<おめでとう250歳! W.A.モーツァルト>
「ユニバーサル ミュージック モーツァルト大全集」特集
 −第7
回−


第5巻「ピアノ協奏曲全集」(4) UCCP-4015〜26(CD12枚組)
 CD7はニ長調K.451とト長調K.453。K.451はピアノの名手でもあったモーツァルト自身が「汗をかかされる」作品だと言っているように、それまでにない大規模な管楽器群を用いて響きの充実をはかり、ピアニストにも技術と体力を要求する曲。近代の難曲・大曲を弾きこなす内田光子は、練達の手腕で曲の充実ぶりを明らかにする。一方、K.453は愛らしい両端楽章の間に、ハ長調から突然ト短調に移る第2楽章の劇的な表現を挟んで、見事に弾きこなしている。
 CD8は変ロ長調K.456とヘ長調K.459。K.456はモーツァルトが皇帝ヨーゼフ2世臨席の音楽会で弾いて「ブラボー、モーツァルト君」と声をかけられた作品。K.459はレオポルト2世の戴冠式で弾かれたとされる曲。内田の演奏も堂に入っている。〈以下次号〉(青澤 唯夫)


第10巻「ピアノ四重奏曲&三重奏曲全集」UCCP-4027〜9(CD3枚組)
 この第10巻はすべてボザール・トリオの演奏で、四重奏曲のみヴィオラの名手ジュランナが加わっている。ザルツブルク時代に作られたピアノ三重奏曲第1番を除いてこれらのジャンルはすべて名曲が数多く輩出されている頃の作品である。事実ピアノ四重奏曲は2曲とも充実した内容を持っているが、ピアノ三重奏曲に於いては後世に残る名曲を残してはいない。これはモーツァルトが最初からピアノに主導権を持たせて作曲したからに他ならない。即ちヴァイオリンとチェロはピアノを引き立てるための道具と考えて作られている。これはヴァイオリン・ソナタの場合と同じ考え方であり、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのモーツァルトがここにある。
ボザール・トリオは、よくある大家3人の名人芸を競い合うトリオと異なり、あくまでもアンサンブル重視のトリオで、緻密な表現力を武器に室内楽の本質を極めた演奏をする。四重奏曲ではヴィオラのジュランナがトリオに見事溶け込んでおり。三重奏曲では前述の通りトリオではあるがピアノに大きな比重がかかっており、ボザール・トリオの演奏はヴァイオリンとチェロがモーツァルトの意図通りピアノを優しくサポートする演奏を心がけているようだ。特に最後の第6番ト長調K.564はほっとする気持ちを与えてくれる佳演である。〈この項完結〉(廣兼 正明)

第12巻「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ全集」(2) UCCP4030〜6(CD7枚組)
 
CD4には、第29番K.305、第30番K.306、第31番K.372、第32番K.376、第33番K.377が収録されている。マクシミリアン・シュタードラーが補完したK.372のみ、ロナルド・ブラウティガム(ピアノ)とイザベル・ヴァン・クーレン(ヴァイオリン)、その他はヴァルター・クリーン(ピアノ)とアルテュール・グリュミオー(ヴァイオリン)による演奏だが、ここでのグリュミオーは、クリーンのピアノをリードして、気品にみちた味わい深いモーツァルトを描きだしている。
 CD5には、ヴァルター・クリーンのピアノとアルテュール・グリュミオーのヴァイオリンによる演奏で、第34番K.378、第35番K.379、第36番K.380が収められている。いずれも録音は1982年。ここで聴かれるのは、大人の味わいをもつ演奏。誇張もなければ肩肘はったところもなく、落ち着いた雰囲気のなかで、モーツァルトの魅力的な旋律を満喫させてくれる。
 CD6に収録されているのは、アダージョK.396、第37番K.402、第38番K.403、第39番K.404、第40番K.454、第41番K.481。K.396からK.404までの未完の作品群を演奏しているのは、豊かな表現力をもつロナルド・ブラウティガム(ピアノ)とイザベル・ヴァン・クーレン(ヴァイオリン)。K.454とK.481を演奏しているのはヴァルター・クリーン(ピアノ)とアルテュール・グリュミオー(ヴァイオリン)。とりわけK.402は、完成したら見事な作品になったと思われるが、未完に終わってしまって残念。
 CD7には、このジャンルの最高傑作と考えられる第42番K.526、ピアノ・ソロのためのソナタK.545と対をなす第43番K.547《初心者のために》、<羊飼いの娘セリメーヌ>の主題による12の変奏曲K.359、<ああ、私は恋人を失った>の主題による6つの変奏曲K.360の全4曲が収められている。K.526とK.360はヴァルター・クリーンとアルテュール・グリュミオー、そしてK.547とK.359はロナルド・ブラウティガムとイザベル・ヴァン・クーレンによる録音。グリュミオーもクーレンも端正ながら味わいのある演奏を聴かせている。モーツァルト晩年のソナタが二重奏アンサンブルとしての充実した内容をもつことを、実感させてくれる好演である。〈この項完結〉(横堀 朱美)

第13巻「ピアノ・ソナタ全集」(4) UCCP-4037〜41(CD5枚組)
 CD4はソナタ・ヘ長調K.332、変ロ長調K.333、ハ短調の幻想曲K.475とソナタK.457の4曲
K.332は激しい情熱をたぎらせる演奏で、内田光子の面目躍如。K.333は人気の高い曲だが、内田の演奏は克明なタッチで、典雅さのなかに落ち着きと協奏曲のようなスケールの大きさを感じさせる。ハ短調の幻想曲とソナタは、対位法や半音階を重用した音楽的内容の深さを、重厚なタッチで、ドラマティックに激しく演奏している。〈以下次号〉(青澤 唯夫)


第14巻「ピアノ、チェンバロとオルガンのための作品集」(6)
UCCP-4042〜50(CD9枚組)

 CD8は「アダージョとアレグロ」ヘ短調K.594、幻想曲ヘ短調K.608、「アンダンテ」ヘ長調K.616、「モルト・アレグロ」ト長調.72a、「前奏曲とフーガ」ハ長調K.394、「アンダンティーノ」変ホ長調K.236を、マリー・クレール・アラン門下のオルガン奏者トーマス・トロッターが堅実に、しかも語り上手に演奏している。前半の3曲はゼンマイ仕掛け、あるいは機械仕掛けの〈自動オルガン〉のために作られた曲で、現在では4手のピアノ曲として演奏されることが多いが(モーツァルト自身による4手ピアノ版もある)、オルガンで聴く味もまた格別。K.394は「幻想曲」と呼ばれることが多いが、原題は「プレリュード」。あとの2曲は1分そこそこの小曲だが、これは貴重な聴きもの。 〈以下次号〉(青澤 唯夫)

第21巻「ミサ曲全集」UCCP-4071〜7(CD10枚組)
 モーツァルトはミサ曲の創作に12歳から携わり、絶筆のレクイエムを除くと35歳の短い生涯で、20代前半までにその大半が集中する。当全集に納められた演奏はいずれも、モーツァルトが生地ザルツブルクの宮廷音楽家として、若くして凄腕を利かせていたことを如実に示すと同時に、そのミサ曲全体が2つの極を明確にした1つの美しい楕円を形作っていることも物語っている。つまり、K.220やK.140などハ長調、ト長調の調性をメインに清らかな聖なる響きを醸す一方の極と、K.65、K139のようなニ短調、ハ短調の♭系の短調を用い、人間の悲哀や痛苦に真摯に向き合う眼差しと、厳粛かつ透徹した響きのようなもう1つの極である。この2つの極が7枚のCDにくっきりと刻まれている。マティス、シュライアー、ブルチュラーゼらソリスト陣、ライプツィヒ放送合唱団、ウィーン少年合唱団、ライプツィヒ放送交響楽団、ウィーン交響楽団、ベルリン・フィルほか。指揮はケーゲル、デイヴィス、カラヤン。〈この項完結〉(宮沢 昭男)

第22巻「宗教曲作品集」(UCCP-4078/84)(CD7枚組み)
宗教曲とオペラは一見、対極的な世界。だが第22巻を聴くと、ウィーンに出たモーツァルトがオペラで大成を遂げる背景には、生地ザルツブルクでの膨大な量の宗教曲作品を手がけたことと深く関係していたことが肯ける。モーツァルトにとって、詩と音楽、あるいは声と音楽は生涯的なテーマとなったわけだ。それをどのように表現するか、宗教曲かオペラかという主体的な問題こそ、フランス革命を直前に控えたモーツァルトの人生的な課題だったのだ。ソプラノ、シュレンベルガー=エルンストの歌う「レジナ・チュリ」K.108を聴くだけでもそのことは明瞭になる。15歳の作である。K.195の壮大な曲では、ソリスト陣とライプツィヒ放送合唱団の見事な掛け合いが聴き応えを作る。演奏は第21巻のメンバーのほかに、マリナー指揮、シュトゥットガルト放送交響楽団、ロンドン交響楽団・合唱団も。〈この項完結〉(宮沢 昭男)

◇その他のモーツァルト
「モーツァルト:ホルン協奏曲集(全曲)/ヨハネス・ヒンターホルツァー(ホルン)、アイヴォー・ボルトン指揮、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団」(BMG JAPAN BVCO-37431)
 このところのザルツブルク・モーツァルテウム管の質は昔に較べ格段に良くなってきている。CDでホルンのソロを吹いているヒンターホルツァーはこのオケのメンバーだが、このCDを聴くと彼が世界でも第一級のホルン吹きと言われていることが理解できる。ここではホルンとオーケストラのための曲の断片を含めたすべてを聴くことが出来るが、協奏曲第1番ニ長調K.412、ロンドニ長調K.514、ロンドー変ホ長調K.371の3曲でヒンターホルツァーはナチュラル・ホルンを用い、その魅力をモダン・ホルンと比較させている。彼の柔らかな音色、そして奏法が難しいナチュラル・ホルンをこれ程までに軽々と吹きこなしてしまうテクニックを、バックの秀逸なオケの伴奏で楽しめる。(廣兼 正明)

「モーツァルト:ピアノ・ソナタ集VOL.?/ロバート・レヴィン(フォルテピアノ)」(BMG JAPAN BVCD-38168~9〔2CDs〕)
 音楽学者でピアニストのロバート・レヴィンがフォルテピアノを弾いて自身の演奏解釈で表現した実践版モーツァルトのピアノ・ソナタ集である。今回は第1番ハ長調K.279(189d)、第2番ヘ長調K.280(189e)、第3番K.281(189f)の3曲で、1枚目が演奏CD、2枚目が第1番第3楽章を題材とした講義のDVDである。彼の校訂楽譜も日本を含め世界のいくつかの国で発売されているので、レヴィン版を演奏する人にとっては最高のプレゼントとなるであろう。レヴィンは19世紀以降の聴衆がモーツァルトを美化しすぎて流麗な演奏を好むようになり、当時を蘇らせるものでなくミイラのようにしてしまったと嘆く。モーツァルトは当時の雑多な人間社会に生きていたのだからそれは違うと断言する。また軽快な音が出せる楽器で演奏すれば、モーツァルトを理想的に表現できる、そしてそれにはフォルテピアノが最も適しているのだとも言う。レヴィンの主張には強い説得力がある。(廣兼 正明)

「モーツァルト:歌劇《皇帝ティートの慈悲》/ V.カサロヴァ(M.Sop)、C.カストロノーヴォ(Ten)、V.ジャンス(Sop)、M.ブリート(M.Sop)、A.ヴルガリドゥ(Sop)、P.バッタリア(Bass)、ピンカス・スタインバーグ指揮、ミュンヘン放送管弦楽団・合唱団」(BMG JAPAN BVCC-34141~2〔2CDs〕)
 このオペラ・セリエ「皇帝ティートの慈悲」ではホーゼンローレ(男役)のセストを演じるアルトのヴェッセリーナ・カサロヴァの素晴らしさを先ず挙げなければならないだろう。今やセスト役の最右翼に位置するカサロヴァの人気は声質の良さ、見事なテクニック、それに加えて男役としての凛々しい容姿で観客を魅了している。第1幕第9曲のセストのアリア「私は行く、でも、いとしいあなたよ」ではうってつけのセスト役、カサロヴァの魅力のすべてが凝縮されており、至難なコロラテューラ的なパッセージを完璧に歌い上げている。又、ティートを演じるカストロノーヴォ以下のソリスト陣とスタインバーグ率いるミュンヘン放管、合唱団も、台本のつまらなさをカバーして余りあるモーツァルトの音楽に呼応して熱演。 (廣兼 正明)

「スウィンギン・アマデウス〜モーツァルト・ミーツ・ジャズ」(エムアンドアイカンパニー/MYCJ-30391)
 モーツァルトの生誕250年に合わせてジャズ版モーツァルトもいくつか発売されているが、本作はいろいろなアーティストが演奏したものを集めたコンピレーションなので、ヴァラエティに富んでいてとても楽しい。オイゲン・キケロの「キラキラ星変奏曲」にはじまり、ヨーロピアン・ジャズ・トリオの「哀しみのシンフォニー」やアーロン・デイール・トリオ、ジョージ・ケイブルス、レイ・ケネディ・トリオなどピアノ・トリオらが演奏しているが、モーツァルトの曲がいかにジャズ化にふさわしいかがよくわかるし、自由なジャズ化を満喫することができる。(岩浪 洋三)

 ジャズに編曲されるクラシックの作曲家というと、バッハが最右翼ではないだろうか。実際バッハの活躍した時代は即興演奏が当たり前で、その点ジャズとの共通点がよく指摘される。とはいえ、ではヴィヴァルディのようにバッハと同時代の有名作曲家の作品がよくジャズ化されるかというとそうでもなく、そのあたりはバッハの音楽のかっちりした構成がかえって幸いしているように思う。
今回、モーツァルト作品のジャズ化を初めて聴いてみたのだが、あっと思ったのはその自由度。バッハよりはるかに原曲が崩されている。原曲がほとんど分からないものもあった。モーツァルト作品の自由奔放さゆえだろうか。それでいて不自然さがまったくないのは、一流のジャズマンたちの力にもよるのだろう。(加藤 浩子)

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