2008年12月 

「フランク永井、四つの話題」    本田 悦久 (川上 博)
☆フランク永井の韓国公演
 10月27日に亡くなったフランク永井について、11月8日の産経新聞にソウル支局長・黒田勝弘氏の「ソウルからヨボセヨ」の欄に「フランク永井の功績」という興味深い記事が掲載された。
 それによれば、日韓国交正常化から3年後の1968年、日本の人気歌手フランク永井は韓国でもよく知られており、韓国公演を行った。日本語の歌は禁止されていたので、英語の歌を歌った。ところが釜山での公演で、「日本の歌をやれ!」と観客が騒ぎ出し、困った主催者の決断で「有楽町で逢いましょう」を日本語でやったところ拍手喝采。しかし観客は1曲では承知せず「君恋し」「夜霧の第二国道」等4曲を日本語で歌って公演は大盛況だった。結局、当局のおとがめもなかったという。

 「有楽町で逢いましょう」が大ヒットしていた頃ビクターに入社した私は、その後36年余専ら洋楽で、邦楽を直接担当したことはなかったが、いくつかの関わりはあった。

☆フランク・シナトラとフランク永井
 フランク・シナトラが1960年に創設したリプリーズ・レコードを、1962年から日本ではビクターが発売することになり、シナトラが記念コンサート (日比谷公園野外音楽堂と赤坂ミカド) で初来日した。それから2年後の1964年に、シナトラ・エンタープライズと東京映画の日米合作映画「勇者のみ」None But the Brave が制作された。太平洋戦争末期のソロモン諸島のある孤島を舞台に、日本軍と輸送機がエンジンをやられて島に不時着した米軍の戦いと友情を描いた、奥田喜久丸原案によるドラマ。シナトラ初の監督作品で、井上和男が協力した。出演はシナトラ、三橋達也、クリント・ウォーカー、加藤武、トミー・サンズ、勝呂誉、ほか。アメリカではモーリス・ストローノフ指揮スタジオ・オーケストラ演奏で、マーチ風の主題曲がリプリーズのシングル盤になり、日本では何とフランク永井の歌 (A面日本語、B面英語)で、シングル盤を発売した。映画の打合わせに来日した際、フランク永井の歌声に魅了されたシナトラの指名によるものだった。

☆フランク永井、ニニ・ロッソと歌う
 イタリアの人気トランペッター、ニニ・ロッソは1965年に初来日以来、1994年に亡くなるまでの間にコンサートで28回来日、クリスマス時期は例年日本だった。1972年のこと、NHK恒例の紅白歌合戦で「君恋し」を歌うフランク永井の出番の時、突如、ニニがトランペットを吹きながら舞台に現れて応援演奏し、喝采を博した。それが話題になり、フランクとニニの共演LP企画が浮上。翌1973年、フランク永井とフランクの担当ディレクター佐々木重綱氏が、オーケストラ伴奏を東京で入れたマルチ・トラック・テープをローマに運び、ローマのスタジオでフランクの歌とニニのトランペットを加えて「君恋し-フランク永井、ニニ・ロッソと唄う」アルバムが出来上がった。2005年にCD化されている。(内容については今月のCDレビュー欄をご参照下さい)

☆フランク永井のLPを韓国発売
  1985年、フランク永井がアメリカのポピュラー・ソングを英語で歌ったアルバムを韓国音盤にライセンスし、韓国製LPが発売された。曲目は「マイ・ハート・クライズ・フォー・ユー」「知りたくないの」「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」「テネシー・ワルツ」「チェインジング・パートナーズ」「テンダリー」「嘘は罪」等14曲。その頃の韓国では、裏町の屋台等でビクター専属のフランク永井にコロムビア・マークを付けた私製カセット等が売られていたが、正規の発売は認められていなかった。全曲英語とはいっても、日本人の歌が許可されるか懸念はあった。結局発売されたので、問題はなかったようだ。

≪映画『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』≫ 上田 和秀
マーティン・スコセッシ監督作品
映画『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』
12月5日、TOHOシネマズ六本木ヒルズ他全国ロードショー!


 この映画「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」のストーンズは、バンドとして半世紀近くを経過し、熟成された味のある良さが、頂点に達したことを表現するものとなった。スコセッシ監督という人は、実にストーンズを知り尽くしている様だ。決して大規模なステージでのライヴを撮ることはせずに、最小のスペースで最大のパフォーマンスを見せつける。だからこそストーンズと観客が一体となりライヴを盛り上げ、それを見ている我々は、映画ではなくライヴそのものに引き込まれる。

 このライヴのハイライトのひとつが3人のゲスト(ジャック・ホワイト、バディ・ガイ、クリスティーナ・アギレラ)とのコラボだが、特にバディ・ガイの時はチーム・ストーンズが一番顕著に現れている。バディ・ガイという最強のライオンに、個々の実力ではヴォーカルもギターも敵わないミック、キース、ロニーの3匹のハイエナが挑んでいく様は、見応え充分なハイライト・シーンだ。このことは、キースがインタビューの中で、「ロニーも俺も下手くそだが、二人揃うと最強だ」と語っていることからも分かる。

 それにしてもミックは良く動く、全くと言って良いほど年齢を感じさせない、脱帽だ。
 その秘密は日頃の鍛錬と、マークを隠すためなのか(スポンサー契約をしなかったのだろうか?)またはルックス重視のために黒く塗りつぶしたのか、某有名メーカーのシューズがミックのパフォーマンスを支えるアイテムであることは間違いない。
 「シャイン・ア・ライト」は、ストーンズのバンドとしての一体感(グルーヴ)が、最大限に生かされたライヴ映像の傑作であり、21世紀初頭の現在にあって、21世紀をそして音楽史を代表するライヴ映像の出現と断言できる。
 ストーンズ・ファンはもとより、全ての音楽ファンは、何が何でも見るべきライヴの金字塔だ。カッコイイとは、こういうことだ!!!

写真:(C)2007 by PARAMOUNT CLASSICS, a Division of PARAMOUNT PICTURES, SHINE A LIGHT, LLC and GRAND ENTERTAINMENT (ROW) LLC. All rights reserved.

「追悼 デイヴ平尾さん」   中村 俊夫
 ザ・ゴールデン・カップスのリーダーでヴォーカリストのデイヴ平尾(本名・平尾時宗)さんが、11月10日、心不全のために横浜市内の病院で亡くなった。今年10月に食道癌の手術をしたが、術後の経過が思わしくなかったらしい。享年63歳。
 1966年にエディ藩(g)、ケネス伊東(g,vo)、ルイズルイス加部(b)、マモル・マヌー(ds,vo)と共に『グループ&アイ』を結成し、横浜/本牧を拠点に活動。67年に『ザ・ゴールデン・カップス』と改名し「いとしのジザベル」でレコード・デビュー。「長い髪の少女」や「愛する君に」などをヒットさせ人気GSとして脚光を浴びる一方、本格的なR&B/ブルース・ロック・バンドとして、同時代のミュージシャンたちにも多大な影響を与えた。  
 バンドは72年に解散したが、2003年、ドキュメンタリー映画『ワンモアタイム』(アルタミラ・ピクチャーズ)制作を機に再結成。ライヴ活動を再開し、往年のファンだけでなく若い世代からも熱い支持を集めていた矢先の、“デイヴ親分”の惜しまれる死であった。ご冥福をお祈りします。合掌。

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