2009年7月 

世界一小さいレコード 大きいレコード 本田 悦久 (川上 博)
≪小さなレコード≫
 1984年1月9日のTBSテレビ「テレポート」で、筆者の蓄音機コレクションが紹介されたことがあった。終わったところでチャンネルをフジテレビに切り替えると、「GO! GO! ギネス世界一」という番組で「世界最小のレコード」を放送していた。
 「レコーデッド・サウンド・ギネス・ブック」に載っているレコードで、持主は英国ブライトン在住のジェラルド・スパイサーさん。番組では海外レポーターのジム・カスバードさんが、スパイサー氏にインタビューしていた。
直径3センチ5ミリという超小型盤だが、お馴染みの犬のマークがはっきり見える。材質は25センチSP、30センチSPと変わらないシェラック盤で、重量は2グラム。回転数も同じ78回転。1924年に英国のHMV (His Master's Voice、カスパード氏はHer Master's Voiceと言っていた。女王の時代に合わせて洒落たのかもしれない) が250枚作った。センター・ホールも小さいので、通常のSPの蓄音機にはかからない。当時、演奏機は専用のHMVミニチュアの他に、人形の体内に仕掛けた特殊な装置が用意された。
 片面盤で、曲は英国国歌 ”God Save the King” が数十秒入っている。HMVの特約店で、1枚6ペンスで売られた。ミニチュア・グッズを集めた「女王の人形の家」という店の人気スーベニアでもあった。250枚の限定生産だったため、たちまち売切れたが、あまりに小さいので無くなり易く、今では3枚位しか残っていないとのこと。王家に1枚、スパイサー氏、そしてもう1枚位誰かが持っているかもしれないと、これはあまり当てにならない話。
 放送の翌々週、ロンドン出張の折りに、フジテレビのコーディネーターの方の案内で、ブライトンにスパイサー氏を訪ねた。仕事をリタイアーされたスパイサー氏は、このレコードに関する記事等をアタッシュ・ケース一杯に詰め込んで現れ、愉しげに説明してくれた。フジテレビの番組の時は、蓄音機をそれ用に改良してデモ演奏することになったが、テスト撮りした直後に機械が壊れてしまい、テスト撮りの映像を使って何とか取り繕った裏話等を披露してくれた。

 そこそこ、小さいレコードとしては78回転シェラック盤で英国のImperial盤とイタリアの Mondial 盤が手元にある。共に直径9センチで、通常の25センチ盤の1/3の安価で売られた。
 CD以前のLP時代に、33 1/3 回転LP (25センチ盤と30センチ盤) と並行して17センチ、45回転ドーナツ盤 (ポピュラー曲両面で2曲入りのシングル盤) とうのがあった。その頃の日本での、あまり知られていない話をひとつ。
1964年にビクターが、当時350円で売られていた45回転17センチ盤を10センチに縮小したミニ・レコード (収録時間はドーナツ盤シングルと同じ) を作り、四国だけで1枚200円でテスト販売した。ところが売れ行きは芳しくなく、全国発売には至らないで、幻のミニ・レコードで終わってしまった。

≪大きなレコード≫
 世界最大のレコードはフランス・ディスク・パテの「パテ・テアトル」。直径は50センチ、縦振動 (針を上下に振動させて音を出す方式。通常のSPは、横振動。) で、内側に針を降ろす。溝は内側から外側に向かって刻まれている。演奏時間は片面6〜7分。ポピュラー曲だと片面2曲入る。片面盤もあれば、両面盤もある。レーベルは印刷した紙を貼ったものもあれば、盤に直接刻んだものもある。
 縦振動のレコードは厚くなるが、大きい割にはエジソンの25センチ縦振動盤と同じ5ミリ。重量1,097グラム (1.97kg)。2グラムの最小レコードの538.5倍の重さだ。因みに通常のSP25センチ盤は220グラム、30センチ盤は310グラム、エジソンの25センチ縦振動盤は420グラムだ。
 「パテ・テアトル」は1918年の製品と判明したが、不思議なことにこれに関する資料は全く見たことがない。蓄音機研究の権威、故池田圭氏がかつて「どの本にも載っていない」と云われたのを思い出す。その名から察するに、多分、劇場で演劇や映画の伴奏用に使われたものであろう。どれだけの種類、枚数が作られたか知りようもないが、この大きさは壊れやすいレコードを一人の人間が扱える限度いっぱいのサイズかもしれない。

 ところで我が家に直径41センチの33 1/3回転、大型LPが5枚ある。いずれもアメリカ製で、1枚はRCAビクター・レーベルの “THE VOICE OF NEW JERSEY”。これはニュージャージー州の依頼で作られたものであろう。あとの4枚は放送用のトランスクリプションで、”THE BROADWAY PARADE”。「ジェローム・カーン・メドレー」他、いろいろなブロードウェイのショー・ミュージックが収録されている。家庭用LPプレイヤーのターンテーブルには乗らないので、まだ聴いたことはない。

魂のヴァイオリニスト ジョセフ・リンの公開録音リポート
6月2日 所沢市民文化センターMUSE アークホール     横堀 朱美
 ホール(客席数2002)において、台湾系アメリカ人の俊英ヴァイオリニスト、ジョセフ・リンの公開録音が行われた。fine NFレーベルによる『魂のシャコンヌ〜和声を介した連続の旅』(NF63001)と『バッハとイザイ〜円を描く音楽の旅』(NF53002)につづく、バッハとイザイの無伴奏作品を組み合わせたシリーズ第3弾完結編の録音セッションの一部が一般にも特別に公開されたもの。
 当夜の第1部は、fine NFレーベルの西脇義訓氏より録音セッションについて説明がなされたのち、イザイの無伴奏ソナタ第5番が演奏録音された(写真1)。その後、直ちにホールロビーに特別に設置されたモニター・システムでプレイ・バックが行われ(写真2)、その結果を受けて録り直しが行われたのだが、再演奏の前に、同レーベルの福井末憲氏より録音方式について説明がなされた。そうした解説やプレイ・バックの様子に熱い眼差しを注ぐ聴衆の人たちを見ていると、リンの演奏が人気を集めるのはもちろんのこと、録音セッションや録音方式などに対する関心と期待の程がうかがわれた。
 第2部は、バッハの無伴奏ソナタ第3番が全曲通して演奏録音された。優れた音響で定評のあるアークホールと、鮮やかな技巧としなやかな感性をもって表現されたリンのヴァイオリンとが共鳴しあって醸しだされる素晴らしい響きと美しい余韻に、当夜集まった260人が酔いしれ、最後はホールロビーにてプレイ・バックを聴きながら、リンとも親しく交わった。
 バッハとイザイの無伴奏作品を組み合わせた全曲録音シリーズは世界初の試み、貴重な録音盤である。さらにリンは、曲目の組み合わせについても熟考を重ねており、しかもその演奏はこまやかな気配りがされていて、のびやかで、みずみずしく、また感動的なものであり、全曲録音完成の暁には、リンの名をいっそう幅広い音楽ファンに焼きつけることだろう。今回収録された完結編は、CDとSACDを分離して来春に発売される予定。

第21回ミュージック・ペンクラブ音楽賞受賞記念ライヴ〜NXジャズ雑学ライヴ Part3
5月27日 JAZZ SPOT J        上田 和秀
 岩浪洋三さんのMPC音楽賞受賞を記念して、新宿のジャズ・クラブに多くの仲間が集まりスペシャル・イベントが開催された。まず1部は加藤泉(ギター)グループの演奏、「アンソロポロジー」「サマー・ナイト・ブルース」「ムーンライト・セレナーデ」・・、後半ではヴォーカルに沖野ゆみ(ヴォーカル)がジョイント。
 そして2部はMPC音楽賞受賞作品『これがジャズ史だ〜その嘘と真実〜』から、岩浪さんトーク・ライヴ≪ジャズ 様々な民族におけるそのルーツ≫。アカデミックな内容でスタートがそこは岩浪さん、良からぬ方向へ脱線しない訳がない。艶っぽい話しも・・・。この日最も心に残った話は、「胃潰瘍で入院した友への見舞いは『バーボンのボトル』これがジャズ魂だ!!!」。
 3部は、加藤泉グループに多彩なゲストが加わってのジャム・セッション。まずは岩浪さんの秘蔵っ子、日高憲男(トランペット)、粋なミュージシャン・スピリットを披露してくれた。加藤泉グループにゲストが加わった瞬間、バンドのテンションが異常なまでにも上がる。ヴォーカルのウィリアムス浩子、サックスのポール・フライシャー、ピアノ&ヴォーカルのケイコ・ボルジェソンらが次々に登場。そしてフィナーレは岩浪さんの見事なシャウトで「Fのブルース」!ケイコ&ゆみに挟まれグルーヴ感あふれる岩浪さんのパフォーマンスに会場から大きな大きな拍手が・・・。素晴らしい≪IWANAMI JAZZ NIGHT≫だった。


ケンウッド・トワイライトイベント MPCJスペシャル Vol.1”
ミュージック・ペンクラブ音楽賞受賞記念
「神谷郁代とすごすシューベルト・ナイト」の集い・・・・・・・・・・・・・・廣兼正明
 去る6月11日木曜日の夜、東京のケンウッドスクエアー丸の内で、会場に入りきれない程の音楽ファンを集めて、希有の音楽性を持つピアニスト神谷郁代の≪ミュージック・ペンクラブ音楽賞≫受賞記念トーク・ショー「神谷郁代とすごすシューベルト・ナイト」(司会:Mike Koshitani) が行われた。
 ミュージック・ペンクラブ・ジャパンではケンウッドスクエアー丸の内の協力のもと、音楽ファンのために、レギュラー的にいろいろなイベントを行うことになったが、今回がその記念すべき第1弾である。この日は第21回「ミュージック・ペンクラブ音楽賞/クラシック、録音・録画作品、日本人アーティスト部門《最優秀アルバム賞》」を受賞したピアニスト神谷郁代のCD「神谷郁代プレイズ・シューベルト」を聴きながら、彼女自身のシューベルトへの飽くなき思いと、CD制作のN&F社、西脇義訓プロデューサーと録音の福井末憲エンジニアをまじえての、レコーディング時の裏話も出る興味津々、和気藹々のトーク・ショーとなった。

 この受賞CDは2007年9月に神戸新聞松方ホールに於いて多くの話題盤を市井に送り出しているN&F社によって録音されたものである (今回は通常CDとSACDをハイブリット盤ではなく、より良い音の再生を目指し双方を別カタログNo.の商品として発売されたものである。従ってSACD盤は普通のCD用プレーヤーでは残念ながら聴くことが出来ない)。
 収録されている曲目はシューベルトが亡くなる年に書いた長大な力作、最後のピアノ・ソナタとなった「第21番 変ロ長調 D.960」、死の前年に作られた「即興曲集 Op.90」より3曲、そしてエキストラ・トラックに入っているのが、これも晩年の小品集「楽興の時 Op.94」の有名な第3番である。以下にトーク・ショー当日の出演者3人の話を、筆者の知るところも含めてまとめてみた。

 それまでバッハ、ベートーヴェン等のオーソドックスな作品の録音でも、数多くの内外評論家から絶賛された神谷だが、ある時彼女が聴いたスヴャトスラフ・リヒテルのフィルムに残されたシューベルト第21番ソナタの演奏に触発され、彼女自身、次は是が非でもこの曲の録音に挑戦したいとのライフ・ワークにも似た大きな願望を持ったと言う。そこにN&Fからの神谷を起用したレコーディングの話が持ち上がったのである。この時点では曲は未定、しかし神谷のN&F社に対するシューベルト願望は迫力に満ちたものだったらしい。
 だが、制作側の考えと神谷の希望は当初平行線をたどり、このCDの企画から録音までに時間をかけた綿密な検討が行われることになったと言う。制作側としては今までのレコード業界の常識から考えてシューベルトのピアノ・ソナタでは売れない。だから何か売れる要素を入れない限り、神谷に対してそのままでは決して色よい返事ができる筈がなかった。あれやこれやで出発進行の結論が出るまでに、それから何と3年もかかってしまったそうだ。
 制作者と神谷は新しい企画に対しての試行錯誤を繰り返し、その結果レコーディングでは最も使われる頻度が多い現代の代表的ピアノ「スタインウェイ」とシューベルト時代にウィーンで使われていた「マテウス・シュタイン」とで同じ曲を弾き較べる、そしてその曲はシューベルトの曲の中で誰でも知っている有名曲「楽興の時 第3番」とし、それはボーナス・トラックとして追加する、などでようやく両者が合意、録音は音の良い事でも有名な「神戸新聞松方ホール」に決まったのである。その後録音は3日間かけて行われ、全員が満足するマスター音源が完成した。これを前述のように2008年に通常CD、SACDとして発売、それに加えて新製品「ガラスCD」としてもカタログに載せることとなった。

 さて、録音に至るまでの話の他、この日には今話題の「ガラスCD」について現在市販されている「ガラスCD」の開発者、N&F社福井エンジニアの話もあり、来場者はまさかガラスでCDが作れるのか、という疑心暗鬼の眼差しで実物を眺める人が多かった。またこの値段が12万円することを聞き、何故こんなに高いのかを福井エンジニアの説明を聴いてようやく納得する人が多かったようだ。実はこれ、正式には「ハード・ガラス製音楽CD」と言い、素材は高級眼鏡と同じ光学ガラスを使っていること、そしてそれを十分に精密研磨しなければならないこと、通常CDならば1枚4秒でプレス出来るが、これは手作り的工程を必要としている等の理由での価格設定なのだ。

 今回の来場者は初めて聴くCD録音に於ける演奏者と制作者との苦労話、シューベルト時代のピアノの音色、新しいガラスCDの歪みのない驚くほどリアルな音など、約1時間半の時間を十二分に楽しんでいた。

 尚、神谷郁代によるCD収録曲すべてを聴くことが出来る演奏会が、このCDを録音した「神戸新聞松方ホール」で7月16日(木)19時から行われる。詳しくは松方ホール(Tel.078-362-7111)、またはホームページへ。
http://www.kobe-np.co.jp/matsukata/

=MPCJ会員からの声=(アイウエオ順)
*大音響と共にローリング・ストーンズのシャツを着た男性がMCで登場したのには、会場に集まったクラシックの静謐なピアニスト、神谷郁代のファンには、さぞ驚きだったであろう。が、音楽の垣根を越えて楽しもうというMPCJの姿勢が現れていた。予約60人、満席に立見客もでる盛況ぶり。神谷さんやゲスト・スピーカーも交えての録音エピソードや通常CDとガラスCDとの聴き比べなど、貴重なお話とシューベルトのピアノ・ソナタの片鱗が伺えて、みな満足の一夜だったに違いない。まずは第1回のMPCJスペシャルは楽しく成功を収めたと思う。(鈴木 道子)
*第一回目のイベントは、満員の聴衆で内容も上手くまとまっていて大成功だったと思います。今後の参考のために入場者からアンケートをとるのも良いかと思います。(高田 敬三)
*全般的に分かりやすい内容でした。理想を言わせて頂ければ、アルバム録音場所を紹介した映像やガラスCDの製造過程の映像など、視覚的な要素を更に盛り込めたら、もっと楽しめたと思う。(滝上 よう子)
*大盛況でしたねぇ〜!外の歩道の通行人達が「何事?」みたいな顔でショー・ルームの中のイベントをウィンドー越しに覗き込んでいる光景が面白かったです。初めて拝聴したガラスCDの音、貴重な体験でした!(松本 みつぐ)
*神谷郁代さんの気取らないお人柄と品の良さ、そして音楽への愛情と情熱がたっぷりと感じられる、素晴らしいイベントでした。(細川 真平)

太平洋を越えて響き出す まばゆいモニターサウンド       大橋 伸太郎
 1970年代のオーディオ・ブームの洗礼を受けたファンにとって、スピーカーシステムの頂は、アルテックであり、JBLだった。80年代以降、シーンの中心を、イギリスを中心にした欧州勢モニターが取って代わり、物足りない思いを抱いていたファンも少なくないだろう。モヤモヤを吹き飛ばすように、最新の巨星が西海岸から太平洋を渡り、日本上陸を果たした。“OCEAN WAY MONITER SYSTEM”(オーシャンウェイ・モニターシステム)である。本製品を製作販売するオーシャンウェイ・レコーディングは、ロサンゼルスを中心に北米三か所に録音スタジオを擁する、プロレコーディングスタジオである。同社を率いるアラン・サイスAlan Sicesは、少年時代に音楽の道を志し、1968年にレコーディング・エンジニアになり、73年にロス郊外の陽光の町サンタモニカのオーシャンウェイ(通りの名前)に最初のスタジオを開設した。ここで吹き込んだアルバムの音質の良さが評判を呼び、有名アーティストを続々と呼び寄せ、爾来、録音されたアルバムには、ボニー・レイット『Nick of Time』、ナタリー・コール『Unforgettable』、ホイットニー・ヒューストン『I Will Always Love You』(映画「ボディ・ガード」のテーマ曲)、クインシー・ジョーンズ『Back on The Back』、マイケル・ジャクソン『Bad』「Dangerous」『History』があり、アラン・サイス自身、グラミー賞に5度ノミネートされ、ジョニ・ミッチェル『Both Sides Now』(2000)とバート・バカラック「」At This Time』(2005)で二度受賞の偉業を成し遂げた。
オーシャンウェイ・レコーディングの現在のハリウッド、シャーマンオークス、ナッシュビルの三つのスタジオには、アラン・サイス自身が設計した大型モニタースピーカーが設置されている。音楽に人生のすべてを傾けたアランは、既存のスピーカーシステムの再生限界に満足できなかったのである。そうして誕生したのがオーシャンウェイ・モニターシステムで、名盤誕生の唯一無二の立会人として、今では世界中のアーティスト(日本では中島みゆきがオーシャンウェイで録音)から厚い信頼を寄せられている。
 オーシャンウェイレコーディングスは、自社の録音作業用に作りだしたこのモニタースピーカーを、他のスタジオやポストプロダクションから求められれば販売するようになった。次に「音楽が生まれた瞬間に立ち会うこと」を願ってやまないハイエンドのオーディオファイルにも提供するようになった。それが今回、日本に紹介されるモニターシステムHR-2である。本機は、スピーカー本体、エレクトロニッククロスオーバー、イコライザーから構成されるトライアンプ用システムで、スピーカー本体は3ウェイシステムである。トゥイーター(チタンダイヤフラム、アルミニウムボイスコイル)とミッドベース(38cmユニット、アルミニウムボイスコイル)は、120°×40°の同じフレア形状のホーンを持ち、高域と中域の拡散特性を一致させることで広いスウィートスポットを実現している。サブベース(45cmユニット、アルミニウムボイスコイル)は18Hzまでの再生が可能である。エレクトロニッククロスオーバー、イコライザーはアラン・サイスがこだわるアナログ構成で、設置される環境に最適調整して出荷される。
 今回、輸入代理店となったMゼファンによって、東京国際フォーラムD1ホールで、アラン・サイス自身の手による、オーシャンウェイレコーディングスで誕生した録音の数々をHR-2で鳴らす体験試聴会が行われた。アンプは、オーシャンウェイ自身が「最高の相性」とするヴィオラを6台使用するマルチチャンネル駆動である。アンプ群の両側にそびえ立つHR-2(ステレオ)は、JBLやB&Wのフラグシップを上回る威容。この日は全国のディーラーを中心に約100人を小さな映画館位の会場に招待、輸入代理店の紹介でアラン・サイスが登場した。「(今日お集まりいただいた)100人の前では、全ての方にベストなバランスのポジションで聴いていただくことができませんが、ベストを尽くします。様々なタイプの音楽を聴いていただきますが、ほとんどが私の手掛けた録音です」。「エンジニアとして、ミュージシャンとして、正確なバランスが第一です」「超高解像度なので、よい録音は素晴らしく、もし悪い録音なら容赦なくそれを露呈します。(HR-2)はそういうスピーカーです」。こう、前置きしてアラン・サイスは長身を二つに折って屈みこみ、自分の手で機器を操作し、再生を始める。普通なら、機器の操作を代理店のスタッフに任せるものだが、自分一人でやらないと気が済まない人らしい。こういう頑固な気質が既存のモニターで満足せずこのスピーカーシステムを作り上げたのである。
 この日、会場で再生した録音は、最新の映画音楽からジャズ、オペラのアリアまで全17曲で所要時間は一時間弱であった。ダイナミックレンジの限界を微塵も感じさせない、大音圧を入力しても歪みを寄せ付けずどこまでもリニアに生演奏そのままに伸びていく、大洋のごときキャパシティが圧巻だった。驚異的なのは、ホーンシステムの指向性の広さで、私は会場の左のセクションに座ったのだが、一般的には正しいバランスが得られるポジションではない。しかし、HR-2の場合、音楽情報がきちんと細大漏らさず聴こえるのである。全15曲、リクエストでクラシックを2曲追加して終了した。
 アラン・サイスはこう言う。「技術というものは、過去を否定したり捨て去ったりする傾向があるが、今日皆さんに聴いていただいたモニターシステムHR-2は、ベルラボ(ベル研究所)、アルテック、RCAの音響技術がその中に生きている。」かといって、HR-2がウエスタンやアルテックの再来というわけではない。21世紀の技術要素から誕生した、超高解像度の新時代のモニタースピーカーである。しかし、欧州系ハイエンドモニターの温度感を排した音色の冷徹な再現とは歴然と異なった、パワフルでヒューマン、明るく眩しい高解像度なのである。この日のプログラムの一曲として、ハリウッドのオーシャンウェイで録音した20世紀フォックスのディングル(テーマ曲)の最新ヴァージョンが含まれていた。アカデミー賞の受賞会場でもかくや、と思うほど豪華に響き渡り、胸が高鳴った。これを聴いて、HR-2を使って世界最高音質の個人映画館ができる、という夢がよぎった。聴き手を酔わせ虜にし、無限の想像を掻き立てる、それこそが本物のハイエンドオーディオの証である。HR-2にはそれがある。それに必要な出費は、高級車一台分。夢をかなえるには決して法外なコストではない。

≪オーシャンウェイ・モニターシステムHR-2≫
・周波数レスポンス +/-2dB 18Hz-20kHz
・チャンネル間対称性 +/-0.5dB 1kHz-20kHz
・最大音圧 110dB以上 at1.8m 18kHz to 20Hz
・クロスオーバー 650Hz、80Hz(18dB/oct)
・ドライバー構成 
トゥイーター:チタンダイヤフラム、アルミニウムボイスコイル
ミッドベース:38cmユニット、アルミニウムボイスコイル
サブベース:45cmユニット、アルミニウムボイスコイル
・質量 181kg/一台
・外形寸法 914mm(W)、686mm(D)、1829mm(H)
・標準販売価格
スピーカー本体:¥6,700,000/pair(税別)
イコライザー:¥1,100,000/pair(税別)
エレクトロニッククロスオーバー:¥550,000(税別)
・問い合わせ、輸入販売元:株式会社ゼファン 03-5917-4500 Info@zephym.com

追悼 ココ・テイラー                   菊田俊介
 シカゴを拠点に活動していた“クイーン・オブ・ザ・ブルース”の愛称で親しまれた女性ブルース・シンガー、ココ・テイラーが6月3日、消化器からの出血を治療する手術後の合併症のため入院先のノースウエスタン記念病院で亡くなった。80歳。
 
 メンフィス郊外で生まれたココは、生まれて間もなく母親を亡くし父親に育てられた。その父親もココが11歳の時に他界。「母親の記憶はないわね。姉のヴァイは覚えているそうだけれど。父親は、週末に飲むウイスキーが生き甲斐のような人だったわ。酔うと歌を歌っていたわね」と幼少の記憶を話してくれた事がある。
 “Koko(ココ)”はチョコレートが好きだった事から幼少につけられたニックネームだ。綿花摘みの手伝いをしながら教会に通いゴスペルを歌い、たかわらB.B.キングやルーファス・トーマスがDJをやっていたWDIAラジオでブルースにも親しむ。1953年に最初の夫のロバート・“ポップス”テイラーとシカゴに移住。白人家庭のメイドの仕事をしながら夜はサウスサイドのブルース・クラブで飛び入りをしながら歌手として活動するようになっていく。
 プロデューサーのウィーリー・ディクソンとの出会いがココの運命を変えた。彼の紹介でチェス・レコードと契約し、「Wang Dang Doodle」をリリース。この曲は1966年にR&Bチャート4位、100万枚を記録する大ヒットとなり、ココ・テイラーの名を不動のものにした。
 1975年、チェスの倒産と共に、シカゴのアリゲーター・レコードと契約。9枚のアルバムを出して、そのうちの8枚がグラミー賞にノミネートされる。1984年にはアトランティック・レコーズから発売されたコンピレーション・アルバム『Blues Explosion』でグラミー賞を受賞。
「出会ったばかりの頃、ココは僕に可能性を見いだしたようで、盛んにアルバムを作ってくれと言って来た。ツアー用のヴァンも用意していたし、本当にやる気が感じられたんだ。以来、34年の付き合いになるよ」と、アリゲーターのブルース・イグロア社長は当時の思い出を語る。
 
 小生は、2000年10月からココのバンド、ブルース・マシーンのレギュラー・メンバーとして活動を共にするようになった。ココは、世界中のいろんなところに連れて行ってくれたし、B.B.キングやボニー・レイット、ジミー・ヴォーンはじめ多くのメジャーなアーティストに出会って、共演するチャンスを持てたのもココのおかげだ。
 バンドに入って最初の数年は、ステージ上で睨まれる事が何度もあった。自分の求める音が出て来ないと、ものすごい厳しい表情をぶつけてくる。男ばかりのメンバー達を長年リードしてきた、まさに男勝りの強さをココに見たのだった。でも、いったんステージを離れると、柔和な女性の顔に戻る。ギャラを払う時には、「ちゃんと数えて確かめるのよ」と、母親のように何度も念を押すのだった。2003年に大きな手術をして半年のブランクが空いたあたりから活動のペースが落ち、以前のような厳しくギラギラした表情をステージで見せることはほとんどなくなった。とは言え、歌にはどんな体調であろうと全力で当たるココのスタイルは最後まで変わる事はなかった。 “Hey You”とシャウトした声が迫力に満ちていて、後ろにのけぞってしまう事が何度もあった。こんなシンガーは20年の自分のキャリアの中でもココ一人だけだ。
 彼女を見ていると、オールド・ファッションなアメリカを体現していたように思う。正直に生き、仲間や家族を大切にして、愚直なくらいにまじめに働く。今ではずいぶん失われてしまった大切なものを持っていた様に思う。黒人女性としてのハンディも乗り越えて、大きく花開かせた人生の勝利者と言っても良いのではないだろうか。そんな偉大な女性シンガーと9年間もファミリー同様のおつき合いをさせていただいて、感謝の気持ちでいっぱいだ。亡くなる数時間前、パンパンにふくれあがって冷たくなりかけていたココの手を握りしめながら、「長い戦い本当にお疲れさまでした。あなたのその強さを僕にください。そして、上の方から見守って下さい。何より、本当にありがとう。ありがとう、ありがとう!」。心の中で語りかけると、ココの表情が一瞬和らいだ様に感じた・・・。
(写真はココ・テイラーと筆者)

追悼 ボブ・ボーグル(ザ・ベンチャーズ)    Mike M. Koshitani(越谷 政義)
 ザ・ベンチャーズのボブ・ボーグルが6月14日に非ホジキンリンパ腫のためワシントン州バンクーバーの病院で亡くなった。享年75。残念でならない・・・。

 ドン・ウィルソンとともにグループを結成したのが1958年、レコード・デビューは翌59年のことだった。ベンチャーズは62年の初来日以来、数千回に及ぶコンサートを全国津々浦々で開催。日本のポピュラー・ミュージック発展に大きく寄与、我が国の多くの若者にエレキ・ギターを弾く楽しさを伝授した。僕も65年正月ライヴ(日米リズム合戦)以来、彼らの素晴らしいパフォーマンスを100回以上味わってきた。コンサートの司会、コンサート・プログラム原稿、インタビュー、レコード/CDのライナーノーツなども何度となく務めさせていただき、ボブさんともよくいろんな話しをさせていただいた。実にジェントルな人柄、大の親日家で奥様も日本人。故メル・テーラーの誕生日パーティーでM&Iカンパニーの一瀬啓永氏とカラオケで「二人の銀座」を歌わせてもらったことがあるが、終了後ボブさんがそっと「今度のコンサートで歌ってみないかい・・・」と、優しく語りかけていただいたことを想い出す。12年前に病気が発覚したと伝えられたが、2004年夏までテケテケ・コンサートで演奏を続けてきた。2004年7月21日、新宿厚生年金会館での≪エレキ・ギター・サミット/ベンチャーズ&サンス≫でMCを担当、これがボブさんの演奏を味わい、そしてお話した最後になってしまった。心からご冥福をお祈りします。  

追悼 マイケル・ジャクソン         吉岡正晴
 ≪キング・オブ・ポップ≫≪ポップ・アイコン≫、マイケル・ジャクソンが2009年6月25日(木曜日)午後2時26分(アメリカ・ロスアンジェルス時間 日本時間26日午前6時26分)に、ロス・アンジェルスの病院で死亡が宣告された。50歳だった。

 マイケル・ジャクソンの功績はそれまで黒人音楽と白人音楽の間にあった厳然たる垣根を乗り越え、黒人音楽を黒人だけのものではなく、白人の、世界中の音楽にしたことだ。ゴスペルとブルーズから生まれた黒人大衆音楽は、当初白人アーティストに何度も搾取されてきた。それが、マイケルの登場によって、搾取されることなく、対等の地位を築き、それだけでなく、今度は白人音楽をも搾取するほどの勢いを見せたのだ。アメリカのポピュラー音楽史上においてこれは歴史的転換点だ。

 彼の歌が天才的にうまいというだけでなく、踊り(ダンス)も天才的にうまいということがあった。それまでも歌がうまい、踊りがうまいというエンタテイナーはいた。だがひとりでその2つの要素を天才的に見せることができるアーティストはいなかった。これもポップス史上における歴史的な転換点だ。それまでもダンスとシンギング(歌うこと)は常に大衆音楽の中で密接なつながりを持っていた。だが、マイケルほどそれを徹底してうまく見せたアーティストはいなかった。

 そして、彼が音楽と映像を効果的に融合させ、それを成功させた初めてのアーティストだった。1981年、MTVの登場によって、音楽業界は、否が応にもヴィジュアルの影響を受けることになる。そんな中、「ビリー・ジーン」「ビート・イット」、そして、ショートフィルム「スリラー」の映像のヒットは、続くプロモーション・ビデオの発展へ最大級の影響を与えた。音楽と映像の融合もまた、音楽界における歴史的転換点だった。

 もう一点指摘しておきたいのが、彼はメディアによって誰もが想像し得ないほどのスーパースターになった最大の人物だが、同じくメディアによって誰もが想像し得ないほどの地獄へ落とされたエンタテイナーである、ということだ。スターにしたのもメディア、しかし、スターの座から引きずり降ろそうとしたのもメディア。諸刃の剣であるメディアの残虐性がもっとも顕著に出た例であり、マイケル・ジャクソンはメディアに翻弄されたメディアの最大級の犠牲者でもあった。そこには黒人であるマイケル・ジャクソンと白人メディアという対立軸も見え隠れする。

 マイケルが音楽、エンタテインメントの世界で成し遂げたこと、それはあまりに大きい。彼の影響を現在の音楽界で排除することは不可能だ。その影響はエンタテインメントの世界だけにとどまらず、マイケル・ジャクソンという名の世界的な≪文化(カルチャー)≫≪社会現象≫となった。そして、2009年6月25日、彼は真の伝説となった。。

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