2008年11月 

<Now and Then> 
そんな事がありました 8 それは「アニーよ銃をとれ」で始まった 本田 悦久 (川上 博)
☆映画でミュージカルに目覚める
 高校生の頃、身近に接するアメリカ文化は映画とラジオから流れるポピュラー・ソングだった。友人たちは「哀愁」「イヴの総て」等、見てきた映画の話をしていた。学校ではピア・アンジェリ主演の「明日では遅すぎる」を推薦して、鑑賞希望者を募ったりしていた。私の好みは、何がきっかけだったか覚えていないが、アボット&コステロの「凸凹・・・」、ボブ・ホープの「腰抜け・・・」、ローレル&ハーディの「極楽・・・」、マーティン&ルイスの「底抜け・・・」と、専らコメディだった。ボブ・ホープの「腰抜けと原爆娘」を見たとき、共演者ベティ・ハットンのコメディアンヌぶりが愉快で気に入った。そのハットンが出ているMGM映画「アニーよ銃をとれ」(1950) の広告を新聞で見てコメディと思いこみ、ロード・ショーを見に行ったら、コメディではあるが、もっと素晴らしい ”ミュージカル”コメディだった。アーヴィング・バーリンの音楽に魅了され、これがミュージカル党になるきっかけとなった。見ていない友人を誘ったりして、その後、足かけ8年間に24回見ることとなる。

☆東京の米軍施設に入り込む
 1950年代の話で、ちょうどMGMミュージカルの全盛期と重なる。「巴里のアメリカ人」「雨に唄えば」等その後の新作は見逃さなかったが、「若草の頃」「イースター・パレード」「踊る海賊」等、それ以前の作品は場末の “名画座” で掴まえた。
 ブロードウェイ・ミュージカルの日本版上演はまだなく、海外に自由に出られる時代でもなし、映画に頼る以外に方法はなかった。だが幸いなことに「ショウ・ボート」「紳士は金髪がお好き」「ブリガドーン」「オクラホマ!」「回転木馬」等々、次々に映画化され、日本でも上映された。ところが、ミュージカルに消極的な洋画配給会社もあり、お蔵になった作品もけっこうあって、それらを見る方法はないものか考えているうちに名案を思いついた。在日米軍 (当時は進駐軍と呼んでいた) キャンプに、兵士と家族向けの映画館があり、それを利用することだったが、これには問題があった。日本人「オフ・リミット」で、キャンプ内で働く従業員以外はキャンプに入れない。それでもトライすることにした。英字紙「ジャパン・タイムズ」は、アメリカ人読者も対象にしていたのか、米軍施設内の映画館での上映予定が載っていたので、これで情報が得られた。

 そこで、まず渋谷から原宿へ向かう山手線の窓から見える広大な敷地ワシントン・ハイツへ行ってみた。元日本陸軍の代々木練兵場跡、現在の代々木公園。ここには米軍将校と家族のための住宅、映画館などの娯楽施設があった。外出から戻って、ゲイトに入ろうとしている家族連れにわけを話して、デビー・レイノルズとジェーン・パウェル共演の「Athena」(1955) を見させてもらった。それがご縁で、この一家とはその後のおつき合いにつながった。

 旧東京宝塚劇場がアーニー・パイル劇場だったことは、比較的知られているようだ。 終戦の年の暮から1955年1月までの10年間、米軍に接収されていた。ここの館内の映画室で見たのはキャスリン・グレイスンとハワード・キールの「Kiss Me Kate」(1953)。このコール・ポーターの傑作は、後年、テレビ放映されたが、何故か映画館では公開されなかった。ドリス・デイの「Lucky Me」(1954) もたしかここだった。ドリス・デイが夜空を仰いで歌った「I Speak to the Stars」、フィル・シルバースほか仲間たちとの「Bluebells of Broadway」(「スコットランドの釣鐘草」の替え歌) が印象に残っている。

 昔の軍人会館、今の九段会館は、その頃、FEAF劇場となっていた。入場券売り場に行列が出来ていたので、若いGIに「私の分も買って」と百円渡すと、十円のお釣りが返ってきた。当時は1ドルが360円、入場料は25セントだったのだ。映画はフランク・シナトラのヒット・ソングをタイトルに、ドリス・デイと共演した「Young at Heart」(1954)。メンデルスゾーンの「歌の翼に」に基づく「Till My Love Comes to Me」、二人のデュエット「You My Love」等のナンバーが忘れがたい。

 現在の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地には進駐軍の兵舎があり、パージング・ハイツと呼ばれていた。その中の映画館でルース・エティングの伝記映画「Love Me or Leave Me」(1955) を見たいと思い、日本人の守衛に相談すると、面倒見の良い日本人のマネージャーがいるので、外から電話してみては・・・と教えられ、良い席が用意された。「しっかり勉強しなさいね・・・」の一言を添えて。ドリス・デイがエティングに扮し、ジェームス・キャグニーと共演したこの映画は、後に「情欲の悪魔」の邦題で公開された。

 DVDやCDが氾濫する今では、とても考えられない昔話をもうひとつ。楽しい歌がいくつも入っていた、ジーン・ケリーとフランク・シナトラ共演の「錨を上げて」が日本公開されたとき、レコードの発売は無かった。ラジオで放送されることを知り、新宿の帝都無線に頼んで、録音してもらったことがある。ラジオから流れる音をマイクで拾い、アセテート盤にカットする原始的な録音で、担当の方がクシャミをこらえなければならず、気の毒だった。

≪ジョン・ウイリアム・フェントンの記録≫  2008年9月30日 秋山紀夫・編
 1831年3月12日 アイルランド、コーク州キンセールのチャールス砦で生まれる。父はイギリス陸軍第65歩兵連隊勤務のジョン・フェントン軍曹、母はジュディス。父の出身地はイングランド北部、Westmoreland(ウエストモアーランド地方)で、現在はCumbria County ( カンブリア州 )の東部の山地(秋山調査)。(中村理平氏の研究では、生年月日を1828年7月22日と推測していたが、これは誤り)。

1831年4月10日 キンセールのセント・ミュルトーゼ教会で洗礼を受ける(この記録のため、フェントンはアイルランド人と誤解されていた)
1842年4月12日 少年鼓手としてウインチェスターの歩兵第25連隊に入隊
1846年7月12日 鼓手兵として正式入隊
1847年ごろから外地勤務につく。その間約21年4ヶ月(後記参照)
1854年7月10日 軍曹に昇進(身長約6フィート、正しくは5フィート11.5インチで、容姿端麗、薄茶色の瞳、茶色の髪。Michael Mulcahyの記述、The Kinsale Record Vol. 2, 1990に記載。根拠はWO117/019の陸軍省記録に記載)
1863年頃    王立軍楽学校(Kneller Hall )で、バンドマスターとしての訓練を受ける
1864年7月   妻アニー・マリアと結婚
1864年8月1日 第10連隊第1大隊バンド・マスター〔Sergeant〕に昇進
         このバンドにとって、初めての軍楽学校終了の隊長〔秋山がネラーホールに問い合わせ確認〕
年月日不詳    インドに13年、ジブラルタルとマルタに4年11ヶ月、南アフリカ・ケープに3年4ヶ月勤務 (英国歩兵第10連隊の記録、WO97/1954より)
1868年1月7日 第10連隊は日本に向かう命令を受け、南アフリカのキング・ウイリアムスを英国軍艦タマール号で出港
途中、イースト・ロンドン、ポート・エリザベス、モーリシャス、ペナン、シンガポール、香港を経由して日本に向かう。この間に隊の編成変えを行い、出発時点で17名だったバンド(ドラマーと記入されている)は2名増員されて19名となった(秋山調査)
1868年4月4日(慶応4年3月11・12日と、中村氏の論文67ページと123ページに矛盾があるが、12日が正しい)
英国軍艦タマール(Tamar)号で、香港経由で横浜に到着。英国陸軍第10連隊第1大隊軍楽隊長として、隊員19名と共に赴任。妻のアニー・マリア(1831年生まれ)と娘のジェシー(1864年6月3日スコットランド生まれ、本名はJessie Woods、でフェントンの養女、南アフリカ・ケープに同行している。秋山調査)を同伴。当時横浜に駐在した英国陸軍第9連隊第2大隊と交代した。
1869年10月頃  横浜本牧山妙香寺(現在の横浜市中区妙香寺台)で、薩摩藩士32名に吹奏楽の指導開始。〔英国軍隊は1864年から横浜に駐留し、1865年〜66年に駐留した第20連隊第2大隊と、1867〜68年に駐留した第9連隊第2大隊も軍楽隊を帯同しており、横浜で演奏していたが、1869年の薩摩藩まで、伝習しようとした日本人はいなかった〕。
1870年7月30日 Chiftain(汽船チーフテイン号)でベッソン製吹奏楽器到着
1870年9月7日  フェントンの指揮で、薩摩軍楽隊は、山手公園で、第10連隊第1大隊軍楽隊と共演。
1870年10月2日 越中島で明治天皇閲兵の際、フェントン作曲の「君が代」演奏
1871年4月18日 英国陸軍を除隊、引き続き継続勤務にあたる
1871年5月7日  妻アニー・マリア死亡(享年40歳、生年月日は不明だが、年齢から逆算すると、1831年生まれでフェントンと同じ生年)、横浜外国人墓地(横浜市中区山手町96)に埋葬、墓が現存する。
1871年7月25日 英国陸軍正式除隊
1871年8月8日  第10連隊、第1大隊はタマール号で離日。英国海兵隊第1大隊と交代。(この海兵隊は後1875年3月2日横浜から撤退。これを最後として外国軍隊の駐留はなくなった)。海兵隊は軍楽隊を持っていなかった。
1871年10月1日 兵部省雇水兵本部楽隊教師として採用され、契約期間18ヶ月、月給洋銀200枚
1872年3月16日 ジェーン・ピルキントン(1834年7月16日生まれ、ミズーリ州タボーのウイリアム・ピルキントンの娘で、ニューヨーク生まれ、イリノイ州ビューロー郡プロヴィデンスに家があり、英語教師の弟アルバートと東京に住む。コルネットを奏した。横浜で提出した婚姻届には28歳と記入。実際は38歳。秋山調査)と横浜で再婚
1876年4月1日  海軍省式部寮兼務となる、月給貨幣250円
1877年3月24日 上野精養軒で、式部寮・海軍省主宰の送別会に妻・娘(養女)とともに出席
1877年3月31日 海軍省・式部寮の雇を解任
1877年4月23日 夫妻・娘と共にシティ・オブ・トーキョウ号でサンフランシスコに向け出港
1878年7月19日 アメリカ・イリノイ州チスキルワから海軍卿川村純義に宛てて再雇用希望の手紙を出し、断られる。
(以上一部を除き、中村理平氏〔1932〜1994〕の研究による。)
(以下、秋山紀夫の研究による)
1880年2月12日付けビューロー・カウンティー・リパブリカン新聞に、ティスキルワの話題として「フェントンが土地を離れるので、2月21日に家を競売にかける」の記事。またその下段には、「4月1日からスコットランドで官庁の仕事が待っているので、フェントン氏に知人が別れを惜しんでいる」の記事も出る
1880年4月1日  英国王立砲兵大隊スコットランド地区第5旅団指導教官として赴任
1883年4月24日 同退任
1883年5月7日  軍人年金の支給を受ける。
1883年7月16日 汽船Circassia(サーカシア号)でグラスゴーからニューヨーク港に入港。記録には;
         J.W.フェントン 50歳と記録(実際は52歳)
         ミセスフェントン 47歳と記録(実際は49歳)
         ジェシー  19歳〔これは1864年生まれとすると正しいが、墓石の1862年生まれが正しいと2歳若く記入されている〕
         マルシア  11歳(養女。フェントン夫人ジェーンの妹、イザベラ・ピルキントン・コーサー〔1837〜1891〕の娘。父親はエドウイン・ライス・コーサー〔1875年死亡〕。1870年生まれで、このとき13歳で無ければならないが、11歳と記入されていて、全員が2歳づつ若く記入しているようにも見え、戸籍簿との差がある。1875年に父が死亡したため、養女となり、スコットランド赴任に際し、同行した。)
1883年7月〜1884年春 この間の住所不明(多分以前住んでいたイリノイ州ビューロー・カウンティーに戻り、ピルキントンの家族の多くがサンタ・クルツに移住したため、その後を追ったものであろう)
1884年5月    カリフォルニア州サンタ・クルツに住むジェーンの叔父や叔母から土地と家を購入し登記。オーシャン・ビュー・アヴェニューに居住。住所はオーシャン・ビュー・アヴェニュー245番地。
1890年4月28日 午後、同地で永年病気を患ったあと死亡(59歳と1ヶ月16日余り)
1890年4月30日 午後2時、サンタ・クルツ、Calvary Episcopal Church( カルヴァリー・エピスコパル教会、 532 Center Street, Santa Cruz, CA,95060) で葬儀、100F墓地に埋葬
           この墓地は現在サンタ・クルツ・メモリアル・パーク・セメタリーとして存在
1901年6月22日 妻のジェーン・フェントン・ピルキントン死亡、67歳。同じ墓地に埋葬、墓石も同じ
1895年9月19日  養女の一人ジェシー・フェントン・ドゥーリー(Jessie Fenton Dooley )31歳で死亡。死因は急性肺炎。葬儀を行った教会や墓、墓石もフェントンと同じ。1889年3月5日サンフランシスコのJohn F. Dooleyと結婚、サンフランシスコに住み、サン・ホゼで電信オペレーターとして働いていた。子供は居なかった。美声で歌が上手だった。〔1895年9月24日付けA Touching Tribute紙より〕。彼女は戸籍上は1864年生まれだが、墓石には1862年生まれと、彫られている。彼女の死後、肉親が居らず誤った生年が彫られたものかも知れないが、どちらが正しいかは不明。
1905年5月20日 2人目の養女マルシアがサンフランシスコで死亡。未婚で、墓はイリノイ州ビューロー郡インディアンタウンシップのマウント・ブルーム墓地。

現存するマシュー・ツイーラー医学博士夫妻は、フェントン夫人のジェーン・ピリキントンの父親ウイリアム・ピルキントンの11人兄弟姉妹の5女、マルサ・ピルキントン(ジェーンの叔母)の家系。
マルサ・ピルキントン(1826〜1910):1872年イリノイ州ビューロー郡からサンタ・クルツに移住。この人が住んでいた家が今でも、サンタ・クルツのオーシャン・ビュー・アヴェニューに現存する。
1847年4月 ジャスパー・ウイルソンと結婚
アイーダ・ウイルソン・ツイーラー:マルサの娘。(音楽家)1883年サンタ・クルツ生まれ。ボストンのニュー・イングランド音楽院出身の音楽教師。
ディヴィッド・ツエーラー医学博士;アイーダの息子で、マシューの父親〔94歳で現存〕

現存する子孫はアイーダの息子と孫に当たる家族;
Dr. David Zealear, デヴィッド・ツイーラー (精神病医師、94歳)、カリフォルニア州フレズノ在住。アイーダの息子。

Dr. Matthew Zealear マシュー・ツイーラー(ロード・アイランドのブラウン大学出身でピアニスト、現在眼科医に転向)、カリフォルニア州ヴェガス・シティー在住、デイヴィッドの息子
奥さんはLauri(ローリー)Zealear: ピルキントン家系の研究者で、サンタ・クルツ関係の情報提供者。 
〔この2人が10月に来日し、妙香寺の記念演奏会に出席した〕
以上の調査・報告者  秋山紀夫 (sonta@sb3.so-net.ne.jp)
 〔これらの調査の裏づけとなる記録や書類は秋山が所持するが、ここでは省略。社団法
人日本吹奏楽指導者協会の紀要第15号(2009年春)に発表の予定〕

  
写真その1 サンタ・クルツ図書館にて
写真その2 フェントンの墓石。生年・死亡年月日、及び出身地がはっきり読み取れる。

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