私のベスト… 2010年6月号 

ジミ・ヘンドリックスの「Little Wing」に惚れた結果・・・池野 徹
 1999年6月11、12日にロンドン/ウエンブレイ・スタジアムでローリング・ストーンズを観た。その興奮を醒ますのに、ひとつの目的があった。何としても行きたい場所があったのだ。翌日、ウオータールーから、列車に乗り込み、イングランドの美しい田舎風景を飛ばし見しながら、ポーツマスに着く。軍港で世界条約が結ばれた有名な所だ。そこから、フェリーに乗り、目的のワイト島へ向かったのである。ライドピアに着き、可愛らしい電車でシャンクリンに到着、ボンチャーチ・マナー・ホテルに宿泊。翌朝、車を依頼してもらい、1970年8月30日に行われた≪ワイト島フェスティバル≫の跡地へ向かったのだった。

 美しい断崖絶壁のニードルズをたどり、その跡地とされるアフトン・ダウンの地に立った。此処で、あのジミ・ヘンドリックスが演奏したと思うと、今は何もない草原とその先は崖っぷちの場所で、ただ、吹き抜ける風の中に、ジミの「Little Wing」の囁きと、ギターリフを瞑想するしかなかった。この静かな小さい島に、世界から聴衆が現れて消えていったのだ。ジミ・ヘンドリックスは、その19日後の、9月18日、ロンドンのサマルカンド・ホテルで昏睡状態になり,死亡した。27歳だった。

 1942年11月27日、ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)は、ワシントン州シアトルで、黒人の父親とインディアンの母親のもとに生まれた。1943年、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーとキース・リチャーズが生まれている。一年違いなのだ。ミックとキースは現在も健在である。ジミが生きていてもおかしくはないのだ。しかし、ジミは、1970年、ロンドンで謎の死を遂げる。あまりにも早過ぎる死であった。もう、死後40年にもなる。しかし、ロック界における、希有のギタリストとして、今も燦然と輝いている。

 1966年から、ジミ・ヘンドリックスとエクスペリエンスを結成、ベースのノエル・レディングとドラムスのミッチ・ミッチェルと活動を始める。シングルで「Hay Joe/Stone Free」をリリース、モンタレイで火がつき、ジミの、図抜けたギター・プレーは、インプロヴィゼイション(アドリブ)能力の凄さを見せつけ、エリック・クラプトンや、ジェフ・ベック等のプロのミュージッシャンにも注目されたのである。その後、ビートルズやストーンズのメンバーも、ジミのコンサートに頻繁に現れたという。右利きのギターを左利きにして、ルースなガットで独特のチョーキング、そしてその音質は、ドラッグ世界に浸らなくてもその世界観をオリジナルで表現していた。

 ジミが一躍注目を集めたのが、1967年の夏、カリフォルニアのモンタレーでの野外ロックフェスティバルに、ジミ・ヘンドリックとエクスペリエンスとして参加。ストラトキャスターを焼くというパフォーマンスで、9万人の聴衆の度肝を抜いたのである。1967年10月30日、2ndアルバム「Axis:Bold As Love」完成。12月1日イギリス発売。1968年1月アメリカ発売。そのセットリストの6番目に「Little Wing」が登場している。

 1969年、もう一つの歴史的な野外ライヴがあった。ニューヨーク州北部で行われた≪ウッド・ストック・ミュージック・アンド・アートフェア≫、40万人の若者が、8月15日から18日までの三日間一堂に会したのだった。ジミ・ヘンドリックスは最終日の朝登場。「Star Spangled Banner」アメリカ国家をやったのだ。そのギター・サウンドは、ヴェトナム戦争へのプロテストか、ジェット機の轟音を創りだし、民衆の頭上を低く高く、音波攻撃したのである。このギターは、若者達に深く突き刺さったサウンドであった。

 「Bold As Love」の冒頭の曲「EXP」アナウンサーが、「Good Evening, Ladies and Gentleman Welcome to Radio Station EXP.....」と切り出す、その声質がフェイクされて高くスピードで動き出す。そしてエンディングは、CCの高いバイクが左右のスピーカーを駆け巡る。このサウンド一発で引きずり込まれてしまう。はっきり言って、現代に聴くサウンドと当時聴いていた時とあまりにも環境が違うので何とも言えないが、ジミの創りだしたこのサウンド世界は、ブルージーなサウンドであり、ドラッギイ・サウンドであり、サイケディリック・サウンドであったのは間違いない。つまり、ジミの曲は、ドラッグを体験しなくてもそのサウンド自身が、既にその世界へ達していたのである。マリファニックな世界を経験した人なら理解できるだろう。

 その中で、わずか2分24秒の曲「Little Wing」は、愛の曲であるには違いないが、♪夢の世界、蝶々に縞馬、月明かりの中、風にまたがりやって来るあなたは、悲しいときの自分に、何千もの微笑みを振りまいてくれ、大丈夫よ、私の何でも持って行ってらっしゃい、大丈夫よ, Fly On Little Wing・・・♪と、ジミの女性に対する思いと、母親に対する思いと、シャイな一面を「小さな羽」と言う言葉で結んでいる。鉄琴の響きが印象的で、淡々と歌うジミの声が潜り込み、ギターのウエーブが聞こえる。この曲が、このアルバムでいちばん印象に残ったのである。この曲は、プロのミュージッシャンにもフェバリット・ソングになったと後に聞いた。何故だろう。ジミの気持ちが端的に現れている気持ちを優しくしてくれる、心を救ってくれる天使の曲だった様な気がするのだが。

 そして、このアルバムの曲目の「EXP」から「Bold As Love」の13曲で言えることは、ジミとは、遊離してたかもしれない夢の世界の自然な世界への憧れ、色彩カラーの表現が多い。対照的にオンステージ上での、ジミのパフォーマンスは、過激だった。ミリタリー・ルックで、エリクトリック・ヘアで、ギターを投げる燃やす、歯で弾く、そのワイルドさが強調されたが何より、エレクトリック・ギターとしてのエフェクターを多用し、歪ませたりするファズ、ウエーブさせるユニヴァイブ、と音質に対してジミ・ヘンドリックス流フェンダーのストラトキャスターギター奏法は、誰にも追随を許さなかった。

 「Little Wing」は、自分の惚れた曲だが、ミュージッシャンにも好かれていた。カヴァー・ソングで、やはり亡くなってしまったが、ブルース・ギターの名手、スティーヴィー・レイ・ヴォーン(Stevie Ray Vaughan 1954-1990)が、1984年にニューヨークのパワーステーションで録音したものを、1991年、未発表音源として発売のアルバム『The Sky Is Crying』でパフォームしている。インストゥルメンタルのみで、スティーヴィーのストラトキャスターが、力強く、時にはソフトにブルース・ギターの神髄で聴かせてくれる。ズンズンと染み込んでくるサウンドだ。ジミの鬼才振りを、淡々と何と、6分40秒あまりに渡ってパフォームされ、エンディングはデクレッシェンドして消える。

 スティーヴィーは、ジョニー・ウインターの眼にとまり、1978年「Double Trouble」というオーティス・ラッシュの曲からとったバンド名にして、1982年モントルー・ジャズ・フェスティバルにデヴィッド・ボウイのバックバンドで参加、アルバム『Texas Flood』でブレイクした。1985年に来日公演している。後、グラミー賞を穫り、ジェフ・ベックと世界ツアーをやり、1990年、濃霧のためヘリコプターが墜落、亡くなった。

 もう一曲の「Little Wing」は、タック&パティ(Tuck & Patti)で、ギターのタック・アンドレスとヴォーカルのパティ・キャスカートのジャズの夫婦デュオである。1978年スタジオ・ミュージッシャンだった、タックとゴスペル・シンガーだったパティが意気投合して1981年に結婚。それ以来ギターとヴォーカルのみで世界を駆けている。何度も来日公演を行っている。何時聴いてもふたりの絶妙なアンサンブルは、そのレパートリーの、ジャズのみならず、ロック、ソウル、バラードと幅広い。ギターひとつで音の創りを表現してしまうタックと、ホイスパーリングな歌い方から、パワフルなヴォイスまで楽しめるパティのデュオは何時まで続くのだろうか。

 1989年のアルバム『Love Warriors』で、ややジャズっぽくソウルに歌うこの「Little Wing」は、副題に「Castles Made Of Sand」とあり、詩がインサートされている。5分57秒におよび、まさに、愛のデュエットになっている。一日の喧騒から逃れる時間帯に聞く貴重な音源になってくれるだろう。

 私は、1989年パリで、"Coppertone"のコマーシャル撮影をした。私が、クリエイティヴ・ディレクターで、その時、モデルに「イヤー・オブ・ドラゴン」に出演のアリアンヌを起用、カメラマンのスティーヴ・ハイエットに撮ってもらった。そのスティーヴは、ジミ・ヘンドリックス好きで、翌年、マルセイユでローリング・ストーンズを観た帰り、パリの彼の家で再会した。スティーヴは、ギタリストでもあり、日本のソニーからアルバムも出していた。ちょうど私の息子も同席しており、ギター・セッションを始めた。ジミのギター奏法を語りながら、スティーヴに、ジミの「Little Wing」が好きだと言うと、同感して、1968年のパリのライヴほかの秘蔵テープをプレゼントされた。ジミのテンポの違う「Little Wing」(3)ヴァージョンを手に入れる事が出来た、感激だった。

 日本に一度も来れなかったジミ・ヘンドリックス、音源を通じていろんな人と出会える楽しみは、若き日の貴重なエンタテインメントの財産だ。ジミの父アル・ヘンドリックスは、日系二世の女性、アヤコ(フジタ・ジューン・アヤコ)と再婚している。ジミはこれを歓迎して、1970年のハワイ・コンサートの後に日本へ行きたいと言っていたそうだ。しかし、夢かなわず日本には来れなかった。何としても悔しい。

 あれから40年の時を経ているが、いまだに、ジミ・ヘンドリックスのギター・サウンドは、生きている。世界は、人々は、相も変わらず生存しているが、国家的争いは存在し、血で血をあがなう争いは、顕在し、貧富の歪さに翻弄され、急速に地球環境に火がつきはじめ、人間愛が、かすれだして来ている。ジミよ、「小さな羽」では、飛べなくなって来ているんだよ。いまこそ、ジミ・ヘンドリックスのギターで、現代人の頭を強烈なチョーキングで叩いてやって欲しかった。そして、Fly On Little Wing!

jimi Hendrix/Axis:Bold As Love(CD+DVD, Limited Edition)


Stevie Ray Baughan/The Sky Is Crying


Tuck & Patti/love Warriors(Import, from US)

ハワイ最高のヴォーカリストはイズラエル・カマカヴィウォオレ!
「Facing Future/Israel Kamakawiwo'ole」(The Mountain Apple Company)
・・・鈴木 修一
 ハワイアン・ミュージックのCDを聞いてみたいと言われたら、このアルバムを薦めれば間違いがない。ハワイ最高のヴォーカリスト、世界で最も名前が知られているハワイアン。尊敬を込めてイズ(IZ)と呼ばれている、イズラエル・カマカヴィウォオレの作品だ。彼は1997年に38歳で亡くなった。原因はあまりにも大きくなってしまった身体に彼の心臓は耐えられなかったため。プロデューサーのジョン・デ・メロは亡くなるとき体重が450キロもあったと教えてくれた。ちなみに、身長も193センチ。
1974年、イズは兄と地元の仲間3人で≪マカハ・サンズ・オブ・ニイハウ≫を結成し地元のパーティー・バンドとして活動をはじめた。そして、76年にデビュー・アルバムをリリース。これが大ヒット。その後、グループのリーダだった兄の死などがあり93年にはグループから独立しソロとして活動をはじめた。
アルバム『Facing Future』は、ソロになって最初のアルバム(グループ在籍中の89年にもソロ・アルバム『Ka `Ano`i』をリリースしている)。ビルボードのチャートでも長い期間上位にランキングされた。イズの魅力は何といっても、その歌声にある。優しく、表現力が豊かで甘い。高音は心地よいビブラートがかかり、聴く者をハワイへ誘う。

 そして、彼が奏でるマーティンのウクレレもシンプルで優しい。このアルバムのオープニング、エンディングの「Hawaii 78」では、父親の死について語り、エンディングでは失われていくハワイ文化を悲しみ思いをはせている。ハワイ文化の保護に熱心であった彼の気持ちが込められている。

 そして、彼が世界中で人気がある理由は、ハワイアン・ソングにこだわらず、幅広い曲を彼のスタイルとして歌ったことだろう。このアルバムでも「Somewhere Over The Rainbow〜What A Wonderful World」この有名なスタンダード曲をウクレレだけでメドレーとして歌っている。この曲は、TVドラマ「ER」でグリーン先生が亡くなる場面で流されたり、映画「ジョー・ブラックをよろしく」「小説家を見つけたら」のエンディング・ソングにもなり注目を集めた。

 どんなスタイルの音楽でも自分のスタイルにしてしまう、この才能に驚かされる。ぜひ一度ハワイアンというジャンルを超えて聴いてもらいたい一枚だ。

 このアルバムには、ギターでローランド・カジメロ、キーボードでカラパナのメンバーであるゲイロード・ホロマリアが参加している。

 余談だが、「Somewhere Over The Rainbow」は、ジュディー・ガーランド主演ミュージカル「オズの魔法使い」の主題歌「Over The Rainbow」。なぜか、このアルバムでは”Somewhere”が付いている。その後のCDに収録されたときはなくなっている。

 さらには、イズが歌っている歌詞が、かなり原曲と違っている。彼はこういう歌詞だと思い込んで歌っているらしいが、このあたりも実にハワイ的ではあるとも言えるが、この曲の作者に対してはどうなのであろうか・・・。このことについては、小林正己氏の「ハワイアン音楽快読本」に詳しく書かれているので興味のある方は読んでいただきたい。

 彼が亡くなったとき、遺体はハワイ州議会議事堂に安置され、多くの人が別れに訪れたという。彼がハワイの人達に本当に愛されていたエピソードである。私は、彼のライヴを見られなかったことが本当に悔やまれる。

Facing Future [Import] [from US]


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