岩浪 洋三
「水にながして/岸洋子 シャンソン・アルバムVOL.2」(キングレコード/LKF1231)
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今はジャズに関わる仕事が多いが、松山にいた学生時代はエヒメ労音の創立にかかわり、シャンソンもよく聴き、永田文夫発行・編集の『シャンソン』を毎月購読していた。 1957年に上京して『スイングジャーナル』の編集部に入ってからも、よく「銀巴里」へシャンソンを聴きにいった。
59年頃だったか、ある日、この店で聴いた新人女性歌手の歌に衝撃を受けた。それが岸洋子の歌った「愛の賛歌」だった。エディット・ピアフの「愛の賛歌」にも匹敵する感動を受けた。愛のよろこびと悲しみを力一杯に歌い上げていて、心を打たれた。彼女は東京芸大で学び、オペラ歌手をめざしたが、胸を悪くし、クラシックをあきらめ、シャンソンに転向したのだった。その挫折感も彼女の歌の原核になっていたのかもしれない。「愛の賛歌」だけでなく、ジルベール・ベコーの「雨の降る日に」や「たわむれないで」「急流」「群衆」など、どれもすばらしく、毎日でも聴きたくなり、ぼくの岸洋子の追っかけが始った。あまり足しげく通ったので、口をきき、親しい友人になった。その頃の彼女の「銀巴里」での出演料は税込1000円だった。それでラストまで聴いた夜はよく一緒に電車で帰った。井の頭線の彼女が永福町で、ぼくは少し先の高井戸だった。
彼女の歌には自然なグルーヴ感やスイング感があったが、彼女はジャズも好きで、月に一回、ジャズ・ピアニスト、鈴木敏夫にジャズも習っていた。新人の彼女はまだレコードを出していなかったので、ぼくが親しくしていたビクターのプロデューサー伊藤信哉に「すごいシャンソン歌手がいるから聴きに行こう」と何度か誘ったが、彼は「日本にうまいシャンソン歌手がいるわけがない」と一笑に付し、一度も聴きにこなかった。岸洋子の人気はしだいに広がり、「日航サロン」や新橋のシャンソンの店にも出演するようになった。しばらく経った60年頃だっただろうか、岸洋子から「ちょっと相談したいことがあるので、会ってほしい」と電話があり、銀座の喫茶店で会った。相談というのは、ポリドールとキングレコードから契約を同時に申し込まれたが、どちらと契約した方がいいのか迷っているというのである。そこで、ぼくはキングレコードの方がシャンソン歌手やポピュラー歌手を大切にしてくれるだろうから、絶対キ同社にしなさい、とアドバイスした。しばらくして彼女から電話があり、キングレコードと契約したとのことだった。
キングレコードと契約してからの彼女は順調そのもので、次々にアルバムやシングル盤が発売になった。しかも彼女が歌いたい歌がつぎつぎに録音され、発売されたから、彼女の個性も得意曲も広く一般に知られるようになった。1960年代のはじめというのは、25センチ盤の全盛期であり、彼女の第1作に当る25センチ盤『たわむれないで』は、61年6月に発売になり、「たわむれないで」「雨の降る日に」「群衆」といった代表的ナンバーが収められていたし、前2曲は同時にシングル発売された。そして翌62年5月には25センチ盤の第2作で、ここにジャケットを掲載した『水にながして』が発売された。この中にはぼくがもっとも感動した「愛の賛歌」や「急流」「水に流して」が収められていた。さらに、この2ケ月後に古いシャンソンの名曲を収めた『人の気も知らないで』が発売され、有名な「ラヴィアン・ローズ」「パリの空の下」「人の気も知らないで」「パリ祭」のほか、ふたたび「愛の賛歌」が収められた。ついで発売されたのが、彼女が好きで、得意にしていたベコーの歌の数々で、『岸洋子ベコーを歌う』だった。なんと、ジャズの猪俣猛とウエスト・ライナーズ・ウィズ・ストリングズの共演で、編曲はジャズの前田憲男だった。ベコーはフランスでも、ジャズ的要素をもった歌手であり、当時ベコーの歌をこなすことのできた日本の歌手は岸洋子をおいてほかにいなかったといえる。彼女の人気はうなぎ昇りで、キングレコードの人気シンガーの数少ない一人となった。
やがて、彼女は初のリサイタルを開くことになり、そのプログラムには、ぼくも寄稿した。その頃、ぼくは「スイングジャーナル」の編集長をしていて、彼女にジャズのエッセイを依頼した。彼女は簡単に引き受けたのだが、締め切りに間に合わず、ぼくが代筆して載せた苦い想い出もある。キングレコードでの彼女の地位はうなぎ昇りで、シャンソンだけでなく、日本製のポップスも歌うようになり、「夜明けの歌」で、ついに日本レコード大賞を獲得するまでの歌手になった。キングレコードとの契約をすすめたぼくも肩の荷を降ろし、ホットしたのを覚えている。ただ、晩年の彼女は病に苦しみ、若くしてこの世を去ってしまったのは残念でならなかった。
彼女が亡くなって、何年か経ってから不思議なことがおこった。ぼくは三鷹の1年制英語学校「武蔵野外語専門学校」の講師をしているのだが、80年代だったか、この学校に一人、ふしぎな30代の女性が入学してきた。岸と名乗った。最初は気がつかなかったのだが、オリエンテーションで、学生と先生が一緒に合宿したとき、彼女から話を聞いてびっくりした。なんと岸洋子の姪だった。そういえば、大柄で、何となく岸洋子に似ていた。2人で一晩、岸洋子について思い出を語り合った。卒業後、彼女は不動産の仕事をし、何度か手紙のやりとりをした。今はどうしているのだろうか・・・。
それから、また何年か経ち、90年代の終りだったかに、産経新聞主催の国際文化賞のパーティーに出かけたら、元総理の中曽根康弘氏がおられたので、話しかけることにした。というのは、氏が岸洋子の初リサイタルのプログラムに寄稿していたからである。なんでも、中曽根氏はまだ新進議員だった頃、よく「日航サロン」などへ岸洋子の歌を聴きに行っていたという。氏も彼女の追っかけの一人だったのだ。「今日は岸洋子の話が出来て、とてもすてきな一日になった。ぼくも初リサイタルのプログラムを失くしてしまったので、ぜひ探し出して、そのコピーを送ってほしい」と頼まれた。その後、探しているのだが、見つからない。どなたか持っている方がいたら、連絡してほしいし、そのコピーを送ってほしい。
岸洋子の歌は今でも大好きで、古いLPを引っ張り出してときどき聴いている。彼女のような心の真実を歌い上げた日本のシャンソン歌手は当分、現れそうもない。
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