2008年6月 

<Now and Then> 
そんな事がありました 6-2  「ミー&マイガール」との出会いと観て歩き
本田 悦久 (川上 博)
☆「ミー&マイガール」ロンドン・リバイバルのいきさつ
往年のノエル・ゲイのヒット作をリバイバルさせたのは、息子のリチャード・アーミテイジだった。再演を25年間夢見続けていたというリチャードは、1983年に資料集めを始めた。EMIに昔の音源は保存されていたが、初演の頃の資料は散逸していた。戦時中の混乱があったにせよ、物持ちのよい英国で、50年足らず前の資料が関係者の元に保存されていないとは意外だ。映画「ランベス・ウォーク」のフィルムがオランダに残されていると聞いて出かけたら、廃棄処分された後だった。そこで、オリジナル脚本・作詞家の息子アイアン・ローズ、モーティマー・ファーバーをカナダとマルタ島に訪ね、二人に会えたが、資料は何もなく、父親の思い出話を聞くのがやっとだった。初演のオリジナル・サリー役テディ・セント・デニスは、79才で健在だった。彼女からも昔話は聞けたが、脚本は見つからない。その後、1950年にアマチュア用に発行された台本が発見されたが、不完全なもので、すぐには使えなかった。そこでアーミテイジは、初演を観た人たちを集めて、彼らの記憶をたどりながら、まとめていった。それを基に、スティーブン・フライとマイク・オクレントが改訂脚本を書き上げた。EMIの市販レコードとは別に、ラジオ放送用に吹込まれた30分のラッカー盤が見つかり、これは大いに役立った。
そして、デイヴィッド・オーキンがプロデューサーとなり、スタッフ、キャストが決まった。演出マイク・オクレント、振付ギリアン・グレゴリー。主役のビルはTVシリーズの人気者で、ミュージカルは「ゴッドスペル」に出たロバート・リンゼイ、サリー役はエマ・トンプソン。キャスト総数37人、オーケストラ17人。ミュージカル・ナンバーは、初演版にはなく、その後のアマチュア上演版に書き足された「一度ハートを失ったら」、ノエル・ゲイの他のショーから「街灯に寄りかかって」(1937)、映画から「太陽が帽子をかぶってる」(1932)、他のレビューから「愛が世界を廻らせる」の4曲がつけ加えられた。1985年のアデルフィ劇場でのオープンに先駆けて、「ミー&マイガール」のカンパニーは、1984年のBBCテレビ恒例のエリザベス女王御前ショー「ロイヤル・ヴァラエティ・パフォーマンス」に出演、ミュージカル・ナンバーを披露する栄誉に浴した。これは、公演の宣伝としても効果的だった。1985年2月12日のオープニング・ナイトには、81才の “サリー” テディ・デニスが元気な姿を現わした。
ロンドンのリバイバルは大成功で、その後1993年1月16日まで8年間に、初演を上回る3,303回のロングランとなった。最後のビル&サリーは、レス・デニスとルイーズ・イングリッシュだった。ロンドンでロングラン中に、セカンド・カンパニーがエジンバラ、ブリストル、バーミンガム、リバプールなど英国内ツアーを行い、また、ブロードウェイ、宝塚をはじめ、上演の輪は国際的に拡がっていった。筆者はロンドンでは、その後も何回か観る機会があったが、1990年1月にビル役を黒人俳優ゲイリー・ウィルモットが演じたバージョンが印象深い。ゲイリーはその前に、バリー・マニローのミュージカル「コパカバーナ」でも活躍した。「ミー&マイガール」ロングラン中の1987年初めに、リチャード・アーミテイジ氏が、急逝された。
1993年1月16日のロンドン最終公演に筆者は出席出来なかったが、記念のプログラムがノエル・ゲイ・シアター社から送られてきた。それには宝塚を含む世界で上演された時の写真が載っていた。

☆ブロードウェイの「ミー&マイガール」
アメリカ初演は1930年代ではなく、ロンドンのリバイバルがきっかけで、ニューヨークに先駆けて、1986年5月28日、ロサンゼルスのドロシー・チャンドラー・パヴィリオンで始まった。ロンドンの初代ビル役で大好評だったロバート・リンゼイが渡米して主役を務め、ベテラン女優マリアン・プランケットがサリー役でお相手した。このキャストはブロードウェイに移り、新しく出来たマーキース・ホテル3階のマーキース劇場の柿落しとして、1986年7月31日にプレビュー開始、8月10日にオープンした。演出はロンドンと同じくマイク・オクレントだが、アメリカ人気質に合わせてか、ロンドンよりスピーディな演出で、一段と盛り上げていた。トニー賞では、作品賞は「レ・ミゼラブル」に譲ったが、主演男優、主演女優、振付(ロンドンと同じギリアン・グレゴリー)の3部門で受賞した。ブロードウェイは、1989年大晦日まで1,412回続演。筆者はその間に2回観たが、オープン早々に観たビル役は初代ロバート・リンゼイ、2回目は1988年2月でジム・デイル。「バーナム」(1980)で好感を持っていたジム・デイル扮するビルも、ロバート・リンゼイに劣らず巧みな芸を見せた。1988の時は、ニューヨーク在住のジャズ・シンガー、ヘレン・メリルを誘って出かけた。その頃「ミー&マイガール」の米国内ツアー・カンパニーが、ハリウッドのパンテイジ劇場、サンフランシスコのゴールデン・ゲイト劇場等を巡演していた。そのビル役ティム・カリー(「ロッキー・ホラー・ショー」)も好評と伝えられていた。
翌1989年10月に宝塚歌劇団のニューヨーク公演があり、ラジオ・シティ・ミュージック・ホールで「宝塚をどり讃歌」と「タカラヅカ・フォーエバー」を上演した。アメリカ人にも分かり易いレビューが選ばれたと思われるが、「ミー&マイガール」を日本語で上演したら日米ニューヨーク競演という別の面白さがあっただろう。因みに “日米競演”は、1987年10月に「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」のアメリカからのツアー・カンパニー(新宿シアターアプル)と日本版(博品館劇場)が、東京では実現していた。
英米以外の英語圏での「ミー&マイガール」は、メルボルンで、ブロードウェイより早い1986年1月3日、オーストラリア初演が行われた。その年、ニュージーランドでも上演されている。1994年には、メルボルンで限定再演があった。

☆宝塚版「ミー&マイガール」
宝塚大劇場での初演は、1987年5月15日から6月23日までだった。英語圏外での翻訳上演第1号である。ロンドン、ニューヨーク、そして宝塚と、この時期、世界3か所同時上演となった。演出: 小原弘稔、翻訳: 清水俊二、訳詞: 岩谷時子、振付:山田卓。出演はビルが剣幸、サリー役こだま愛、ビルをモノにしようと狙うジャッキーに涼風真世、公爵夫人マリアに春風ひとみ、ジョン卿に郷真由加、それに桐さと実、並樹かおり、舞希彩、等々月組75名。ロンドンの倍の豪華出演陣だ。筆者は東京から同行のミュージカル評論家野口久光氏、双葉十三郎氏、清水俊二氏等諸先輩方と6月4日に見せて頂いた。剣幸はコックニーの雰囲気を見事に表現し、ビルはまさに剣にぴったりの、当たり役のひとつになった。第一幕の終りに、出演者たちが客席に降りて繰り広げる賑やかな「ランベス・ウォーク」は、まさに宝塚向きのシーンだった。
同年8月には、2日から30日まで東京初演が行われた。リチャード・アーミテイジ氏が、宝塚を見ずして亡くなったのは残念だった。ロンドンから、ノエル・ゲイ・シアター社のデイヴィッド・コール氏とジェニー・モントフロー女史が、東京公演を観劇に来日された。その折りに、東宝音楽出版の方々と拙宅に見えたので、1937年のオリジナル「ランベス・ウォーク」SP盤を、当時の英国HMV製蓄音機でお聴かせしたところ、大変喜ばれた。
この月組公演は大好評で、同年11月-12月に大劇場で異例の再演が行われた。12月には剣幸と涼風真世の役替り公演が3回あり、剣はサリーと張り合うジャッキー、つまり初めての女役でアドリブを連発して客席を爆笑させた。一日2回公演の時は昼がジャッキー、夜はビルに戻るといった具合で、1988年2 月の名古屋・中日劇場公演を挟んで、3月の東京再演でも役替りが行われた。
それから7年半後の1995年(大劇場8/11-9/25 東京12/1-26)、月組による三演目が実現した。その間に、翻訳の清水俊二氏、演出の小原弘稔氏が亡くなられた。初演時の新人公演でもビルを演じた天海祐希がビル、初演の頃はまだ初舞台を踏んでいなかった麻乃佳代がサリー。その二人のサヨナラ公演でもあった。翌1996年(2/1-14)には、名古屋(中日劇場)でも上演された。(次号に続く)

このページのトップへ