2007年9月 

<Now and Then> 
そんな事がありました (2)-1 青木啓さんとのアメリカの旅 本田 悦久 (川上 博)
 先月のこの欄に、青木啓さんと観たラスベガスの≪パール・ベイリー&サッチモ・ショー≫の話を投稿した1週間後に、青木さんが亡くなられたという悲しい知らせを受けた。3月2日に青山/BLUE NOTE TOKYOのヘレン・メリル・ショーでお会いして、終演後ヘレンとの再会を互いに喜び、会話が弾み記念写真を撮ったばかりだというのに。
永年に亘って家族ぐるみで親しくおつきあい頂き、大変お世話になった先輩であり、お目にかかると時を忘れて音楽談義に花を咲かせた大事な友人が亡くなられ、その寂しさに耐えがたい思いでいっぱいだ。心からご冥福をお祈り致します。
 思い起こせば、1958年にビクターの文芸部に入って、洋楽ポピュラーを担当した私がすぐにご縁ができたのが、当時ポピュラー音楽雑誌「ジューク・ボックス」編集長の青木さんだった。ポピュラー・シングル盤新譜紹介のページを、それまで書いていらした藤井肇さんに替わって、私がお引受けすることになった。新連載≪アメリカ名作曲家物語≫も、大橋巨泉さんと隔月交代で担当させて頂いた。作曲家のページはともかく、各社のヒット盤紹介をビクターの現役担当者が書くのは、公平に扱っても他社から見ればあまり楽しくないのでは・・・というわけで、筆名とすることになった。本田さんはドリス・デイ・ファンだからトリス・サダオ・・・という青木さんのご提案は、当時の安バーと間違えられそうなので遠慮して、贔屓にしていた巨人軍の川上選手が現役引退した時期だったので、その名を頂いて川上博とした。
 ビクターの洋楽部にいた関係で、海外出張が多かったが、そのうち2回は偶然青木さんのスケジュールと合って、1970年と1972年にアメリカでご一緒することができた。1970年の時は、サンフランシスコでのモータウン10周年コンベンションの後, 9月1日に青木さんとニューヨークで落ち合い、ブロードウェイのど真ん中に宿をとって、昼間は会社の仕事、夜は「ハロー・ドーリー!」「アプローズ」「プロミセス・プロミセス」、オフの「ファンタスティックス」「オー・カルカッタ」を観て回った。先にニューヨーク入りされていた青木さんは、このほかに「パーリー」をご覧になっていた。話題作は何と言っても「ハロー・ドーリー!」。続演7年目に入って客足が落ちてきたところで、6代目ドーリー役にブロードウェイの女王と謳われたエセル・マーマンが起用されて盛り返し、「マイ・フェア・レデイ」の最長記録2717回を抜く日が1週間後に迫っていた。エセルは全盛期を過ぎているとはいえ、声量も貫禄も十分。往年のカン高さが薄れて、聴き心地はむしろよくなっていた。この伝説のミュージカル・スターの舞台を観られたのは、大きな収穫だった。青木さんとのミュージカル観劇は、隣に座っていて、時には声をあげて笑い、体でリズムを刻みながらエンジョイされている様子がよく分かり、楽しさが倍増した。
 余談だが、当時のセント・ジェームス劇場のオーケストラ・シートが7ドル50セント、今は時に最高値が120ドル、随分と値上がりしたものだ。トニー賞に輝いた「アプローズ」は、映画「イヴの総て」のミュージカル化作品で、映画女優ローレン・バコールが初めてブロードウェイ・ミュージカルに挑戦、見事トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得した。「プロミセス・プロミセス」も映画「アパートの鍵貸します」のミュージカル版で、バート・バカラックの曲がヒットしていた。
 隣のニュージャージー州ウエスト・オレンジにエジソン博物館を訪ねた。元エジソンの研究所に蓄音機を中心とするエジソン製品を陳列しており、その後も何回か行ったが、青木さんとのこの時が最初だった。私は犬のマークのビクターの社員だから、蓄音機に対する愛着は一入だが、SP時代を知る青木さんだけに一台、一台丁寧に見て回られていた。
 ニューヨークの後、ニューオーリンズのプリザベーション・ホールでスイート・エマとディキシーランド・ジャズを聴き、ラスベガスでパール・ベイリーとルイ・アームストロング・ショーを観て、ロサンゼルス経由ホノルルに寄った。ホノルルでは、ハワイアン音楽の制作・編曲・指揮者ジャック・ディメロ、日本からの輸入盤店ホカマ(外間)ミュージック等を訪ね、日本語放送局KZOO放送に招かれて、青木さんとふたりで、洋楽ならぬ日本の流行歌や邦楽の話をしながらナマ放送のDJをやった。ふたりともNHK-FMのレギュラー番組を持っていたが、外国の放送に出るのは初めてだった。互いに若き日の懐かしい思い出である。合掌。(以下、次号に続く)

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