<Now and Then>
日本ミュージカルの韓国輸出第1号は
ふるさときゃらばん「サラリーマンの金メダル」1・・・・ 本田 悦久 (川上 博)
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☆1983年創立 第1作「親父と嫁さん」(1983) から兄んちゃん」(1985)、「ザ・結婚」 (1986)、「ムラは3-3-7拍子」 (1988) と、所謂カントリー・ミュージカル路線を走ったユニークな劇団ふるさときゃらばんが、1990年、もう一つの路線としてサラリーマンものをスタートさせた。「ユーAh!マイSUN社員」(1990) に始まり、次が「サラリーマンの金メダル」(1992)、この第2作「サラリーマンの金メダル」が、ちょうど劇団創立10周年を迎えた1993年、韓国でも上演されるという画期的なことが起こった。
作・演出: 石塚克彦 (共作: 纐纈俊郎)、音楽: 寺本建雄、振付: 天城美枝の創立以来不動のスタッフ・トリオによる「サラリーマンの金メダル」、国内では1992年度文化庁芸術祭参加作品となり、東京・大阪等全国主要42都市で108回公演し、観客動員数9万人を記録したヒット作だ。
この作品の韓国版をソウルの劇団ロイヤル・シアターが制作・上演した。この劇団は1986年に創設され、以来7年足らずの間に72作品上演して、「サラリーマンの金メダル」が73作目だという。年間10作強の上演とは凄い。過去の上演作は韓国ものから欧米の名作まで多彩だが、ミュージカルはこれが最初だという。これはまた珍しい。劇団員は20数人で、作品毎にフリーランスの役者たちを集めて制作している。
この劇団が「サラリーマンの金メダル」を上演するに至ったきっかけは、まったく偶然なことに、1992年暮の「朝鮮日報」に載った韓国の企業社会と日本のエリート・サラリーマンについての記事だった。その中で取り上げられていた日本の「サラリーマンの金メダル」に、この劇団のプロデューサーで、演出家でもあり、時には役者もやる李鐘列 (イ・ジョンヨル) 氏が興味を持った。このミュージカルの話は「京郷新聞」にも掲載されたが、李氏が惹かれたのは、この作品がソウルと同じような大都市である東京の大企業組織に組み込まれているサラリーマンたちの人間関係、夢と現実、激しい出世競争や生き方、家庭人としての哀感などを題材にしていることだった。
李氏は早速、韓国在住の日本人ジャーナリスト岡田理氏を通じて台本を入手、演出家の朴常哲氏や劇団スタッフの人たちと検討の結果、岡田氏がふるさときゃらばんとの上演権交渉のため東京に飛んで、上演が正式に決った。日本からの韓国輸出ミュージカル第1号の誕生である。
当時の韓国は、日本語の歌やレコード、映画等の公開は殆ど禁止に近い状態だったが、舞台を日本から韓国に移し、韓国語で上演することで、問題はクリアされた。(次号に続く)
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スティーヴ・クロッパー・インタビュー・・・細川 真平
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先月、当サイトにライヴ・レヴューが掲載されたとおり、ブルース・ブラザーズ・バンドが日本公演を行った。その中心人物こそ、ギタリストのスティーヴ・クロッパー。
スタックス・レーベルのハウス・バンド、ブッカー・T & ザ・MG'sの創設メンバーとして、オーティス・レディングを初めとする数多くのアーティストのプロデューサーとして、そしてサザン・ソウルの立役者として、彼のポピュラー・ミュージックに対する貢献度はあまりにも高い。
今回、そのクロッパーにインタビューした。けっして偉ぶらず、笑顔を絶やさずに、彼は様々なことについて、深く詳しく語ってくれた。
――どういうきっかけで、スタックスのスタジオで働くようになったのでしょうか。
スティーヴ・クロッパー(以下S):ははは(笑)。うまく入り込んだってところかな。僕が入ったのは、彼らが最初のレコード会社を始めた頃で、当時はサテライトっていう名前だったんだ。(スタックスの経営者である)ジム・スチュワートの姉のエステル・アクストンは、前々からレコード店をやりたがっていてね。彼女はレコードを売りたかったんだ。僕は彼女に仕事が欲しいって頼んだんだ。僕はボウリング場でボールやピンを並べたり、波止場でトラックに荷を積んだりといったバイトをしていた。彼女は僕のことを気に入っていてね。彼女の息子と僕は学校でとても仲が良くって、彼を僕のバンドに入れていたぐらいだ。恐らく、不本意ながらだったけどね(笑)。というのも、彼はサックスを吹いていたんだけど、その頃はまだうまくなかったから。で、彼女が僕の頼みを聞いてくれたんだと思うけど、レコード店で働くことになったんだ。僕はいい働き手だったよ。誠実だし、いろんな雑用や手伝いもした。その合間、休憩時間になると僕はスタジオで、片付けやら掃除やらの雑用をこなすようになっていったんだ。そのうち僕は、スタジオで長時間過ごすようになった。テープの記録の手伝いとか、僕にできる仕事をしていたけれど、まだセッションでプレイする許可はもらえなかった。でも、僕は他の人たちのために街のあちこちであったセッションに参加していたので、その噂が広まっていた。ある日の午後、当時スタックスのエンジニア/プロデューサーだったチップス・モーマンがあるセッションのエンジニアをしたんだ。当時、レーベルのオーナーでやはり大部分のセッションでエンジニアを務めていたジム・スチュワートは、まだ5時までは銀行員をしていてね。そのためセッションの多くは夜とか週末におこなわれていたんだ。だけど、チップス・モーマンは、「明日の午後、セッションをして、デモを作らないといけない。君にすごくギターを弾いてもらいたいんだけど」って言ってくれたんだ。僕はもう「ワオ。準備万端だよ」っていう感じだった。それがプリンス・コンリーの「アイム・ゴーイング・ホーム」って曲だった。この曲はとてもいい結果になったよ。それで、ある時点でエステルがジムに、「彼はレコード・ショップよりもスタジオにいる時間のほうが長いんだから、(私じゃなくて)あなたが給料を払いなさいよ」って言ってくれたんじゃないかな(笑)。突然、僕にスタックスから小切手が切られるようになった。レコード店からの代わりにね。
――栄光のブッカー・T & ザ・MG'sを結成したきっかけは?
S:まあ、実際に僕が結成したというわけではないんだけどね。僕はハイスクール・バンドをやっていて、メンフィス周辺ではよく知られていたんだ。僕たちは「ラスト・ナイト」という曲を作ったんだけど、これはツイスト初のインストゥルメンタル・ナンバーで、全国的なヒットになった。ナショナル・チャートで第3位になって、ディック・クラークの『アメリカン・バンドスタンド』っていう有名なテレビ番組にも出たんだよ。そのヒット曲と共にツアーに出たけど、僕はツアー向きじゃなかったんだ。スーツケースの物で暮らし、各地を回り、移動には長時間かかるのにステージに立つのは2時間程度っていうのが、当時の僕には納得いかなかったのかな。それでバンドを辞めて戻ってきた。エステルに昔の仕事に戻らせてほしいと頼み、スタジオでまた働きだしたんだ。そんな僕のところにジムが、セッション・バンドのメンバーが必要だって言ってきた。僕は街一番のドラマーだったアル・ジャクソンを知っていた。彼はウィリー・ミッチェルと一緒に、マンハッタン・クラブというところでプレイしていた。僕たちはそこへよく行き、彼らのプレイを朝の4時頃まで聴いていたものさ。僕は前からずっとアルに、僕たちと一緒にスタジオで常勤ドラマーとしてプレイしてほしいって言っていたんだ。さらにバリトン・サックスのプレイヤー、フロイド・ニューマンに誰かキーボード・プレイヤーを知らないかと訊いてみたら、「若手のブッカー・T・ジョーンズっていうのがいて、彼はいろんな楽器をプレイするんだけど、とにかくいいピアノ・プレイヤーだ」って言うんだよ。それで僕はブッカーの家に行った。彼の母親が僕を中に入れてくれて、ブッカーのところに連れていってくれた。彼はソファに座ってギターを弾いていたな。僕は彼に、「近々セッションをするんだけど、一緒にやらないか」って言った。ブッカーは実はバリトン・サックスを吹いていたんだ。フロイド・ニューマンが彼をバリトン・サックス・プレイヤーとして紹介しなかったのは、ブッカーがフル・タイムでバリトン・サックスをプレイしたら自分の仕事が無くなるかもしれないと思ったからじゃないかな(笑)。とにかく、ブッカーがキーボード・プレイヤーとして参加してくれることになった。ベースのルイス・スタインバーグはすでに決まっていたんだ。高校時代から僕の仲間だったドナルド・ダック・ダン(のちにスタインバーグに代わってMG'sに加入する)は、まだザ・マーキーズとツアーをしていた。こうしてブッカー・T & ザ・MG'sが結成されたのさ。
――あなたはプロデューサーとしても、素晴らしい功績を残してきました。
S:レコード・レーベルを見れば分かると思うけど、60年代にスタックスからリリースされたレコードのほとんどは“スタッフによるプロデュース”となっているんだよ。個々のプロデューサーの名前は載っていない。その後、スタックスの発展に伴い、僕たちはたくさんの仕事を抱えるようになってきた。そして、個人個人でプロデュースをするようになったんだ。で、ある時点で、自分の名前をそれぞれ出したいという人たちが出てきたんだ。良いのか悪いのか、僕には分からなかったけど。僕は、個人としてよりもチームのほうがいいと思ったけどね。とにかくそういようになって、幸運にもレコード何枚かに僕の名前が入った。スタジオの知識、エンジニアリングの知識、選曲の知識、曲作りの知識、演奏に対する指示出しやアーティストからいかに最高のパフォーマンスを引き出すかについての知識というのは、芸術形式のひとつでもあると思うんだ。一晩で獲得できるようなものじゃない。他の何事とも同様に、育てていくスキル(技能)なんだ。
――オーティス・レディングの思い出についてお聞きしたいのですが。
S:オーティス・レディングが話し始めた最初の瞬間に、僕はこれまで聞いた中で最高の声だと思ったよ。高校生だった10代の頃から僕はこの業界ですでに長くやっていて、素晴らしいシンガーたちと共に過ごし、有名な人たちと仕事をしてきたわけだ。大きなライヴのために街にやって来るアーティストのバック・バンドも務めてもいたから、本当に実力のあるシンガーと一緒に演奏していたわけだ。その僕が、オーティス・レディングを聴いたときは、その歌で口があんぐりと開いたよ。信じられなかったな。毛が逆立つほどゾクゾクしたって、いつも話しているんだ。「ちょっと待て、ちょっと待て」と言って、上のコントロール・ルームにいたジム・スチュワートを呼びに行き、「ジム、こいつの歌を聴いてくれよ。信じられない声だぞ」って言ったよ。それで彼は下りてきたんだけれど、ジムもすごく驚き、「他のバンドのメンバーを集めろ」って言い出した。彼は大急ぎでバンドを集め、僕たちはすぐにレコーディングした。その曲がオーティスの最初のシングル、「ディーズ・アームズ・オブ・マイン」だった。たしか2テイク録って、それだけで終わりだった(笑)。その日から、オーティス・レディングは歴史に残る人物となった。彼は、亡くなるずっと前から、歴史に残る人物だったよ。彼は信じられないほど素晴らしかった。彼の死は早過ぎたけれどね。知られているように、彼は遺産を残し、キャリアの最盛期前に逝ってしまった。オーティスよりもレコードが売れているアーティストは多いけれど、僕は古今を通じてオーティス・レディングほど上手いアーティストはいないと思うよ。彼はそういう人物だ。その人に関われてとても幸運だよ。僕たちはとてもいい友達でね。僕たちは曲作りをしているときは友達だったし、スタジオでも友達だったけれど、それほど一緒にいたというわけではない。一緒にいたときは、いつも仕事だった。でも、とても和やかな雰囲気で、楽しかったよ。僕たちがツアーに出ていたときのことも覚えているよ。1967年のスタックス/ヴォルト・ツアーとして知られているツアーだったけれど、4月と5月にロンドンからパリ、ストックホルムなどを回り、ツアーの全貌を明らかにするため、たしかノルウェーのオスロでのライヴは映像に収めたんじゃないかな。ツアー・バスの中で、彼はずっとギターを握ったままだったよ。次から次へとアイディアが浮かぶみたいでね。常に音楽が湧き溢れていたんだ。いつも10から15ものアイディアを持っていた。いつでもいろんな未完成の曲があったよ。オーティスのプロデューサー兼共作者としての僕の役目は、そういった曲を作り上げる手伝い、コード変更をしたり、書きかけの歌詞を仕上げたりということだった。それがオーティス・レディングに対する僕の役目だったね。
――忌野清志郎がこの前亡くなりました。もし彼に伝えられるなら、何を伝えたいですか?
S:清志郎のことは、僕たちのいい友人で、ブルース・ブラザーズ・バンドを初めて日本に紹介してくれた人を通じて知り合った。清志郎は、メンフィスでメンフィスのミュージシャンと録音をしたがっていた。僕たちは、ドナルド・ダック・ダンにブッカー・T、ドラムスにはアントン・フィグ、そしてメンフィス・ホーンズにも加わってもらった。僕たちは楽しい時を過ごしたけれど、プロデュースをするという点では、僕は清志郎を他のアーティスト同様に扱ったよ。違いは、彼が日本語で歌っていた点だ。とにかく彼は素晴らしい人物だったよ。とても大きく、強いハートの持ち主でね。彼を僕の自宅に呼び、一緒に楽しく過ごした。最後に印象的だったことを話すなら、日本で観られたのかどうか分からないけれど、セッションの最後に撮影隊が入って、清志郎のアメリカでのライヴを撮っても構わないかと訊かれたんだ。で、バンドのメンバーにも、清志郎と5曲程度の短いライヴをして、それを録画したいっていう話があるんだけどいいかと訊いてみると、全員が賛成してくれた。それである晩、4人のホーン・セクション、2人のギタリスト、ベース、ドラムス、キーボードにバックコーラスというフル・バンド編成でナッシュビルのB.B.キングのクラブに行ったんだ。そのバンドが清志郎と一緒に出ると、みんなぶっ飛んだ。なにしろ、みんな初めてああいうのを見たわけだからね。テレビに出てくる日本人アーティスト以外、観客の前でライヴをしたアーティストを他に見たことがなかったし、彼は本当に素晴らしくって、最後はスタンディング・オヴェーションを受けたよ。観客は彼が誰だか知らなかったのに、全員が総立ちになった。それで僕は「ワォ、全米ツアーをしてもいいかな」って思ったよ(笑)。残念ながら、彼はもういないし、僕たちは彼がいないのを心から寂しく思っている。
*通訳:豊田 早苗
写真: Gousuke Kitayama(ステージ・ショット)
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「岡本信(ザ・ジャガーズ)音楽葬」・・・町井 ハジメ
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今年4月19日に惜しくも59歳で亡くなったグループ・サウンズの人気バンド、ザ・ジャガーズのリード・ヴォーカリスト、岡本信さんの音楽葬が8月13日、横浜新山下/TYCOONで行なわれた。猛暑の中、集まった500人以上のファンで会場は超満員。入り口には在りし日の岡本さんの姿を収めたパネルが展示され、多くの人が足を止めていた。舞台上には信さんの遺影と近年使用したステージ衣装が掲げられていた。
この日のために、グループ・サウンズ時代の“戦友”を中心に数多くのアーティストが集まり演奏を披露。剣正人(パープル・シャドウズ)、ザ・フェニックス(佐々木秀実、宮崎重夫)、シャープ・ホークス(野沢裕二、鈴木サミー、力也、ジミー・レノン)、ザ・カーナビーツ(越川ひろし、岡忠夫、ポール岡田)、ピート七福(シルヴィー・フォックス)、バニーズ(黒沢博、鈴木義之)、ゴールデン・カップス(エディ藩、ルイズ・ルイス加部)、加橋かつみ、エド山口、エミー・ジャクソン、西口久美子(青い三角定規)、ジョー山中、沖津久幸& Dicky's、ザ・ジャガーズ(宮ユキオ、沖津久幸、宮崎こういち、森田巳木夫、浜野たけし)が出演、司会は植田芳暁(ザ・ワイルド・ワンズ)、バック演奏はRay Out。
出演者の中で特筆すべきは、かねてより闘病中の力也氏が登場し、シャープ・ホークスが久々にフルメンバーでヒット曲「遠い渚」などを歌ったことだ。力也氏の当時と変わらぬそのパワフルな歌唱に、会場からは大きな拍手が巻き起こった。
今回の発起人でジャガーズでの同僚、沖津久幸氏が歌ったジャガーズのヒット曲「マドモアゼル・ブルース」では、私も亡き信さんを思い出し涙腺が緩んでしまった。17時にスタートし、終演が21時過ぎという長丁場にもかかわらず、ほとんどの観客が最後まで残り、壇上のアーティストとともに歌い、手を叩き、信さんを偲んだ。そしてラストは出演者全員による歌と演奏で、ジャガーズの1967年の大ヒット曲「君に会いたい」で幕を閉じた。場内割れんばかりの大合唱は、きっと信さんのもとにも届いたに違いない。
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