2010年9月 

我が国を代表するギタリスト・山岸潤史 インタビュー」・・・細川 真平
 日本を代表するロック/ブルース/ファンク・ギタリスト、山岸潤史。個人的な話だが、私は1983年の下北沢音楽祭で初めて山岸を生で観た。そのときはカミナリというバンドで、ベーシストはナルチョ(鳴瀬喜博)、ドラマーは松本照男だっただろうか? 山岸のジミ・ヘンドリックスのようなプレイと、バンド全体のまさに“カミナリ”のような爆音ぶりに腰を抜かしそうになりながら、感動したことを覚えている。
 
それ以来何度も彼のライヴを観てきたが、どんなタイプの音楽をプレイしても、常に彼のギターは歌っているし、しゃべっている(多分関西弁で)。かっこつけることなく、ギターを弾くこと、音楽を演奏することの楽しさを、顔と体じゅうで表現している。だから、彼のプレイはいつも私の心と体に届いてくる。

 彼は1995年にニューオーリンズに渡った。そして、ワイルド・マグノリアスとパパ・グロウズ・ファンクというふたつのファンク・バンドの正式メンバーになり、今ではその地でナンバーワン・ギタリストと目されるまでになった。日本人としては、“快挙”とつい言いたくなってしまうのだが、山岸のプレイに幾度となく感動してきた身としては、なんだか当然のことのようにも思えてしまうのである。

 今回はワイルド・マグノリアスのメンバーとして来日した彼に、話を聞いた。

まず、ニューオーリンズへ渡った理由を聞かせてください。日本のシーンに飽き飽きしていたとか、何かそういうことはあるんでしょうか?
山岸「いや、そんなんではなくて。ワイルド・マグノリアスと言うか、マルディグラ・インディアンの音楽にノックアウトされて、それで1991年に初めてワイルド・マグノリアスを観にニューオーリンズのジャズ・フェスに行って、それから毎年行くようになったね。ニューオーリンズのミュージシャンのレベルの高さにビックリしたわけよ! ニューオーリンズの音楽って、世界中のミュージシャンの憧れやし、俺もそのひとりやしね。で、世界中からミュージシャンが集まってきて発展していくわけ。俺もその一環になりたいな、と思ってね。ニューオーリンズという花壇があるとしたら、そこに雑草でも何でもいいから生えていたいな、と」

シーンに溶け込むのには時間がかかりましたか?
山岸「いや、別に・・・。向こうにマイケル・ワードという友達(ギタリスト)がいて、彼と毎日遊んでたんよ。朝まで飲みに行ったり。そのうちにお呼びがかかるようになって、広がっていって。マイケルがドアを開いてくれた感じやね」

ワイルド・マグノリアスへの加入のきっかけは?
山岸「たまたまギターがいないんで来れるかって電話があって。それってシット・イン(飛び入り)なんか、仕事なんかって訊いたら、ちゃんとギャラ払うからって。それで、行って。俺、彼らの曲は全部知ってたからね(笑)。で、マネージャーから、今日からずっとやってくれって言われて、それからずっとやってる」

自然に入った感じなんですね。
山岸「日本にいるときから、ニューオーリンズのインディアンの音楽を自分たち風にやってたんやけど。コピーするんじゃなくて、自分たちのアイデンティティの中でやるような感じで。リハも何もなし、そのままジャムをやるっていうやり方でね。それが、つながったわけ。ニューオーリンズへ行ったら、音楽のやり方が全部それやった! とにかくステージに上がって、そこから始まるっていう。ワイルド・マグノリアスもそう。決めとかなんにもないしね」

それがニューオーリンズ風なんですね。
山岸「みんな、めんどくさがりやからね(笑)。中にはリハとかきっちりやるやつもおるけど、おれは嫌いやから。リハーサルやるいうたら、それで仕事断ることもある(笑)」

ニューオーリンズへ行って、自分のギターがいちばん成長したと思うのはどんなところですか?
山岸「ない、ない、ない。成長してないよ! ウエスト・ロード・ブルース・バンドのファースト・アルバム聴いたら、一緒やろ(笑)。全然うまなってないから!」

もちろん上手くなっていないはずがない。だが、謙遜ではなく、彼は本当に上手くなっているとは思っていないのだろう。ギターを始めたばかりの少年のように、ただ夢中で弾いているだけなのだ。だからこそ、そのプレイは私たちを魅了し続ける。そして、ニューオーリンズは彼を愛し続ける。
写真:Gousuke Kitayama


「松田晃演 ギター・コンサート 」・・・大橋 伸太郎
 かつて、クラシック・ギター演奏歴の長い知人に松田晃演氏のコンサートを聴いた印象を話した所、「え、松田晃演!?、オレが死ぬまでに一度聴きたい人だ」という答が返ってきた、そういう演奏家が世界に何人いるだろうか。クラシック・ギターに限らず技術的に優れた演奏家はいくらでもいるが、人をしてこういわしめる境地に到達した演奏家は極めて稀である。楽器の垣根を越えて、松田晃演はその数少ない一人である。松田晃演が到達した境地とは誰も模倣ができない唯一無二の音色である。軽やかでいて神秘的。古雅でいて生まれたばかりのように清々しい。松田が愛器トーレスを弾いていると音楽の核心に住む妖精が姿を現し、時空と戯れている印象がある。

 姫路市在住の松田晃演は毎年関東圏の弟子のレッスンを兼ねて上京し東京オペラシティ・リサイタルホール等でコンサートを催しているが、今年の春は趣向を変えて、6月12日に三鷹市の個人運営のホール「沙羅舎」でファンとの交歓会を兼ねたミニ・コンサートを開催した。冒頭に紹介した、松田晃演を一度聴いておきたいという音楽ファンの「声なき声」に配慮したものと思われる。当日の演奏曲目は別記の通りである。

 総演奏時間1時間程度の短いコンサートであったがJ.S,バッハの無伴奏チェロ組曲からの抜粋、ヴィラ-ロボスの前奏曲第一番など定番曲に加え、今回ハイライトに「南のソナチネ」を演奏した。M.M.ポンセはギター名曲の宝庫だが、その代表作の一つで「広場」「小さな詩」「祭り」の三楽章から成る、クラシック・ギターを志した者なら一度は挑戦したいギター音楽の精髄に触れる曲。この曲にもアンドレス・セゴビアの規範的名演奏があるが、セゴビアの直弟子である松田は、師同様に南イタリアの昼下りの神秘的な時間と鄙びた香気に満ちた夢幻的体験を聴衆の前に現前させた。

 しかし、そればかりでない。この曲を演奏する上でのポイントであり難しさである無調に近い旋律と和声(えてしてつながらずバラバラな音楽になる)を軽やかな指捌きで無限に連続させ重層し、ポンセのギター標題音楽の中に潜む現代的な厳しい叙情空間を現出させた。1892年製造の楽器トーレスがその触媒。原曲の精神と密着した演奏者、楽器によって一曲の中に潜む≪過去・現在・未来≫の全てが立ち現れるのだ。音楽というものについて深く考えさせられる感動的体験を与えたこの日の一曲であった。

*演奏曲目
J.S.BACH  前奏曲とクーラント?無伴奏チェロ組曲第三番
F.ソル  メヌエット作品11-6とモーツァルトの主題と変奏
F.タレルガ  前奏曲第5番とパバーナ
H.ヴィラ-ロボス  前奏曲第一番
M.M.ポンセ  南のソナチネ
スペイン民謡  レオノーサ
E.グラナドス  スペイン舞曲第10番
(2010年6月12日@東京都三鷹市沙羅舎舞遊空間)

音楽座「七つの人形の恋物語」再演!・・・本田浩子
 8月4日、音楽座のオリジナル・ミュージカル『七つの人形の恋物語』の再演を観にテアトル銀座に向かう。このミュージカルは、ポール・ギャリコ(1897-1976)の同名作品を下に、この原作の持つファンタジーのような雰囲気を、人形たちの言葉を借りて、人間の持つ様々な欲望、優しさ、ずるさ、愚かさを観る者に余すとこなく伝えてくれる。

 幕が開くと、手押し車を押して人形遣い(今拓哉)が登場、美しい歌声で観客を舞台に誘う。戦争で故郷の村を焼かれて大きな街へ出てきた娘ムーシュ(関根麻帆)は、挫折の連続で川に飛び込もうとするところを、ニンジン(高野菜菜)という人形が語りかけてきて止める。続いて次々と人形達がムーシュの前に現れる。人形達は実は戦争で、心がズタズタになったキャプテン・コックが操っているのだが、いつか人形達はキャプテン・コックの思いを越えて好き勝手に動き出す。純粋無垢のムーシュに出会い人形達もいつか本音で語り出し、ムーシュの心も癒されていくが、キャプテン・コックはそんなムーシュに惹かれながらも、ひとつも優しくできず、酷い仕打ちでしか、ムーシュへの思いを伝えられないでいる。

 ともすれば暗くなりがちな物語を、美しい音楽と、いずれ劣らぬ歌唱力の確かさで、観客を不思議な世界へ誘う。安彦佳津美、広田勇二、新木啓介、浜崎真美、五十嵐進、藤田将範、高野菜菜の人形と見まごうばかりの歌と踊りが楽しく、客演の光枝明彦氏の存在も見逃せない。音楽は高田浩、井上ヨシマサ、石川亮太、見事な人形製作は人形劇団プーク、上手に動かしているのは、全員特訓を受けた劇団員。

 このポール・ギャリコの作品との最初の出会いは、遠い昔1962年のブロードウェイ、10代最後の年にNYに移り住んだ私は、駐在員だった父が手配してくれたミュージカル『カーニバル(Carnival)』を観る機会に恵まれた。生まれて初めて観るブロードウェイ・ミュージカル、オーケストラの音合わせに胸をドキドキさせ、序曲が始まり幕が開くと、そこはもう夢の世界だった。この『カーニバル』が実は『七つの人形の恋物語』を下にミュージカル化されたものと知ったのは後年で、同じ作品はそれ以前1953年に『リリー (Lili)』というタイトルでレスリー・キャロン主演で映画化されている。

 当時そんな知識は何もないまま、田舎娘リリー(今回の舞台ではムーシュ)と共に人形との会話の世界に引き込まれていった。人形遣いポール(ジェリー・オーバック)は片足が不自由で心を閉ざした暗い男だが、次第にリリーに惹かれていくが、今回の今・コック同様、その気持を表すのは人形を通してだけで、リリーと面と向かうと意地悪ばかり。そんな彼が、リリーへの募る思いを歌うシーンは何十年経った今もしっかり心に残っている。当時はマイクロフォンはステージ前方にいくつかあるだけ、アンプで音量をあげるのではなく、歌声の出来不出来は演者の力量だけにかっている。

 劇場に響き渡るその歌声は甘く切なく、聞く者の胸に強く響いてきた。私がミュージカルにはまった瞬間で、その後の5年間のニューヨーク生活でのミュージカル観て歩きに繋がっていった。その俳優こそ、『ファンタスティックス』のエル・ガイヨであり、(日本では宝田明が初演)、『シカゴ』のビリー・フリン、『42番街』のジュリアン・マーシュといずれも初演時の主役として知られるブロードウェイの大物俳優で、『カーニバル』は若いジェリー・オーバック(Jerry Orbach)の記念すべきブロードウェイ・デビュー作品で、写真のプログラムの中には、Jerry Orbach is making his first appearance on Broadway in “Carnival” と、書かれている。遠い昔の古き良き時代を懐かしみながら、夏の夜の楽しいひとときを過ごし、劇場を後にした。
*写真提供: 音楽座ミュージカル

想い出のアーティストたち (1)
ビリー・ヴォーン《2》 ・・・ 本田 悦久 (川上 博)
 日本で何度か会っていたビリー・ヴォーンを、アメリカの地で初めて訪ねたのは1968年夏のこと。当時、ハリウッドのサンセット大通りとヴァイン・ストリートの一角には大きなレコード店があった。その隣にドット・レコードの会社があり、ビリーのオフィスはその2階で、秘書一人を使って仕事をしていた。ピアノが置かれ、ビリーの等身大のディスプレイがあり、床屋さんだった親父さんの古ぼけた写真などが貼ってあった。おまけに、「使用禁止」と書かれた奇妙なものがドアーの裏側に取り付けられている。何とそれは小型のトイレ。いたずら好きの友人が付けていったとかで、灰皿代わりに使われていた。

 彼の自宅はハリウッドから車で20分位の郊外の静かな町エンシーノにあった。子供は3人だが、長女はプロのサッカー選手に嫁入りし、長男は海軍に入っているので、夫人とカレッジ・ボーイの次男の3人暮らし。メイドさんはいない。プールを挟んで右側に住宅、左側に田舎小屋風のスタジオがあり、「真珠貝の歌」など、小編成の曲がここで録音された。隣家にはハーブ・アルバートとティファナ・ブラスのハーブ・アルバートが住んでいた。ビリーは毎朝9時半頃、自分で運転して事務所に向かう。

 ビリー・ヴォーンの家には、前後4回ほど訪ねているが、4回とも異なる土地の異なる家だった。彼は引っ越し好きだったのかもしれない。1972年に音楽評論家の青木啓さんと出かけた時は、ハリウッド・スターたちの別荘の多いパームスプリングスで、1974年の時はデンマーク・タウンで知られるカリフォルニア州ソルヴァングだった。1978年にはカリフォルニアから生まれ故郷ケンタッキー州のボーリング・グリーンになっていた。この時は、ビクターの社員2人と共に、ビリーの家に泊めてもらった。その時のベッドがもの凄く足長で、天井に近い感じだった。その訳は、ヘビが入り込んでくることがあるからだそうだが、ヘビだったら足長ベッドでも防げないのではないかと思えた。その夜、幸いヘビ君の来訪はなかったが、冗談好きのビリーにしてやられたかと、今にして思う。

 ビリーが、鎌倉の我が家に来訪されたことが2回あり、最初が1980年、藤沢でのコンサートが終わった後、楽団員のヴァージル・エヴァンスが同行していた。2回目は1986年。この時は、フルートのパトリック・ガロワとわが家で初対面。パトリックが先輩ビリーに最大の敬意を払っていたのが印象深かった。

 1991年9月、ビリー・ヴォーンは不治の病から帰らぬ人となった。
以来、ビリー自身の指揮によるレコーディングやコンサートがあるはずはないが、1992年5月にドラマーのディック・シャナハンをリーダーとするビリー・ヴォーン楽団が来日、東京始め日本の20数都市で1か月間、ビリー・ヴォーン追悼公演が開催された。

「浪路はるかに」「真珠貝の歌」「白い夜霧のブルース」等ビリー・ヴォーン楽団の往年のヒット曲は、ビクターエンターテインメントでCD化されている。

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