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鈴木 道子
ミュージカル『ウェスト・サイド・ストーリー』
私がまだ文化放送にいた頃だった。プロデューサーになるちょっと前の短い間、レコード室に勤務していた。ライターの人だったと思う、突然部屋に飛び込んできて、「『ウェスト・サイド・ストーリー』、ありますか?]、と急き込むように言った、「観てきたんですよ。素晴らしくて感動した!」。「さあ、ないんですけど」と初めて耳にするミュージカルの名前に戸惑いながら、とにかく輸入レコード店に聞いてみると約束した。1958年のことだ。
それから間もなく手に入って、私も聴いてみてビックリした。ぴーんと張った緊張感の中に、実に活き活きと展開する音楽の魅力。その質の高さ。このミュージカルの真髄は、その後、本物の舞台を観てさらに納得した。映画も素晴らしかった。そして台本を読み、歌詞を読んで感動はより大きくなった。『ウェスト・サイド・ストーリー』はアメリカン・カルチャーの総合芸術の極みだ!
ビルボード誌がアメリカ建国200年記念号を出すにあたって、世界のクリティックにアンケートを出し、ベスト1を選んで欲しいという依頼があった。私は迷わずミュージカル『ウェスト・サイド・ストーリー』を推した。
この作品は周知の通り、振付・演出家のジェローム・ロビンスが発案し、作曲家のレナード・バーンスタインに相談した。当初からシェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の物語を下敷きにしていたが、最初は『イースト・サイド・ストーリー』とする予定で、カソリックとプロテスタントとの抗争の中に咲いた初恋を描くものと考えられていた。が、第2次世界大戦後に起きた移民問題の激化に着目し、ニューヨークへ大量に入ってきたプエルトリコ人と、古くからいたイタリア系などのアメリカ人の若者たちの抗争をテーマに、ラテン系居住区ウェスト・サイドを舞台にすることにした。宗教問題より移民問題の方がはるかにインパクトがあり、時代に即応した見事な社会派ミュージカルとなった。歌詞はスティーヴン・ソンドハイム、脚本はアーサー・ローレンスが担当している。
曲ではアリアとしての「マリア」「トゥナイト」が特に有名で美しいが、ジェット団とシャーク団の決闘を前にして、思い思いの思いで今宵こそと歌われる「トゥナイト」の「クインテット」が素晴らしい。舞台では暗闇の中に5箇所に配置されたリフとジェッツ、ベルナルドとシャークス、トニー、マリア、アニタたちに次々とスポットライトが当り、見事な5重唱が繰り広げられる。さすがにクラシックの巨匠バーンスタインだ。
「アメリカ」「クラプキー巡査どの」などは歌詞と音楽の融合が素晴らしい。痛烈な社会批判が展開される。前者ではプエルトリコとアメリカの置かれた状況の落差や望郷の思いがセンチメントとウィットをもって歌われ、後者では少年犯罪が不良少年たちの口から語られるのも面白い。「体育館でのダンス・パーティー」はブロードウェイ・オリジナル・キャスト盤に軍配を上げたい。「ブルース」もいい。「マンボ」「チャチャチャ」のダンスと音楽の迫力は圧倒的だ。61年に映画化された時は「ブルース」はモダナイズされて分厚いロックになっていたが、素朴な迫力に欠ける。ラテン・ダンスはオリジナル・キャストのダイナミズムが見事。魅了されてしまう。
『ウェスト・サイド・ストーリー』の魅力については、バーンスタインのオリジナル・スコアによるメイキングのビデオ(キリテ・カナワ、ホセ・カレーラス他)なども含めてまだまだ書きたいことが一杯あるが、音楽ひとつとっても最高。バーンスタインはクラシック以外のジャズ、ブルース、ロック、ポップ、ラテンなど広いジャンルの音楽にも精通して、スコアに活かしている。ロビンスの切れのいい目も覚めるようなダンスは、世界に影響を与えるものだった。ジョージ・チャキリスの長い足、若者たちの一斉にパッと足を上げる冒頭シーンなどのかっこよさは、マイケル・ジャクソンの「スリラー」が登場するまで、あらゆる場面でコピーされていたものだ。ソンドハイムの美しくウィットに富んだ見事な歌詞も勿論だし、ローレンスのよく出来た物語構成なくしては名作は生まれない。かの有名なバルコニーはじめニューヨークの街角が巧みに置かれたオリヴァー・スミスの装置も含め、すべてが有機的に結びついて、最高の総合芸術となっているのが、『ウェスト・サイド・ストーリー』だ。
今日本では『50周年記念ツアー』が話題となっているが、ブロードウェイ初演は1957年9月26日。ウィンター・ガーデン劇場。去る3月からNYのパレス劇場で行われているリバイバル公演は、脚本のローレンスの演出で、プエルトリコの若者たちを強調してスペイン語が多く取り入れられているとの情報もある。
オリジナル・ブロードウェイ・キャスト盤
(ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル/ SICC1104)
サウンドトラック(MHCP385)
大橋伸太郎
「クリムゾン・キングの宮殿」In The Court Of Crimson King An Observation by King Crimson(英ISLAND ILPS9111)
レーベル契約の問題でこのレコードは、日本ではしばらく発売されなかった。『ミュージックマガジン』の(記憶では)創刊3周年の記念号でロックの名盤の1枚として選ばれ、その存在を初めて知ったのである。私の他にもそういう方は多いのではないかと思う。ビートルズやストーンズ、ツェッペリンの超有名作に混じって、タイトルを始めすべて英語クレジットの輸入盤が紹介され、中村とうよう編集長自ら執筆した紹介文が、中学生だった私の心を強く惹きつけた。そこには、確かこう書かれていた。「このアルバムは日本楽器(注1)あたりでは、輸入盤として最も売れたアルバムのひとつらしい。ジャケットの異様さもさることながら、ジャズ、クラシックなどさまざまな音楽要素を巧みに融合した独自の音楽性が、聴き手を強く引き付けるのである」。
それから間もなくワーナー・パイオニアが発足し目玉として本作が発売された。先行してEL&Pのデビュー作やサード・アルバムの『リザード』が発売されていたが、私は本作をじっと待ち続けていたから「どんなサウンドなのだろう」と、期待は爆発寸前まで膨らんでいた。震える手で盤に針を落とすと、ステレオから出てきた第1曲は、予想とまるで違うものだった。
プログレッシブ・ロックというジャンルがすでに雑誌で語られ、その筆頭は箱根アフロディーテでライヴを行ったばかりのピンク・フロイドだった。私はキング・クリムゾンに、ピンク・フロイド以上のトリップ感覚の音楽、話題のムーグ・シンセサイザーを駆使したシュールなサウンドを勝手に夢見ていた。しかし、「21世紀の精神異常者」はそうでなかった。変拍子をアップテンポで正確に刻むドラム、リズムセクションの土台の上にギターやサックスがシャープなインタープレイを繰り広げるエネルギッシュでタイトな、(誤解を恐れずに言うと)生真面目な音楽だったのである。『クリムゾン・キングの宮殿』は全編、ジャズをベースにしたテクニックのコンボ演奏で、SEやシンセを散りばめた徒に感性表現に流れる音楽でなかった。この音楽としての充実感とアルバムの端正な美しさに、14歳の私に最初は戸惑いを次に感動を覚えた。
初期キング・クリムゾンの形容詞によく「幻想的」という言葉が使われた。プログレッシブ・ロックの原点のひとつはビートルズの『リヴォルヴァー』と『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』であり、サイケデリック・ロックだが、これらはドラッグの神秘的感覚やインスピレーションと深い関係がある。しかし、『クリムゾン・キングの宮殿』は、ピート・シンフィールドの高踏的で一種風変わりな言葉を連ねた饒舌で映像的な歌詞をインスピレーションの源に、文学的でロマネスクな世界観でアルバムの全体像を構築、くっきりと彫りの深いメロディ(歌謡性といっていい)を持つ楽曲を演奏テクニックのあるメンバーが全員でアレンジしてスケールの大きな演奏に仕上げていく、知的な音楽である。「幻想的」であることを否定はしないが、あくまで覚めた冷静な音楽で、「いっちゃってる」音楽ではないのである。「エピタフ」にこそ時代の気分(怒り、悲しみ)が現れているが、サブカルチャーのくびきを逃れた、一種の古典美を備えた作品であった。1曲1曲(といっても全5曲だが)が芸術品のように入念に作り込まれている。『クリムゾン・キングの宮殿』がその後不滅の名盤となっていくのは、同時代的な制約から見事に無縁な純粋に音楽的な作品だからである。当時の私は、ツェッペリンの日本公演に熱狂したロック少年だったが、『クリムゾン・キングの宮殿』への心酔は、実は後に訪れるロックとの別れを内包していた。
本作は実に多くを私に教えた。自己プロデュース作であること、ジャケットのビジュアルのユニークさは、プログレッシブであることは、トータルなクリエイティヴ行為であることを私に教えた。現在のように研究が進んできちんとした対訳が付いている時代でなかったから、ピート・シンフィールドの難解な歌詞を読み解くには自分で訳を試みるしかなかった。中学生がごく普通に使う英和辞典には歌詞に登場するいくつかの言葉は掲載されていなかったので、図書館の大型の辞書でその意味を探った。
レコードの音質への関心も本作がもたらした。最初に買った国内盤(ワーナー・パイオニア/P8080)は毎日学校から帰って1回のペースで聴いた。A面の内周余白部分に成盤の時にできたと思しき小さな突起があったのを覚えている。ノイズが次第に増えて原盤が欲しくなり、高校生になった2年後、新宿御苑に出来たばかりのディスクロードまで横須賀線に乗って出掛け、英国盤(ピンク・リムレーベル 注2)というものを初めて買った。このUKLPの音質がいいのである。1960年代の録音らしく、残響成分の多いきらびやかな音質だが、国内盤とは高域の抜け、S/Nがまるで違う。このころには、コンポーネントを組んで聴いていたから、同じレコードでこれだけ音質が違うのかというカルチャー・ショックを受けた。私がオーディオ・ビジュアル誌の編集長になり、ホームシアター誌を創刊し、独立して評論業を行っているのもこの原盤との出会いが深く関わっ ているはずである。
このように『クリムゾン・キングの宮殿』は私の人生に大きく関わった。キング・クリムゾンのその後のアルバムは発売の度に輸入盤で聴き、今もすべて書庫に保存している。1974年までクリムゾンはメンバー・チェンジを繰り返しながら、旺盛にライヴ活動を行ったが、日本公演はとうとう実現しなかった。レコードだけが接点だったから、日本のファンにとってアルバムの価値は大きく重かった。「プログレ四天王」とか日本では言われたが、終始一貫ジャズ・ベースの正攻法でハッタリの少ないバンドで、音楽に対するある種の頑なさを崩さなかったため、アメリカでは次第にセールス面でフロイドやEL&P、イエスから引き離されていった。それが逆に日本の真面目なリスナーの間でのカリスマ性を増していった。
1975年の解散後、英ロックはパンク、ニューウェーブの猛威が吹き荒れ、プログレは一気に時代遅れの過去の音楽になり力を失っていった。私自身も大学生になり、かつて私を魅了した『クリムゾン・キングの宮殿』の中の西洋音楽的な部分、構築美やさまざまな音色の楽器のアンサンブルといった要素をより多く持つ音楽、つまりクラシックやジャズに傾倒して次第にロックを聴かなくなっていった。しかし、出会いから38年がたつ今、尊敬する音楽家は? と訊かれれば、私はためらわずにそのひとりとしてロバート・フリップの名を挙げる。あなたをもっとも変えたレコードは? と訊かれれば、それは『クリムゾン・キングの宮殿』である。ロックの最も素晴らしい部分である「創造的であり、独創的であること」がこれだけ覇気として漲っているレコードは他には存在しない。それは取りも直さず、人間があらゆる仕事をしていく上で一番大切な気構えではないだろうか。このことを私に教えた『クリムゾン・キングの宮殿』を躊躇わず、「マイ・ベスト・チョイス(私の一枚)」に挙げる。
注1:ヤマハ銀座店、渋谷店。当時は輸入レコードを扱う店は多くなかった。
注2:ILPS9111は、初期プレスはピンクのレーベル中央に“i”の頭文字を大きくあしらった通称ピンク・アイランド、次にレーベル外周をピンクで縁取りした通称ピンクリム(パームツリー・ロゴとも呼ばれる)に変わった。筆者が最初に買った英国盤はピンクリム、オヤジになってさらに買い直した通算3枚目がピンク・アイランドである。しかしながら、最初に買った国内盤(ワーナーパイオニアP8080)は、悲しいことに既に手元にはない。
クリムゾン・キングの宮殿 [Limited Edition]
クリムゾン・キングの宮殿 (ファイナル・ヴァージョン)(紙ジャケット仕様)
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