2008年7月 

<Now and Then> 
そんな事がありました 6-3  「ミー&マイガール」との出会いと観て歩き
本田 悦久 (川上 博)
☆メキシコ・・・中南米で
中南米では、1987年秋にメキシコ・シティのテアトロ・デ・ロス・インスルヘンテスでオープン、スペイン語による初めての翻訳上演だった。題して"YO Y MI CHICA"。
その年の12月、劇場のオーナーでプロデューサーのマルシア・ダヴィリャ氏に招かれ、2回観させてもらった。演出マノロ・ガルシア、ビル役 はフリオ・アレマン、サリー役はダヴィリャ夫人で女優のオリヴィア・ブシオ。陽気で率直なラテン系の人たちには、建前より本音を大事にするビルの心情は理解され易いだろうし、英国の話とはいえ、このようなミュージカル・コメディは肌に合っているのではないか。ノエル・ゲイの音楽に、スペイン語がよく乗っている。ビル即ちウィリアムは、メキシコ版ではウィリーと呼ばれ、サリーはリンダになっていた。彼らの大げさな演技が客席を沸かせ、メキシカン特有のちょっとしたジェスチャーも何やら可笑しく、言葉のハンディを超えて楽しい。愉快なメキシコ版のビデオを持ち帰り、宝塚の演出家小原弘稔さんにお送りしたところ、東京再演を控えていた小原さんは、月組キャストを年長組と若手組に分けて自宅に招き皆で楽しまれたと、お便り頂いた。
このメキシコの「ミー&マイガール」カンパニーは、1989年4月にアルゼンチン・ブエノスアイレスのテアトロ・アストラルでも公演した。

☆ヨーロッパの「ミー&マイガール」
ヨーロッパ大陸での上演は、英米での好評を背景に、1987-1988年に一斉に始まった。トップを切ったのは、ベルギーのアントワープ。フラマン語 (オランダ語とフランス語の合成語) による上演で、演出はジャン・ピエール・ド・デッカー、主演はマーク・ローヴリス (ビル) とルル・アイリゲルツ (サリー)。1987年10月16日にアントワープの王立フレミッシュ・オペラ劇場でオープン、11月にはゲントの王立ゲント・オペラ劇場で上演、合わせてベルギーで12回上演された。このカンパニーは、その間にティルブルグ、グロニンゲン、ブレダ、ユートレクト、アインドホーヴェン、ロッテルダム等8都市で、20回のオランダ・ツアー公演を行った。なお、オランダのカンパニーは、1988年秋に作られ、アムステルダムで上演している。
ベルギー版、オランダ版は短期間の上演で、観る機会が無かったが、筆者の「ミー&マイガール」ヨーロッパ観て歩きは1988年5月に始まり、この月、3ヶ国で観ることとなる。17日に先ずスエーデン版をストックホルムのインティマン劇場で観た。この劇場は客席数601の中劇場で、1950年にオープンした。ストックホルムでは、オスカーズ、チャイナ、サーカスといった劇場とともに、ミュージカルでは馴染み深い。「ミー&マイガール」は、5月3日にオープンしたばかりだった。1938年に「ランベス・ウォーク」のスエーデン語のレコードが出たことがある国だ。この曲を知っている人たちが集まったかのように、客席は年配者が多い。演出はイヴォ・クラルール、ロンドンから若手演出家ニーゲル・ウェストが駆けつけて手伝った。サリーはマイ・ホルムステン、ビルはヨハネス・ブロスト。マイは、以前「コーラス・ライン」「キス・ミー・ケイト」「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」等に出ていた中堅女優で馴染みがあったが、ビル役のヨハネスを見るのはこれが初めてだった。出演者数19人という、どこの国よりも少ないコンパクトなキャストだが、全体的な質は高く、「ランベス・ウォーク」の観客を巻き込んでの熱気には圧倒された。長い冬が終って、春の到来を思い切り楽しむ、北欧のパワーが炸裂したかのようだ。終演後、プロダクション"サンドリュース"の副社長グニラ・フェガーステン女史に誘われ、主役の二人、ロンドンから来たニーゲル達と食卓を囲み、話が弾んだ。
ストックホルムの次は、東欧ハンガリーとポーランド。19日にブダペスト入りし、ヨーゼフ・アティラ劇場のマジャール語 (ハンガリー語) による「ミー&マイガール」(ハンガリーでの題名は"EN ES A KEDVESEM") となった。演出はファロ・ペーター、ビルがサカシュ・サンドール、サリーがコシシュ・ジュディット (ハンガリーは日本と同じくファミリー・ネームが先に来る)。2日後の21日には、ポーランドのワルシャワから南西へ汽車で2時間のウッチへ。ウッチ・ムジチュニー劇場でのポーランド語版「ミー&マイガール」。演出はビグニエフ・チェスキー、主要な配役はいずれもダブル・キャストで、観劇日のビルはアダム・コジウェク、サリーがハンナ・マティスキエヴィッチュ。ポーランドでは、ウッチに続いて、グダニスクに近いバルティック海沿岸グディニアのグディニア・ミュージカル劇場でも、「ミー&マイガール」が独自に制作された。グディニアへはワルシャワから空路小一時間で行かれる。前年に「屋根の上のヴァイオリン弾き」で行ったことがあったが、「ミー&マイガール」は行かれなかったので、グディニア版は記録ビデオを見せてもらった。両プロダクションを比べると、ポーランド随一のミュージカル好きプロデューサーで演出家、ジャツィー・グルーザ氏のグディニア版に一日の長が感じられた。
フィンランド版を見に行ったのは、その年1988年の秋、とはいっても北欧では既に冬。ヘルシンキから空路30分、雪景色のかなり寒い11月4日のタンペレだった。余談だが、空港まで出迎えてくれたタンペレ劇場のロイネ氏とエローネン女史に案内されたレストランで、久しぶりにトーゴー(東郷)・ビールに出会った。タンペレは、ネルソン、トーゴー等、提督ビールの工場がある本拠地だったのだ。「ミー&マイガール」(フィンランド名"LAITAKAUPUNGIN LORDI")がタンペレでオープンしたのは、9月14日。演出・振付はヘイッキ・ヴェーツィ、ビル役はセッポ・メーキ、サリーはマリュット・サリオラ。 北欧やまだ社会主義国だった頃のハンガリー、ポーランドのプロダクションは、ロンドン、ニューヨークに比べると装置は素朴で華やかさに乏しく、出演者も少ないが、役者たちの熱のこもった演技で、本場に負けない楽しい舞台作りに励む様子は、好感が持てる。タンペレもまた例外ではなかった。
ドイツでの初演はかなり遅れて、世界的な「ミー&マイガール」フィーバーが収まりかけた1992年2月29日、コーブルクのランデス・テアターでオープンした。その後は、ベルリン、ハルベルスタット他ドイツ諸都市で上演が繰り返されていた。筆者はベルリンのメトロポール劇場で、1995年3月9日に始まったバージョンを、翌1996年6月20日に観た。旧東ベルリン側にある劇場で、ここでは前に「ハロー・ドーリー!」を観たことがあった。この劇場は、客席がゆったり広いのがいい。「ランベス・ウォーク」で、役者たちが客席の奥まで楽に入り込める余裕が凄い。演出はリサ・ケント、ビル役はトーマス・ゲオルギ、サリーがクリスティーナ・アグネス・ヴァイスク。トーマス・ゲオルギは、「エビータ」「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ハロー・ドーリー!」「ウエスト・サイド物語」「キャバレー」等に出た、メトロポール劇場のトップ・スター。この人もビル向きの芸達者で、ビルがヘアフォード邸の図書室で公爵夫人マリアと渡り合うシーン、虎の敷物を使って、まるでトラがそこにいるかのように見せる演技は爆笑ものだった。マリアに、ジャクリーヌと結婚させると云われて、突然「イチ、ニー、サン、シー、ゴー、ロク、ドーモ・アリガトー・ゴザイマシタ・・・」と日本語がとび出し、剣で自分を刺す仕草はハラキリの変形か。日本が舞台でもないのにあのヘンテコな日本語、ドイツ人観客に分っただろうか。
ドイツ語圏ではその後、2003年に、ハノーヴァーのランデスブエーネ劇場とオーストリア・バーデンのスタットテアターで、短期間上演されている。

諸外国での上演が質的に本場を凌ぐのは大変なことだが、お国柄やその土地の雰囲気と相まって、ロンドンやニューヨークとはまた異なる、そして英語とは又ちがった面白さが出てきて見応えがある。

日本では、東宝も2003年と2006年に上演しており、今年 (2008) は宝塚月組が宝塚、東京の後、来月 (8月1日-24日) は福岡・博多座で公演、_奈じゅん、東京を最後に退団した彩乃かなみに替って、霧矢大夢のビル、羽桜しずくのサリーが登場する。
どうやら日本は世界一の「ミー&マイガール」愛好国のようだ。因みに「ミー&マイガール」の舞台映像がDVD化され、市販されているのは、宝塚以外には無い。レコード/CDは、ロンドン、ブロードウェイ、宝塚のほかには、メキシコ版とハンガリー版がLPになっていた。(完)

≪追悼: シド・チャリース≫ 本田 悦久(川上 博)
MGMミュージカル映画を中心に大活躍したハリウッド女優シド・チャリース (Cyd Charisse) が心臓発作で倒れ、6月17日、ロサンゼルスの病院で亡くなった。享年86才。筆者が昨2007年10月21日にニューヨークで会ってから8か月後の訃報だった(MPCトークス 2007年12月号をご参照下さい)。
シドは1922年3月8日、テキサス州生まれ。8才の頃からバレエを習い、12才の時バレエ団に入ってヨーロッパを巡演。20才の時にリリー・ノアウッドの芸名で「サムシング・トゥー・シャウト・アバウト」(1942) に出演、ダンサー役で映画デビューを飾った。1945年にMGM映画と契約、踊るスターとして、数々のミュージカル映画に出演した。とりわけジーン・ケリーと踊った「雨に唄えば」(1952) 、「ブリガドーン」(1954)、「いつも上天気」(1955)、フレッド・アステアとの「バンド・ワゴン」(1953)、「絹の靴下」(1957)、ダン・デイリーとの「ラスベガスで逢いましょう」(1956) 等は忘れがたい。
1986年、ロンドンの「チャーリー・ガール」で、初めてステージ・ミュージカルに出演。1992年には「グランド・ホテル」のバレリーナ、グルーシンスカヤ役が、70才のブロードウェイ・デビューとなった。
2006年11月9日、シドはダンサーとして芸術に貢献したことにより、合衆国の文化勲章 (National Medal of the Arts & Humanities) を、受賞している。
トニー・マーティンとは1948年に結婚、芸能界随一のおしどり夫婦として知られ、今年で60周年だった。
ミュージカル映画、舞台で多くの人に夢を与えてくれたシドに哀悼の意を表し、併せて一ファンとして心からの感謝を捧げます。合掌。
*写真は左からマイケル・ファインスタイン、トニー・マーティン、シド・チャリース。2007年10月21日、ニューヨークのリージェンシー・ホテル1階マイケルのナイトクラブにて。

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