2008年2月 

<Now and Then> 
そんな事がありました 5-2 「夜来香」物語  本田 悦久 (川上 博)
 日本語による「夜来香」のオリジナル盤は、1949年制作、「あわれ春風に、嘆くうぐいすよ・・・」の歌い出しで知られる佐伯孝夫訳詞、山口淑子 (唄) のビクター盤で、画期的な大ヒットになった。その後、カバー・レコーディングとしては、ビクターには渡辺はま子、青江三奈、大月みやこ、相良直美等があり、ビクターの独占使用期間が切れた後のコロムビアからは「風はそよそよと、そよぐ南風・・・」で始まる藤浦洸訳詞で、胡美芳、都はるみの吹込みがあった。初めての男性歌手版として、五木ひろし (ミノルフォン)の録音もあった。
 台湾、香港、シンガポール、マレーシア等で出た北京語版では、日本でもお馴染みの_麗君 (テレサ・テン)をはじめ、陳芬蘭、崔苔菁、鳳飛飛、陳盈潔、等々多数あり、解放に向かいつつあった中国では、1979年に朱逢博が上海で録音した「夜来香」(作詞・作曲: 金玉谷=黎先生のペン・ネーム) があり、しばらく発売許可が出なかったが、1981年にカセットになった。
 いくつかの変わり種も発見された。一つは香港の広東語版で、曲名も「少女心聲」と変えられた。タイでは、日本の曲を集めてタイ語で男性歌手が歌ったアルバムに入っていた。タヒチで出たLPでは、ポリネシア語の替え歌で聞かれた。韓国では、女性歌手が韓国語で歌ったレコードがあったが、その後、日本曲扱いされて禁止曲となり一時姿を消したが、CD時代になって「韓国ナツメロ集」の1曲として復活した。
 「夜来香」入りのLPやカセット、CDを集めてみると、インストルメンタルを含めれば、百数十種になる。世界広しと云えど、これほど多種のアーティストによりレコード化された曲が他にあるだろうか。いかに多くの人々に愛され続けてきたかの証であろう。

 さて、黎先生に話を戻そう。1980年10月21日、北京のホテルに自筆の「夜来香」の楽譜を持って訪ねて下さった時、戦前の話や日本人との交流については楽しそうに話されたが、戦後の境遇については多くを語られず、ご苦労の程が偲ばれた。文革中は音楽の仕事は許されず、紅衛兵たちが自宅に乱入し音楽関係資料は殆ど失われてしまったことを残念がっておられた。それでも文革の嵐に耐え、現役の音楽家として復活した黎先生は、まさに中国音楽事情の生き証人である。
 北京から戻ると早速、黎先生を日本にお招きするための行動に移った。黎先生との初対面からちょうど1か月後の11 月21日、参議院議員会館で山口淑子さんにお会いして、黎先生がご健在で、皆さんとの再会を熱望されていることをお伝えした。「政治家になって演説でノドを使い、ソプラノだった声がアルトになったけど、黎先生の前で ”夜来香” をもう一度歌ってみたい」と山口さん。
 「日中音楽文化交流の為にも、是非、黎さんにいらして頂きたい。私も喜んでタクトを振らせてもらいます」と服部良一さん。折しも11月30日付の読売新聞に「歌おう、あの “夜来香”。 健在だった中国の作曲家、どうぞ日本へ。36年ぶりの招待状」の見出しで、大きく報道された。読売に掲載されたその日、中野のサンプラザで、日本ビクターのビクトロン全国決勝コンクールが開催され、審査員席で青木啓さん、服部克久さんと一緒になった。克久さんから「父も今朝の読売の記事を見て喜んでいました」とうかがい、愈々、盛り上がりを感じた。

 ビクターを中心に、他のレコード会社にも協力して頂き、筆者が非常勤取締役で入っていたビクター音楽出版 (株) を窓口に、招待状を出すこととなった。
「来年、桜の花の咲く頃、秘書を1名連れてお出で下さい。日本で10日間程、お過ごし下さい。」といった趣旨の招待状に対し、北京放送の英語のアナウンサーだった次女の黎小東 (リー・シャオ・トン) が同行される旨の返事があった。
 ところが、中国側のパスポートを取得するのに日数がかかり、「桜の花の咲く頃・・・」どころではなくなってきた。やっとパスポートが取れたものの、今度は北京の日本大使館のビザがいつ取れるか見当もつかないので、日本側で何とかしてほしいと依頼があった。折柄、残留日本人孤児たちの一時帰国が始まっていた。
ところで、不思議なご縁で、当時山口淑子さんのご主人で元フィジー大使の大鷹弘さんが、外務省から法務省に転勤になり、入国管理局長を務められていた。筆者は霞ヶ関に出かけ、親しくお目にかかることができて、日中文化交流を進めたいとの大鷹さんのご配慮のおかげでビザは無事下りた。
 余談だが、その年の12月10日、ロサンゼルスで黎先生の弟さんC・Y・リーさんにもお会いするチャンスに恵まれた。

 それにしても、桜の季節はとっくに去って、来日は1981年7月末にずれ込んだ。そこで浮上したのが、NHKとのタイアップ。「夏の紅白」と云われていた「思い出のメロディー」に渡辺はま子さんが出演、「夜来香」を歌うという。7月29日に来日して、31日にNHKホールで収録する第13回「思い出のメロディー」(放映は8月8日) の「夜来香」の場面で、黎先生にも舞台に上がって頂くということになった。
 この機会に「夜来香」の新録音が出来ないものか、例えば山口淑子が日本語で歌うA面に、李香蘭が中国語で歌うB面をカプリングしたシングル盤とか、新人歌手のデビュー曲に使うとか考えたが、実現には至らなかった。政治家になられていた山口さんのレコーディングは無理だったが、彼女は黎先生と再会の時の為に、ビクター・スタジオの練習室でボイス・トレーニングを続けられた。

 1981年7月29日、北京からの日航機は定刻に成田空港に着陸、お元気そうな黎先生と小東さんの歴史的な初来日第一歩が記された。
 筆者はNHK の報道番組の方々と成田空港でお二人をお迎えし、宿舎のホテル・ニュー・オータニへ。ホテルへ着くとそのまま、館内のバー、シェエラザードへ直行。お待ちかねの山口淑子さん、服部良一さん、野口久光さん、川喜多かしこさん等との、懐かしい再会を果たされた。音楽を通して深いつながりを持ち続けられた方々との実に37年ぶりの劇的な再会劇が、筆者の目前で繰り広げられ、感慨一入であった。(以下、次号)

<追悼:ダン・フォーゲルバーグ> 森井 嘉浩
 米国ウエストコーストを代表するシンガー/ソングライターの一人、ダン・フォーゲルバーグ[Dan Fogelberg]が2007年12月16日(日)午前6時、メイン州の自宅で前立腺癌のため死去した。享年56歳。

 ダン・フォーゲルバーグは1951年8月13日、イリノイ州ピオリアに生まれた。音楽を愛する両親の下、幼い頃からギター、ピアノ等を習得する。60年代にビートルズ、バッファロー・スプリングフィールド、バーズ、ホリーズ、サイモン&ガーファンクル等に熱中し、いくつかのローカル・バンドに参加。本格的に活動を開始したのはイリノイ大学に入学してからで、地元のクラブで演奏しているところを、同じ大学の先輩で後に音楽業界で名を馳せるアーヴィン・エイゾフ[Irving Azoff]に認められる。マネジャーとなったエイゾフの尽力で大手CBS(現ソニー)/コロンビアとの契約が成立、72年にアルバム『ホーム・フリー』(原題:Home Free)でデビュー。商業的には振るわなかったが、業界からは絶賛される。
 その後ロサンジェルスでイーグルスやジャクソン・ブラウンらと交流を深め、エイゾフの設立したフル・ムーン・レーベル(配給はエピック)から、74年に第2作『アメリカの想い出』(原題:Souvenirs)[75年全米第17位]を発表。ジョー・ウォルシュのプロデュースした同作は初のシングル・ヒット「パート・オブ・ザ・プラン」(原題:Part Of The Plan)[75年全米第31位]を生み、彼の存在を全米に知らしめる1枚となった。以後も『囚われの天使』(原題:Captured Angel)[75年全米第23位]、コロラド州に移住後最初のアルバム『ネザー・ランド』(原題:Nether Lands)[77年全米第13位]と着実にヒット作を出し、アルバム・アーティストとしての地位を確立させる。
 78年、スムーズ・ジャズのフルート奏者:ティム・ワイズバーグとの共演作『ツイン・サンズ』(原題:Twin Sons Of Different Mothers)を発表。「実験的な作品」と本人がコメントしたように、全10曲中7曲がインストゥルメンタル・ナンバーであったにもかかわらず、アルバムは初の全米トップ10入りを果たした[78年全米第8位]。そして遂にダンの名が世界中に轟く日がやって来る。79年末に発表した『フェニックス』(原題:Phoenix)[80年全米第3位]から、シングル「ロンガー」(原題:Longer)が大ヒット[80年全米第2位]したのだ。さらに続く2枚組の大作『イノセント・エイジ』(原題:The Innocent Age)[81年全米第6位]からは「懐かしき恋人の歌」(原題:Same Old Lang Syne)[81年全米第9位]、「風に呼ばれた恋」(原題:Hard To Say)[81年全米第7位]、父親に捧げた「バンド・リーダーの贈りもの」(原題:Leader Of The Band)[82年全米第9位]、ケンタッキー・ダービーにインスパイアされた「バラに向かって走れ」(原題:Run For The Roses)[82年全米第18位]と4曲ものヒット・シングルが生まれ、キャリアの頂点を極めた。
 新曲2曲入りの『失われた影〜グレイテスト・ヒッツ』(原題:Greatest Hits)[82年全米第15位]を挟んで、やや重厚な作りの『ウィンドウズ・アンド・ウォールズ』(原題:Windows And Walls)[84年全米第15位]、ブルーグラスに挑戦した『遥かなる心と絆〜ハイ・カントリー・スノウズ』(原題:High Country Snows)[85年全米第30位]、ハードなエッジの『エグザイルズ』(原題:Exiles)[87年全米第48位]、環境問題にも目を向けた『ワイルド・プレイセズ』(原題:The Wild Places)[90年全米第103位]、初のライヴ盤『ライヴ〜西風の便り』(原題:Live: Greetings From The West)[91年]、『リヴァー・オブ・ソウルズ』(原題:The River Of Souls)[93年]、アーヴィン・エイゾフのレーベル:ジャイアント移籍後の“No Resemblance Whatsoever”[95年/ティム・ワイズバーグとの共演第2作]と、佳作を残すものの徐々にセールスはダウンし、音楽シーンの最前線からは退いてしまう。だが、新曲・未発表曲を含む4枚組ボックス・セット“Portrait”[97年]、自身のプロダクション:モーニング・スカイからリリースした『ファースト・クリスマス・モーニング』(原題:The First Christmas Morning)[99年/ホリデイ・アルバム]、ライヴ第2作“Live: Something Old, New, Borrowed & Some Blues”[2000年]と、時折思い出したように新曲・新作を届けてくれた。そして最後のアルバムとなってしまった“Full Circle”[2003年]発表後の2004年、癌が発見され、ツアーはじめ一切の音楽活動を停止。音楽業界からのコンタクトを完全に断っていたという。

 ダンが闘病生活を送っていたことは、彼の公式サイトにあった彼自身のコメントで知っていた。しかしそこには「僕の癌が末期という噂は大げさだ。治療は一応成功している」「現時点では音楽活動の予定はないが、復帰の可能性は十分ある」と書かれていたこともあり、僕としては一安心していた。その後も情報は一切なく、「便りのないのは良い知らせ」と勝手に思い込んでいただけに、突然の訃報にショックを受けた。

 ダンの全盛期といえる80年代初頭、私はよく彼を「遅れて来たシンガー/ソングライター」と呼んだ。デビューこそ72年で、いわゆるシンガー/ソングライターが台頭した頃とほぼ同時期。だが初の全米トップ10アルバム『ツイン・サンズ』が78年と、一般的な認知度を高めたのはやや遅めで、その頃には前述のアーティスト達は既に地位を確立したり、ヒット・チャートの第一線から退きつつあったりと、シンガー/ソングライターの時代は終わりを告げていた。時代的にもディスコに替わってじっくりと落ち着いて聞かせる作風、いわゆるアダルト・コンテンポラリー(以下AC)、アダルト・オリエンテッド・ロック(以下AOR)がチャートの主流を占めるようになっていた。そんな時期に、繊細で抒情的なバラード「ロンガー」が大ヒット。永遠の愛を歌ったこの曲はウェディング・ソングとして現在も歌い継がれ(映画でもよく採り上げられる)、近年ではエア・サプライやベイビーフェイスにカヴァーされた。日本でもそこそこヒットし、後年もCMや、皇室のご婚礼番組にまでも起用された。全米ではその後もバラード・ヒットが続いたことで、ダンはAC/AORアーティストと見なされ、シンガー/ソングライターやウエストコースト系のファンからは軽視されてしまう。他方、一般的なAORアーティストと異なり、ダンはヴォーカル・楽器からプロデュース(『囚われの天使』以降)までほとんど一人でこなしてしまう(ウエストコーストの有名どころが必ず参加してはいたが)。また華やかな芸能界のスポットライトを避けてコロラドの山奥に住み、長髪にヒゲ(当時)といった風貌も手伝い、イメージ的にも「オシャレ」とは程遠い。こうしたことから、日本のAORファンからも敬遠された。さらに米国でカントリー系の低迷した80年代半ばにブルーグラス・アルバムを発表する等、タイミングの悪さも重なり、本国でもメインストリームから退く結果となってしまった。今さらどうにもならないことだが、もしシンガー/ソングライター全盛期の70年代前半に大ヒット曲が生まれていたら、もしエイゾフがアサイラム・レコードとの契約に成功していたら(実際、契約まであと一歩だったらしい)、ダンに対する現在の評価はもっと高かったと思われるだけに、残念ではある。しかし、彼の音楽は90年代に登場したアーティストたちに明らかに影響を与えており、中でもガース・ブルックスやビリー・ディーンはそれをはっきりと認めている。日本でも2007年8月に72〜81年の計6作が紙ジャケット/リマスターで発売され、ようやく再評価の機運が盛り上がりつつあっただけに、その早すぎる死が惜しまれてならない。今はただ、彼の冥福を祈り、そして素晴らしい音楽を残してくれたことに感謝しよう。最後に、彼の仲間たちから寄せられたコメントを弔辞とし、そして彼の公式サイトに掲載された謝辞でこの追悼文を締めたい。

 「ダンは美しい、天使のような声の持ち主だった。みんな気づいていないか、覚えていないかだろうけど、彼はものすごい高音のハーモニーを出せたんだ。(ブラウンの74年のアルバム『レイト・フォー・ザ・スカイ』で彼は)ドン・ヘンリーやJ.D.サウザーよりも高音で歌った。僕のフェイヴァリット・ソング(「懐かしき恋人の歌」)は、年末にスーパーマーケットで昔の恋人に再会する内容だった。認めたくないが、僕はその曲を聴いて泣いた。過ぎ去った時と、昔の希望や夢をもう一度思い出させる歌だ。彼は本当にエモーショナルなソングライターで、素晴らしいシンガーだった」(ジャクソン・ブラウン)

 「大勢の音楽業界の重鎮たちが僕に電話して来て、ダンがいかに彼らにインスピレイションを与えたかを話してくれた。ガース・ブルックスもその一人だ。彼は本当にインパクトのあるアーティストだった」(アーヴィン・エイゾフ)

 「ダンはいつも心の奥底から湧き出す曲を書いた。それは聞く人の心を捉えて離さない。彼は僕らを羨ましがらせた、何故って僕らが『書きたい』と思うような曲を書くからだ」(ジョー・ウォルシュ)

[公式サイトより]
 「ダンは12月16日の午前6時、この世を去りました。癌と勇敢に戦い、最期は妻のジーンに看取られて、メイン州の自宅で静かに息を引き取りました。病気に立ち向かっていく彼の力、気品、優美さは、彼を知る人全員を勇気づけてくれました」

 「親愛なる友へ。“The Living Legacy”のウェブサイトを通じて、ダンにたくさんのメッセージを寄せていただいたことに感謝します。彼の音楽がいかに皆さんの心に触れたか、彼への励ましの言葉、賞賛と友情の言葉。本当にありがとうございました。
 ダンは強く、プライヴェートな人でしたが、たとえ山が揺れ動くような、最もつらい時でも、皆さんのメッセージを読み、彼の音楽が皆さんの人生に光を灯していることを知り、心の慰めとしていました。
でも最も大きなものは、彼の人生が目的に適ったものだった、と皆さんのメッセージを通じて彼に知らせていただいたことです。
 皆さんが彼の音楽を聴いて感じた喜びや楽しさが、皆さんの言葉や祈りとなって彼のもとに戻って来た。そのことを知った皆さんが心の平穏を感じてくださいますように。
感謝をこめて」(ジーン・フォーゲルバーグ)

このページのトップへ