2009年1月 

香港の広東語クチパク「ピーター・パン」    本田 悦久 (川上 博)
 メリー・マーティン主演で1954年に初演されたブロードウェイ・ミュージカル「ピーター・パン」(マーク・チャラップ、ジュール・スタイン作曲) は、1979年にサンディ・ダンカン主演でリバイバル、35周年記念の1989年にはキャシー・リグビーで全米ツアーが行われた。
 日本では1981年に新宿コマ劇場25周年記念作品として初演された。ホリプロの制作で、以来、毎年上演されているお馴染みの作品だ。初代ピーター・パン役の榊原郁恵が1987年を最後に降りた後、現在の高畑充希まで8人のピーター・パンに受け継がれている。

 ところで、香港の話だが、1974年にディズニーのショー「ディズニー・オン・パレード」が香港で大歓迎を受け、その成功を背景にブロードウェイ・ミュージカル「ピーター・パン」の香港上演企画が持ち上がった。制作はアメリカのNBCとウォルト・ディズニーの合弁会社ナワル・プロダクションズで、香港のパートナーは華星娯楽 (キャピタル・アーティスツ) 、制作・演出は「ディズニー・オン・パレード」の制作助手だったアメリカ人ジム・カーが担当した。キャストはオーストラリアとアメリカのダンサーを中心とする俳優たちの混成ティームで、リハーサルはオーストラリアのバースで行われ、1976年に香港とシンガポールで公演された。

 香港ではフットボール競技場に特設された天幕で、1976年1月28日から2月23日まで上演された。「ピーター・パン」としては大変に珍しいアリーナのショーで、広東語による上演だった。それもアメリカ人やオーストラリア人の出演者たちは声を出さず、パントマイムの演技で、一言一句を地元のアーティストたちが録音したテープに合わせてリップ・シンクロナイジング (クチパク) で喋って歌い、踊って飛ぶというユニークな試みだった。映画の吹替えではよく使われる手法だが、舞台では極めて珍しい。

 ジェームス・M・バリーの原作台本を広東語台本に翻訳したのは林燕、キャロライン・リーやベティ・コムデン&アドルフ・グリーンの歌詞の広東語版の訳詞は黄霑 (ジェームス・ウォン)。彼は同時に子供たちの父親とキャプテン・フックの二役の声の出演者でもあり、香港「ピーター・パン」のプロモーション・ソング「君たちに会いに飛んでくる」の作詞・作曲者であり、オリジナル・キャスト・アルバム録音のプロデューサーでもあった。ピーター・パンの声の主は鍾玲玲 (ベティ・チャン) 、ウェンディは華娃 (アリス・ラウ) といった香港のスターたちで、ミュージカル・ナンバーの録音は、香港の娯楽唱片 (クラウン・レコード) がLPとカセットで発売した。
 「美女と野獣」「アラジン」「ライオン・キング」等ディズニー映画のサウンドトラックが広東語に吹替えられることはあるが、広東語で歌われたブロードウェイ・ミュージカルというのは、今のところこれだけである。

「追悼:オデッタ」  中川 五郎
 12月2日、オデッタがニューヨーク・シティの病院で亡くなった。ロイターによると、彼女は「この10年間、慢性心疾患と肺繊維症を患っていた」ということだ。オデッタは1930年12月31日アラバマ州バーミンガム生まれなので、78歳の誕生日を目前にしての逝去だった。
 オデッタは、1940年代にミュージカルで歌い始め、50年 代に入るとフォークやブルースの世界に深く関わるようになり、50年代後半から60年代前半に大きな盛り上がりを見せたアメリカのモダン・フォーク・ブームの中で大きな役割を果たした。ボブ・ディランの歌をいち早くカヴァーし、彼の存在を広く知らしめたことでもよく知られている。60年代中頃からの日本のフォーク・ブームにもオデッタは多大な影響を与え、何度も来日して、当時としては珍しい「ライブ・イン・ジャパン」のアルバムも発表している。
 個人的なことを書かせてもらえば、ぼくがフォークを歌い始めた60年代後半、オデッタの歓迎会やコンサートの前座で歌わせてもらい、彼女の大きく深い歌に多くのことを学ばせてもらった。
 オデッタは公民権運動や社会運動にも力を注ぎ、2009年1月20日のオバマ新大統領の就任式で歌えることを強く願っていた。

このページのトップへ