐藤傳次郎氏の映像も美しかった。
う〜ん…良いライヴだったな。ライヴ後の一杯が実においしかった。(鈴木 修一)

西藤ヒロノブのバンド・メンバー達が勢揃いした上に、室内を縦横に使ったダブル映像付きという豪華な内容で、超満員の熱気に応えるかのような、気合の入った密度の濃い演奏を堪能できたイベントだった。全体のサウンドも心地よく、曲構成も良かった。(滝上 よう子)

この夜、西藤ヒロノブ・バンドが発したジャズなグルーヴにヤラれました!全国のクラブDJに情報、西藤ヒロノブ最新作『リフレクション』収録の「Reflection in the Wave」は要チェック!ラウンジではなく、メインフロアのナイス・アゲアゲ系です。(松本 みつぐ)


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