私のベスト… 2008年11月号 

菅野浩和 
マーラー:大地の歌/ブルーノ・ヴァルター指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、トルボリ(アルト)、クルマン(テノール)」(コロムビア、1936年録音SPレコード)
 もう、遙か昔の想い出、まだ私が音楽の畑でやってゆこうなどと決まるに至らなかった頃の世界への憧れを焚きつけられた一枚のレコード(SPだったし、「一枚」と記したけれども、当時のSPならば大曲は数枚セットで一点だったので、正確には「一組」と書くべきか)、曲はマーラーの「大地の歌」、ブルーノ・ヴァルター指揮ウィーン・フィルのコンサート収録盤、忽ち曲と演奏の虜となってしまった。全5楽章の、なかんずく最終楽章の「告別」には、この世にこんな音楽が作られ、これほどの耽美的な演奏があったのかと、すっかり心を奪われた。
 当時、作曲法を勉強していた私にとって、あの「告別」の冒頭近くの、まるで悠久の大地のラインのようなコントラバスの保持音を背景として、淡々と歌われる漢詩のドイツ語訳の歌唱のメロディー・ライン、歌うのはケルスティン・トルボリ、“ドイツ語式に、トルボルクと紹介されていた”が、北欧人特有の透明な歌唱のメロディー・ラインと、それにからむ小鳥の声(フルートの名奏)という、大編成オーケストラなのにたった3本の線の組み合わせという、驚くべき手法による、他に全く類例のない境地には、深く深く感銘を受けたのだった。あのヴァルター、トルボリの「告別」の呪縛の強烈さゆえに、その後、他の演奏家で聞く「大地の歌」には全く満足できず、ゆえに「大地の歌」に限っては、その後他の演奏家たちによるコンサートもディスクも、つい避けて通るようになって今日に至っている。
 なんとも単純な、あるいは偏屈な態度であろうか。しかしそういう曲は「大地の歌」だけ、そして捉われてしまった演奏はヴァルター,トルボリの盤だけ。これぞまさしく「私の一枚(一点)」である。
〈写真はブルーノ・ヴァルター、Photo:Fred Gaisberg/EMI CLASSICS〉


本田 悦久 (川上 博)
「私のカナダの小屋/リーヌ・ルノー 」 (フランス・パテ/7934592) 
 外交官だった父の任地パリに住んでいた1938年頃、音楽といえば幼稚園で習うフランスの童謡と父が聴いていたシャンソンだった。家はパッシー通りのアパートの3階で、1階は幼稚園だったので、エレベーターのボタンに手が届かなかったことを除いては、通園は楽だった。先生はドイツ人女性で、独仏関係が怪しくなって帰国されるまでの間、フランスの童謡をいくつも教わった。レコードは父の蓄音機で聴いていたのだが、クリスマスに子供用の小型蓄音機が与えられ、大喜びした。ところが不思議なことに、童謡は殆ど忘れてしまい、後々まで覚えていたのは、父が愛聴していたティノ・ロッシ、リュシエンヌ・ボワイエ、ダミア等のシャンソンだった。ティノ・ロッシの “J’attendrai” (待ちましょう) など、その頃覚えた歌詞が今でも浮かんでくる。

 小学生だった戦時中は、ラジオで聴いた軍歌のレコードを集めていた。東京が空襲を受け、富山に学童疎開したときは、「勝利の日まで」ほかレコードを20枚位背負って行った。戦後は高校生の頃からシャンソンを聴き始め、一番気に入った歌手はリーヌ・ルノーだった。「カナダの私の小屋」「ジュ・ヌ・セパ」等シャンソンは勿論だが、「ジェラシー」「ヴァイア・コン・ディオス」「ポルトガルの四月」「涙のワルツ」等、外国曲をフランス語で歌ったもの、時にはフランス語訛りの英語で歌ったものも魅力的だ。ディーン・マーティンとのデュエット「リラクシー・ヴー」も楽しい。ルノーの甘い独特の歌声を、かつて蘆原英了さんが「蜜のように甘く・・・」と表現されていたのが忘れられない。「私の1枚」には、ルノーのヒット曲を中心に22曲集めたCDを選んだ。
 ルノーのライブを初めて観たのは1968年8月、ラスベガスのデューンズ・ホテルの「カジノ・ド・パリ」で、終演後の楽屋で作曲家の夫君ルイ・ガステ氏と一緒にお会いした。それから11年後の1979年5月、作曲・指揮者ピエール・ポルト氏に案内され、パリの「カジノ・ド・パリ」での再会となった。


廣兼 正明
「モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク ト長調 K.525 & ディヴェルティメント ニ長調 K.136/カール・ミュンヒンガー指揮、シュトゥットガルト室内合奏団」(米・ロンドン/LPS-385【1951年発売(米国)・10インチ〈25cm〉モノラルLP輸入盤】)
 今から55年位前のある日の夜更け、NHKのラジオから聞こえてきたのは、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の今までに聴いたことのないような驚く程端正なリズムによる演奏だった。またたく間にこの演奏の虜になった私は、翌日NHKに電話を掛け、これがミュンヒンガーとシュトゥットガルト室内合奏団の演奏のロンドン盤と知ったのだった。私にとって最高の演奏とも言えるこのLPは10インチ(25センチ)盤、一流レーベルの輸入盤は当時確か12インチ(30センチ)が3,500円だったと思うのだが、この10インチは3,000円で割高だった。当時都電が5円か10円だった頃の3,000円は学生にとっては非常な大金である。兎に角小遣いをかなり長期間ためなければ買えない。そして貯まる目途がついてから銀座のヤマハで予約、その又2、3か月後に入荷の連絡が入り、ようやく手に入れた宝物のLPを満員電車の中で反ったりしないよう、後生大事に持ち帰ったことを思い出す。
 「ミュンヒンガー/シュトゥットガルト」の演奏は、謹厳実直と言おうか、堅いと言おうか、一言で言えばいかにもドイツ的である。しかし何とも颯爽としている。そして彼らが演奏したヴィヴァルディ「四季」のLPは当時一大ブームを巻き起こしていた。こんな折りに「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴いたのだが、これが聞き慣れたモーツァルトの曲だったにも拘わらず著しく新鮮な演奏表現として受け取ることが出来たのだと思う。
 爾来この曲に於ける一つの究極を示す演奏として、例えば第1楽章におけるミュンヒンガーならではの短めでリズミックな八分音符の一つ一つまで、私の耳に深く染みこんでいる。その後ステレオによる録音も出たが、私が愛してやまない演奏は、矢張りこの10インチ・モノラル盤であることに変わりはない。

本田浩子
「屋根の上のバイオリン弾きLP版」
 ミュージカル“Fiddler on the Roof” (屋根の上のバイオリン弾き)は、1964年9月22日に、ブロードウェイのインペリアル劇場で初演され、3,242回というロングラン・ヒット作品となった。迫害と貧困をテーマに、大きく変わっていく世の中にあって、伝統を守る難しさと、その作品に流れる人類愛、平和への深い祈りは、当時ニューヨークに住んでいた、まだ20代はじめの若かった私の胸に深い感動を与え、数あるミュージカル作品の中で、心に残る思い出の作品となった。この時に主役の牛乳屋テビエ役は、コメディアンとして名を馳せたゼロ・モステルが演じ、その圧倒的な演技力で1965年度のトニー賞で最優秀ミュージカル男優賞を受賞、今では語り草になっているゼロ・モステルの名舞台を現実に見られたということは、とても貴重な体験としか言いようがない。
「神様、あなたは貧乏人をたくさんおつくりになりました。貧乏は恥ではありませんが、名誉なことでもありませんや。」といったセリフは、たしか、英語では、”Dear God, You made many, many poor people. It’s not a shame to be poor, but not an honor either.” でした。劇中の数々の名曲”Sunrise, Sunset”他と共に、この牛乳屋テビエの「貧乏は恥ではありませんが・・・」という台詞は、ゼロ・モステルの哀しさを秘めたユーモアたっぷりの名演技故に、本当に私の心に長く残り、その後、年を重ねて様々な試練にぶつかった時に、この貧乏という言葉を他の言葉に置き換えては乗り越えてきた気がする。
 
19才で父の任地のニューヨークに行き、その後両親と5年近い年月の日常生活の中で、ほぼ毎週末中毎にブロードウェイ・ミュージカルを見て歩けたのは、その頃ミュージカル黄金時代だったことを思うと、幸運としか言いようがない。帰国後じきに結婚して、当時NHKFMの「ミュージカルへの招待」(解説・川上博)の構成(台本書き)を10数年担当することになろうとは夢にも知らず、ただただ夢中で舞台に魅せられていた、古き良き時代ではあった。
 その頃は今のようにマイクを頭や顔につけずに、舞台前方に並んだマイクが音を拾うだけだったので、ほぼ生音に近い感じで臨場感をしっかり味わえた。生まれて初めて見たミュージカル「カーニバル」も忘れがたく、その他、数々の名作が続いた時代に巡り合わせた私にとって、この一枚を選ぶのは至難の技だが、それでも冒頭に挙げた「屋根の上のバイオリン弾き」のブロードウェイ初演版のLP一枚は大事な一枚と言える。当時のニューヨークには現実に迫害から逃れてアメリカに渡ってきているユダヤ人も多いだけに、最後に故郷のアナテフカを追われ、思い思いに当てもない旅に出発していくラスト・シーンでは、観客のすすり泣きさえ聞こえ、本当に想い出深く忘れられない舞台となった。
 好きなミュージカルなので、後年トポル主演の同作品の映画も、映画館で、又ビデオで何度も楽しみ、1990年にトポル主演の舞台も見る機会に恵まれ大いに楽しんだのだが、やはり最初に見たゼロ・モステルの印象は強烈で、あの太ったお腹を揺すりながら唄い踊った”If I were a Rich Man” (金持ちだったら)のシーンなど、もうあれから40年以上経っているというのに、未だに目の奥に焼き付いている。

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