2008年4月 

<Now and Then> 
そんな事がありました 5-4 「夜来香」物語  本田 悦久 (川上 博)
 1944年 (昭和19年) に上海で発表され、李香蘭の歌で大ヒットになったスロー・ルンバの「夜来香」は、それまでのチャイナ・メロディーとは全く異なり、また戦時下に作られた曲とはとても思えない、ロマンの香り溢れる素晴らしい曲だった。一時的流行に終わることなく、スタンダード・ソングとなって残る、永遠の生命を感じさせる。
 黎先生が来日されたとき、かつて李香蘭が歌った「夜来香」オリジナル盤のメダル・マザーが上海のレコード工場で見つかったと、そのカセット・コピーを持ってきて下さった。上海市衡山路にあるこの工場は、1920年代に英国EMIによって設立された百代唱片公司 (Path_ Orient Ltd) が最初で、戦時中は日本軍の上海占領とともに日本の管理下に置かれ、日本ビクターが運営し、上海ビクターと呼ばれていた。終戦後はEMIに返還されたが、中華人民共和国成立で中国に接収され、人民唱片社となったが、すぐに北京にある中国唱片公司の上海分社となり、今日に至っている。
 黎先生は20才の時、上海の歌舞学校に入学、翌年、兄が組織した「大中華歌舞団」に加わり、トランペットを吹いて、東南アジア諸国を回った後、上海に戻って百代唱片公司に見習いとして入り、やがて人気作曲家となって革命を迎える。文革中は知識分子として糾弾されたが、70才の時に名誉回復を果たして、中国唱片公司に復帰し、音楽監督を続けられたのだった。
 ある時、「夜来香」の曲よりも後に生まれた若手作家の上田賢一さんにこういったいきさつを話すと、上田さんは、早速、上海に取材に出かけ、黎先生にインタビュー。先生が清朝末期の1907年、湖南省湘潭縣に生まれたこと、13才の頃、遊んでばかりいて中学校の試験に落ち、夏期講習に通わされたこと、その時の古典の教師が28才の毛沢東だったこと等、貴重な話を持ち帰られて、これらのエピソードは、新潮文庫で出された「上海パノラマウォーク」の中の1項目に取り込まれ、「夜来香物語」として11ページを飾った。
 「夜来香」オリジナル盤の話だが、中国広しと云えども文革の混乱で、78回転SP盤はまず残っていないだろうとのことだった。見つかるとすれば、香港か台湾かと思っていたが、筆者は1983年6月にソウルの骨董街で、韓国語版SPを、ひと足先に見つけた。
 その2か月後、台北の台湾レコード協会長の葉進泰さんが、大陸時代の蒋介石総統の秘書で、台湾では終身国会議員になっている范争波先生のベッドの横にSPが積んであったのを思い出し、范先生とレコード工場を共同経営している林振恭さんに調査を依頼して下さった。筆者は1981年に范先生の81才の誕生祝賀会に出席して以来、訪台の度にディナーに招かれており、その夜も范先生との会食だった。その席に范先生と林さんが、何と李香蘭の「夜来香」オリジナル盤 (上海百代レーベル 35866) を持ってこられた。いつか「夜来香物語」の本が出来たら、このレコードの写真が表紙を飾るでしょう・・と筆者は上機嫌だったが、見つけたときは自分のものと、勝手に決め込んでいたことに気づいた。范先生は日本語が話せないので、葉さんと林さんが通訳して下さっていたのだが、「それで困っているんですよ」と林さん。「そんな貴重なものなら、台湾で保存すべきだろうと范先生が・・・あ、今、やっぱり本田さんに差し上げることにしようと云われました!」。あらためて、范先生のご厚意に感謝するのだった。
 「夜来香」は日本と中国語圏で有名な曲だが、まだ英語版がなかった。1980年代中頃に、ヘレン・メリルの唄で、ロジャース&ハマースタイン、コール・ポーター、ジェローム・カーン、アーヴィング・バーリン等、作曲家のアンソロジー・シリーズを制作していたとき、ヘレンに「夜来香」を聴いてもらったところ気に入られ、英語版を制作することにした。英語の作詞を黎先生の弟C・Y・リーさんに依頼しようかとも考えたが、時間的な制約もあり、ヘレンに原詩のニュアンスを伝えて書いてもらった。ニューヨークでの録音当日、筆者は立ち会えなかったが、この曲が鳴り出したら中国系のスタジオ従業員たちが大勢集まってきたと、ヘレンが驚いていた。ヘレンの「夜来香」はその後、彼女のベスト・セレクションCD (ビクター)の定番曲の一つとなって発売が続いている。
 「夜来香」が映画に使われた最初は、上原謙・久慈あさみ共演の新東宝映画「夜来香」(1951年) だったが、山口淑子の歌で主題歌が入っていた。近年では、筆者が気づいただけでも、日本映画「香港大夜総会」(1997年 アニタ・ユン 唄)、「ほとけ」(2001年 yuma 唄) があった。
 ミュージカルでは劇団四季の「李香蘭」(1991年初演 野村玲子唄)があり、テレビ・ドラマではフジテレビの「さよなら李香蘭」(1989年 沢口靖子 唄)、テレビ東京の「李香蘭」(2007年 上戸彩 唄) 等があった。
 「夜来香」は、香り高い花として人々に愛され、歌い続けられるであろう。(完)

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