2008年5月 

<Now and Then> 
そんな事がありました 6-1  「ミー&マイガール」との出会いと観て歩き
本田 悦久 (川上 博)
 ロンドンの下町ランベスに住むビルが、ヘアフォード家の世継ぎと判明し、場違いのハイ・ソサエティに入り込んだことから起こる珍プレイの数々。愉快なロンドン・ミュージカル、宝塚歌劇団による「ミー&マイガール」が、13年ぶりにリバイバルしている。今年 (2008) 3月21日から5月5日まで宝塚で、5月23日から7月6日までは東京で上演される。忘れがたいこの作品を振り返ってみたい。

☆「ミー&マイガール」との出会い
 1985年2月2日、栗原小巻さんの紹介で、文化庁からの留学生としてロンドン滞在中の、弟の千里さんにお会いした。
 その日は早速、ロンドン・ミュージカル2作品のハシゴとなった。マチネーは、ジュリー・アンドリュースが19才の時に主演して評判になり、ブロードウェイ・デビューを飾ることになった「ボーイフレンド」(1954) リバイバルの千秋楽、夜は「ミー&マイガール」(1937) リバイバルのプレビュー初日だった。
 「ミー&マイガール」を観るのは、初めてだ。アデルフィ劇場の客席でプログラムを拡げるげると、制作リチャード・アーミテイジとあった。アーミテイジ氏は、キングス・シンガース等のレコード関係で仕事づき合いのある人物だったが、この作品の作曲家ノエル・ゲイの息子さんだったとは知らなかった。初日なので来場されているに違いないと思い、場内を見渡したが見あたらなかったが、「ランベス・ウォーク」を始め、ミュージカル・ナンバーの素晴らしさに圧倒され、ビル役ロバート・リンゼイのコミカルな演技に大笑いし、満足度の高い舞台だった。
 帰国後、アーミテイジ氏にテレックスを入れて、感想を伝えたところ、「知らせてくれれば、初日のパーティーにも出てもらえたのに・・・この作品、日本で上演出来ませんか?」と、日本上演の橋渡しを依頼され、台本、レコード等の資料が送られてきた。何人かの関係者に話はしたが具体化せずに、1年位経過したところで、旧知の東宝音楽出版 (現東宝ミュージック) の前田忠彦氏を通じて、宝塚歌劇団につながった。この舞台を日本で実現するのに、宝塚はまさに最適な劇団だった。

☆オリジナル「ミー&マイガール」について
 「ミー&マイガール」は、人気コメディアンだったルピノ・レイン(1882-1959)のヒット・ミュージカル「トゥエンティ・トゥー・ワン」(1935)の次の作品として企画された。プロデューサーのサー・オズワルド・ストールは、前作でレインが演じたビル・スニブソンを主人公とする続編にするつもりだった。ところが、脚本・作詞のL・アーサー・ローズは、ビルを主役に前作とは関係ない台本を書いたので、ストールはそれが気に入らず、制作をやめてしまう。そこでルピノ・レインは、自ら制作、演出にも関わることとなる。彼は貯金をはたき、大変なリスクを負って制作を開始した。共同制作者としてジャック・エガー、共同脚本・作詞にダグラス・ファーバー等強力なスタッフが加わり、作曲はノエル・ゲイ(1898-1954)が担当した。ノエル・ゲイはクラシック畑の出身で、本名をレジナルド・アーミテイジ といったが、1926年にミュージカル「シャーロット・ショー」の作曲と音楽監督を引受けた時から、ノエル・ゲイと名乗るようになった。
 1928年に映画音楽「トンデレヨ」を作曲、これはフィルム・サウンドトラックにシンクロ録音された英国トーキー映画第一号だった。ノエル・ゲイは56才で亡くなったが、25年間にミュージカル26作品、映画28作品に作曲、ガートルード・ローレンス、グレイシー・フィールド等のポピュラー・ヒット45曲を出している。彼の最高傑作は、何と言ってもミュージカル作品としての「ミー&マイガール」であり、劇中の佳曲の数々であろう。
 「ミー&マイガール」初演の舞台は、ロンドンのヴィクトリア・パレス劇場で、1937年12月16日に幕を開けた。ビルを演じたルピノ・レインは、パントマイムやアクロバットの巧い芸達者な役者で、1929年にアメリカ映画「ラヴ・パレード」でモーリス・シュヴァリエ、ジャネット・マクドナルド、リリアン・ロス等と共演したこともあった。ところが「ミー&マイガール」の評判はパッとせず、レインの賭は外れるかと思われた。殆んど絶望的な状況下、思いついたのがラジオ放送の力を借りることだったが、BBC放送はこの作品に興味を示したものの、数週間先までスケジュールが一杯で、舞台はその時までもち堪えられるかが問題だった。ところが、番組にキャンセルが出て、急遽「ミー&マイガール」の出番がきた。放送時間に合わせて抜粋版の舞台を作り、当日は観客の前でライブ放送が行われた。1938年1月4日のことだった。観客の笑い声と拍手、そして「ランベス・ウォーク」への歓声が電波に乗るや、たちまち人々はチケット売り場に殺到、劇場は連日満員の盛況となった。
 美声の持ち主だった初代サリー役のテディ・セント・デニス(共同制作者ジャック・エガー夫人)とレインの絶妙なコンビは評判になる。劇中、ビルが「ホィッ!」と右手の親指を立てるレイン自身の発案によるポーズが、当時、英国で流行した。タイトル・ソング「ミー&マイガール」は、英国のヒット・チャートのトップを飾り、第1幕のエンディングで、ビルの恋人サリーがランベスから連れてきた人たちが、招待客たちを巻き込んで繰り広げる「ランベス・ウォーク」は、英国生まれの20世紀最大のヒット曲のひとつとなり、その踊りはランベスの人たちによって踊り継がれているそうだ。
 ダンス・バンドは「ランベス・ウォーク」を競って演奏し、曲は大西洋を渡って世界に広まり、中国語版まで作られた。1938年の「ロイヤル・コマンド・パフォーマンス」ではフィナーレ曲に使われ、国王ジョージ6世ご夫妻は、このショーを3回もご覧になったと云う。しかし、やがて第二次大戦が始まり、ロンドンはドイツ軍の空襲を受ける。ウエスト・エンドの二つの劇場も爆撃による被害を被ったことから、1939年、ロンドンの劇場はすべて閉鎖となった。週12回上演していた「ミー&マイガール」も、続演数1,646回を以て上演中止に追い込まれた。もし、戦争がなかったら、ロングラン記録はかなり伸びたことだろう。当時、この続演回数は、1916年初演の「チュー・チン・チャウ」の2,235 回に次ぐ、第2位の記録だった。「ミー&マイガール」は、レインの代表作となった。1939年に「ミー&マイガール」が「ランベス・ウォーク」の題で映画化されたときも、ルピノ・レインはビルの役で主演した。
 1941年に「ミー&マイガール」がロンドンの舞台に帰り咲き、6月25日からロンドン・コロシアムで上演された。3回目はヨーロッパでの戦争が終結した直後の1945年8月6日から、ヴィクトリア・パレス劇場で凱旋公演が行われた。4回目は1949年12月12日からのウィンター・ガーデン劇場だった。レインはビリーを演じ続け、初演から通算すると2,000回以上演じたと思われるが、詳しい記録は残されていない。その後は、レインの息子ローリー・レインが引き継いで、英国内外でビルを演じた。1956年には、ローリーを主役にTV版「ランベス・ウォーク」が制作されている。(以下次号)

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